Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 どれほど絶望的であろうと、馬鹿馬鹿しくなるほど勝ち目などなくても、逃げることは出来ない。諦めることは許されない。
 これが、黒鉄鋼の最終ラウンドなのだから。
 第5ラウンド用のアイスピースはもう無い。使ってしまったものはどう頑張っても戻って来ない。スパイラル・モニュメントに次の雷/ゴングが落ちれば、その瞬間、黒鉄鋼の敗北が決定する。それは、生き恥を晒す以外の何事でもなかった。それなら不様な屍を野晒しにした方がずっとマシだった。脳裏に蘇る、真っ赤に染まったトイレの個室。瞬間的に噛み締めた奥歯が砕けて鮮血が溢れた。だから、
 鋼は逃げた。
 真っ直ぐ逃げた。
 まともにあのスタイルとやり合えばどうなるのかは、第3ラウンドで吐くほど思い知っていた。無為無策は本当の逃げになる、だから、どうしてもファイトプランが必要だった。たった一つの策でよかった。
 時間が流れていく。
 天城燎の絶対攻撃のスタイルから撃ち落された拳眼が、スプレイダッシュをかけた鋼の氷殻をかすめるようにして過ぎ去った。一発、二発、と連続して回避したが、三発目は直撃した。
 その三発目は、天城燎の撃ち下ろしのキスショット。
 己自身すらも一発の拳と見立てたかのように、どこかの誰かとそっくりな突撃を燎は敢行した。爆炎の都市めがけて、鋼は燎の氷殻に圧倒されていく。唇から、競り上がって来た胃液がまた漏れた。脱出手段はリスクと抱き合わせになっていた。
 だが、やるしかなかった。
 鋼は、落下方向にそのまま被せてスプレイダッシュをかけた。双球に絡みついた危険な速度が、さらに増していく。が、その接触面積は少しずつ減少していった。少なくともこれでキスショットではなくなった。そのまま鋼は地面と激突する寸前に全神経を磨り潰しながら急上昇した。方向など構っていられなかった。いくつかのビルを崩壊させながら、天然の火炎に多少の火傷(てきず)を貰いながら、なんとか距離を取った。そして笑う、
 燃え盛るビルの森の梢の中で、何もなかったかのように、天城燎が空中に立っていた。
 ダメージは、見えない。
 脱色しすぎて白っぽくなった髪、その向こうで輝くほとんど赤色の染眼。健康的に焼けた肌を玉のような汗が滴っている様は、本物のボクサーのよう。
 黒鉄鋼を相手に取って、もう二十分以上も闘い続けているこの少年は、じっと己の敵を静かに見ていた。
 いい眼をしていた。
 違う出会い方をしていれば、鋼が鍛えてやりたくなるような顔つきに、天城燎は成り始めていた。
 双方の眼下、黒く燃える瓦礫の中から、回避されてそのまま隕石のように落下した二粒の煌球が、見ているだけで咳の出そうな灰塵を巻き上げながら、本体のそばへと舞い戻った。それらが微動だにするだけで、熱波に大気がよろめいた。
 ブレインとのリンクが切れてしまったのが悔やまれる。ポップ・スプレイをかけたまま、鋼は苦み走った笑顔のまま、冷や汗を垂らした。
 ハッキリ言って、あのスタイルにどう対応すればいいのか、正解が見えて来ない。
 当たり前だが、あんな手を組んだ状態から繰り出されるパンチはボクシングには存在しない。もし冗談でもプロのリングであんな構えを取れば、二分の一秒を待たずにその男は黒鉄鋼にノックアウトされる。間違いなく。
 だが、これはボクシングであってボクシングではない。
 これは、六つの拳と六つの異能を駆使したルール無しのサイキック・ファイト。
 答えは、自分で作り上げるしかなかった。
 鋼は、己の黒をそばへグッと引き寄せた。気づいているのかいないのか、やはり、時折その拳から小さな紫電が走る。
 鈍く輝く瞳が、天城燎の組み合わせられた拳眼を見つめていた。
 あれを狙うしかない、と思った。
 拳眼をかわし、捌いて、その隙間を縫って本体を攻撃するよりも、まず反撃手段を奪ってしまった方が確実だ。すでに天城燎はW2B2。拳眼を各個撃破すればW0B2。
 そこまで追い詰めることで出来れば、勝ったも同然だった。
 ここまで来れば、もう言葉はいらない。
 倒すしかないのだ。
 倒すしか。
 燎の拳眼がジャブよりも重く、ストレートよりも大きいパンチを繰り出した瞬間、鋼はスプレイダッシュで飛び出した。燎もそれを受けて立つ、下手に受身に構えて不意打ちのキスショットを貰うより、自分から半ば貰いにいった方がかえって損傷を軽微に抑えられる――そんな悪魔の計算に基づいた綺麗な暴力が鋼を撃った。構わない。とにかく接近戦で黒を三つ振り回し、氷殻のそばに留め置き、そして機会に出くわせば迷わず拳眼を殴滅する。それしかない。
 そして、そのチャンスは、およそ三十七秒後にやって来た。

