Neetel Inside ニートノベル
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 氷坂美雷は、養殖された天才だった。


 人間を一人造るのは今の時代では簡単なことだ。年間四十人に一人は体外受精で産まれているし、代理母出産も国籍のない人間や負債にまみれた女を引っさらってくればカタがつく。いつまでもネズミやヒツジをいじくり回していたところで人間の役に立つわけがなく、当たり前のように、その研究はもう数十年も前にこの国のどこかで始まった。
 知能面における、天才児の人工創造。
 記録によれば、氷坂美雷は自殺した作家と没落した資産家の令嬢が提供した精子と卵子を混ぜた受精卵の成れの果てらしい。が、何度となく爪で引っかいても痛がりもしなければ泣きもしないその二人の名前にさして意味などはなく、美雷は、親の愛情の代わりに研究員の好奇心を一身に浴びて、地下深くの研究所で密かに育てられた。まるで怪物のように。
 事実、怪物のようなものだった。
 天才児を作り上げるためにかき集められた精子と卵子に刻み込まれていた遺伝子は、確かに突出した能力を発揮しうる形質を有してはいたのかもしれないが、それは決して次代へ引き継がれるような性質ではなかった。違った種を組み合わせると優れた形質を発現すると遺伝学では言う。いわば、すでに提供者たちの精子と卵子は人間における『雑種』だった。雑種強勢は、一代限りでほとんどが終わる。
 これからサラブレッドを作ろうという時に、雑種と雑種を混ぜ合わせて、どうしてそこから貴種が誕生すると誤解できたのか、当時の科学者たちの盲目ぶりはもはや笑い話だったし、そんな愚昧が罷り通って数百人の恐るべき子供たちが生まれてしまったことも、科学の醍醐味の一つなのかもしれない。
 高名な学者や偉大な芸術家、大企業を興した事業家や血まみれの連続殺人鬼、いずれにせよ正義や秩序を出し抜く力を持った逸脱者たちから提供された遺伝子から誕生したゼロ歳の被験者たちは、そのほとんどが生まれながらに発狂していた。死亡した被験者たちの脳のデータを見直してみると面白い。中には一部の機能が不必要なまでに肥大化してしまっているものや、用途不明の部位が発生してしまっている乳児もいた。右脳左脳からさらに分かれてタンコブのような脳が前頭葉のさらに前に出来てしまっている子もいれば、美雷のように脳地図だけを見れば常人と変わらない個体もあった。
 ゆえに、その実験は成功するはずがなかった。天才たちから集められた種は、楽園の庭園を作るにはいささか根が強すぎた。確率で言えば、出資者たちが求めた結果を得るには天文学的な数字をブチ抜いた幾星霜の年月と無限に近い資金が必要だったろう。あらゆる疑問に答えをくれる神の頭脳が発生するのが先か、人類が宇宙へ進出して繁栄するのが先か。そんなフレーズすら真実味を帯びていた。
 しかし、美雷は生まれた。
 美雷だけではない。現在まで生き残っているその実験の被験者は四十七人。全員が、ほぼ美雷と同等の優れた知能を発揮した。同時に、その秘められた狂気をも。
 生まれるはずのなかった子供たちは、ありえないと言っていいほどの確率を飛び越えて、この世界に生まれてきてしまった。稀にあるのだ。
 勝てないはずのギャンブルに、どういうわけか勝ちまくってしまうということが。
 天才児たちが集められた、なんの変哲もない真っ白な部屋が、幼い彼女たちの作ったもので、いつも小さな遊園地のように賑やかだった。たとえ、そこに閉じ込められた少年少女たちのほとんどが、決して理解し合わず、打ち解けず、愛くるしい会話の一つも交わさなかったとしても――そこには芸術があり、神秘があり、発想があり、そして彼女たちに望まれた『才能』が湧き水のように溢れ返っていた。
 美雷たちを造り出した科学者たちはその光景を、今度こそ、『楽園』と称した。
 けれど、同胞は言う。
 生まれてこなければよかったと。
 どれほどの才能を発揮しても、利用され、結果を出せなければゴミのように処分される。ほんの少しの欠陥さえも許されない。美雷たちに託された研究や実験は未来への価値を孕むと同時に莫大な費用を要する。発狂死を切り抜けられても、成果なしと判断されれば、今度は実験する側からされる側へと転がり落ちる。窓ガラスの向こうの地獄は、いつでも霧のように忍び寄り、彼女たちの足を触ろうとしていた。
 だが、美雷は己の出自を不快には思わなかった。
 それどころか、誇らしかった。自分は書物の中で甘ったるく語られる『愛の結晶』などというなんの硬度も持たない概念ではなく、連綿と築き上げられてきた人類の『叡智の結晶』なのだ。そう思えば、胸に吹き込むどんな隙間風も、祝福の吐息になった。科学者の立場から見れば、手に入れたいものを養殖して育ててしまおう、という考え方は(美雷は決して嫌いではなかった。)
 そして、美雷は与えられた課題をこなしながら、地下実験施設で暮らし、育った。彼女たちの何人かは発現した才能によっては『外』へ出て行くこともあったが、国家機密に関わる実験に携わる美雷のようなタイプは、ほとんど軟禁状態で研究室に押し込まれていた。
 昔、誰かが言っていた。

