Neetel Inside ニートノベル
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 ふ、と意識が消えかかった。やばい、と思った時には絞り尽くされたようにポップ・スプレイが消失し、鋼の氷殻はゆっくりとした確実さで落下していった。辛うじて割けた神経が弱々しいスプレイの吐息を何度も左右にかけ、手頃なビルの上に鋼は氷殻を着地させた。そのまま、どっと膝から倒れこんだ。支えに立てた左手にボタボタと汗が滴った。眼を瞑る。
 確かめるまでもなかった。
 ――思い出せない。
 その言葉が思い出せない。スプレイという通称ではない、その異能の本当の名前。どれほど記憶のオモチャ箱をひっくり返しても、どうしてもそれだけが出てこなかった。理由は明晰だった。
 人類の頭脳にあるブラックボックスは、左の言語野に埋め込まれている。
 ゆえに、酷い損傷を受けたり、使いすぎた異能は、その言葉が一時的に記憶から消し飛ぶ。あたかも同じ文字をずっと眺めているうちに、その意味が掴み損ねていくように。
 ゲシュタルト崩壊。
 風が死(や)んだ。
 恐る恐る、鋼は視線を上げた。虚空には、再び復活してきた天城燎の氷殻がスプレイダッシュをかけてこっちへ飛翔してきていた。二粒の小太陽が、精神の波長を凍結させて創られたアイスキネシスを美しく照らし出している。本当にタフなヤツだと思った。
 さて、
 どうする。
 もう、透明な翼は無い。空を飛ぶ夢は醒めた。後に残ったのは、氷の盾が一枚と幻の拳が三つ。雷の槍も炎の雨も神の脚すらも使い果たした。手元に残った貧しいカードで、あの少年をノックアウトしなければならない。
 あと、百秒足らずで。
 燎が戦闘機のように突っ込んで来る、そして先行している拳眼がスイング・モーションに入った。このまま殴られればデタラメな照準でも木っ端微塵だ。
 脱出経路は、たった一つ。
(――――っ!)
 メキリ、と。
 鋼は、自分の氷殻の背面を、黒の拳でクラッチング/鷲づかみにした。傷口を自らの指で抉るようなその所業で、氷殻が白裂化した。構わない、脱出経路はたった一つ。
 正面突破。
 振り抜かれた拳眼の隙間を縫って、まるで先刻の燎の『クワガタ撃ち』の意趣返しとばかりに、鋼の氷殻が突進した。
 鷲づかみにした、『拳』そのものを推進力にして。
 不恰好な飛空の夢だったが、しかし、
 それが返す刀のキスショットになった。
 双球がこの第4ラウンド何度目になるのか分からない真向衝突を引き起こし、互いに弾かれ、二手に分かれた。鋼の氷殻は手近なビルの屋上にめり込み、燎はそのまま綺麗に吹っ飛ばされて、ニュートラル・ピラー近くまで流された。誰もが動揺するしかないような、この状況で燎は驚くべき時間の使い方をした。彼の頭脳は天才的な飛躍を見せて、急制動の逆スプレイをかけるまでに、これから展開されるであろう試合の光景を予見した。まず、黒鉄鋼のスプレイが死んだことを誰よりも早く知覚した。エアロキネシスを発動すれば必ず確認できる風の粒子が消えている。つまりヤツは手持ちの拳を使って擬似スプレイをかけてきただけだ。そのおかげで、キスショットになりこそしたが、さしてダメージは受けていない。不調の黒ではこちらの真芯を撃つ軌跡を取れなかったのだ。この時点で、ほぼ自分側の勝利が確定したと見ていい。
 問題は、近づいて殺すか、遠くから殺すかだけだった。
 それもすぐに答えは出た。動けない相手にどうしてわざわざ近づく必要がある? 見栄えのいい完全決着など必要ない。
 確実に殺す。
 もう誰にも、餓鬼扱いなぞさせはしない。
 燎は血走った眼を光らせながら、逆スプレイをかけて氷殻の制御を取り戻し、ニュートラル・ピラーの巨大な影の中に埋もれながら、その眼光を一点集中で身動き出来なくなっている一五〇メートル先の黒鉄鋼に突き刺した。ぺろりと唇を舐めて、勝利の味を楽しみながら、燎は思った。
 標本にしてやる、それも最高の炎の槍で。
 虚空に充填された拳眼を、再び四つの拳に分けた。W2B2。黒を一つ気休めのガードに割いて、残った三つの白と黒でフレイムチャージをかければそれで終わりだ。風を亡くした男を相手に攻め気の姿勢など必要なかった。燎は猛獣のように笑った。
 かつて。
 ありとあらゆる絶望を世界にバラ撒いた伝説のパンドラの箱の底には、最後に一つだけ『希望』が残されていたと言われる。
 しかし、その『希望』がどんな災厄をもたらすのかは、語り残されていない。
 だからここにあえて記そう、それは、
 ――『盲目』という名の災厄だと。
 燎の眼は曇っていた。どこかで視界の中には入っていたはずだ。だが、真剣勝負のハイ・プレッシャーが彼の眼を曇らせた。いや、正確にはその奥にある『希望』の炎が、あまりにも眩しく燎の眼を焼いていたのだ。だから燎は決定的瞬間まで気づけなかった。
 黒鉄鋼が、『ノーガード』であることに。
 まさか、ビルの屋上に一粒の氷殻だけを纏ったきりにしているはずがなかった。周囲の黒煙と爆炎を上げ続けているビル群のどこかに三つの拳を、少なくとも一つは本体回収用として接近した位置にマウントされているはずだった。それが合理的な戦闘というものだが、しかし、鋼はそんなものは前からクソだと思っていた。合理的であることと実戦的であることは違う。だから、たとえ危険を孕もうと、ギリギリまで効果的な一撃にヤツは拘った。その結果、とあるパンチを解き放った。
 現役時代に何百回も、何千回も、何万回もストライキング・ミットに叩き込んだそのパンチを――
 狙うは、一八〇メートル前方にある、天城燎の背後に位置するニュートラル・ピラー。転送座標として使用されるその巨大な建造物は、射程限界を逆手に取った『右』と『右』と『右』のトリプル・フックをまとめて三段側面に撃ち込まれ、
 天城燎の氷殻を巻き込みながら、
 完全に崩壊した。

「――――ッ!!」

 獣色の雪崩に飲み込まれた燎は、粉塵と轟音によって一時的に戦場の情報から隔絶された。
 この瞬間こそ、全てのラウンドの運命を変える、まさに決定的な瞬間だった。この期を逃しては次は無かった。やるしかなかった。
 最初は希望によって、そして今は粉塵によって、盲目にされた天城燎の眼が理解の色を取り戻す前に、どうしても撃たなければならない一撃が黒鉄鋼にはあった。

       

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