白い空間の中に、鋼はいる。
四方三〇〇メートルの立方体。壁面と床にはチェス盤のようなマス目が張り巡らされ、天井は開閉機構があるが、いまは閉じている。鋼の左手に提げられたビニール袋にはチョコレートのようなブラックボックス・ノッカーがぎっしりと詰まっている。ベルトに袋を引っ掛け、左手で一欠片つまみ、口に放り込んで噛み砕く。
ぱキッ
氷殻が割れて、溶液が溢れ出し、舌の上にぴりぴりとした電気の味が広がる。その味は、昔ふざけて舐めたブラウン管テレビの画面の味。涼虎に飲まされた時は舌が爛れそうな苦さしか感じなかったが、いまではもうだいぶ慣れてきていた。
鋼は左手で、左右の腰に吊っているリング状のグローブホルダーから手袋をひとつずつ引き千切った。左は白、右は黒。甲にはそれぞれ白には赤、黒には金の英数字で「1」と記されている。
それを宙に放った。
ふわり、とそのまま木の葉のように落ちていくかに思われた手袋がなんの支えもなく制止する。
はめ手のいないエナメル質の手袋が、蠢く。まるで透明人間が鋼から手袋を受け取ってはめて見せたかのような念力(ハンドキネシス)。
鋼はそれに驚きもせず、なにもない空間を向いている。その瞳に、眼前をパリパリと覆っていく氷の殻が映り込む。
鋼の周囲半径一・八メートルに氷の球が張った。その透明な表面にはささくれ立った細かな霜がまとわりついている。だがその強度は見かけは似ている砂糖菓子とは一つも二つもデキが違う。
球状の障壁は重なるように二層連なっている。本番では三層らしいが、旧型のノッカーでは二つまでしか障壁を張れない。なんらかの事態を受け、一層が砕かれた時点でテストは終了、鋼は涼虎から赤点をもらうことになる。
氷殻の中で、鋼はゴキゴキと首を鳴らした。
――クロガネくん、準備いい? いいなら星、出しちゃうけど。
アタマの中に直接、少女の声が響き渡ってくる。この精神感応能力者(テレパシスト)の正体を鋼はまだ知らされていないが、もう七度もアドバイザーとしてテストに付き合ってもらっている。そのおかげで、もうすっかり無線(テレパシー)にも慣れたし警戒心も融けていた。
――ああ、いいよルイちゃん、やってくれ。
――はいな。
空間の隅、開いた四方のハッチから長距離砲台がせり上がって来て、てんでばらばらの方向を照準する。見た目は鉄製の長筒に過ぎないし、構造はピンボールの親戚のようなものだったが、内部に積み込まれたスプリングに人体が巻き込まれればミンチを通り越して霧になる代物だ。そこから撃ち出されるものと激突するだけでも人間の身体なんぞはバラバラに吹っ飛ぶだろう。
――注意事項、言えってリョーコちゃんがうるさいからもう一回言うね。噴射(スプレイ)の残量に気をつけること。エレキは絶対一回までしか使わないこと。極力キスショットはしないこと。アイスが割れたらすぐに離脱すること。ハンドの射程は一八〇メートル、星に引っかけて引きずり込まれないようにね。
鋼は頷きもしない。もう七度は聞いている。いまさら言われるまでもない。
アタマの中の声が静まると、無音があたりを包んだ。緊張のせいで、障壁がかすかに唸る音も聞こえない。
どムッ
粘っこい音を立てて、四方の大砲が詰め込まれていた中身を猛烈な勢いで吐き出した。その正体は特別製のゴム・ボール。計算され尽くした角度で放たれたそのボール群、通称『星』は空間の広さをまったく感じさせない速度で鋼へと激突する軌道に乗っている。このまま動かなければ鋼は星に吹っ飛ばされ、衝撃の入力具合ではその一撃で障壁を一枚割ることになるだろう。
もちろん、そんなことにはならない。
鋼は軽く腰をたわめると、左方上段から突っ込んでくる星を睨んだ。睨んだまま、鋼の背中のあたりの障壁から、燐粉のような光の粒子が瞬き始めた。
――来るよ!
