左腕の感覚が無い。
 本物の左腕の感覚が、だ。
 ほんの一瞬の油断だったと言っていい。ビルの壁も貫けない程度の軽い力で拳を寄せたのが最悪だった。そのせいで鋼の三つの白(ひだり)は一直線に釘づけになり、

 そこを、
 撃ち、抜かれた。

 恐怖の旋風と絶望の氷山が全神経を貫いて、鋼の身体を駆け抜けた。氷殻にこそ喰らわなかったが、あれこそ拳闘における究極の『見えないパンチ』――鋼の左腕の感覚を吹っ飛ばすほどの一撃だった。特効の麻酔薬を原液で注射されたように、肩から先に何も感じない。
 両腕を落とされた気分だった。満足な四肢は両足だけ。それも度重なるダメージで震え、痺れ、崩れかかっていた。衝撃を受ける度に滑り、転び、よろけ、膝を着いた。ダウンの連続だった。
 だが、ブラックボクシングはボクサーの戦意喪失で実験中止にはならない。
 絶対に。
「う――――」
 霞む意識が、痛みによってスクラッチされ、半覚醒状態のまま、耐え難い苦しみだけを与えられた鋼が見るのは、敵意を帯びた無数の拳。切れの鋭いジャブやショートの嵐が鋼の氷殻を整えるように切り刻んでいく。何も出来ずに撃たれ、破れかぶれで切り返した黒(みぎ)の拳は無を押した。拳を潰してくれるならまだいい。天城燎は鋼の不調の黒を掴むと、ハンドの射程一杯で振り回し、今までのラウンドの借りを返すとばかりに鋼をビルの森に叩きつけた。何度も何度も。そして亀裂だらけで真っ白になった鋼の氷殻を燎は黒の拳で直に掴んだ。ばキばキばキばキ、と亀裂がさらに深くなる。指先だけを氷に浅く埋め込んだまま、燎の黒は駄々っ子のように鋼の氷をコンクリートやアスファルトに叩きつけ、引きずり、すり潰し、投擲し、打ちのめし、押し潰した。最後に転がっていた鉄パイプを白と黒で握り締めると、上段から兜割りに振り下ろした。甲高い音が鳴り響き、鉄パイプの方が捻じ曲がった。白と黒の拳が一瞬沈黙し、ポイっとへたった鉄パイプを投げ捨てる。それを燎の目が、冷静と情熱の間の眼差しを湛えて、見下ろしていた。
 鋼の氷は、砕けなかった。
 だが、燎が考えていたように、鋼の氷殻がエレキを使わなければ破壊できなかったわけではない。むしろあのまま延々と攻撃し続けていれば、案外あっけなく勝負は着いていたかもしれない。事実、鋼の氷殻の内側は鮮血と吐瀉物がびっしりとぶちまけられていた。鋼は真っ白になった氷殻の中で、仮死状態の左腕をだらんと下げたまま、両膝をつき、うな垂れていた。
 痛みで涙が出た。
 自分の汚物に額をつき、頬を当て、抑え難い屈辱が目尻からとめどなく流れた。
 つらかった。
 左腕をやられた瞬間、勝負は着いたと思った。本気でギブアップするべきなのではないかと考慮した。それぐらいに、あの左腕殺しは効いた。物質的にも精神的にも、あれは致命傷に違いなかった。パイロを撃てなければまったく戦術が立てられないのだ。すべての攻撃が炎のジャブからスタートしている。左を封じられたというのは、逆転への取っ掛かりその全てに油が塗られたようなもの。どう頑張っても徒手空拳では登れない。何をどうしようとも、どれほど抗おうとも。

(畜……生……)

