Neetel Inside ニートノベル
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黄金の黒
黄金外伝 『ICE - Bites - DAYS』

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 被験体が最近、よくスマホをいじっている。何をしてるの、と覗き込もうとするとベッドから転がり落ちて「やめろ!」と抵抗を示してきた。驚きだ。これは統括責任者に報告すべきかもしれない。今の反応は実に人間的だった。彼の成績であれば、とっくに人間としての感情は摩耗していておかしくないというのに。
 しかし、不純なものを見ていると風紀に関わる。取り上げるべきだろうか。だが、被験体Z-577はスマホを胸に抱きしめ、ふーっふーっとアラシを吹いている。猫か。思わず突っ込みつつ、どうしたものかと思案する。
 この個体はまだ若い。年齢でいえば16,7歳というところだろうか。まっとうな世界であれば高校生として通学していたはずだろう。よく見れば利発そうな目、毛並みのいい髪、しかしまだ筋肉の付き切っていない身体はこんな貫頭衣ではなくちゃんとした格好をすれば年上の女の母性本能をくすぐりそうな見た目をしている。思わず撫でようとしてしまい、「やめろ!」とまた威嚇されてしまった。敵意はないのだが、それをどう示せばいいのかわからない。結局、こちらは監視者であり、被験体が逸脱行為をした場合には罰したり報告したりする義務がある。なので一計を案じることにした。わかった、何もしないわよ、と両手を上げて降参した素振りをしてみせ、油断した被験体が胸からスマホを離した角度を上手く立ち位置を使って調整した。よしよし。これで監視カメラに、被検体のスマホの画像が映り込んだというわけだ。そして監視官の女性は、「あまり変な使い方はしちゃダメよ、これは二人だけの秘密にしておくからね」と言い残してその場を去り、雑務を処理して一息ついた二時間後に監視カメラを確認、被験体が異性と出会うためのマッチングアプリを起動していることを発見、そのまま統括責任者に内線電話で通報した。特に慌てもせず。
 考えるのは、私の仕事ではない。上司の仕事だ。






「あたしが許可したのよ」

 二人が腰掛けるベンチの向こうには、外国の写真を集めたカレンダーから抜いてきたような小ざっぱりとした丘があり、その先には鬱蒼と茂った森がある。これで湖でもあれば油彩の題材にでもしたいところだが、あいにくとこのラボの購買には絵の具が売っていない。

「……いいんですか? ネットに繋がっているだけでも危ういというのに。救助でも求められたら厄介ですよ」
「どうやって?」嘲笑うように女は笑った。
「あたしだったら、信じないわね。彼がどんな言葉を紡ごうとも、一切ね」
「はあ……統括がそれでよい、というのでしたら、私も構いませんが」

 監視官の女性は、正直に言って、この統括責任者が嫌いだった。呼びかけた時に、こちらを見る一瞬、彼女の目はまるで敵対している害悪を脳に焼きつけたように鋭く燃え上がる。ゾッとする眼差しだ。まだ20代の前半だろうに、優秀だとは聞いているが、こんな目つきをするようになってしまうとは、研究者としてはともかく女性としてどうなのだろう。彼女の隣で幸福そうに微笑む男性がいるとは思えない。
 監視官は相手の薄い胸元で揺れるカードキーの顔写真を見つめた。
 浅慰連花(あざとい れんか)。
 彼女もかつてラボの一員になったばかりの頃は、微笑むフリくらいはできたらしい。今となってはその面影もないが。

「なによ」嘲笑ばかり上手くなった女が言う。
「言いたいことでもあるの?」
「いえ、べつに……ただ、私は心配なのです。被験体が、その、マッチングアプリ? そんなものをする必要もないと思いますし。結局、彼はここを出られないのですから」
「だからじゃない」

 浅慰連花はあくびをしても美人が崩れなかった。それもまた、凡庸な顔つきをしている監視官にとっては嫌味に思える。

「どうせ叶わない夢なら、いくら見せたって無毒でしょう。それに、かえってああいうやつの方がいいのよ。こっちが用意する甘ったるいおためごかしよりも。相手は素人、本当に出会いを求めている女性なんだから。嘘のない一刀両断であの子を返り討ちにするだけでしょ。まだ子供なんだから、大人の相手は早いわね」
「それはまあ、そうでしょうけれど。でも、万が一マッチングしてしまったりしたらどうします? どうも自分の顔写真も載せちゃってるみたいですし……」
「顔なんてどれも似たようなもんなんだから、流通したって構わないわよ。あんたホストの顔、区別つく?」
「ホストクラブに行ったことがないので、なんとも……」
「人間は増えすぎて、もう顔なんかじゃ他人を識別できないってこと」

 浅慰連花は癖なのか、艷やかな黒髪を指に巻きつけてはほどいている。少なくとも連花に会った男性は、少し唇のふっくらした丸みのある官能的な女性の顔を忘れたりはしないだろう。

「心配いらない。あの子はいまも、あたしたちの檻の中。求められているのは、走ることだけ――ロバの顔の前にぶら下げるのはニンジンって相場が決まってる。しかも、本当に食べられると思えなくっちゃ本気で走らない。あんた、モルモットの飼育官にはなれないわね」
「なる気もないので、構いませんが」
「ふん、つまらない女」

 浅慰連花は立ち上がり、白衣のポケットに片手を突っ込んだ。もう片方の手で、胸元に引っかけていたメガネを顔にかける。冷たい印象がさらに凍てつき、もはや蝋人形のように見える。

「お節介を焼かれなくても、心配御無用。あたしはあんたたちよりモルモットの使い方をよくわかってる。そのためなら、ええ、いくらでも人道的にだってなれるわ。あの子はあたしのお気に入りなの。愛するってのはね、特別扱いするってことなのよ」
「お言葉ですが、私は両親から兄弟と平等に育てられました。けれど、愛されていなかったとは思っていません」
「そう思ってるのは、あんただけよ。普通? 平等? 寝言をほざけて楽しそうね、あんたなんて、愛される価値ないだけよ」

 じゃあね、と手をひらひらさせて、浅慰連花・第17セクター統括責任者は休憩ブースから去っていった。
 あとには深く心を傷つけられた女だけが残された。
 太陽光に照らされて、ガラスに平凡な顔が映っている。
 女には、二つできないことがあった。ひとつは、この魚顔を変えること。
 そしてもうひとつは、このラボを出ていくこと。
 そう、檻の中にいるのはZ-577だけではない。
 自分もまた、囚われているのだ。
 誰にもここを出ることなんてできない――最高責任者であり、上級研究員である浅慰連花を除いては。
 そう、思っていた。




       

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