Neetel Inside ニートノベル
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 いつの間にか、眠っていたらしい。
 鋼はがばりと起き上がった。人殺しのような目つきを左右にゆっくりと振った。
 まだ、新しい自分の部屋に馴染めない。
 借り物くさいベッドから起き上がり、空っぽの袖をたらんと垂らし、左手で両目を押さえた。酒も飲んでいないのに頭痛がした。こういう時はアレに限ると思い、ベッドの下から黒塗りのダンボールを引きずり出した。両足の下にパカっと開かれた天国のおかげで頭痛が吹っ飛ぶ。が、時計を見て思い直した。さすがに朝からはどうかと思った。
 今日は、休養日に当てられている。予定は、ない。
 壁を見る。
 なにか恨みでもあるのかと思うほど白い壁には、真新しい地図が額に入って吊るされていた。島の地図だ。右下に縮尺と共に獅子頭(ししど)島、という走り書きがあった。デュエル・セブンスはこの島の地下にあるのだと殊村は教えてくれたが、本当かどうかはわからない。獅子頭島と言えば太平洋沖にある七瀬群島に含まれる島のひとつの名前だ。国有地らしいとは噂されていたが、まさか超能力者の格闘施設が真下にあるとは誰も考えもしなかっただろう。核弾頭になった気持ちがした。
 核弾頭だろうと爆弾人間だろうと、腹は減る。
 鋼は食堂へ行くために部屋を出た。



 誰もいない。朝なので蛍光灯がついている。夜中は七時に消灯されるが、壁にパネルがあって誰でも点けられる。鋼の病室よりは少し茶色くなった壁には『節電』の貼り紙が貼られていた。ひょっとしたらこのラボのどこかに発電所があって、そこで電力をまかなっているのかもしれない。鋼は想像する。ボクサーパンツ一丁の痩せこけた禿頭の青年が白衣の男たちに引っ立てられ、電気椅子のようなものに座らされ、洗濯ばさみのバケモノのような電極をあちこちに取り付けられ、3,2,1の合図で誘電用の電撃を流されその脳から貴重な生活必需品の電力を搾り取られている様を。その男の顔がどうしても自分と重ならないので、あまり怖い思いつきではなかった。そして節電の張り紙を通り過ぎて三歩も歩くと鋼はそんな妄想は忘れてしまった。
 この研究所では、ほとんど誰ともすれ違わない。
 静かすぎて最近の鋼は少しボケそうになっている。


 食堂はB127にある。鋼の自室はB130だ。エレベーターはあるにはあるが封鎖されていて使えない。自由に歩けるのはその四層だけで、他の階層への立ち入りは隔壁によって禁止されている。
 鋼に許された居住区は、少し学校に似ている。ちょっとした図書館まである。ボクサーに割り当てられた部屋が教室。階段のそばの理科室や音楽室に当たる部屋は研究室になっていて、時々、鋼は身体検査を受けさせられたりする。図書館にある本はすべて洋書で何一つとして読めない。貸出カードはあるくせに、受付のカウンターはいつ行っても無人だった。
 空っぽの袖をぷらぷらと揺らしながら、鋼は油くさい食堂に入っていった。食堂の前にある格技棟からはバスケットボールの弾む音がしている。