 天は虚空、地は豊穣。
 実りのあるものは地の底からしか生まれない。

 だから美雷は、太陽を知らない。その肌は悲しいほどに白く、青く、透けていた。彼女にとって自由とは、自分の部屋から研究室へ行く時に近道をするか、遠回りをするかの違いでしかなかった。雨も知らない。風も分からない。
 そんな時だった。
 テレビの中で闘う黒鉄鋼の背中を見たのは。
 その後ろ姿は、氷坂美雷の英雄だった。
 頬杖を突いて見ていたのを今でも覚えている。
 黒鉄鋼のデビュー戦――まだ彼は十七歳の少年だった。
 何かの雑誌の付録だったボクシングの試合のDVDが、たまたま談話室の再生機に入ったまま、流れっぱなしになっていたのだ。普通なら、テレビで放送されるような試合ではなかった。
 初めてプロボクシングのリングに上がった鋼は、ニュートラルコーナーから立ち上がるたびに、真っ黒なグローブに覆われた手で黒髪をかきあげて、眩しそうにスポットライトを見上げていた。ゴングが鳴ると弾かれたように飛び出していって、屈強な対戦相手に殴りかかっていった。いくつもパンチをもらい、たたらを踏んだ。それでも鋼はパンチを返した。撃たれたら必ず撃ち返した。
 それは、どちらの拳が上かを決めようとしているような、烈しい試合だった。美雷の素早い目が、何度も試合をストップしかけるレフェリーを捉えた。だが、結局カタがつくまでレフェリーは試合を止めなかった。
 アマチュア出身、父親は世界王者という鳴り物入りでプロデビューした同い年の少年を、黒鉄鋼は4RTKOで殴り倒した。マウスピースが弾け飛ぶような強烈なショートアッパーが対戦相手の顎を直撃した。両眼から焦点がぼやけ、その身体はストンと両膝を着いた。そのまま、立ち上がれなかった。レフェリーが、両腕を交差させたのを、自分が何をしでかしたのかも分かっていないような顔で呆然と立ち尽くしていた少年の目が捉えた。
 黒鉄鋼は、吼えた。
 何かを背負い上げるかのように右拳を突き上げて、リングを駆け回ってニュートラルコーナーに登りあがって何かを喚き散らしながら馬鹿みたいに笑っていた。リングに拍手が降り注ぎ、セコンドがしがみつくようにして少年をコーナーから引き摺り下ろした。この頃はまだ誰かの前座でしかなかった黒鉄鋼は、いつまでもはしゃいでいるわけにはいかなかったのだ。
 そして順当に試合が流れていき、やがてDVDの再生が終わった。
 頬杖を突いたまま、美雷は泣いていた。頬を滴るそれが涙だと分からず、天井を見上げて首を傾げた。雨も知らないくせに。
 暗くなった画面を、美雷はいつまでも見つめていた。その暗闇の向こうにさっきの少年がいるかのように。
 心を撃たれた理由なんて分からない。
 ただ、似ていたのかもしれない。
 人に触れたことすら数えるほどしかない少女の牢獄と、己の拳でプライドを奪い合う拳闘の世界は、その苛烈さにおいて、ほんの少しだけ、似ていた。