光の粒子が、青い炎へと変わる。鋼はスプレイで一気に加速、青い炎のジェットで星の一発を綺麗にかわした。獲物を失った星が白い床を一瞬噛んで、ゆるいL字を描いてまた別の壁めがけて吹っ飛んでいった。
鋼は背面飛行気味にその光景を見送っていたが、ふと首を捻ると回避不能の位置と軌道と速度で星がまた一発迫って来ていることに気づいた。かわせない。鋼は目を瞑る。
ぶつかる――
が、
激突寸前、鋼の左右からミサイルのように白(ひだり)と黒(みぎ)が待ってましたと発射され、星をそれぞれのやり方で弾き飛ばした。白は見慣れた角度でフックを入れ、黒は芯こそ外していたが寒気のするショートアッパーを叩き込んだ。
ギャるるっ
弾き飛ばされた星が空間の隅に引っかかった。星を撃ち出した大砲はすでにハッチの下で眠っている。行き場のないエネルギーが空転の度に失われ、とうとうひとつの星が完全に沈黙、コロリと転がった。
これで一点、である。
四つの星を完全に停止させるか、破裂させること。それがこのテストの趣旨である。それを完遂するまでこのテストは終わらない。
鋼は床を離れて空中へとスプレイした。天井へ足を向けて逆さになり、地面から跳ね返ってくる三つの星を見上げる。苦手科目の空中戦だが、恥をかいた第一回目のテスト以降、ベッドの中でいろいろ考えていたのは伊達じゃないところを見せてやろう。
まるでそれそのものに意思があるかのように、星は何度跳ね返っても鋼の障壁と接触する軌道で飛んでくる。そのことごとくを、イメージトレーニングで鍛えに鍛えたスプレイさばきで鋼はかわしていく。その作業はまさに、神経を『使う』もの。
失速から復速、からかうように鋼は星と交錯し、すれ違い、翻弄する。ギリギリでかわせない軌道にあったものは白と黒で弾き飛ばした。そのうちにまたひとつ、四方の隅で終わりのない空転へと放り込んでやり、二点目を獲得した。
――いいよ、クロガネくん、その調子! 次はもう少し旋回を細かくしてみよっか。
了解。
――あ、それとね、スプレイで加速する時にグローブの精密動作、鈍ってるよ。気をつけて。
バレていた。言葉遣いや性格はどこぞのボールペン女(!)とは天と地ほどの違いがあるが、手持ちの選手の癖や傾向を見抜く力もなかなかどうして立派なものだ。実験中の『ブレイン』として、アタマの中で話しかけてくるようになったこの少女らしい人物と鋼はまだ会ったことはないが、きっと美少女に違いない。
そんなのん気に構えていたのが間違いだった。
――危ない!
衝撃。
鋼を包む氷殻はそのまま押し出され壁面に激突、そのままコンマ数秒意識を失ったまま空中を彷徨った。はっと瞳に再び光が灯った時にはもう星が目の前まで迫っていた。射程距離に引っかかった白と黒が本体である鋼に引きずられて吹っ飛んでくる。
やられた。
どうやら飽き性の自分は七回も同じ訓練を積んでいつの間にか嫌気が差していたらしい。使えば使えたものを意味もなく温存しておいたのがそのいい証拠だ。
鋼はがりっと唇を噛んだ。舌に触れる血の味で意識を戦闘に釘付けにし、白(ひだり)を自分と星の間に挟んだ。
その掌に陽光のような輝きが生まれる。
その光球を、撃った。
掌から放たれた輝く球と星が衝突し爆発、炎上。黒煙が上がり、視界が煙る。
火炎放射能力(パイロキネシス)。
これも脳のブラックボックス領域から引きずり出された力のひとつ。白(ひだり)から火球を放つが、威力はそれほど高くない。
「――――……」
鋼はスプレイで軌道を変えた。
案の定だ。
星は黒煙を突破して、煤まみれになりながらも突っ込んできた。もう一つの星も鋼を弾く軌道に乗っている。鋼は白をかざし、連続して細かく三方向に火球を放つ。黒(みぎ)はガードとして自分を取り巻く衛星軌道に乗せておく。スプレイで加速。
――クロガネくん、パイロ、もう少し頑張ろっか。
ルイの言葉を脳で聞き取り、なんだかちょっと情けない気持ちになる。
涼虎や殊村が言うには、熟練すればノッカーのパイロでも星を割ることはできるらしいが、いまの自分では煤をつける程度が精一杯だ。もっともパイロキネシスとスプレイダッシュは後天的な習熟が比較的に簡単で、発現した時にほぼその素養が割れるエレキや障壁に比べればまだ希望があるそうだが。そういえば、ジムメイトで後輩の楠春馬は基礎練の中でもフットワークが大の苦手で、よくリングの上で足をもつれさせてはスッ転んでいた。鋼はよくそれをからかいつつも、ロードワーク中にわざとちょっかいをかけたりして後輩の足腰を慮ってやったものだ。そんなあいつが自分の跡を継ぐように全日本新人王になったのは、もうどれぐらい前のことだったろう……西の新人王をKOで下したあいつの足腰は、あの時にはもう、紛れもなく本物だった。
