黄金外電 『奇跡の妨害者』



 その鷲鼻の男を、シンは「大佐」と呼んでいた。本当に大佐だったのかどうかはわからない。そもそも自分の所属している組織が軍の秘密部隊なのか、それとも潤沢な資金源をバックにつけたテロリスト集団なのか、シンには知らされることはなかったし、興味もなかった。ただやるべきことがそこにはあり、シンは淡々とそれをこなしていた。だから信頼され、こうして執務室に呼ばれ、革張りのソファに腰を下ろしている。暖炉では炎が赤々と燃え盛り、なにかの紙切れが燃やされていた。
「おまえを呼んだのは、重要な任務を与えるためだ。わかっているな、シン?」
 鷲鼻の男は猛禽類の熱っぽい視線をシンに注いだ。シンはそれを、どこか茫洋とした、掴みどころのない表情で受け止めた。年齢は二十代半ばに見えるが、真相は誰にもわからない。東洋人のようだが、大陸系にしては目元が柔らかい印象がある。話しかけやすく、頼られがちな雰囲気は、ファイターにしては珍しかった。
「命じられれば、やるだけです。俺にはここ以外、行く場所がないですから」
「そのとおりだ」大佐は満足げに頷いたが、その目は一瞬も油断せず、自分の望みから逸脱した行為を相手がした時、すぐに動けるように柔軟な殺意が充満していた。だがそれも、シンの前ではいつもより薄まっている気がしないでもない。
「おまえは我々の同士、家族なんだからな。そして家族の一員である以上、おまえには役目がある。それを果たせない者は、ここにいる理由がないし、それを破ろうとするのは、家族全員への冒涜だ。許されることはない。裏切りに時効はないからな」
「そう、裏切りは許されない。……だから、俺が呼ばれたわけですか」
 大佐はニヤリと笑って、頬に皺を刻んだ。そして磨き上げられた机に、封筒から数枚の書類と写真を取り出して占うように散らばらせる。
 シンは自分の膝に当たって止まった一枚の写真を見つめた。そして気のない素振りで写真を集めてはめくっていく。
「フィフティ、アーヴィン、オレグ、テオ、ユーリ、セルゲイ、エギル、スヴェン……見知った顔が多いですね。第6研究部隊ですか?」
「そうだ。我々の貴重な実験に粉骨砕身し、己の血を献じてくれていた同胞たちだ」
「殺されたんですか」
「皆殺しだ」
 シンは写真を机に置いて、大佐を見た。
「誰に?」
 大佐は一葉の写真を指差した。そこには黒髪の、どこか臆病そうな垂れ目をした少年が写っている。唇が切れているのは彼の曖昧な態度に業を煮やした誰かの鉄拳が入ったからだろう。
「フィフティ……“中途半端”のフィフティですか?」
「ああ」
「……いや、まさか」シンは首を振る。
「フィフティにエギルたちが倒せたとは思えない。あいつはステージ2もギリギリだったはずです。それに理由がないはずだ。あいつはよくからかわれたり殴られたりしてましたが、それでも部隊を仲間だと思っていた」
「仲間だと思っていたんだろうよ。私怨で殺したんじゃないだろうからな」
「じゃあ、いったい何が?」
「正義感――、だと思うよ」
 シンは虚を突かれて言葉が出なかった。そして大佐が出してきた最後の写真を何も考えずに受け取った。赤毛の、12,3歳の少女が悲しげにシンを見つめてくる。
「任務は簡単だった。ある村――もうこの国の地図には当然、載っていないが――そこに住む少女の身柄を確保し、指定された実験施設まで護送すること。それが第6部隊に与えられた命令だった。ブレインへ転送されてきた報告は任務開始から2日後まで問題なく届けられている。隊長のエギルはターゲット以外を殺してもいいかと聞いてきた。私はブレインを介して、『それも君たちの通常任務の一つだ』と答えた。エギルは笑って、『これから確保する』と答えた。それが最後だ」
「その少女は何者なんです?」
「適合者だ」大佐は引き締まった肉体の上で指を組み合わせた。友人の娘の顔でも思い出すように視線を逸らし、
