真っ赤な風が吹いている。


 朦朧とした意識の中で、横殴りの熱波が皮膚をチリチリと焦がす感触を味わう。左手で焼けた産毛と肌に触れようとして、光に撃たれたような激痛が身体の一部を貫いた。顔を無造作に引っ張られたように烈しく歪めて、戦慄し続ける左手を、おそるおそる、痛む右の脇腹に添えてみて、鋼は初めて気がついた。
 自分の腹から一本の鉄の棒が生えていることに。

 ――なんだこれ。

 奇妙な冷静さがあった。他人事のように、貫かれた腹部を見下ろしていた。滲んだ銀色の金属を赤黒い鮮血が流れ落ちていく。じわじわと現実感が増殖し、風の唸る音が身体に直に響いた。……身体に? 直に?
 氷殻が、消滅している。
 手持ちの黒は、全て消し飛んでいた。
 剥き出しの生身のまま、黒鉄鋼は無人の都市のストリートに跪いていた。アスファルトは砕け、割れ、隆起しては陥没して四方八方に真っ黒なクレーターが出来ていた。鋼のぼうっとした視線がそれらをひとつずつ見送っていく。パイロキネシスの猛火に襲われたビル群はほとんどが瓦礫と化し、復元建材は粉々に砕け散り、含有する鉄とマグネシウムを高熱に焼かれて黒ずんでいた。死にかけた炎に取り囲まれた黒い砂漠に浮かぶ、岩盤のようなアスファルトの断片。そこに鋼は両膝を突いていた。そして迷子のように頼りなく揺れる視線が、一柱の傾いたビルで止まった。
 そのビルには亀裂が入っていた。よく見ればそれは小さな穴で、出来たばかりらしくまだその周辺から瓦礫の粒が零れ落ちていた。何かがあのビルを貫いたのだ。何が?
 自分が。
 空論に溺れる賢者のように鋼は、最後の力でなけなしのブドウ糖を脳髄にくれてやることに決めた。燃費の悪い思考が一段飛ばしで加速していく。……あの穴を開けたのはたぶん自分だ。だが、アイスキネシスを展開したままでは、あのビルの穴はもっと巨大になっていたはずだ。つまり自分はアイスを分解して、あのビルに突っ込んだのだ。恐らくは、……直前に自分が何をしていたのか思い出せないが、相当のダメージを受けていて、アイスを纏ったまま激突すれば、クラッシュすると判断したのだろう。アイスがクラッシュすれば、負ける。負ける……
 ……傷口が燃えるように痛んだ。
 なぜ、あんなビルに突っ込む羽目になったのか。ス……イは? ああ、そうか、駄目だ思い出せない。飛行能力は失われていた。かわせない。いや、それなら何故、俺は空中にいたんだ。
 キスショット。
 そうだ、と鋼は思った。俺はキスショットをしたんだ。そしてそれは成功した。キスショットの衝撃でぶつかり合った双球が二つに分かれ、自分はビルへと激突するコースに乗った。そして咄嗟にアイスを分解した。生身でビルに突っ込み、そして鉄パイプを一本腹に引っ掛けながらも、地面に再び戻ってくることが出来た。そういうことらしい。
 だが、どうして……
 俺がキスショットをすると決めたなら、それは最後の一撃だったはずだ。相手に直撃したなら実験は終わっていなければならない。だが、俺は回収されずにいる。……段々思い出してきた。エレキとアイスの合わせ技。最終最後の全力疾走/ギャロップを俺はかけたのだ。アレが当たったのなら、決着はついているはずだ。アレは俺の、俺にしか撃てない『魔法のパンチ』だった。
 打ち鳴らされた銅鑼の余韻のような、低く重苦しく掠れた声が口から漏れた。言葉など出てこなかった。鋼は顔を伏せた。自分がここにいること。その最終結論はひとつしかなかった。
 出力が、足りなかったのだ。
 確かに七発目のエレキキネシスをトリガーすることは出来た。でなければ飛べなくなった自分にキスショットが撃てるわけがない。だが、それはあくまで引鉄が落ちた程度の衝撃しかもたらさなかったのだ。オリジナルに比べれば数万分の一スケールの、稲妻のレプリカ。それを推進力に据えた氷殻の突撃は、おそらく、通常のキスショットと同威力にしかならなかった。
 老いさらばえた光速の、末路は惨めの一語に尽きた。
 失敗(しくじ)った。
 最後の最後で。いや、他に打つ手があったとは思えない。ああするしかなかった。言い訳ではないが、他にもっと上手いやり方があったというなら教えて欲しかった。誰に? 分からない。分かりたくもない。
 沸騰した脳髄の衝動に任せて、腹部から鉄パイプを容赦なく引き抜いた。ぶしゅっ、と小気味いい音がして、ボタボタと重たい血が泡立ちながらアスファルトに零れ落ち、抜いたパイプには臓物の欠片がへばりついていた。それを一瞥して、屑のように投げ捨てた。乾いた音が鳴った。腹から流れ出した真紅の泥を鋼は左手ですくった。燃えるように熱い。まるで溶鉱炉から溢れ出した溶岩だ。それがべったりと左手を赤く包んだ。だが、そんなことはどうでもよかった。
 鋼の眼が、刺すような光を放っていた。
 その先に、満身創痍の敵が在る。
 息切れするかのような断続的なホバースプレイ。白裂化したまま表面積の半分も元に戻らなくなった氷殻装甲/アイスキネシス。残った白と黒の四拳はだらりと力なく凍球のそばに垂れ下がり、指先を極限まで弛緩させている。
 天城燎は、肩で息をしながら、それでも尊大に灼熱の地獄を睥睨していた。隈の浮き上がった顔の奥で、言葉が燃えている。

