Neetel Inside ニートノベル
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 チャンピオンの試合は、ノイローゼになるまで見た。


 思えばあの頃が一番辛かった。具合はいつでも最悪で、ストレス性の胃腸炎にかかって下痢をくだしまくり、そのくせ減量はちっとも上手くいかず、スパーリングでパートナーに押され、右拳は残ったダメージでギクシャクと機械仕掛けのようにしか指が動かせなくなっていた。練習は厳しさを増していき、疲労がそれをあっという間に追い越して背中も見えなくなっていた。
 まともに眠れた日なんてなかった。地獄というのは、こういう暮らしのことを言うんだと思った。

 それでも、王者の試合のビデオは一日の終わりに必ず見た。
 絶対に見た。
 真っ暗な自分のアパートの部屋のなか、頭から毛布を被って、膝を抱え、青白い輝きとギリギリまで抑えられた音量を流し続けるテレビ画面をじっと見つめていた。テレビは二台あった。片方は王者の試合が、もう片方は自分の試合が再生されていた。どうせひどい空腹で眠れはしないのだが、これなら同じ時間で二つの試合が見れるのだ。とても効率的。だが、なぜか誰にも賛同してもらえないやり方だった。
 右脳と左脳のように連結されたテレビ画面の中で、王者と挑戦者がそれぞれ別の試合をいつもやっていた。
 それを見ながら、初めてボクシングをやった日のことをよく思い出した。
 死ぬほど走ったし、壊れるほど殴ったし、意識が飛ぶほどぶん殴られた。
 一ヶ月もしないうちにやめようと思った。
 これほどまでに過酷な練習が待ち受けているとは、たかだか十五のガキには想像もできないことだった。
 それは、人間の肉体を限界まで酷使する生き方だ。
 眼を閉じるだけで瞼の裏に鮮明な悪夢が蘇った。早朝から鳥の声がしてはすぐに走り始め、その熱が冷めないうちにジムワークが始まる。殺気だった先輩たちの中に放り込まれ、ロープに埋め込まれるほど殴られ、気絶しては水をぶっかけられ、足を掴まれてリングから引きずり下ろされる。本物のボクサーは強いなんてものじゃなかった。光としか思えない速さで切れるパンチを連続して叩き込み、そこから相手がどう反応するか、それをどう沈没させるかを明晰な機械のように判断しながら相手を追い詰めていくボクサーは、よく出来た人形のように均衡のとれた『戦うフィギュア』だった。
 眼を開けると、テレビの中にもそれが映っていた。
 最高級の戦うフィギュア。
 それが相手か自分かは、これから決まることだった。
 衰弱し切った顔つきで、もうすぐ他人事じゃなくなる死闘を見るでもなくぼうっと眺めながら、いつも思っていた。
 本当に倒せない相手なんだろうか、と。


 誰もが、
 誰もが、お前にはできないと言った。
 お前と闘う王者は、国内四階級を制覇し、プロ戦績も五十戦を超え、この防衛戦が終わればいよいよ世界へと進撃する――そういう誰もが認めるチャンピオン。まだスタイルすら固まっていないお前のような新人に容易く崩せる男じゃない。せいぜい偉大な男の胸を借り、その減らず口を塞いでもらえ、そうすればお前の多すぎる災難も鳴りを潜めることだろう。
 それで鳴りを潜めるのは、どう考えても自分の腕に思えた。
 あまりにも鋭い王者は、いつでも見ることができる最強の悪夢は、いつも試合の前に胸の前で十字を切ってからリングに上がっていた。ロッキーもやったし、伝説的なJライト級の名チャンプもやっていた。それを見て、また思った。
 俺は神様には祈らない。


 あれからも、
 いつも考えている、本当に、
 本当に俺には無理なのか。
 何もかも、出来もしないことなのか。

 俺はあの頃から、何一つとして変わっていない、
 だったら。
 できるはずだ、できないとは言わせない。
 勝てない奴にも勝たなきゃならない、なぜって、
 それが、




 唇がかさつく。流れた汗で眼が曇る。
 身体が冷たい。喉はからから。
 破れた鼓膜の向こうから、彼女の声が蘇る。

 ――なんで死んでくれなかったんですか?

 なるほどな、
 じゃあ何か。
 あの時、死んでおけばよかったってか?
 ふざけろ。
 この程度で終わってたまるか。
 そうだ、この程度で――
 こんなところで。


 前を向け。眼を開けろ。


 雷鳴まであと少し、
 黒鉄鋼と天城燎の、黒鉄鋼と氷坂美雷の、
 そして、
 黒鉄鋼と枕木涼虎の、
 最後の十秒間だった。
 鋼は、思い出す。


 ○


 先輩に――鋼がプロライセンスを取る前に引退してしまったが、よく面倒を見てくれた先輩に、こんなことを言われたことがある。
 バッティングはパンチだと思え。
 そうすれば、ボクサーのカラダは自然と、拳だろうが頭突きだろうが、かわす動きをするんだと。
 天城燎はすでに、最後の一撃のモーションに入っていた。
 スプレイダッシュ・フルブラスト。
 見上げながら、思う。額から流れた汗が鼻筋を伝う。
 あのキスショットを、『パンチ』と見なせば。
 あれを『パンチ』だと考えれば。
 動けないボクサーにもできることが、一つだけある。
 ――クロスカウンター。

 それは、相手のパンチに合わせて自分の拳を叩き込む最強のカウンターブロウ。
 当たれば確実に相手を粉砕する。
 そのためには、どうしても、
 右拳が必要だった。
 左じゃ駄目だ、左じゃ足りない。
 可能性は、ある。最初から眼の前に。
 だが、それは弾薬(ナックル)を名乗るには、あまりにも揺らぎ過ぎていた。どれほど神経を過集中させても、何度試しても、それを充填させることはできなかった。
 時間があれば、脳を出し抜くこともできたかもしれない。
 しかしもう、人生は煮詰まっていた。
 左拳を握り締める。沸騰した思考を混ぜ繰り返す。
 この架空の拳を満たすには、普通のやり方をしていては無理だ。この一撃を放つには、もう一度だけ、生きるか死ぬかのギャンブルをする必要がある。
 なぜならそれは、上手くいくかどうかなんて、誰にも分からないのだから。
 当たれば再起、
 外せば。
 鋼は笑った。
 思えば、
 こんなことばかりしてきた気がする。
 涼虎は言った。

 脳を、
 脳を『ノック』する……

 左拳をピクシスに固める。
 恐怖はない。
 全ては、自分が本物かどうかを決定づける試金石。
 偽物なんかに用はなく、餓(かつ)えて欲するは、答えのみ。
 果たしてどっちが強いのか。
 その答えを探すため――

 鋼は、呼吸を石ころ一つ分だけ吸い込むと、
 自分の左拳を己が脳鉢に叩き込んだ。
 一発で、脳震盪を起こした。

       

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