「この少女が熱を出し、市街の病院に運ばれた。軽い感染症だったから抗生物質で病気は完治したが、もちろんそこには我々の同志がいて、彼女の血液を採取した。結果、良性。それも完璧な適合者だ。……ドランカーになる可能性もない」
「つまり、無限に戦えるというわけですか」
「我々の夢だな。人類の希望だ」大佐は含み笑いをし、
「かつて日本の研究施設で、たったひとりだけアイスピースを投与されておきながら、脳を破壊されなかった被験体がいたが、試験戦闘で死亡した。それ以来、この世界中で脳の中のブラックボックスを揺さぶられて生き残った人間はいない。……もちろん、君たちもじきに死ぬ。ステージの進行具合によって、早いか遅いかの違いがあるだけだ」
「心得ています」シンは無表情だった。
「で、フィフティのやつは、仲間の残り少ない生命を犠牲にしてまで、……その少女を逃がそうとした?」
「あいつが思っているほど、手荒に解剖する予定はなかったんだがな」皮肉そうに大佐は言う。
「我々が到着した時、すでにエギルたちは全滅していた。村人も殺されていたが、それをエギルがやったのかフィフティの巻き添えを喰らったのかはわからん。確実なのは、その少女――シヴとか言ったか――彼女と、フィフティの死体だけが見つからなかった」
「誰かべつの人間に殺されたか拉致された可能性は?」
「エギルたちを殺せるのはブラックボクサーだけだ。そしてここは我々の管轄地域だ。誰も侵入できない。もちろん、まだ見ぬ謎のボクサーがすでに我々の懐へ潜り込んでいる可能性がないわけではないが――わかりやすいだろう? フィフティが情に絆されて、いたいけな少女と逃げたというシナリオは」
「ええ。正直なところ、俺もそれで納得できます。あいつとは1年近く、同じ部隊にいましたから。……あいつがエギルたちを皆殺しにできた、というところだけが解せませんが」
「まさか自信がないとは言わんだろうな? シンよ」からかうように大佐が言う。
「後輩だぞ、おまえの」
「年功序列は戦士の嘘です。ま、やりましょう。殺せるようなら倒しますし、負けるようなら代理人を用意しておいてください。……少女の方は?」
「殺せ。貴重なサンプルだが、もしフィフティと逃げたのであればアイスピースを渡されている可能性がある。エギルたちの装備からは全部抜き取られていたからな。……『魔法の5分間』を超えて戦えるブラックボクサーは危険すぎる。もしフィフティに訓練でもされていたら、おまえでも危うい。確実に抹殺してほしい」
「……わかりました。でも、期待しないで欲しいですね。俺を買いかぶると損しますよ」
「いまのところ、言い値で買わせてもらってるがな、『死なない男』?」
 大佐は笑った。しかしクロスで拭ったように笑顔は消えて鉄皮が戻る。
「すでにフィフティが逃亡してから30時間が経過している。すぐに追跡してくれ。装備隊に必要なものは用意させてある」
「ずいぶん時間がかかりましたね、俺を呼ぶのに」
「もしかしたら二度と出てこないかもしれない奇跡の原石を殺すんだからな、危険性と魅力の天秤がどちらに傾かなければならないのか、上層部を説得するのに時間がかかったよ。……ま、アマギリョウがいたんだから、第二第三のシヴがいてもおかしくない。気長に待つさ。人生は長いから」
 シンは気の利いたジョークを聞いたフリをして、顔で笑って出ていった。

 ○

 装備隊の格納庫はいつも閑散としている。シンは物珍しげに戦車や大砲を眺めていたが、やがてシャッターの前でバイクを整備しているイリーナを見つけた。黒い色素を鬼に抜かれたような白髪を腰まで垂らした女は、黒の作業着でリヤタイヤのアクスルナットをレンチで締め込んでいた。ぼんやりと近づいてきたシンに気づいて、チラリと青い目を向けてくる。
「また出撃なんて、人気者ね、シン」
「大佐は俺を信じすぎなんだ。惚れてるのかもしれない」
「その可能性は大いにあるわね」
「やめてくれ、悪寒で風邪を引く」
「あんたが言い出したんでしょ」
 イリーナは最後の調整でリヤタイヤを蹴っ飛ばし、白髪を翻してシンに向き合った。
「フィフティが女の子と逃げたんだってね」
