天城燎は、逃げも隠れもしなかった。煌く氷の殻を纏って、黒鉄鋼が潜伏している一柱のビルの真正面に風を噴いて滞空し、その姿を晒していた。固定砲台の黒は見えないが、護衛の白は、氷殻の前にすべて集まっている。これでは第2ラウンドの半分以上に渡って黒鉄鋼を苦しめた『モグラ叩き』が出来る体勢にはないが、それでよかった。
 敵がそう読んでくると分かっていて、そのまま牽制し続けてやる馬鹿はない。
 四つの白を咲きかけの蕾のように集めて寄せ合い、その手の群れが一つの小さな太陽を掲げている。パイロキネシス――その発展系。複数の白のパイロを一点に集中し、巨大な熱球を作り上げる特殊スタイル・ヒートファランクスの影響で、無人の都市は陽炎に沈み、周囲の建材は融解し始め、その炎の主である燎の氷まで涙を流したように濡れている。
 燎の顎をべったりとした汗が滴っていた。
 舌を巻く思いだった。
 黒鉄鋼に、ではない。自分自身にでもない。
 氷坂美雷の見ている世界の深さに、燎は戦慄していた。
 これまで、第2ラウンドに入ってから、黒鉄鋼に対する美雷の読みは一つとして外れていない。この均衡状態さえ、インターバルの間に囁かれていた未来地図のままだった。まるで向こうのセコンドにも美雷がいて、黒鉄鋼の耳に同じ指示を出しているかのよう。
 勝てないわけがない。
 燎の素質と美雷の言葉があれば、どんな技比べにも、どんな知恵比べにも負けるはずがない。
 冷たい興奮が脊髄を焼き抜ける。
 一体、自分たちはどこまでの高みに登り詰められるのだろう。
 いずれにしても、その頂きは、こんな小さな丘では終わらない。
 燎は、丁寧に練り上げた紅蓮の砲弾が弾け飛ばないように、その形質を白い手で整え直した。
 悪寒にも似た興奮で身体が震え、ざわつく。
 すぐそこに『勝ち』が転がっているかと思うと――……
 黒鉄鋼が、もし、囮の黒を撃っただけでシフトカウントを惜しみ、ビルに潜伏し続けてくれば、その時に勝負は決まる。燎は昆虫の足をピンセットで抜く時のように静かにヒートファランクスをビルに向かって撃つだけでいい。極大の火球がその中身ごと氷殻を融かし尽くすだろう。
 これまでの人生で、燎は、これほどまでの『熱』を感じたことはなかった。
 あのサンダーボルトが触れられそうなほどの近くを通り過ぎた時から、この闘いは燎にとって遊びではなくなっていた。本当に相手が自分を殺すかもしれない、そういうシチュエーションに燎は初めて足を踏み入れた。泥沼のような世界だった。何も信じられず、何も正しくはなく、彼我の能力の高低など刹那の気まぐれで粉微塵になる舞台だった。
 だからこそ、と燎は思う。だからこそこの勝負に勝てば、黒鉄鋼を超えられれば、自分は成長できるのではないだろうか。
 そうとも。
 俺はもっと、『上』にいく――
 揺れていた燎の瞳が定まったその瞬間、黒鉄鋼の潜伏しているビルの壁を突き破って二迅の黒拳が駆け抜けた。
「!」
 サンダーボルト・ライトだ――咄嗟にそう思った。それも無理はない、あの速度で出せるパンチはエレキを使わなければ出てこない。しかし同時に『二つ』も使ってくるとは。一瞬焦ったが、だが、とも思う。これで黒鉄鋼のエレキカウントはシフトと合わせて三つも減った。派手なやり方に目を瞠ったが、追い詰められたのは燎ではない。
 燎は、咆哮を上げて酸素を喰らう紅蓮の砲弾を抉りこむようにして眼前のビルに撃ち放った。風船が割れるように空間を引き裂く閃光と轟音が迸り、衝撃波がびりびりと氷殻を走り抜けた。そしてゆっくりと光が晴れていき――
『右っ!!』
 燎側のブレインのファインプレーだったと言うほかない。詳細な説明を省略したそのシャウトに捻くれ者の精神は素直に反応した。酸素と獲物に餓えた火球の流星群からあえて『ビルの森』に深く沈みこんで距離を稼ぎ、そこから一転して急上昇した。慣性の鎖に引きずられた炎の群れはことごとく燎の氷の下を滑り去っていく。
 ナックルシフトをかけ、距離を取ったらそこで『仕切り直し』になると勝手に判断したのは燎側の落ち度だ。黒鉄鋼はシフトした後、すぐに反転して燎がいる戦場へと戻ってきた。それも上空からのフレイムチャージ付きで。
 まるで、一分一秒でも多く闘い続けたいと言うかのように――……
 新たなパイロの雨が燎へと降り注ぐ。
(くそっ!)
 燎も応戦して白四つから火球を連続して撃ち放った。固定砲台として潜伏させていた黒が戻ってくるまであと二秒。それまで、それまで持ち堪えれば、仕切り直せる。
(いや、違う、シフトだ! どこへでもいい、シフトしてしまえば――)
 心を読まれていたとしか思えない。
 燎がシフトのために神経を集中させ始めたその瞬間、燃え盛る炎の雨の中に巨大な氷の礫が混じっているのが見えた。
 黒鉄鋼のキスショットだった。
 燎の目が見開かれる。
 集中が、切れた。
 まるで攻め気を起こしてガードを緩めた瞬間にストレートを撃ちこんでくるボクサーのよう。
 燎は、完全に呑まれた。
 かろうじてスプレイをかけてキスショットだけはかわした。氷の双球が火花を散らしてすれ違う。赤く燃える小さな花の先で猛禽じみた黒鉄鋼の左目が燎を捉えたまま、残光を引いて過ぎ去っていった。全身がよじられた縄になってしまったかのように硬く感じる。燎が我に返った時にはもう、固定砲台として散らしていた黒が戻ってきていた。
 仕切り直せた――
 黒鉄鋼のアイスが曇天の鈍い光を浴びて瞬きながら、都市の方へと落ちていく。追撃でもするか、とどこか遠い気分のまま、燎はフレイムチャージのスタイルを取った。
 白が三つしかなかった。