 美雷は鋼を『勇敢』と称したが、それは違う。
 ただ必死なだけだ。死に物狂いで勝ちへの道を走り続けることだけが、ほんのわずかな可能性に繋がりうるということを、骨の髄まで知っているだけだ。
 だが、もう、それも限界だ。
 立ち上がる力が、鋼には残っていない。思えば、ここまでのラウンドが奇跡の連続だったのだ。本来、スペックで言えば黒鉄鋼は天城燎に遥かに劣る。そういう身も蓋もない素質の差は、結局のところ、大事な勝負所で待っていましたといわんばかりに顔を出す。そういうものだ。
 それは分かっている。
 それは分かっているが、この男は、そこからなお前を向く。

『――クロガネくん』
『ル――イ――ちゃ――』

 たった一瞬前まで、諦めていたはずである。
 それが、いまや、疲労困憊/満身創痍のズタボロ姿で、フラフラと、立ち上がっていた。自分でも、なぜ立ち上がったのか分からない。亀裂が薄くなっていく氷殻の先に、黒い太陽のような円影が見える。呼吸が少しずつ深く静かになっていく。
 なぜだろう、と自分でも思う。
 こんなザマで、左腕も動かず、泥まみれになりながら、どうして自分は立ち上がるのか。八洲のためか。涼虎のためか。それとも自分のためなのか――
 あるいは、
 ボクサーだから、か。
 10カウントは、まだ聞こえてこない。
『クロガネくん、聞いて』
 鋼の目がぎょろりと動いた。
『いま、相手は迷ってる。すぐにエレキで決着をつけるか。それともこのまま嬲り殺しにするか。いい? すぐにここから逃げて。――ううん、ただ逃げるだけじゃない。白をすべて失った以上、もうクロガネくんにはビルの森を上手く使ったゲリラ戦法しか残されてない。厳密なヒット&アウェイだよ。まともにやったら勝てるわけがない。それは、分かっているでしょ?』
 鋼は頷いた。
『ありがとう。大丈夫、クロガネくんのアイスは絶対に誰にも砕けない。もう一度、キスショットさえ出来れば、たとえどんなにゼロに近くても、勝ち目はまだある――だから一番やっちゃいけないことを、それだけを言うよ』
 鋼は足元を見下ろした。
 黒い手袋を重ねて繋いだ、グローブホルダーが落ちている。燎の黒に氷をオモチャにされた時の衝撃で落ちたのだろう。
 左腕は、まだ指先が痺れている。
 拾うことが、できない。
『一番やっちゃいけないのは、クロガネくん、それは「このままここに残る」こと。いいね? それだけは、絶対にしないで』
『わかった』
 素直に答えて。
 鋼は、

                      ・・・・・・・・・・
 ――躊躇なく、落ちていたグローブホルダーを思い切り蹴っ飛ばした。


 引っ張れば千切れる程度の連結が外れ、瓦礫だらけの枯れた噴水跡地に黒い手袋が散らばる。度重なるスプレイダッシュと燃え盛る紅蓮の炎は人間ごときが踏み止まることを許さない強烈なビル風を巻き起こしており、空っぽの拳たちはその透明な渦に飲み込まれて舞い上がった。