 ○

 薬品の匂いを嗅ぎながら、八洲は目を覚ました。ああ、起きてしまったのかと気が滅入った。眠るのだって一仕事なのだ、特にこういう白(しろ)しかない部屋で、同色の重たいギプスに身体を固められている時などは。治療を受け始めたから何日経ったのか、投与された鎮痛剤の副作用で記憶がぼやけてイマイチ思い出せない。
 だから、自分のベッドのすぐそばに、見知らぬ男が立っていることにも、霞んだ反射神経はすぐに対応してくれなかった。八洲は細かく震える黒目で、ようやく男を見上げた。
 ドブネズミ色の髪をした男だった。寝覚めの眼には、どこかの銀河の星雲よりも明るく見える蛍光灯の逆光のせいで、表情はよく分からなかった。ただ、その男は、普通なら血の赤い線が走っているはずの白目が陶器のように真っ白で、そのくせ生身のままだった。
 獣色の髪をうざったそうにかきあげた後、男は身を乗り出して巨大な医療器具に閉じ込められた八洲を見下ろした。その声は、目の粗いヤスリで適当に磨いたように渋く擦り切れていた。
「君を電化製品にたとえれば、修理するより交換してしまった方が早いだろう」
 いきなりモノにたとえられた。
「だが、君はいいブラックボクサーだ。ああ、無理に喋ろうとしなくていい――私は何度も、君の試合を見ていた。君は何度も、いい試合を見せてくれた。そうとも、君はあっさりと処分してしまうには惜しい素材だ。実に惜しい男だ」
 八洲は瞼を何度も開閉させて、記憶の箱の中から男の印象に合った人物を引っ張り出そうとしてみたが、どうしても他人だという結論しか出て来なかった。
「生きていたいかね」
 八洲は、なぜそんなことを聞くのか、という疑問を視線で男に返した。
 クスリでアタマがどれほどぼやけてしまっても、指一本でも動ける限り、生きていく気分だった。何か、男の言った「ぶらっくぼくさあ」という聞き慣れない言葉に近いところにある記憶が、八洲の脳を焦燥感で一杯にしていた。
 男は、満足そうに頷いた。
「君みたいな男は減った。私が学生時代を流離っていた頃は、もう少し面白いヤツがいたものだが、彼らはみんなどこへ行ってしまったんだろうね。ナカジマミユキの『地上の星』を聞いたくらいじゃ、埋められない損失だ」
 男は、ぺたぺたと八洲の身体を覆っている精密機械を触り始めた。それに語りかけるように言う。
「君を、元通りにしてやろう。私は外科は専門じゃないんだがね、ま、なんとかなるだろう。……嬉しいかね? それとも不安かね? どれ」
 男は、八洲の許可も得ずに、その口を覆っていた酸素吸入マスクを取ってしまった。
「こんなものは外してしまった方がいいんだ。……私の持論だがね」
 途端に、生きる苦しみが八洲の肺を満たした。呼吸器を風が通り抜けるたびに、刺すような痛みが全身に走った。惨めな呻き声が漏れ出し、自分の手では拭うことも出来ない涙が目尻から流れた。
 だが、生きている気分だった。
「いくつか使えなくなったパーツをレプリカと交換するかもしれないが、仕上がりの綺麗さは保証しよう。かえって以前より頑丈になるかもしれないな。ま、ブラックボクシングにあまり本体の頑健さは関係ないのだが」
 八洲は、男をじっと見た。
 男は、くすぐったそうに笑った。
 白痴を誘惑する悪魔のような、心地いい笑い方だった。
「安心したまえ。私の誇りを賭けて君を治そう。……こういうセリフを吐いたら一度、もう負けるわけにはいかないのさ。なぜなら私は、プライドだけで生きている男だからな。君や、彼らと同じに」
 意識が朦朧としてきた。
 男の眼もそれを確かめたようだった。くたびれた白衣の裾を翻して、背を向けた。そして、おや、とサイドテーブルに乗った古臭いブラウン管のテレビに視線をかけた。
「なんだ、テレビがあったのか。丁度いい、私が準備を整えるまで、これで暇を潰していなさい。それにしても、ひどい病院だな。こんなものがあるなら点けておけばいいのに。これじゃ患者が退屈してしまう」
 男は、どれ、とテレビのスイッチに指をかけた。肩越しに振り返って、微笑を見せる。
「いま、面白い番組がやっているよ。これを見ないのは、もったいないよ」
 そして、プツン、と音を立ててテレビが点いた。獣色の髪の男は、干上がった水のようにその場から立ち去った。
 テレビが、光と音を放ち始めた。
 八洲は、動くはずのない首を、そろそろと持ち上げた。
 よく見知った男が、その番組には出演していた。