 ○



 これが欲しかったんだ、と鋼は思う。
 すれ違いざまに黒で盗み取った白の手触りを味わいながら、鋼は落ちていく。
 あとは、この白を握り潰すだけでいい。相手は最終ラウンドまで一つ拳を失ったまま闘うことになる。こちらにとっては充分な優位だ。
 だが、それでは足りない。


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・
 それでは『ノックアウト』にならない。


 鋼の口元に微笑が浮かぶ。
 サイクロンストレートを強行したのはエレキカウントを惜しんだからではない。
 使うために残したのだ。
 見えない手で拭ったように凄惨な顔から笑みが消える。
 くたばれ。


 白を掴んだままの黒にエレキをかけた。稲妻に引きずり落とされて燎の氷が落ちてくる。
鋼はダックスプレイをかけて、燎が落ちてくる軌道から外れる。きっと恐らく燎には見えているだろう。それまで鋼の氷がかぶさっていて見えなかったものが。
 白を掴んで落ちる黒とバトンタッチをするように控えていた、鋼のもう一つの黒い拳が――――
 拳が、紫電を纏う。
 回避不能、直撃コース。
 オリジナル・スタイル。
 ギロチン・ストレート。



「――――――――ッ!!!!」



 双瞬の雷撃がすれ違う。
 諦めていれば、ここで終わりだったろう。だが、燎は諦めなかった。思考を放棄して大人しく死ぬには、彼はあまりにも臆病だった。生きたがりだった。
 白を捨てればいいと気づけばこのスタイルは容易くさばける。
 問題は、一度マウントした拳は破壊する以外にハンドキネシスから解除する方法がないということ。通常なら破いてしまうなり、障害物にわざとぶつけるなりして壊してしまえばいいだけだが、相手の黒に掴まれている状況ではそれも不可能。
 ただし、一つだけ方法が残っている。
 パイロフィストだ。


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 集中力を切れば簡単に自爆してしまうパイロフィストを、燎は初めてしくじった。


 白が黒の中で爆裂した。途端に燎に噛み付いていたハンドキネシスの鎖も消える。死に物狂いのダックスプレイが、功を奏した。
 灰色の雲に波紋を残して、絶好の獲物を逃した黒鉄鋼のサンダーボルトは消えた。それを背中で感じながら、黒鉄鋼はキスショットの果てに都市のアスファルトに着地し、巨大な破壊の爪痕を残しながらようやく止まり、凌ぎ切った天城燎を振り返った。
「畜生っ……!!」
 光が落ちた。
 煙を吹き消したように、黒鉄鋼の姿がフッと消える。
 紙を裂くような雷鳴が、無人の都市を周回遅れで駆け抜けた。
 第2ラウンド終了。