「誰かに聞いたのか? 極秘じゃないのか」
「ふふん、やっぱりそうなんだ。結果は隠蔽されてたけど、任務内容はあたしらにも知らされてたからね。ターゲットが美少女だっていうから、もしかしてそうなんじゃないかなって。ふうん、あのフィフティがねぇ」
「……女の勘ってやつか?」
「あんたがバカ正直なのよ」
 イリーナはレンチを足元の工具箱に放り投げた。
「整備は終わってる。チェーンも巻き直したからずぶずぶの雪踏まなきゃどこまでも走れるよ。……どこまでもってことはないか。ま、のろまのフィフティぐらいなら捕まえられるでしょうよ」
「給油はどうすればいい」
「マップにスタンドの位置をマークしてある。一応、携行缶も積んでおくけど追跡が長引けば足りなくなるから最後のとっておきにしておいて。はい、これアイスピースのバッグ」
 シンはそれを受け取り、中身を確認した。どろりとした血のような液体が内包された氷製のケースに入った薬剤が、6×2セット差し込まれている。シンはチラっとイリーナを見た。
「これだけか?」
「短期間にそれ以上、飲んだら死んじゃうよ」イリーナはアハハと笑った。
「もし足りなくなっても、どうせフィフティが隠し持ってるでしょ。それを奪って戦いなさい」
「至近距離でやりあえればいいがな。ヒット&アウェイで逃げ回られたら後手の俺が死ぬ」
「じゃあ、これでも使えば?」とイリーナがハンドガンを一丁、シンの胸に押しつけてきた。
「……アイスを張ってる時に銃なんか使えない。跳弾して自分に当たるだろ」
「そこをなんとかするのがあんたの仕事でしょ。大丈夫、あんたが死ぬところなんて見たことないから。……それにしても」
 そしてイリーナは、広々とした格納庫を見やった。どこかで安定器の悪くなった蛍光灯がチカチカと瞬いている。
「……フィフティか。いいやつだったけどね」
「よく話してたのか?」
「べつに。でも、一回だけお菓子もらったかな。手作りなんだって。結構おいしかった。あれで案外、手先が器用なんだよね。生き方は不器用なくせに」
「ああ、そうだったな……俺も一度、へたくそな似顔絵を描いてもらった。そういうやつだ。あいつのこと、憎めなかったよ、俺は」
 イリーナはシンを見た。
「でも、……これから殺しに行くんでしょ?」
「任務、だからな」
 そしてふと、なんの気もなくシンはイリーナに尋ねた。
「なあ、殺さない方がいいか?」
 イリーナはなんの感情も浮かべずに、シンを見つめた。
「あいつが殺したエギルとは何度かデートしたことある。いいやつだったよ、手も握ってくれたしね。フィフティと同じくらい、……いいやつだった」
 イリーナは指先でくるくるとバイクのキーを回した後、それをふわりとシンに投げた。そのまま背中を向けて、「じゃね、処刑屋さん」と歩き去っていく。シンは仲間の整備兵を見送り、シャッターの開閉ボタンを押した。ガラガラとシャッターが引き上げられていく。ポールに吊られたリングホルダー、そしてそこに束ねられた白と黒の手袋をシンは掴むと、腰のベルトに装着する。右に黒、左に白。一枚ずつ千切って両手に嵌める。870ccの氷原走行用カスタムチェーンバイクのメッシュシートにまたがり、防寒ヘルムをかぶり、最後に一度だけ、自分の家も同然の兵舎と、監視階のスモークガラスの向こうでひらひらと手を振るイリーナを見た後、ギアをローに入れて発進した。
 殺戮の旅だった。

 ○

 もしも芸術家が『砂漠』という題で絵を描くとしたら、なだらかな丘陵や、掴めばさらさらと指からこぼれ落ちてしまう儚い砂質の砂漠を描くだろう。きっとごつごつした荒れ地のような、無骨で創造性に欠ける風景にはしないはずだ。
 シンが疾走する氷原もまた、そういう荒れ地を凍結地帯にしたような、窮屈で見通しの悪い場所だった。殴るように氷を噛み込み摩擦力を得ているチェーンタイヤがガリガリガリと耳障りな音を立てる。気にせずシンはアクセルを回した。時折、停車してはロードマップを眺め、何かしるしをつけている。気ままな旅行者のように。