 どうだ?
 俺は、凌いだぞ。
 これからどうする?
 黒鉄鋼。

 笑うしかなかった。
 ここまで来て、続行とは。
 つくづく噛み合わせの悪い相手だ。
 諦めたように、それでいてどこか嬉しそうに、鋼は左手を腰に回した。西部劇のガンマンのように。攻撃するために。もはや雷撃も氷撃も風撃も炎撃も掌からつれなく滑り落ちた。残っているのは、拳撃だけ。
 だが、それすらも希望的観測に過ぎなかった。
 獰猛な真実だけが、左手の指先に纏わりついた。
 ゾッとした。
 さすがに冗談だと思った。
 冷や汗を垂らしながら、重力に逆らえなくなったように、眼球を下方へ回す。焦点の合わない瞳が、揺れながら絶望のスナップショットを撮った。
 ベルトに引っ掛けてあるはずの、グローブホルダーが無かった。
 それも左右両方。
 ……答えは、すでに分かっている。
 だが、どうしても認めたくなかった。
 あるわけがない、あっていいはずがない、そんな理不尽な負け方は。
 そんなくだらない、決着は。
 だが、現実は変わらなかった。
 アイスを分解して生身でビルに直撃すれば、無料(ただ)では済まない。衝撃は全身を隈なく打ちのめすだろうし、それは鋼だけでなく付随するパーツにも及んでしかるべきだ。
 たとえば、グローブホルダーのフックが外れてしまうとか。
 しかも、両方。
 血まみれでなければ左手で顔を押さえていたところだ。
 再び沸騰しかけた脳髄が、しかし、沸点に辿り着く前に鎮まった。
 ぺたん、とアスファルトに捺した赤い左手に篭っていた力を、抜く。半ば自棄気味に視線を流して、虚空に氷の壁を再展開しようと神経を集中させたが、結果は虚しかった。
 呼吸を整え、
 鋼は考える。
 八洲は、
 八洲は、あとどれくらいで再起できるだろうか、と。
 一ヶ月? 二ヶ月? それとも半年?
 いずれにせよ、充分だろう。
 ……この実験の映像を見て、天城燎の『対策』を練るには。
 もし八洲がこの闘いから、ほんの少しでいい、勝利に繋がる何かを探し出してくれたのなら。
 いよいよ訪れた俺の犬死にも、きっと少しは意味があったのだ。
 それでいい。
 ――なるほど。
 これが『死ぬ』ということか。
 どんなものかと思ってみれば、これが俺たちがギリギリ一杯まで眼を逸らしてきたものの正体か。
 恐ろしいというより、嫌な気分だった。
 べたべたして気持ち悪い、泥まみれのまどろみだ。
 黒天の下で、天城燎の氷殻が雷光と紅焔の輝きから気まぐれな乱反射を繰り返している、それを無力なまま見上げて、鋼は笑った。
 それは、死者のように硬直した、象牙色の微笑/アイボリーグリン。
 『次』は、こうはいかない。





 お前がお前である限り、いつか誰かがお前を倒す。
 この世界は、そういう風にできている。