『俺は、ここに残る』

 元々ゲリラ戦を挑めるほど、炎の海と化したビルの森に安全地帯も潜伏地帯も残されてなどいない。ならば逆にこの開けた噴水広場で真っ向勝負を挑んでやろう。
 打ちのめされた記憶はもう消えた。涙は熱気で乾いてしまった。
 その口元に笑みが浮かぶ。
 これほど反省しない男も二人といない。
 アタマの中には、無限の戦闘風景が流れ続けているだけだ。
『諦めるのは、もう飽きた――』
『クロガネくん――!?』
『ルイちゃん――奇襲ってのはな、真正面からやるもんだ』
 絶対に違う。
 違うが、この男はそれを可能にする。
 透明度を取り戻した氷殻の中に活きた瞳を見つけて、燎の態度が変わった。鋼に向かって白と黒の拳を執念じみた機敏さで急降下させる。マウントされていない空の手袋が、すれ違っていく燎の拳の風圧を浴びてヒラリとよろけた。
 燎の口元に笑みが浮かび――それが凍りついた。
 マウントされていない手袋がどれほど脅威になるのか、彼は知っていたはずである。それを知りながら、黒鉄鋼の作戦に気づかなかった理由は、一つしかない。
 考えたくなかったからだ。
『ぐ――――ッ!!』
 虚空に舞った手袋の中から、鋼の拳が三つマウントされて、目覚めたように燎へと襲いかかる。唸りを上げて、触れた空気が歪むのさえ視認できるような豪拳の一発が燎の氷殻に醜い擦り傷を深々と残していった。当たった外れたを問わず一瞬後にはすべての拳が戻ってきた燎の白と黒に撃墜されていた。
 が、拳はまだある。
 虚空にいくつも、舞っている。
 黒鉄鋼はその場から動かず、氷殻をアスファルトに鎮座させたまま、左手をまっすぐ天井へ伸ばしている。
 笑っていた。
 逆らうことが許されぬ下僕のように、いくつもの黒い手袋が、火の粉が渦巻く都市の底で旋回している。鋼の目から見上げれば、それは、拳の万華鏡のように見えたかもしれない。
 どこからどの拳を潰されても、虚空に散った一発限定のマガジンから、すぐに再装填される無限の拳。
 それは相手の考える気も無くさせる、悪い夢のような戦術だった。

(俺はまだまだ倒れない――)
(どうする? 俺はこれでも諦めない――)
(そんな俺を上回る技が、まだお前にあるか?)
(氷坂、美雷――!!)

 指揮者のように鋼が腕を振るうたび、その痺れた指先から散った指示が空の拳へ伝わり、燎を撃つ。燃え盛る炎の熱気で、光は歪み、拳が陽炎の中で揺らめき何重にも重なって見える。それは、拳が大きく見えるということ。
 燎は怯えた。

(くそっ、くそっ、くそっ――!!)

 追い詰めたと思えば、また自分が窮地に立たされている。いくら鋼の拳をパリングして潰しても、すぐに再充填された拳がからかうように殴ってくる。これではさっきと立場が逆だ。燎の唇が震えた。

(どうして、俺が、こんな目に……)

 パリングして、相手に拳数を増やさせているのは自分なのに。
 何故こんなにも単純なスタイルに自分が翻弄されるのかが、分からない。
 ビルの上空では手袋が四散してしまうために使えない手とはいえ、どうしてこんなにも有効な戦術がビルの森の中で効果を発揮してしまうのか。
 こんなにも使えるスタイルなら、なぜそれが伝わっていないのか。それが、ヤツの、黒鉄鋼の『オリジナル』だからとでも言うのか。
 それとも何か、致命的な弱点が、このスタイルにはあるというのか。
 致命的な、弱点が――
 拳の乱打を喰らう燎の目に、ふっと、眠りから覚めたような光が宿った。
 ――黒鉄鋼は、本当に、このスタイルをいつまでも続けるつもりなのだろうか?
 そんな疑惑が湧いた。
 瞬間、心臓を撃ち抜かれたような衝撃を伴って、天啓が燎の脳裏を駆け巡った。分かってしまえばシンプルなトリック、どうして気づかなかったのかと自分を責める時間も惜しい。吹き荒れる鋼の拳の嵐に、燎は自分の拳をガードに回した。拳で拳を取る時は、強くやってはいけない、撫でるように穏やかな手つきで、その拳の圧力と波長を合わせる。三つの拳を同時に捉えた燎は、それを強くパリングして弾き飛ばしたり、ましてや握り潰したりしなかった。ただ、鋼の黒を掴んだ拳をぎゅっと、固めた。
 それでもう、鋼の黒は動けない。カゴの中の鳥よりも窮屈な白と黒の檻の中で、悶えるしかできなかった。燎の槍のような視線が、背骨もへし折れそうな重力を伴って、眼下の鋼のもとへと落ちた。どす黒い殺意そのものが、眼窩から零れているようなものだった。燎の手持ちの拳は白黒合わせて五つある。敵の黒に三つ割いたとしても、あと二つ。
 随分と。
 随分と。
 舐められた、ものだった。
 息も詰まるような真紅の激怒を、燎は胸を膨らませて呑み込んだ。
 鋼が、それを火の粉の渦の底から、見上げていた。