 大佐から渡された情報によると、第6部隊が現地へ乗り込む際に使ったクルマは消えていたらしい。ということは、フィフティはそれに少女を乗せて逃走したということだ。もしかするとフィフティだけが乗り込み少女の囮になったか、もしくは少女だけを乗せてフィフティはそこで善意の救出劇を自分の手で幕引きし、生命惜しさにどこまでも単独逃避行に打って出ている可能性もある。が、シンはおそらく二人は一緒に逃げたと見ていた。小細工できるような精神で、エギルたちを皆殺しにできるほどのガッツは創り出せないはずだった。
 あいつは本気なのだ、とシンは思う。あのはにかみ屋で恥ずかしがりの、惚れた女にお菓子を作ってあげられる優しさを持った少年は、本気で少女と逃げ出したのだ。仲間を皆殺しにして、振り返りもせずまっすぐに。そして自分は、その逃避行を終わらせるために疾走する死神だ。
 ふとシンは思う。俺はなぜ、こんな組織に入ったのだろう。こんな、人間の脳をいじくり回して奇跡を創り出すような狂った世界にどうして飛び込んでしまったのか。後悔するほど未練がましい思い出なんてありもしないが、しかし、こうして裏切者の顔見知りを殺して回る処刑人になると知っていたら、自分はこんな世界を選んだだろうか。
 おそらく、
 選んだだろう。
 シンにはほかに行く場所がなかった。目指すべきものもなかった。すべて足の向く先は行き止まりで、そのいつもいつでもどんなところにも自分の眼前に立ちはだかる壁を、シンは壊したかった。愛も夢も、他人だった。
『世界を捻じ曲げてみたいですか?』
 路地裏でギャングに殴り殺されかけていた少年に、あの女は言った。一度使ってしまえば、もう二度と帰れなくなるけれど、と。シンはその差し伸べられた手を、その指先に乗せられた魔法の弾丸(マジックブリット)を選んだ。帰る場所など、最初からなかったから。
 きっと、フィフティも同じだったのだろう。
 俺たちは同類だ。だが、どちらかは必ず死ぬ。ともすれば、両方。
 いつもずっと、そうだ。

 ――追跡には痕跡が必要だ。
 シンはマップを頭のなかで反芻する。エギルたちが襲った村から北上し続けているが、景色は変わらない。まばらに人が住んでいるのかどうかも怪しいあばら家や、寒冷地特有の針葉樹林帯が過ぎ去っては消えていく。
 逃避行には目的地が必要だ。あの村から逃げるなら、必ず西にある空港を目指すはずだった。もちろんそこには大佐が配置したブラックボクサーが最低でも三名は構えているだろう。だが、エギルたちを倒したフィフティならその防衛線を突破して小型飛行機くらいは奪取できるかもしれない。
 だが、おそらく激戦になる。
 少女を庇いながらフィフティが多数のブラックボクサーを撃破できるかどうか。――もしくは、完全適合者の少女を訓練し、戦闘させるか。あのフィフティがそんな過激なことを考えるとは思えないが、むしろシヴの方が事情を説明された場合、『闘う』と言い出す可能性もある。あくまでシンの想像に過ぎないが、そんな気の強い少女をフィフティが保護したとしたら、おそらくやつは言い負かされて流されるだろう。小さな拳を振り上げ自分はやれると力説するシヴと、ハンドルを握りながら困った表情でうろたえるフィフティを想像して、シンはヘルメットの奥で微笑んでしまった。
 俺は何をやっているんだろう。
 これから皆殺しにするというのに。
 いずれにせよ、フィフティたちは空港か、あるいはこの氷雪地帯のどこかに雲隠れするか、どちらかしかない。ブラックボクサーはスプレイダッシュによる圧縮空気の幻影によって飛翔すら可能だが、5分間では海まで逃げても別大陸へ渡ることはできない――
 そこまで思考してから、シンは「あ」と呟いた。素直で無垢な驚きだった。誰も考えなかったのだろうか。大佐から注意喚起されていてもよさそうなものだ。そう、フィフティにはどうあがいても、仮にステージ9までブラックボックスが進行していたとしても、間違いなく海は超えられない。が、
 シヴなら?