 ○

 いくつかのパンチを交換しあった後、不意に燎の拳眼が動かなくなった。
 青みがかった炎を逆さにしたようなポップ・スプレイをかけたまま、鋼も空中に止まった。
(なんだ――? 疲れたのか?)
 まさかそんなこともないと思うが――分からない。
 距離は、そこそこ充分にあった。敵の拳眼が、構えを取った。
 遠すぎる。
 長距離攻撃/ロングショットだろうか、と鋼は訝った。なんにせよ、いきなり出すには大きすぎるビッグパンチだ。それに、ぐっと構えた拳眼と鋼の氷殻の間にもう一つの拳眼が挟まってしまっている。あれでは綺麗に撃ち抜けない。
 正確な読みだったが、それこそが、鋼の張り詰めた肩をほんの少し軟化させた。
 させてしまった。
 罠だった。
 構えた拳眼が、鍬を振るうようなフォームでパンチを出した。拳そのものの軌道は何も破壊せずに終わった――だが、
 纏っていた『パイロフィスト』の炎を、そのまま拳の形を残して撃ち放った。
 単発の『ヒートファランクス』として考えていい。チャージされた高威力の炎拳が、もう一つの拳眼に直撃しそうになった。鋼はその段階で、ほんの僅かでも相手を軽んじるのをやめにするべきだった。何もかもが甘かった。
 大輪の花が咲き誇るように、拳の顎(あぎと)がカパリと二つに分離した。その狭間を極彩色の一撃が、小さな焔の子孫をブチ撒けながら怒涛の如く駆け抜けた。思わず息を呑む、鋼の氷殻に、
 直撃した。
 分厚い爆炎と黒煙に飲み込まれた鋼とその氷殻は、即席の煙幕の中からフェイントで三つの拳を差し出し、撃墜されつつ、本体は決して少なくない出費を払いながらも間隙を縫って天城燎が作り出した包囲網を突破した。鋼は軽く背後を振り返りながらスプレイダッシュで加速した。
(――俺も大概だが、向こうも相当だな)
 痛い目には遭ったが、今度は逆に即興のフェイントで燎の不意を突けそうだった。拳を一瞬で三つまとめて再充填。
 構うことはなかった。
 手当たり次第に振り回した。
 たとえ自分の拳が無残に砕け散ろうとも、鋼は新しい拳を充填するのをやめなかった。
 その無力さを虫唾が走るほど噛み締めながらも。


