鷲づかみにはせず、足方向から氷殻を黒でふわりと持ち上げて、スパイラル・モニュメントの頂点まで黒鉄鋼は上昇した。何もかもがジオラマ臭く視えるその高みで、鋼は自分の氷殻をセットした。脳裏によぎるは、即席のシールド。あのピッタリ氷殻がハマったくぼみ。
銃身に弾丸が装填されるように、螺旋の果てに、黒鉄鋼は『己自身』を詰め込んだ。平蜘蛛のように這い蹲り、左手一本で身体を構え、じっと視線を真赤な金属に降らせている。
思う。
予感だけは、第4ラウンドの初めからしていた。
――エレキが撃てるんじゃないか、と。
期待したくなるようなその希望があったからこそ、最終決戦のダメージにも鋼は耐えられた。黒の拳から紫電が瞬く度に、破れかぶれの一発逆転を狙いたくなった。
それにも、耐えた。
全ては、この瞬間のため。
ルイは、無理だと言った。アイスピースをダブルショットしたところで、エレキも撃てなければ攻撃力も上がらないと。
だがそれは、間違いかもしれない。
誰に分かることでもきっとないのだ。
ちっぽけな人間の頭脳の中の、たった二十ナノメートルしかない神経の連鎖の奥で、本当に何が起こっているのかなんて、誰に視ることが出来るものか。
涼虎は言った。
もう一度、リングにあげてくれると。
それは、黒鉄鋼には不可能だと診断された言葉だった。
その不可能が、すでに崩れ去ったのだ。
ならば、どんな種類の不可能だろうと徹底的に調べ上げ、ボコボコにし、かすかな可能性の穴を空けてそれを押し広げてやればいい。元々、このあまりにも途方もない実験は、それを趣旨としていたのではないのか。
そう思えば、俄然やる気が湧いてくる。
一発。
一発だ。
一発でいい。
たった一発の奇跡/エレキさえあれば、俺はあの男を倒してみせる。何があろうと、どんな条件だろうと関係ない。たった一発――それでひっくり返してこそ、それこそが、それだけが、
ボクシングの、醍醐味。
撃てば、ただでは済まないだろう。
それでも――
鋼は、生唾を飲み込んだ。
ゴクリ、と。
その唾が、三分前にアイスピースの溶液が通った経路を辿って、鋼の食道を流れ落ちた。その風が吹き込む臓器の中は、まだ猛毒の気配を残したままだった。
ピースメイカーならば誰でも知っている。
アイスピースは『塗り薬』である、と。
これが、この猛毒が効き目の薄い経口投与で使用されている最大の理由だった。通常の風邪薬などは、口から飲み込んで胃を通り、肝臓や小腸で薬の一部が分解されてしまうため、効力も弱く、また効き始めるのに時間もかかる。その時間、おおよそ三十分から六十分。どう頑張っても連続して服用するブラックボクシングには間に合わない。かといって、静脈注射によるアイスの投与では被験者のブラックボックスを最初にノックする『味』を与えることが出来ない。舌先に残留したその反射反応からキスで逆算試算し、ミストを作ることも困難になる。ゆえに、どうしても経口投与で静脈注射と同じ薬効を得る必要があった。
それを解決したのは、世界で最初のピースメイカーだった。
彼は、ショートカットした。
『食道に触れた瞬間に、薄いカーテンをすり抜ける霧のように薬を浸透させ、肝臓も小腸も血管も無視して脳へと続く脊髄に達してしまえばいい』
そう言った。
そしてそれを実現した。
アイスピースは喉の奥の奥に塗りたくる薬であり、そしてその内容物である神経伝達物質の紛い物は、肉体を邪魔な人海のように掻き分けて、その向こうの脊髄に執り憑き汚染し一直線に頭脳へと、そして運動性言語野のブローカ野、感覚性言語野のウェルニッケ野を含み繋ぐ一帯のブラックボクシング領域を占める『ミラーニューロン』へと辿り着く。
薬とは、嘘つき物質である。
自分は本物だ、と偽って、細胞にある受容体(レセプター)の差し出した手を握る。がっしりと握り締め、その細胞を作用させる。そういう薬物を『アゴニスト』と言う。ドーパミンアゴニスト、セロトニンアゴニスト……本物の名を冠される宿命にあるそれ/It。
そして、アイスピースに含有されるアゴニストは、『ライトニング・アゴニスト』と呼ばれている。
『鏡』を騙すからである。
ミラーニューロンの受容体に嘘をつき、アシッド顔負けの幻覚を見せ、囁く。
これは現実だ、と。
オマエがこれまで映してきたものこそ『偽物』なのだと。夢物語の方が硬く重たく封印され続けてきた『真実』なのだと。もう遠慮することはない、我慢することもない。だからこれから仲良くやろうぜ、俺とオマエで一緒に――
鏡を騙す光の悪魔は、そう囁く。
そしてミラーニューロンの、モノマネ細胞の奥で氷漬けにされていた重く冷たい扉が分厚い音を響かせながら開かれる。イオンチャンネルと呼ばれるその扉が開け放たれ、夢のインパルスが脳という原野を疾焼し拡散し展開する。受容体と手を組んでいる相手がイカサマ師であるとも気づかずに。