いまは、昔のことを思い返している時じゃない。
鋼はアタマを振って懐かしさを追い払った。春馬だっていつまでもガキじゃない、俺のことなぞ忘れてもう自分自身の道を見つけているはずだ。見つけていなければならないのだ。
鋼は煤けた星の群れを見やる。パイロが効かない以上、鋼には勝利条件が限られている。これまでの二つのように角に叩き込んで空転させるか、あるいは、『右』を使うか。だが、黒は発現してから今までずっと調子が悪いままだ。狙った方向へはまず飛んでいかない。まるであの、いつまで経っても慣れなかった義手のようだ。金属とバネで出来た偽物の骨格を鋼の中の『何か』が拒んでいる――そんな気がしてならない。
だが、この空中のど真ん中でもっとも希望を持てるのは黒の拳に宿った電磁攻撃能力(エレキキネシス)しかない。不調の黒もエレキのトリガーが引けることだけが救いだ。
鋼には不思議でしょうがなかったが、ブラックボクサーが使えるサイコキネシス――物に触れずに力を伝える超能力――の対象は白と黒の手袋にしか発動できない。他の対象には発動しなかったり、してもいつぞやの恐るべきボールペンのように破裂してしまうことがほとんどだった。そのことについて涼虎はこんなことを言っていた。
――我々が研究している脳のブラックボックス領域、『b2野』は言語野と深いかかわりがあるようなのです。ブラックボックスというのは『入力』と『出力』の間の相互関係が不明な事象へつけられる形容ですが、それでもブラックボックスが『出力』している時に脳のどの部分が発火しているのかは機材を用いれば簡単にわかります。そしてブラックボクサーが能力を使っている時に発火しているのは、言語野のすぐそばなのです。
――言語と手先を使った身振りの関係について、黒鉄さん、あなたはいま何も理解していない顔をしていますからあんまり長くは言いませんが、あなたでも喋っている時に手先を動かすことくらいあるでしょう。あれは無意味な行動ではなく、意味のあることなのです。それはわかりやすく伝えようという意思の表れかもしれないし、あるいは言語そのものの起源が他者の『模倣』から始まっていることもひとつの原因かもしれません。その二つには繋がりがあり、身振りを行っている時に脳が発火するのは、運動野ではなく言語野なのです。あなた風に言えば、『拳で語る』ですか。あれもまんざら笑えた言葉じゃないということです。
――なぜブラックボクサーが手袋にしか完全なサイコキネシスを発動できないのか、私にもまだわかりません。私が語ったこれらのことが関係しているかもしれないし、そうじゃないかもしれない。そこはまだ研究途上どころか観測途上の問題なんです。
――それから黒鉄さん、食堂でスプーンを無駄にねじ切るのはやめてください。スタッフの方から苦情がありました。ええ、もう問題はありません。破壊されたスプーンの弁償代金はまだ未払いのあなたのお給料から支払いましたので。
おかげで鋼は購買部でエロ本も買えない日々を送っている。
今後なにが起ころうとも勝って生き延びなければエロ本だって買えないままなのだ。それは物凄く困る。
ので。
鋼は今度こそ狙い済まし、飽きもせずに突撃してくる星に向かって、黒を撃発(トリガー)した。
脳の中の神経が冷たく燃えて唸り出す――
ばヂヂヂヂヂッ……
黒が青白い光の棘に包まれた。ささくれ立った拳がイオンの焼けるにおいを残して、そして、
消えた。
目玉をくりぬかれた生き馬のような発狂的軌道、獲物との距離を瞬間に殺害した拳が、星をかすめて飛び抜け、真白の内壁に激突し耳を劈く音を立てて電撃の火花を散らした。ズタズタになった黒のきれっぱしが落ちていく。鋼は舌打ち。
外した。
これなのだ。
どうやってもまっすぐに飛んでくれない。
普段もひどいがエレキを引いた時はもっとひどい。いまはかろうじて掠めたから格好だけはついたが、ほとんどの場合がむしろ獲物から逃げているのではないかと思える軌道を黒は取る。こちらへ向かって飛んでこないだけよくやっていると褒めてやりたいほど、デキの悪い右だった。
――クロガネくん、気にしないで。落ち着いてね。エレキは一発、わかってるよね。
無駄口を叩かずにブレインのルイが静かな口調で言う。心なしか緊張が聞いて取れる。それもそのはず、なぜこうまでルイたちが『エレキは一発』に拘るのかと言えば、それが鋼の生命そのものに直結しているからだ。