 ――そして、眩暈を起こすような三十七秒がやっと過ぎ。
 三度目の白裂化から黒鉄鋼が立ち直って、二発のパンチを、四度のフェイントを、六方向へのプレッシャーをかけ終わった、そのすぐ後だった。
 激戦の果ての空白。触れ合うような距離で鋼の黒が燎の氷殻を狙う軌道に乗った瞬間が偶然、生まれた。燎がそれを嫌がり、バックスプレイで離脱した。
 その刹那、詰め将棋は成った。
 鋼の黒の拳の先に、示し合わせたかのように燎の拳眼が燃えていた。
 まず一つ。
 鋼は黒(みぎ)を撃った。
 入った。コークスクリュー気味の右ストレート、それを解き放った瞬間、鋼の全身に確信が流れた。
 これはいい、と。
 恐らくボクサーにしか分からないその手応えは鋼を戦慄させるに充分だった。不調の黒、ギリギリ一杯の剃刀パンチ。魅入られたように鋼の両眼が燎の煌球から外れない。
 当たれば壊れる、
 壊せる、
 ――垂涎の一瞬。
 そして、


 何か、見落としたのかと思った。


 瞬きするよりも速く、それは終わっていた。渾身の黒は、暴君の一撃にカウンターを喰らって爆裂死散し、木っ端微塵に吹き飛んだ。組み合わされた拳が鋼の氷殻を微かにかすめ、それだけで鋼は手痛く大きく弾かれた。急制動をかけはしたが、すぐには動き出せなかった。
 まるっきり、第3ラウンドの再現だった。
 受けたダメージよりも、潰された黒よりも、手酷く鋼の精神は、いやファイトプランそのものが磨耗した。半ば呆然としたまま、炎と風に炙られて倒壊していくビルの隙間で一つの習慣のように失った拳を充填し直しながら、鋼は自棄を起こして惨めに吼えた。悪戯に喉が傷んだ。
 どうかしていた。
 黒鉄鋼の渾身の、恐らく二度とは再現できない、今撃ち放てる限りのベストショットが、効かなかった。それどころかカウンターさえ喰らった。どうにもならない。事実上、たった今、天城燎の白(ひだり)を壊すことは黒鉄鋼には不可能だということが証明された。
 もし、これ以上に威力のあるパンチを撃ちたいとなれば、それは拳と本体の差をゼロにするしかない。
 つまり、氷殻の中からパンチを撃つしかない。
 出来るはずが無かった。
 誰かが笑っている気がした。
 こうべを振り、敵を睨む。
 追撃してくる拳眼の連撃をジグザグ・スプレイで避け、かわし、見切り、いなし、捌き、逸らし、防御しながら鋼は思う。
 まだだ、と。
 まだ、俺には手段がある。
 諦めてたまるか。
 逃げてたまるか。
 誰がなんと言おうと、止めようと、俺は最後までやる。
 そう思った。
 もはや黒を振り回して攻撃する意味さえ朧な戦闘の中で、鋼の脳裏に、八洲の声が蘇ってきた。いつかのスパーリングの後、二人でシャワーを浴びながら、八洲は言ったものだ。
 キスショットは、と。

 ――なァ黒鉄、キスショットは、タイミングとアングルとダメージを恐れないクソ度胸がモノを言う。けどな、俺はこう思う。一番大事なのは――『速度』だと。

 速さこそ、と遠い記憶の中の八洲は続ける。

 ――そうだ、速さこそ、キスショットに求められる全てと言っていい。スプレイダッシュより速く、落下速度より重く撃たれたキスショットは、あらゆる些細なセオリーをも吹き飛ばす最高のキスショット――……ま、そんなのカンタンに出来たら、誰も苦労しないんだけどな。

 何か言い返した、あの頃の鋼を、八洲は笑った。

 ――ふざけんな。俺が編み出せなかった技を、そうやすやすと新人のお前に考えつかれてたまるかよ。いまいち分かってねえようだから改めて聞くけどさ、お前な、……俺をいったい誰だと思ってんだ?