だが、この受容体こそが『七発目のエレキキネシス』を撃てない最大の原因だった。受容体には限りがある。カモがいなければ稼ぎを得られぬ賭博者のように、投与されたアイスピースも受容体がなければ作用を働かせることが出来ない。正式な研究成果はまだ挙げられていない、だからここでは氷坂美雷の未だ誰にも打ち明けられていない推論を真実として採る。
『人間の脳には、七発目のエレキキネシスを撃つ受容体がそもそも足りていない』
これが、彼女が六発しか撃てないアイスピースを愛する宿敵に叩きつけた理由だ。
ならば。
『アイスピースに騙されてくれる受容体を増やすことが出来れば、理論上はいくらでもエレキを撃つことが出来る』
――とも言える。
キーワードは、『自己触媒機能』。
自己触媒では、結果そのものが過程の促進をさらに早めるプラスのフィードバックとして作用する。
ミラーニューロンを、特に『黒の拳』を扱う受容体を増加させるにはどうすればいいのか。
筋肉ならどうだろう。
欲しければ鍛えるだろう。
何度も何度も使うだろう。
諦めることも嘆くこともせず。
使い続ければ、筋肉は応えてくれる。
強くなる。
それと同じだ。
歴とした神経学における一つの現象。
受容体が神経細胞の環境状況に応じてその数を増やすことを、こう呼ぶ。
『アップ・レギュレーション』。
それが、
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嘆きも諦めもせずに『不調の黒』を使い続けた黒鉄鋼にしか撃てない、
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七発目のサンダーボルト・ライトの正体だった。
増加した受容体をキックするには、それを充分に補うアイスピースの過剰投与が不可欠だった。たったひとつのアイスでは、溢れた受容体と繋ぐ手が足りなかった。どうしても《ゴールド・ブラッド》の『ダブルショット』が必要だった。
そして、奇跡はいま、手元にある。
撃てば死ぬかもしれない。
そんなことは分かっていた。
止まらない鼻血が、拍動を強打する心臓が、振戦し続ける左手が、それを教えてくれていた。
それらを全てガッツで捻じ伏せ、
磨り潰し、
押し殺す。
それでも消えない。無くならない。
そこから先は、覚悟で埋める。
視界の先に破壊から生まれた積乱雲が渦を巻いていた。その中に、天城燎がいる。相手の姿は見えない、だが、スプレイのせいで渦の巻き方に癖があった。
一秒の死闘は、平穏な十年に匹敵する。
これまでのラウンド全てを意識的・無意識的にそこに焼きつけてきた黒鉄鋼の両眼が、判断していた。天城燎がどこにいるかを。
不可能ではない。
飛んでいる虫を掴み取れるなら、
穴が空くようなジャブを蜂のように撃てるなら、
出来る。
ボクサーなら、それが出来る。
そして、黒鉄鋼はボクサーだった。
今でも。
――あなたはこれから世界(うえ)を狙う人だ。こんなところで死なせはしません。
そうだ。
黒鉄鋼はボクサーだ。
だから、許すことが出来ない。
許すことだけが、どうしても出来ない。
――必ず。
――必ず、世界を獲って下さいね。
氷殻の背面に設置した黒に、ぐっと力を込める。幻想の筋肉に架空の異能が流れ込む。溢れ出した紫電の熱さを眼球の奥で感じながら、過透明な氷殻の向こうにいる男について、考えた。
お前は、右腕の仇だ。
お前は、八洲の仇だ。
そして、何よりも、
お前は、人殺しだ。
あの日、死んだのは俺の右腕だけじゃない。
お前は、あの人を殺したんだ。
忘れてないよな? 少年A。
お前は、あの日、人を殺したんだ。
俺のファンだと言った人間を。
本当に、
自分の身内を殺されて、よくも今まで、
黙っていられたものだと思うよ、この俺が。
だから、負けられない。
負けられないんだ。
絶対に。
ああ、そうだ。
見てるか、八洲。
病室の、備え付けのモニターは、俺の姿を映しているか?
ぼぉっとして見逃すなよ。
今から見せてやる。
俺が編み出した、最速のキスショットを。
氷殻の推進力を、拳に重ねて雷撃までも加算する。
アイスとエレキの合わせ技――第3ラウンドの別解答。
お前はバカだと笑うだろう、このスタイルこそ、愚者/オレの一撃。
彗星落し。
――照準は、目標点からほんの少し左下に。
まともに狙って当たるなどともはや信じることはできない、着弾点観測/スパーリングは充分済ました。
イヤになるほど。
この一発だけは必ず当てる。
俺の身体にまとわりついた、期待という名のベルトに懸けて。
――今度は、外さない。
そして。
五月蝿いほどに発火した金色の羽虫が、拡散するのをやめて収束する。稲妻の触媒と化した黒の拳が呼吸するように膨れ上がる。氷殻に添えていた掌を撓め、過冷却されたそれに五指を突き刺した。甲高い破砕音が鳴り響き、視界が巨大な白亀に染まった。左のテンプルで悪魔が囁く。
撃て。
電光石火、
黒鉄鋼のキスショットが、天城燎の氷殻を直撃した。