Neetel Inside ニートノベル
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 核戦争が終わったのに生き残ってしまった時のように、何も考えられなかった。
 よれよれの白衣を引っ掛けた肩が鷹を乗せたように傾ぎ、いまにも笑い出しそうな膝に支えられて、美雷はモニターを見上げていた。無人の都市の火勢は衰え、雨上がりのような白い光と静けさだけがそこには映っていた。
 震えていた掌が、小さな拳を握る。
 パンドラの箱の底を見た気持ちだった。
 なんて綺麗なんだろう、と美雷は思った。あんなやり方があるなんて、想像すらもしていなかった。――己の左拳を頭蓋に叩きつけ、その衝撃で力技も力技にブラックボックスを再解放し、アイスピースだけではこじ開けられなかった最後の壁を撃ち壊した。科学的な理論に裏づけされてもいなければ、再現性もおそらくない、あの瞬間にしか存在しない奇跡の異能。氷晶が幻想の右腕を構築し、その内側に電漿の神経と筋肉と骨格が充填された。アイスとエレキの誤作動によって。誰が見ても間違ったやり方で。
 そして取り戻された右から撃った、最強無敵のスマッシュ・アッパー。
 不調の黒。
 その正体は、右腕を失ったことによる左脳の地図の再配置などではなかった。
 ただ、あるべき位置にそれがなかったことによる違和感が、雨が降ろうと雪が舞おうとサンドバッグを殴り続けた男にしか発現しない拳のクオリアが、最後まで正しいものを要求していただけのこと。
 そしてどんなブラックボクサーだろうとそうであるように、脳から近ければ近いほど、架空の拳の威力は増す。
 それを二連撃も喰らえば、突き崩されない物質など存在しない。
 たとえそれが、最高級の天然素材であろうとも。
 美雷はようやく、誰かが白衣の裾を引っ張っていることに気がついた。
 振り返る。
 転送座から鮮血の航路を蛇のように引きずりながら、燎がすぐそばまで這って来ていた。
「びっ……らひっ……」
 美雷はかけていた眼鏡を透かすように眼を細めて、燎の容態を診た。
 眼球がてんでばらばらの方角を向いていた。鼻糞混じりの鼻血が栓の壊れたように流れ出し、冷たい床を真っ赤に濡らしている。何か喋ろうとするたびに口蓋の中の吐瀉物を咀嚼してしまっていた。
 見る影もない。
 だが、誰だっていつかはこうなるのだ。
 いつかは。
 数秒前まで燎だった何かが呻いた。
「だずっ……げてっ……おでっ……いっだい……どうなっ……で……」
 いったいどうなって?
 そんなこと考えるまでもない。美雷は思った。アイスキネシスのクラッシュアウトで同調共鳴していた脳神経組織が過剰なサイコキネシスのバックドラフトに襲われて壊滅したのだ。大脳も小脳も左右まとめて崩落し、大寒波を浴びた針葉樹林のように脳の冬が訪れた。
 あとはもう死ぬだけだ。
 もちろん、今すぐ集中治療室に送り込めば生命だけは助かるかもしれない。循環器系を司る脳部位も焼灼されたからたぶん死ぬが、美雷が物凄く頑張れば植物人間くらいには出来るかもしれない。そしてあと二十七年間くらい彼のためだけに研究を積み重ねればわずかな意識を回復させてやることも出来るかもしれない。だが美雷には、そこまで自分が努力してやるほどの価値が生きるとかいう悪い夢にあるとはとても思えなかったし、それは今後も変わらないだろう。
 美雷はなんの感情も交えず、自分が踏み潰して真っ二つになった虫けらが動かなくなるのを見守る子供のように、死んでいく燎を見続けた。やがて動かなくなったそれが断末魔に吐き飛ばした鮮血でべったりと穢れた白衣を摘むと、彼女は言った。
「洗濯しなきゃ」
 それが全てだった。
 氷坂美雷から天城燎へと贈った、別れですらない何かは。
 赤黒く染まった手を白衣で拭うと、もう固まってしまったモニターをなおも美雷は見上げ続けた。
 百年も、そうしていたような気がする。
 それから美雷は、ようやく何か言いかけ、躊躇い、唇を噛み、息を呑み、また何か言いかけ、――最後にふ、と笑った。
 その左目から熱い涙が滴った。

「やっぱり強いや、チャンピオン」

       

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