(激昂したのか)
(気分いいだろ?)
(でもな、どんなに理屈をこねようと)
(それを『隙』って、呼ぶんだぜ)

 敵の見せた、そんな瞬間を見逃すほど、黒鉄鋼は詰めの甘いボクサーではなかった。
 考える時間など与えてやらない。
 燎の白に掴まれた自分の黒を、狂ったルーレットのように大回転させて、拘束から逃れさせた。弾かれた燎の白までが緩い回転に引きずられてよろめく。スピンして高々と舞い上がった己の黒を、鋼は、真っ直ぐに撃ち下ろした。
 黒い稲妻と言ってもいいその鉄槌を、しかし、惚れ惚れするほど甘美な後味を残すスプレイダッシュで燎がかわした。間一髪の回避に焦りながらも薄ら笑いが浮かんでいるのが鋼にも見えたが、かわされるのは想定内。そこからさらに鋼の黒は落ちる、落ちる、落ちる――
 激突。
 アスファルトを粉々に砕き、枯れた噴水を木っ端微塵にし、周辺に残っていたわずかなビルまで完全に倒壊させる衝撃が地を割った。落下速度込み、黒鉄鋼の不調の黒、その撃ち下ろしの右/チョッピングライトは破壊だけを撒き散らして跡形もなく千切れ飛んだ。爆音と砂塵が燎を飲み込むのを横目に、鋼はアッパースプレイを氷殻が軋むほどの威力で撃ち放つ。首根っこを掴まれたものの抵抗する意志を失っていない子猫のような姿勢で、鋼は空中へと舞い戻った。
 いいさ、と思う。
 あんな即興スタイルに、どこまでも拘泥するつもりは最初からなかった。欲しかったのは、最初からこの位置。いわばあの拳の万華鏡は、猫騙しのようなもの。
 この空は、ビルの森とは違う。曇天近くのこの高空なら、追い詰められてもコーナー際の攻防にはならない。雲には障害がないからだ。自由にスプレイをかけられる上に、相手からは視認しづらい。限度はあれど、上と下ではまさに天と地ほども条件が違う。
 炎の海に逃げ場はないが、雲の中ならいくらでもある。
 『見えない位置』から撃たれる拳にせいぜい震えればいい。
 黒鉄鋼は狙うだけだ、相手めがけて、
 一撃必殺の――『落雷』を。


 震える指先で、グローブホルダーに触れる。残ったエレキはたった一発。しくじれば、後はない。
 それで充分。
 崩壊したビルの瓦礫から、狂った鳥のように燎の氷殻と白黒五つの拳が飛び出してきた。ぐんぐんと速度を上げて迫ってくる。小型ミサイルのように風を切り裂き駆け抜ける拳が、燎を追い越した。ガード圏内から解き放たれた一対の白と黒の双拳が、緩い螺旋を描いて虚空に浮いた鋼の氷殻を狙う。

(いいカンしてるぜ)