 剣崎八洲。
 十六戦十三勝一負二分のブラックボクサー。
 やろうとして容易くマネできるようなものではない。
 それは、誰が見たって、指でなぞりたくなるほど立派な戦績だった。
 その男が、今、何も出来ずに白いベッドの上で、延命装置をべったり身体に貼りつけながら、横たわっている、
 そんな時に、そんな瞬間に、
 敵を前にして、この俺は、
 どうして負けることなど出来るんだ――……?

 見慣れぬ不気味な軌道のパンチを無意識で避ける。かすめていく死が恐怖を繁殖させる。
 構わない、いくらでも根を張れ、俺を苦しめ苛み続けろ。
 俺は、その『上』をいく。
 それだけのこと。

 鋼はぺっと唾を吐いた。
 確かに凄いハードパンチャーだ、と奇しくも相手と同じことを鋼は考えた。だが、あのスタイルは振りが大きい、隙も多い。質量も破壊力も二倍にはなったのかもしれないが、おかげでこちらにも一つの利点が得られた。
 それで充分。
 押してやる。
 視線が交錯する。拳眼が今度こそトドメを狙って動き出す。それを見て、鋼は呟いた。
 イロイロ見せてもらったが――結局は、

「お前の技は、もう超えた」

 あとは、それを証明するだけだった。
 フックよりも小さく、利き腕よりも強い奇妙な二重のパンチが鋼を狙って虚空を突進した。鋼はそれを今度こそ避けなかった。ギリギリまで引きつけた。重要なのは精密動作性――それさえあれば難しくはない。拳が重なっているということは、相手に触れられる面積が広いということ。
 パリングしやすくて仕方がなかった。
 仲良し小良しに揃えさせた鋼の黒が二つ、真横から掌底よろしく燎の拳眼を弾き飛ばした。そのままがっしりと拳眼を掴み、道連れに落下していく。壊せなくてもいい、戦線から離脱させられただけで充分。
 状況は煮詰まった。
 黒鉄鋼、天城燎、それぞれの手持ちのナックルは最後の黒と一発の双拳。あとは虚空に互いが在るのみ。
 滲んだ太陽に似た、四つの視線が交錯した。
 二人は、数万分の一秒だけ、これから起こることについて思考した。
 燎の考え方は正しい。
 燎は、真っ直ぐに、残った拳眼をストレート調で撃ち放った。下手にスタイルを崩して白と黒に分ければ、鋼が間違いなくその呼吸の間を使って、ちょうどその頃に地面と激突するなり拳眼のパイロフィストに燃やし尽くされるなりして、消費された黒をすべて再充填させて垂涎の白を撃破しよう――そうして来ることは眼に見えていた。ゆえに、黒に当たれば当座のガードを破壊でき、本体に当たれば尚良しの強行軍でストレートを撃つというのは、ほぼ正解と言ってよかった。過ちがあるとすれば、それはもう、
 『回避』と『攻撃』を噛み合わせたキスショットをこの期に及んで考え出した、黒鉄鋼が悪いと言うしかない。
 タネはこうだ。
 ――この際、ガードに残した黒はどうでもいい。燎にささやかな報酬としてくれてやってもいいし、せいぜい疑似餌の役割でも果たしてくれれば問題ない。重要なのは、確実にこちらが一呼吸を回避に割かねばならない、と燎が誤解しているということ。そこを突けば確実にキスショットを当てられる、それも効果的な威力を伴って。では、どうやってそんな曲芸じみた真似が出来るのか。簡単なことだった。
 鋼は、スプレイダッシュをアンバランスにかけた。通常とは違った風をかけられた氷殻は、迫り来る拳眼のストレートを間一髪で回避しつつ、緩やかな弧を描いて燎の氷殻を撃つコースに乗った。キスショットが元々はビリヤードから由来する言葉である以上、この一撃はこう呼ぶのが相応しく、かつ分かりやすいかもしれない。
 黒鉄鋼は、『マッセ・ショット』をかけたのだ。
 本場のそれと同じく、土壇場の一発勝負で二度とは出来まい。だが、鋼はそれをやった。斜め上からの急襲をかけつつ、グングンと燎の氷殻が近づいて来て、敵の表情が弄ばれる粘土細工のようにスローモーションで変化していくのを見ながら、グローブホルダーから左手で手袋を二枚千切って空に放った。再充填、
 キスショット。