アイスピースを飲み、ブラックボックスを『ノック』した場合、奇妙な符号がひとつある。スプレイやパイロ、アイスは残量が個別にある。スプレイを使い切ったからといってパイロまでガス欠ということにはならない――脳の特性として一つの能力を『切』れば他の能力に余った力が補填されることはある――が、エレキだけはひとつのサイキック能力と使用残度が直接に連結している。
それは『シフトキネシス』、つまり『瞬間移動』だ。
シフトはスプレイの噴射よりも確実な回避だ。コンマゼロゼロ秒も必要なく瞬間的にその空域を離脱できる。ノッカーにおけるテレポートの距離などたかがしれているがそれでもこの空間三つ分くらいの飛距離はある。それはつまり星に鋼が殺されかかった時の最後の命綱がシフト能力であり、エレキの残度ということになる。その残度は『ノッカー』では二発。
ゆえに、エレキ使用限界が二発ということは、シフトも二回までということ。一度のテストで二度エレキを使えばもうシフトは使えない。
この時点でもはや、鋼の勝利はないに等しい。
これまで偶然四発とも角に叩きこめた第三回と第五回のテストを除いて、すべてこのままジリ貧になりスプレイ切れか、障壁を一枚割られての離脱で終わってきた。気にすることはない、とルイも殊村も言う。あの涼虎だってそう言う。だが、それでは駄目なのだと鋼だけが思っている。
それでは何も変えられないのだと、鋼だけが信じている。
ぐしゃっ
祟り目に弱り目。捻りこみのパンチを当てて軌道を変えようとした白が逆に弾き飛ばされて破裂した。黒はいくらでも補給が効くが、白は補給することができない。最初にマウントしていたものだけでやるしかない、だから白と黒をひとつずつしかマウントできないノッカーでは一度やられれば白はそれまでなのだ。
鋼は目を細めた。腰のグローブホルダーから黒の2番を千切って放る。
――クロガネくん?
黒をマウント。星は上手い具合に安い軌道でこっちへ向かってきてくれる。時間はたっぷりありそうだ。
――クロガネくん!
俺は、リングに上がりにきたのだ。
モルモットになるためでも、エクササイズのためでもない。
勝ち負けのやり取りをしに、こんな場所まで流れて来たのだ。
今度は外さない。
鋼は、黒を撃発(トリガー)した。
ばヂィッと寒気のする音と目を焼く光の尾を引いて、黒が吹っ飛んでいく。鋼は全神経を使いに使った。一瞬でも気を抜けば黒はどこへとも知れない負け方へ吹っ飛んでいくだろう。そうはさせない。俺はいつまでもこんなところでグズグズしている暇はないんだ。俺の右を名乗るなら、俺の右らしい一発を見せてみろ。
黒は、やはり、まっすぐには飛んでくれなかった。
だが、少々ジグザグながらも中心線は確かに星を捉えていた。
いい一撃だった。
粉々になった星の欠片が降って来る。鋼はそれを眩しそうに見上げた。
その背中に、最後に残った星が迫る。
鋼は振り向いた。
脳の中でルイの声がこだまする。
――クロガネくん、クロガネくん! もう無茶はしないで、すぐスプレイで上がってきて!! 今ハッチ開けるから!!
それは困る。途中終了じゃ戦績に残らない。星を捕獲するための粘液が噴射されるまであと二秒とかからないだろう。
その前にカタをつける。
黒はボンクラ、白はない。
となると最後の手段だ。
鋼は息を吸うと残った一つの星に頭から突撃した。
ガマン比べだ。
――ちょっ、クロガネくん駄目だって、避けて!
避けない。
星と真正面から衝突(キスショット)。
氷殻が二枚とも砕ければ無事では済まない。
だからこそ、やる価値がある。
衝撃。
目の前でダメージを受けた氷殻が極彩色に輝き、異物の侵攻に震え慄きながらも抗う。その向こうで、飢えた速度の『死』が唸りを上げている。その『死』は少し気を抜けば、喜び勇んで鋼をバラバラにするだろう。後腐れもなく鋼をただの無残な肉片にしてくれるだろう。この向こうにあるのはただのゴムボールだが、いまこの瞬間だけは、そんじょそこらのゴムボールとはワケが違った、鋼を殺すかもしれないゴムボールだ。
氷殻に亀裂が走った。
欠けた精神の欠片が剥がれて落ちる。まぶたの裏に光の亀裂が走って喉の奥から血の味がする。衝撃に反応した氷殻が悲鳴のような極光を垂れ流して目を開けていることも難しい。
鋼は思う。
難しいことは、わからない。きっと教えてもらっても、そうだろう。
ただいつも、鋼の前には自分に『できること』があって、そこから目を逸らせば数え切れないくらいの自分には『できないこと』が待ち受けている。
鋼にできることは、少ない。
だから、できることからだけは逃げたくない――
鋼は、吼えた。
みちみちみちみち
嫌な音がして、星が思い出したようにパァンと破裂する。
後にはただ、なにもかもが嘘だったように白い空間だけが残って、力を使い果たした鋼がゆっくりと落ちていく。目を閉じる。
勝った。