 鋼の指先の感覚は、ダメージの霧に吸い込まれたまま、まだ戻らない。垂涎の白を撃ち落したくとも、肝心の拳がない。
 ゆえに、好機。
 雷鳴/ゴングまであと十数秒。
 雲の中へ逃げたところでそれまで、自分に懸かった条件は少しも改善しない。鋼の視線が豪雨の切れ端のように迫り来る双拳とその先にいる金髪のボクサーへと降り注ぐ。
 世界をどれほど斜めに見下ろそうと、自分を殺そうとしてくる存在を止められるわけがない。倒すしかないのだ。どんな理屈を並べても、お互いの殺意は少しも薄まらないし、抑えたところで痺れに痺れた闇黒は膨らみ続けた挙句に自分の我の中で破裂する。
 だから、獲るしかない。
 骨も残さず、必ず殺す。
 鋼は、痺れに痺れた左手の指先を片方残ったグローブホルダーに一直線で振り下ろした。弾かれたホルダーがベルトから千切れ飛び、衝撃で再び黒塗りの手袋が虚空に舞う。だが、今度は炎の手に押し上げられることなく、すべての拳が落ちていく。氷殻の中で拳を充填すれば、手袋とは違い、それは『己自身』として処理され鋼の肉体と同じように氷の外へ出ることができない以上、他に打つ手はなかった。
 再度展開される拳の万華鏡の中に、虚空を駆け抜けてきた天城燎の双拳が混ざった。充填した鋼の拳は三つ。W0B3。血走った鋼の両眼が、全てを呑み込もうとするかのように見開かれる。パンチの種類は決めていた。脳の中のキャンパスに、死者を蘇らせたがる愚か者のように、深く、深く、それをイメージする。振り払うような拳跡を。接近戦における最強のパンチを。拳を解き放つ。それは、三つ顎のクワガタが獲物を狙ったようなフックの鉤爪。それが、燎の解き放った白と黒の双拳に怒涛のように流れ込む。当たれば砕ける、それが、

 ――当たらないだろうということは、分かっていた。

 三つの拳が、空を貫く感触だけが、生温く残った。
 それでも、攻めるしかなかった。少しでも、相手の首元に刃を押しつけ続けることだけが、勝ちへの細いタイトロープなのだから。たとえ、それがあまりに弱く、あっけなく千切れてしまう程度のものだったとしても――
 鋼は、思わず左腕で顔面を覆った。目を固く瞑り、歯を砕けるほどに噛み締めた。助からない高さから背中を押されたような恐怖が脊髄を駆け抜ける。
 だが。
 衝撃は、いつまで経ってもやってこない。
 鋼は、目を開けた。
 何もかもが夢だったかのように、虚空には何もない。鋼の三つの拳が困惑したように漂っているのと、遥か下で燎の氷殻だけが浮いているばかり。
 鋼を撃ち砕くはずだった、あの双拳は、影も形もどこにもない。
(――――)
 吹き抜けた風が、氷殻にまとわりついた瓦礫の粒を掃って落とした。鋼の目がそれを捉えて、視線を落としていく。おかしい。ぞっとするような違和感が吐き気を伴って這い上がってきた。何かがおかしい。絶対に妙だ。試合中にいきなり蹴たぐりを貰ったような気分がする。怒りに似た戸惑いが鋼の名前を呼ぶ。よく考えろ、と。
(拳が消えた? そんなわけ――)
 揺らめく鋼の目が敵を捉える。
 天城燎の氷殻は、動かない。パンチも出さず、キスショットもせず。まるで鋼が答えを出すのを待っているかのように。
 待ち侘びて、いるかのように。

「――――ッ!!」

 ・・・
 そうか。
 身が千切れんばかりに、鋼は振り返った。
 雷を孕んだ灰色の積雲。
 その中に、爪で軽く引っかいたような白と黒が見えた。
 双拳は、恋人のように指を絡めて、手を繋いでいた。
 高鳴る想いのように炎が燈る。
 小さく細かく弾ける紫電の祝福を帯びて燃える、それは、
 エレキとパイロの合わせ技――――
 パイロフィストとサンダーボルトを結びつけ、組み合わせた撃ち下ろしの双拳。
 そうだ、と鋼は思う。
 シフトキネシスは、本体と共に充填した拳も瞬間移動させる。