 券売機でチャーシューメンの食券を買って、料理場が見えるステンレスのカウンターに券を滑らせた。
「おばちゃん、ラーメン」
 中で手を洗っていた中年のおばさんが、こっちを向いてにかっと笑った。
「はいよ。チャーシューね。また一人?」
「残念ながら」
「涼虎ちゃんはもう誘ってみたかい?」
「そんな勇気あるわけねーだろ。それに……」
 昨日ちょっとモメたんだ、と打ち明けようとして、やめた。話すと自分の心情まで語る羽目になるし、たぶん言ってもわかってはもらえない。
 おばちゃんは感慨深げなため息をついた。
「昔はもう少し大勢いたんだけどねぇ、ここも」
「そうなの?」
「ああ、あんたみたいなボクサーたちで賑わってたもんさ。今じゃもうあんたともう一人ぐらいしかいないけど。研究員たちの子は騒がしいのが嫌いな子ばかりで全然来ないし」
「へえ、もったいねえなあ。ここのメシ美味いのによ」
 おばちゃんはカウンターにどんぶりを置いてまたあのにかり笑いをした。
「ありがと。でも悪いね、全部レトルトかインスタントなんだ、ウチ」
「それでも美味い」
「あんたちょろい男だね」
「ひでえなァ」
 笑って、鋼は適当な席を見つけてトレイを置いた。
 ラーメンからは瞳も曇りそうな湯気が立ち昇っている。
 左手でフォークを掴むと「いただきます」と一瞬だけ瞑目して、麺をかき込み始めた。慣れない左手があたりに汁を撒き散らし始めた。
 ナルトをどうしようかと考え始めた頃だった。
 どん、とラーメンの丼が鋼の目の前に叩きつけるように置かれた。
 鋼はむっと顔を上げた。
 テーブルの向こうに、坊主頭を四ヶ月かそこらほったらかしたような短髪の男が立っていた。ギラギラした目で鋼を睨みつけてくる。体格は、鋼の目を信じればライト級。飛行機乗り風のジャケットを黒のアンダーウェアの上から羽織っていた。鋼にも支給されたものだ。今も着ている。
 男は体重をかけるようにして椅子に座り、ギロリ、と鋼を改めて睨んだ。首や腕や指にはシルバーアクセサリーを巻いていたが、その冷たい輝きが男の目にもそっくりそのまま宿っているような気がした。
 鋼はナルトをもぐもぐやりながら男を見つめ返した。
 因縁をつけられているのは間違いない。
 買う気はなかったが、いい気はしない。
 いったいこいつは誰なのか?
 研究員ではないだろう。
 となると便所の掃除人か。
 もしそうならいつも綺麗にしてくれてありがとうございます、凄く使いやすいですとお礼を言いたかったが、掃除人にまでジャケットを支給したりはしないだろう。となるとやはり答えはひとつだ。おばちゃんの言葉を思い出す。
 自分以外の、もう一人のブラックボクサー。
「…………」
「…………」
 メシが食いにくい。
 どうせなら、食い終わった後に絡んできて欲しかった。が、もうつけられてしまった因縁をグチグチ嘆いていても仕方ない。
 先手を打とう。鋼は覚悟を決めた。


 左手でフォークをしっかり握る。赤ん坊のようなたどたどしい動きに耐えて、鋼はそれを自分の丼の中のチャーシューにブッ刺した。それをぽいっと男の丼に放り込み、おそるおそる向こうの出方を待つ。
 どう見ても相手は困惑している。
 少なくとも鋼は、チャーシューをもらったら嬉しい。
 が、ひょっとすると目の前のこいつはそうじゃないかもしれない。
 そうなら敵だ。気が合わない。
 男の丼の底にチャーシューがぶくぶくと沈んでいく。
 鋼は生唾を飲み込んだ。
 さあ、どっちだ。
 俺は、俺の気分に乗れないやつと一緒にメシは喰えないぜ。
「…………」
 おもむろに、男は、がっと箸を引っつかむと丼ごと喰う勢いで麺をかき込み始めた。無論チャーシューなど一撃で粉砕されて男の胃袋に消えていった。その喰いっぷりに鋼は思わず感嘆の吐息をついた。
 どんっ!
 男は空になった丼をテーブルに叩きつけた。数秒、鋼を親の仇のように睨みつけ、そしてジャケットの裾を翻して食堂を出て行った。鋼はしばらく呆然としていたが、腰を浮かして叫んだ。
「おいっ、丼を片付けてから帰れよ!」
 男は、戻ってこない。
「しょうがねえな……」
 鋼はしぶしぶ相手の丼をカウンターに戻した。と、テーブルに戻り際、床に何か落ちているのを見つけた。拾い上げてみる。定期入れだ。中に一枚だけ磁気カードが入っていた。
 さっきの男の顔写真と、識別番号らしき英数字と、黒いラインの下に少し大きなフォントで氏名が書いてある。鋼は目をすがめて男の名前を読んだ。
「剣崎――ヤス、か」
 のちにわかることだが、八洲(ヤシマ)である。
 負けず嫌いなのは間違いない。

       

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