 ○

「読まれてた」
 お気に入りのマグカップを磨くように、乾いたタオルで美雷は天城燎の顔を拭った。燎は為されるがままに顔をしかめながらも、疑問符を浮かべて美雷を見上げる。美雷は裂けるほどに強く唇を噛んだ。噛み千切らないようにするのに苦労した。屈辱に似た熱波が身体を燃やした。読まれていた。自分の秘策が、最高の一手が。
 恥ずかしい、と思った。
「……読まれてた、って?」
 燎が、訝しげに、そして自分が間抜けな質問をしているのではないかという微かな不安を滲ませながら美雷に聞いた。事実、それは愚問に近かった。
 雲海近くまで浮上した黒鉄鋼に白と黒の双拳を撃ち放ち、敵のアイスを撃つ寸前で接近シフトをかける。すると拳はアイスをすり抜け、ノーガードの背後にシフトする。そこで、拳を組み合わせ、白のパイロで火炎をまとい、黒のエレキで渾身の電撃を叩き込む。かわせるはずもなければ、受け止めることもできない至高の魔拳。
 黒鉄鋼は、それに気づいた。そして最後のエレキで切り返してきた。モニター越しでさえ発狂しそうな恐ろしい瞬間だった。燎の魔拳が打ち克てたのは、素材の差だと言っていい。並みのブラックボクサーの魔拳では、黒鉄鋼のサンダーボルト・アッパーは凌ぎ切れなかったはずだ。
 間一髪の連続だった。
 美雷は、燎が自分の返答を待ち続けていることに気づき、目線を上げた。
「あの一撃は、私の切札だった。読まれるわけが、ないと思ってた。でも、黒鉄鋼は耐えた。あの一撃を受け止めた。直撃した瞬間にゴングが鳴ったとはいえ、普通なら耐えられるわけがないんだ」
 ぎり、と奥歯を噛み締める。
 そう、耐えられるわけがないのだ。
 あのパンチをあらかじめ、考案してでもいなければ。
「黒鉄鋼は、たぶん、スパーリングの時はW2B4か、ひょっとするとW1B5を通常スタイルにしていたのかもしれない。第3ラウンドで見せたワン・ツー・パンチのコンビネーションにはファイアスターター特有のにおいがあった。……そうか、くそ、どうして気づかなかったんだろう。サンダーボルト・ライトの威力で眼が眩んでた……どう考えたって、黒鉄鋼はファイアスターターだったのに」
「……どういうことだ? W1B5なんかでスパーしてたら、ブリッツファイターになるんじゃないのか」
「違う。白を一つしか充填していないから、その白を活かすも殺すもボクサー次第になるんだ。こんな考え方、私しかしないと思ってた……そうだ、W3B3なんて、これほど彼の持ち味を活かしたスタイルはない。W1B5で鍛えた白と黒の錬度を全てハイレベルで流し込める、『白黒三つずつ』はまさに理想のスタイル……きっと彼は、使うつもりだったんだ」
 燎が、すうっと静かに目を見開いた。
「……まさか」
「そう。ただ、私達が先にやっただけ。W1B5から彼がW3B3へ転向した、かもしれない、その最大の理由。……エレキとパイロの合わせ技は確実に白を一つ失う荒技だ。W1B5では、チャンスが一度しかなく、しかも使えば必ず左を喪失する。W3B3ならチャンスは最大で三度もある。……彼は知っていたんだ。私の切札を、そして、だからこそ耐えられた。……第4ラウンドに逃げ切った」
 美雷は、拳を握った。
 燎が、その小さなナックルを見下ろした。
「……美雷、どうした?」
 痛すぎる、と美雷はぼそりと呟いた。
「第3ラウンドで仕留めなきゃいけなかった。絶対に殺し切る必要があった。ハンドフェイントシフトからの私の切札は、カウントを二つも消費してしまう。実際に今、君のカウントはゼロだ。ゼロになってしまった……」
 あの黒鉄鋼を相手にして、こちらはW2B2で残弾ゼロ。
 果たして王手をかけられるか、どうか。
 返しきれない負債を抱えてしまったかのようにうな垂れる美雷を見て、燎が笑った。
「心配するなよ、美雷。試合は終わったんだ」
 いきなり獣に身体を舐められたような気がした。
「……は?」
「あいつは立ってこれないよ」燎は当然のことのように肩をすくめる。
「俺は見たんだ。最後、アイスを撃った時、やつの眼から意識は確実に飛んでた。実験終了、再起不能。地面にこそ盛大に叩きつけてやれなかったが、あの一撃は間違いなくクリーンヒットした。ただすぐに砕けなかっただけさ。確かにやつはニュートラルコーナーまで戻って椅子に座ったかもしれないが、立ち上がれるとは限らない。いや、立ち上がれるわけがないんだ」


 美雷は殺意を抱くと、かゆい、といつも思う。
 とにかく、かゆくてかゆくて仕方がなくなるのだ。特に相手の眼のあたりなんかが凄くかゆい。指を思いきり眼窩の奥まで突っ込んで、爪が剥がれるまでバりバりと掻き毟ってやりたくなる。本当にやってしまおうかと思う。美雷はすっと親指の腹で燎の頬を撫でた。燎は足し算ができた幼児のように尊大な笑顔を浮かべて美雷の指の感触を楽しんでいる。
 なんて、愚鈍さ。
 読まれてもいた、ゴングに救われもした。けれど、この口先だけの男にあとほんのひとつまみの気概があれば、第3ラウンドでノックアウトすることが出来ていたのではないか? そもそも性能の面から言えば、天城燎は黒鉄鋼を圧倒していなければならないのだ。そう思うと殺意の誘惑に脊髄が支配されかかるのを抑えるのに全神経を注がねばならなくなった。殺してやりたい。
 この少年に何もかも預けるくらいなら、いっそ自分がブラックボクサーとして出たいくらいだった。だが、それは出来ない。氷坂美雷以上のピースメイカーなど、このラボにはいないからだ。
 一瞬、自分があの都市で黒鉄鋼と向かい合っている光景を幻視して、少しだけ機嫌を直した美雷は、ふと燎の発言にも一理あることに思い当たった。確かに言われてみればそうだ。美雷の眼から見ても、鋼が立ち上がってこれない可能性は高い。
 それに――崩れるのは、黒鉄鋼だけではないかもしれない。
 美雷は使い終わった電子部品をダストシューターにでも捨てるように、燎の口に第4ラウンド用のアイスピースを詰め込み、モニターに映る炎の海と化した無人の都市を見上げた。


 都市の名前は、パンクラチオン。
 ギリシャ語で、『全ての力』を意味する。

       

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