           ・・・・・・・・・
 鋼の氷殻を撃つ直前にほんの少しだけ前にシフトすれば、燎の双拳は黒鉄鋼の背後へ抜ける。


 がら空きの背中を撃ち抜く『ラビットパンチ』にしては、それは、あまりにも残酷な攻撃力を持っていた。
 超新星(super nova)のように輝くそれを、見上げる鋼の目が消し損なった炎のように瞬いた。いまにもあの双拳は落ちてくる。回避も防御も出来はしない。相手は殺しにかかって来ている。
 対抗策はたった一つ。
 カウンターを当てにいくしかない。
 威力を殺せればよし、撃ち負かせればさらにいい。それには、絶大な威力が必要だ。ただのパンチだけでは凌ぎ切れない、不調の黒でも真芯を撃ち抜ける速さと硬さを兼ね備えた一撃必殺の拳。それは、敵地で自殺するために残された兵士の弾丸のように、この瞬間に費やされることを望んでいたかのように、黒鉄鋼にたった一発だけ、残されていた。
 選択の余地はなかった。
 最後のエレキキネシスを撃つしかなかった。
 決意の戦慄が黒髪を逆立たせ、全身の肌は粟立ち、紫がかった唇が震え、そして、
 架空の拳(みぎ)に、血が廻った。
 あるはずのない『それ』に、ドクドクと『現実感』が注がれていく。杯に酒を満たすように、時計の砂が積もっていくように。
 それが、溢れた瞬間、黒塗りの拳に紫電が走った。強く握りこまれた拳がさらに深く丸まり、幻想の筋肉が隆起した。返す刀で切り落とす、狙うは直上、金色の一撃。油断し切ったこちらの背後を喰らうつもりだったのだろうがそうはいかない。
 ブチ殺す。
 思い浮かべたパンチの種類は、相手の顎を撃ち砕き、その意識を天井近くまで吹き飛ばす一撃必倒のライトアッパー。拳に絡みついていた取るに足らない支配の網など、撃ち放たれたその一撃の前に消し飛んだ。
 音が死んだ。
 炎と雷から産まれた拳眼を、一発のサンダーボルトが真っ向から迎え撃った。稲妻と稲妻のキスショットが、閃光と轟音のラッキーフィーバーを巻き起こし、その衝撃波で無人の都市を覆い尽くした雲海が水滴を垂らして出来た波紋のように一点から放射状に吹き飛んだ。シェルターの天井に設置された気象制御用のデバイス・アイの冷たいレンズが正体を見破られた道化師のように剥き出しにされ、鋼と燎を等しく見下ろした。稲妻の切れ端が邪魔者の介在を拒むように激突した拳から四散して、その青いレンズに亀裂を走らせた。
 それは、一瞬にも満たない刹那の出来事だった。
 ゆえに、その決着も、あっけなく着いた。
 拳と拳の狭間から迸った無限の光の中で、鋼は見た。指を一本一本、見えない子供の手で無邪気に引き剥がされていくように、己の黒拳が燃え尽きていくのを。震える眼窩で喰い入るように見つめたが、その光景は現実だった。轟音で破れた鼓膜からぽたぽたと血が滴っているのを感じた。やめろ、やめろ、やめろ。何度も胸の内で呟いた。それでも鋼の黒は焼け落ちていく。雷の鍔迫り合いは、刹那を重ねるごとに燎へと勝利の天秤を傾けた。やがて、ただの断片と化した鋼の黒をまとわりつかせたまま、天城燎の必殺の一撃が、紅蓮の炎に包まれた一振りの雷(いかづち)が、真っ直ぐに天啓のごとく落ちてきた。回避はできない。防御もできない。過剰に分泌されたアドレナリンの見せる、眼球も筋肉も動かすことのできない静止した時間の中で、鋼は逃げ出すこともできず、その瞬間を迎えた。
 それは、己の拳で世界を獲ると誓った男がおめおめと見苦しくこんなところまで生き延びてきてしまったことへの、誰のものとも分からない、許され方も存在しない、たった一つの罰なのかもしれなかった。
 世界が白に塗り尽くされる。
 そして、その光の中でなお眩く輝く黄金の炎が、黒鉄鋼の氷殻を直撃した。
 完膚なきまでに。