ボクシングにラッキーパンチは存在しない。
あるとすれば、それはボクサーが積み重ねた練習の賜物。
それはパンチに限った話ではなく、ガードにも宿るのだ。
黄金の黒は、確かに天城燎のアイスに突き刺さった。
――積み重ねられた、三枚の拳越しに。
燎のW2B1全ての拳が、黒鉄鋼の拳を遮った。全ての拳を突き破った黄金の黒は、しかしそれでも燎の氷殻を砕けなかった。白裂化したアイスは撓壊しながらも、その外殻を守り抜き、根っこを撃ち上げられて弾き返された。粉々になりかけた白銀の視界の中で燎は思った。
読み切っていたわけじゃない。
ただ、脳(からだ)が自然と動いた。
二度と再現できないだろう、瞬間的な強ガード。
いずれにせよ、耐え切った。
全ての拳を失いながらも、勝負を続行させることが燎にはできた。
何を喰らったのか、どんなパンチだったのか少しも分からなかった。あまりにもそれは速すぎた。スピードの向こう側を捉えられる視神経は正常な感覚の中には存在せず、そして燎はどこまでもリアリストだった。現実主義者でなければ自暴自棄になどなりはしない。戦争に派手な勝ち方など必要ない。相手の必殺を耐え切って、自分の殺戮を押し当てる。
それが全てだ。
これで終わりだ。
健全な右腕を振って、白裂化を吹き払った。視界が蘇る。燎は笑った。牙のような犬歯を剥き出しにして、血走った眼を皿のように広げ、瞳孔が異様に輝いていた。
だが、その眼は何も捉えなかった。
いなかった。
黒鉄鋼が、どこにもいなかった。
脊髄に冷たい恐怖が充填され、理解の羽虫が怖気を震う。
太陽があれば、影が見えたかもしれない。
黒い雲海を背負った、その男の影が。
燎は地の空を見上げた。そして全てを理解した。風を死なせた男が空中にいる理由など『己の拳にしがみついた』以外になかったし、すでに落下体勢に入ったその男に対してこの位置から自分にできることが何もないことも一瞬で分かった。
そして、その神がかった相対関係もすぐに理解できた。
燎の眼光が、右斜め上へ飛ぶ。
そこには、歯牙にもかけられなかった囮のグローブが熱風を喰らって漂っていた。
欲しい場所に、欲しいものがあった。
○
黄金の黒を撃った瞬間、ガードされ、悪魔じみた過集中によって維持されていた氷結の腕殻が粉々に砕け散った。中身の電漿も絶縁された世界に飲み込まれて脆くも消えた。鋼は痛恨のボディブローを喰らったように顔面の筋肉を痙攣させて苦痛に耐えたが、それでも眼光だけは死んでいなかった。それが、ゆるりと回転しながら飛び去っていこうとする、糸の切れた風船のような黒をぎっしりと捉えていた。
自分が自分じゃなくなるのは、もうたくさんだった。
左腕の脇を締め、顎を引き、腰を入れながらジャブを撃った。木葉さえも封じ込めるその左ジャブが、力なく開かれた死骸のような黒を掴んで一瞬で戻ってきた。黒の拳がぴくりと動いて息を吹き返す。そうさ、と思う。俺はまだ死んでない。
生きてる限り、闘い続ける。
黒の拳が左手首を掴み返した。そのまま力任せに振り抜かれて、鋼の身体は幼児の我侭に付き合わされた人形のように空中へ飛んだ。世界が逆転する。弾き返された燎の氷殻が頭上に見えた。背景は燃え盛る地の底。やるべきことはたったの一つ。
そして腹を決めた鋼の首を、囮として撒かれていたはずの手袋を裏切って充填された燎の黒が急襲した。その小さな残像が二人の虹彩に反射していた。普通の人間には回避することのできない角度から撃たれたスクリューブローだった。ライフルの弾丸のように回転した黒い拳がゆっくりと、鋼の頭蓋へと接近していった。風圧で鋼の左テンプルに血も出ないような深い裂傷が開いた。
それだけだった。
スクリューブローは耳が痛くなるような風切音と鋭い痛みだけを小さく残して、鋼の後方へと消えていった。鋼は傾けていた首を元に戻した。
ヘッドスリップ。
どこにでもいる天才には出来ない、基本的な、それでいてボクシングの本質を突いた技術。
パンチをヘッドから逸らすこと。
あとはボディを鍛えれば、そのボクサーは理論的には誰にも負けない。
絶対に。
視線の先に、敵がいる。
眼が合った。
何度目だろう。
憎しみも悲しみも感じなかった。
純粋な戦争なんてそんなもの……だが、やれば一つだけ分かることがある。
どっちが勝つのか。
これだけは絶対に答えが出る。
飽くなき好奇心を持つものだけが、それを手にする。
もし美雷が燎に言いえた助言があるとすれば、不可能と理解しながら、こういうしかなかっただろう。
あの男に一秒を与えるな。
ボクシングにおける一秒は、
遅い。
ゆえに、だから、
もう誰にも止められない。
砕けるほどに組み合わせた拳を握り締める。
右と左の合わせ技――
このあまりにも長く続き過ぎた勝負の解答を、黒鉄鋼は、
満身創痍の全てを込めて、
クスリまみれの夢で出来たアイスに向かって、叩きつけた。
鏡の割れる音がして。
自壊する惑星と同じに、それは悲しく憐れな壊れ方をした。
剥片が瞬き、そこにはもう誰もいない。
煌めく音と舞い踊る光の中で、鋼は薄く眼を閉じ、無人の氷の核をすり抜けて、ブーツの底をすり減らしながらアスファルトの舗道の上に着地した。そのまま慣性を身体の中から流し抜き、よろめきながら左手で地面を突いた。叩きつけた左が痺れた痛みに震え、衝撃で破裂した鮮血の黒の名残が指先から滴った。うなだれたその背中に無数の氷の破片(アイスピース)が、妖精の祝福か拍手のようにぶつかった。ぱらぱらと。ぱらぱらと。ぱらぱらと――それは、
勝利の雨だった。