Neetel Inside ニートノベル
表紙

黄金の黒
第六部 『Kiss me,BERSERKER』

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 埃っぽい。
 頬を撫で、髪を弄る風を真正面から浴びながら、涼虎は眠そうに目を細めた。眼前に広がる都市は陽炎に揺らめき、白煙の残り香が渦を巻いている。人影はなく、曇天から降り注ぐ光の切れ端が、瓦礫とガラスに反射して、チカチカと瞬いていた。涼虎が一歩踏み出すと、靴がガラスを踏んでパキリと軽い音が鳴った。墓石の群れのように点在するコンクリートの柱に手をかけてみると、突き出たボルトに何か衣類が引っかかっていることに気づいた。
 それは破れた手袋だった。
 涼虎はズタズタになったそれを手に取り、手で洗うように揉みくしゃにした。絹のような手触りのそれをいくら確かめても、それを扱っていた人間がいまどこにいるのか、分かりなどしなかった。
 涼虎は黒手袋を白衣のポケットに仕舞いこむと、旅行者のようにふらりと歩き出した。埃っぽい風がまた吹いて、くしゅんと小さくくしゃみをする。
 実験は終わった。
 黒鉄鋼とブレイン・ルイのリンクは切断されたまま、回復しなかった。都市をモニターする各ブレインたちのテレスクリーン能力は黒鉄鋼が最後に放った一撃から放たれた強烈な脳波によって壊滅し、どこにいるかも分からなくなったボクサーを回収するために、誰かが都市そのものへと救援に向かわなければならなかった。
 涼虎は迷わなかった。
 何か言いかける殊村のことも無視して、転送座からルイに命じて都市へとシフトした。
 不思議な気分だった。
 今までは、画面の中にしかなかった世界だった。都市で行われるどれほど残虐な結果をもたらす実験も、結局は涼虎の身に直接害を及ぼすわけではない。どれほど手持ちのボクサーたちに待ち受けている運命に苦悩しても、闘うのは涼虎ではなかった。ピースメイカーは、リングには上がらない。
 それが今、ここにいる――……
 自分が現実から追い詰め落した何人ものボクサーたちが、生命を亡くした戦場に。
 瓦礫だらけの悪路を進みながら、柱や壁に添える手が、震えていた。たとえ明日には小さな傷さえない完璧な都市が復元されるとしても、そこで血が流れた事実は、決して消えない。誰かの記憶の中で、死の残り香として、在り続ける。
 誰かがかつて、死は無意味だと言ったが、それなら涼虎はその無意味さを否定するためだけに、いなくなった人たちのことを覚えていようと思う。
 正義や倫理に取りすがり、許しを乞うためではなく、ただ純粋な真実と信念のために。
「……黒鉄さん」
 罪滅ぼしは、決してやめずにいるから。
「……生きていてくれますか?」
 返事はない。都市の静けさが、涼虎の声をかき消した。
 挫けそうになる気持ちを押し殺して、涼虎は探し続けた。
 父親に似た男を。

 ○

 まだ、小さかった頃の話。
「パパ、お絵かきしよーよ」
 涼虎がそういうと、いつも父は返事をしなかった。雑然とした、机にも床にも壁にも黒く汚されたメモ書きが積み重なった部屋の隅で、父は痩せた身体を白衣に包んで机に押し込み、熱病を患った鷹のような目で研究資料を見つめていた。思い出すのは、そんな姿ばかりだ。
「パパ、ねえったら、ねえ」
 涼虎がいくら袖を引っ張っても、父は顔を軽くしかめるだけで、何も言わない。時折、その口から零れる音は、彼にしか理解できない異邦の言葉でしかない。服を掴んでも、背中に飛び乗っても、髭を抜いても、父はほんのわずかな気まぐれ以外では、自分の娘に興味を持つことはなかった。
 涼虎はいつも、お気に入りのスケッチブックと七色のクレヨンが詰まったケースを小さな胸に抱えながら、父に話しかけ続けた。
 一緒にお絵かきがしたかった。
 なんでもいい、動物の絵でも、乗り物の絵でも、二人の絵でも……ただ一緒に何かがしたかった。よく分からない言葉と数字の羅列じゃない、自分を見て欲しかった。
「パパ……」
 最後にはいつも、涼虎は泣き出してしまう。嫌われたくないから、我慢しようと思うのに、そう思えば思うほど涙が意地悪をして溢れてしまうのだ。ひっく、ひっくとしゃくりあげるにいたって、ようやく父は、涼虎をほんの少しだけ見る。困ったような、泣き出しそうな、そんな顔で。涼虎は、父親を悲しませたくなんてなかった。悲しませたくなんてないのに、どうしても父は振り向いてくれなくて、泣いてしまう。
「遊んでよ、パパ……」
 父は何度か、そんな涼虎の言葉に振り返ろうとした。まるで本心はそうしたいのに、椅子が身体に噛みついていて、そこから離れられないかのように身じろぎをした。そして激しく顔を歪めると、結局は、またペンを握って何かを書き出してしまう。涼虎なんて最初から、その部屋にはいなかったみたいに。
 涼虎は最後の抵抗で、それがパパを苦しめると知りながら、ついに大声で泣き喚き出す。小さな身体のエンジンが続く限りに涙を流して、悲しみを伝える。そんな紙切れなんか捨ててしまって、わたしを見て。パパ。
 わたしを一番、大事にして――……