 完全適合者の少女なら、二人でどこまでも飛んで逃げられる。
 完璧な逃避行だ。
 シンはマップの位置を見直して、給油を考えながら、最終目的地を『海』にした。
 もし空港へ正面突破を挑んだならば、彼らの末路を祈るつもりだった。
 しくじったとしても、大佐の手駒が無能だったというだけで、道に迷っただけのシンが責められる筋合いは、ない。

 ○

 一日、超えた。
 シンはあばら家で眠った。祖国を捨ててから寒さに以前よりも強くなった。大都市の裏側はヒートアイランドの恩恵で、孤児やゴキブリたちの楽園だった。それに比べると、この最果ての北国は氷漬けにされているようなものだ。見渡す限りのアイス、アイス、アイス。
 出発してからここまで、痕跡らしいものは見当たらなかった。タイヤ痕ぐらいあってもよさそうだが、強く吹きすさぶ風と白夜の日差しで砕けやすくなっている氷はあっという間に騙し絵となって追跡者を翻弄する。シンですら、永遠にこの氷の世界でさまよい続けてしまいそうな気になってきた。ナビゲーターとしてブレインをセコンドにつけてもらえればよかったが、シンは何度かブレインを思念の逆流で焼き殺してしまっている。おかげで無期限の使用禁止命令が発せられ、今でもそれは解除されていない。何にでも相性はある。
 少しずつ焦り始める自分を自覚して、なぜ焦るのか、自分が何を求めているのかを考えながら疾走していると、ふいに視界の隅を何か黒いものが素通りしていった。とても小さい。時速150km近い速度で走っていたバイクを急制動して振り返ってももう、何も見えなかった。
 どこまでも続く氷。
 だが、何かを見た確信があった。
 バイクの鼻っ柱をターンさせ、低速で周囲を観察しながら戻る。何かを見た。そしてやはり、それは氷原に落ちていた。そばに停車し、エンジンを切ればかからなくなる恐れがあるためアイドリングさせたまま、シンはそれを拾った。布切れのようだった。広げてみる。
「…………」
 男物の靴下だった。色は黒。裏返してみると、爪先に穴が空いていた。銃痕か、とシンは注意深く観察してみたが、ただ解れて穴になっただけのようだった。なんの変哲もない靴下。それが落ちていたのが、氷漬けの追跡路でなければ、だが。
「……なにやってんだ、あいつら」
 もしかすると、近隣に住む誰かがなんの意味もなく捨てたのかもしれない。だが、シンにはこれがあの二人の捨てていったもののような気がした。ほかになにか落ちていないか探してみたが、その靴下しかなかった。
 13歳だろ、まさかな、と呟きながらシンはバイクのシートにまたがる。そしてアイドリングして震え続けるバイクの上で、深々とため息をついた。
 なんとなくわかった。
 シンもイリーナに部屋が汚いとかだらしない格好でうろつくなとか叱られた覚えがある。女というのはなぜか男の世話を焼きたがり、忠告ばかりしたがるものだ。無駄なものならなんでも捨てられてしまうはずだ。だが、代わりにフィフティは何を履いたのだろう。手袋だろうか。
 ――なにやってんだか。
 脱力したままマップを見直し、近くにスタンドがあることに気づく。給油に立ち寄ることにした。
 氷原の、ガソリンスタンド。
 客などいるわけもない。道路すらないのだ。だが、それは確かに地図上のマークと一致する地点に存在した。大都会でなら見慣れたレギュラー・ハイオク・軽油の価格表示灯も、氷の国では悪い夢に思える。舗装されたスタンドの路面にバイクを乗り上げさせ、キー・オフ。シンはガソリンタンクのキャップを外した。まだ残量はいくらか残っている。給油装置に近づくと、現金を要求された。釈然としない気分で満タンを選択し、ノズルからタンクへハイオクを注ぎ込む。慣れた行為だが、いつも場違いさを覚えてしまう。
 なんとなく周囲を見渡すと、店員の待機所に電気がついていた。
 いつもは組織の用意したこのガソリンスタンド群は、協力者が隠れていたとしても堂々と電気をつけていたりはしない。人影が動くのを見て、シンは待機所へ歩いて行く。
 左手がバッグのケースの中に指先を押し込む。アイスの感触。
 リィ――――――ン……
 ドアベルを鳴らしながら、シンは店内へ入った。想像していたのは、休憩用のボックス席で向かい合って座って何か話しながら、侵入してきたシンに驚愕と絶望の表情を浮かべるフィフティとシヴ――だが、そこにいたのは、
「げえっぷ」
「…………」
 赤ら顔の男だった。
 ボックス席に座り込み、酒のボトルを抱えている。ラッパ飲みしているようだ。シンは警戒を解かないまま、男に近づいた。
「あんたは?」
「酔っぱらいだよ」男はくすくす笑った。
「この先の村に住んでる。誰だか知らないがこんなところにガソリンスタンド建てて、何がしたいんだかね。おもしろいことに、たまに給油に寄るクルマがあるしさ。世の中、不思議なことでいっぱいだ」
「あんたの村はここのスタンドの所有者から金をもらってるはずだ。近づくな、口外するな。――そう忠告されなかったか?」
「兄さん、いいかい。一つ覚えておきな。……約束、ってなァ破るためにあるんだ。特に女房に死なれて、もう何もかもどうでもよくなってる男にとってはな」
 ひっく、とまた一つ酒くさいゲップを吐きながら、男は自棄気味にボトルを煽る。ぐびぐびと喉仏が動き、度数の強い酒が男の臓腑へ染み込んでいく。身体に悪いからよせ――そう言いかけて、シンは自嘲気味に笑ってやめた。どの口が言うのだろう?