 双方、一撃で白裂化した。その瞬間を鋼は捉えた。激突する寸前、再充填したばかりの二発の黒を燎の氷殻の左右に据えておいた。これが最後の味つけだった。
「かあ――――――――――――――――――――――――――――――ッ!!」
 もはや余力を残す必要はなかった。
 双球が磁界に取り込まれたようにくっついたまま、小さな流星になった。あらゆる神経を絞り尽くす。鋼はキスショットしたまま、勢いを殺さず、衝撃を伝導しつつ、天城燎の氷殻を左右から二つの拳で押し潰そうとした。
 洒落にならない攻撃だった。
 恐らく中身は相当に恐かったはずである。もし、この状態で氷殻が砕かれればブレインの悠長なカウンターシフトキネシスによるサルベージなど到底間に合わなかったはずだ。三方向からの多重攻撃。挟まれ、圧倒される氷殻がどんどんひしゃげて歪になっていく。
 鋼は思った。この距離なら精密動作もハンドパワーも充分以上だ、壊せる、
 壊せるはずだ。
 これを粉々にすれば全てが終わる。
 全てが。
 もはや視界は真っ白だ。何も見えない、分からない。視神経を浮き彫りにしたような細かい亀裂がどこまでも薄く広く張っていった。
 身に纏う重力が手加減知らずに増していき、意識が白熱し思考が破裂し、そして最後に残った感覚で、ただ音だけが聴こえるばかり。
 餓えたように、片方だけ残った聴覚に、鋼は全神経を注ぎ込んだ。聴こえてくるその音は、幼い雷の産声にも似た破砕音。
 ピシ、ピシ、ピシリと。
 氷殻が磨耗していくその小さな音が、少しずつ少しずつ、大きくなっていく、その瞬々が永遠に思えた。
 まだか、まだか。
 まだ砕けないのか。
 悪魔に魂さえも売り渡したくなるような、身を焼く焦燥感が鋼を燃やした。

 砕けろ、
 砕けろ、
 砕けろ、
 砕けろ――――!!

 一秒が過ぎ、二秒が過ぎ、三秒が過ぎて、
 遅すぎたくらいだった。
 黒鉄鋼のパリングからとっくに解放されていた天城燎の煌球が、逆上がりに昇って来た神罰のように燦々と燃え盛りながら、災厄を撒き散らす対戦相手の氷殻をアッパースイングで撃ち上げた。地獄の逡巡の末に、一秒前にすでにガードに回していた鋼の黒がかろうじてクッションの役目を果たし、その氷殻は粉砕されることなく、曇天近くまで跳ね上げられた。バックスプレイをかけて急制動をかけ、血走った眼で真っ黒な都市を見下ろした鋼は、ふ、と笑った。
 恐らく相当、効いたのだろう、ふらつきながら弱々しいスプレイで、燎の氷殻が手頃なビルの上に接地していた。もう褒めるしかなかった。
 結局、砕けなかった。
 こちらの信念という氷の方が、今にも砕けそうだった。
 やられた。
 ――まさか、耐え切るとは。

       

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Neetsha