 けれど。
 心のどこかでは、分かっていたのだ。
 この紙切れに書かれた全部が、パパと同じもので出来ていて、これを捨ててしまえば、パパはパパじゃなくなってしまう。大好きなパパが、ほんの少しだけ時々、優しくなるパパがいなくなってしまう。そんなのは嫌だった。
 たとえ自分のことを見てくれなくても、涼虎はパパが好きだった。


 そして。
 涼虎は、黒鉄鋼を見つけた。

 ○


 巨神が折った剣のように、尖ったビルの破片が瓦礫の丘の上に突き立っていた。鋼鉄色のそれに、一人の男が背中を預けて、立っている。緑がかった黒髪、空っぽの右袖、青色のアンダーシャツ、都市迷彩がかった野戦服。腹部には弾痕のような傷が開いていて、そこを凝結した赤黒い血液が塗り固めていた。砂漠の岩棚のようになってしまった肌は乾燥し亀裂が入り、赤く細い裂け目が出来ていた。
 彼の肉体の中で、その瞳だけが、王者の金色に染まって燦然と輝いている。
 だが、瓦礫の群れの中から見上げる涼虎の目にはすぐに分かった。
 黒鉄鋼が失明していることが。
 過剰に発火したブラックボックスが、視神経を焼き尽くしたのか、それとも一時的にフラッシュアウトしているだけなのかは分からないが、いまの黒鉄鋼の両目が何も映していないことは確かだった。
 涼虎が目の前にいるのに、鋼は虚ろな視線を虚空に投げているだけなのだから。
「…………」
 涼虎は、触れたら砂細工のように粉々に砕け散ってしまいそうな、鋼の顔に手を伸ばした。血を拭ってあげようと思ったのだ。そして頬の産毛に触れそうになった瞬間、鋼の顔がピクリと動いた。
 とん、と。
 鋼は、涼虎の胸を左手で突き飛ばした。
「え?」
「う……」
 焦点の定まらない黄金の瞳が、獲物を探すように彷徨った。そして激しく咳き込んだかと思うと、片方だけ残った左手を剣のように突き出したまま、一歩、二歩、と歩き始めた。いまにも倒れそうだった。右足は折れているらしく奇妙な方向に捩れ、左足だけで身体を引きずって歩いていた。その曇った瞳だけが、真剣で、視線が涼虎の頬と耳の間を貫いていた。
「……黒鉄さん?」
 鋼は答える代わりに血を吐いた。だが、その誇り高い戦士の顔つきは、その程度では揺るがなかった。涼虎は気づいた。
 鋼はまだ闘っているのだ、と。
 実験が終わったことに気がついていない。それとも、忘れてしまったのか。彼はただ、接近してきた気配に敵対しているだけ。満身創痍の身体で、不明瞭な言葉で何かを呟きながら、鋼は進み続ける。鋼が一歩を踏み出すたびに、涼虎は一歩、後ろに下がった。
「………………」
「……黒鉄さん」
 涼虎は、両手をかざした。小さな宝物でも掲げるように。
 そしてその両手の中に、歩き続ける鋼の顔が収まった。伸ばした左手が、涼虎の肩に触れて、逸れた。涼虎は、背筋を冷たい快感が駆け上るのを、どこか遠い気持ちで感じていた。罪悪感も憐憫も抱かなかった。
 ただ、鋼の顔を両手で挟んで、その視線が自分のそれと重なるようにした。
 吐息が、漏れる。
「……なんて」
 綺麗な瞳だった。
 いつか見た、あの真剣さ。
 最初から、涼虎のことなんて気にもかけずに、何か別の物に注がれ続けた、狂おしく強い視線。
 それが今、
 自分に、自分だけに。
 注がれている――……

 瞳が潤む。
 言葉が溢れる。

「あなたが、わたしのものだったら良かったのに」

 そして涼虎は、目を瞑る。















                 FIN









       

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