 シンは誰かが隠れていないか確認した後、男に言った。
「おっさん、誰か――というより、走っていくクルマを見なかったか?」
「たまに見る」
「ここ数日、いや昨日か今日は?」
「見たよ。たぶん軍用のジープだった」
「誰が乗っているか、見たか?」
「若い、子供だったな。15,6ってところか」男は酔っているにしてはハキハキと答えた。もう心から酔えなくなってしまったのかもしれない。酒ごときでは。
「給油して、そのまますぐに出ていった。入ってくるかと思ったがね。まァ、ここにはサンドイッチもコーラもないしな……料金表に載ってるだけで。ま、裏の冷蔵庫漁れば酒ぐらいはあるんだがな。誰が補充してるんだか……あとクソまずい、ありゃなんていうんだ、レーション? あとたまにワインみたいなやつが氷に入れられた小せぇ菓子があるが、あれはなんなんだろうなァ……」
「ああ、なんなんだろうな、それは」
 大佐が聞いたらこの男を殺すだろうが、シンにはそこまでする義理はなかった。もう用はない。フィフティはこの補給スタンドで食料や追加のアイスピースを手に入れなかった。網が張られていると思ったのかもしれないが、ブラックボクサーの絶対数は少ない。すべてのスタンドに伏兵を忍ばせるのは無理だし、いても一人いるかどうか。それなら殺して物資を補給しようとしただろう。それをしなかった。フィフティたちはやはり海を渡るつもりなのだ。南半球へと。物資などいらないのだ。
 二人が渡海する前に始末をつけなければならない。イリーナの昏い横顔と、死んだエギルの嘲笑が脳裏をよぎる。
 ドアベルを鳴らして出ていこうとしたシンに、酔っぱらいの男が「ありがとうよ、楽しい時間を!」とボトルを掲げてみせた。シンは肩をすくめてみせたが、男はさらに言った。


「なァ、兄さん。あんたも“楽園”へ行くのかい?」


 シンは足を止めた。無表情に、特に興味もなさそうに、振り返る。だが、握ったドアノブを少しも押し開けようとしなかった。
「楽園?」
「ああ、そうさ。楽園。とてもいいところ。もう何も考えなくていい理想郷だ」
 案外、この男は学者か何かだったのかもしれない、とシンは思い始めた。尋ねる。
「そこには何があるんだ? どこにある?」
「楽園はな、氷がないんだ。わかるか? この掘っても掘ってもどこまでも、地球の裏側にまで続いているんじゃないかっていう途方もない氷がひとっかけらもないんだ。そこにはあったかい大地があって、植物が咲き、溶けた氷が小さな川になって、そして夜が来ることはない。いつまでもすべてを照らしてくれる太陽……沈むことのない永遠の光……それがそこにいるみんなを守ってくれるんだ。病気からも、戦争からも、……死からも」
 最後、男はすすり泣いていた。しきりに誰か女性の名を呟きながら、口惜しそうにテーブルをどんどんと叩いていた。店内には男だけが取り残されている。
 シンの姿はもう、どこにもなかった。