食堂を出て、行くところに困った。体育館にいっても片腕で出来る一人遊びはそう多くないし、いつもは図書館に行くのだがそれほど本が好きなわけでもない。細かな字を読んでいると頭痛がしてくることも珍しくなかったし、そもそも片腕で文庫本をめくっていると本が傷みそうで悪いと思うのだ。
 ので。
 鋼はいつものようにふらふらっと誰かいないかと期待しながら、殊村の仮眠室に向かった。仮眠室は食堂の奥側にある。
 白衣を着ていてブラックボクサーから逃げないのはボールペン女と殊村真琴の二人しかいない。どちらもすぐそばに気合一発で自分の脳細胞を破壊するかもしれない男を前にして少しも怯まない。もっとも人体を破壊するには体表面を流れている微電流を突破しなければならないわ、ピース抜きでそこまでのサイコキネシスを扱うのは気合一発では栄養ドリンクを何本空けても足りないわで、現実的には不可能だったが研究員たちは世間で思われているよりも迷信深い人種のようだった。そういう意味では涼虎たちはまさに御伽噺の中の研究者そのものだった。数字に生命を預けられる人種だ。
 仮眠室のドアは開けっ放しになっていてドアストッパーが差し込まれ、灯りが部屋の中から漏れている。鋼は光に呼び寄せられる虫のように仮眠室に入った。左拳で一度だけドアをノックする。ゴン。
「おっす」
 学生寮風に二段ベッドが置かれた部屋の奥、デスクに座ってディスプレイを眺めていた殊村が振り返った。蛍光灯の光を反射して偏光グラスがきらりと光る。
「ああ、黒鉄くん。何か用?」
「出会いがしらに何か用、はやめろって。なんか冷たいぞ」
「えー、そうかなあ? 普通の切り返しだと思うけど」
「俺はいやなんだ」
「いきなりやってきて人の口調に文句を言うなんてさすがだね」
 ふふんと笑い、
「まあな」
「まあなじゃないよ。なに、きみ、寂しいの?」
「うん」
 鋼は二段ベッドの下段に腰かけて、キョロキョロし始めた。まるっきり友達の家に遊びに来た子供である。
「なんか話そうぜ。ここはヒマで困るんだ」
 殊村が椅子を無闇にきぃきぃ鳴らして無言の文句を言うが鋼には通じない。
「……普通はピース飲んだら次の日は辛くて動くのも億劫なはずなんだけどね。君はクスリに対する耐性は強いらしい」
「そういえば、昔からハライタのクスリは飲んでも全然効かなかった」
「……えーと、それは、どうなんだろう? 整腸剤とピースはあんまり関係ないんじゃないかな」
「難しいことはわからん」
 鋼はベッドの下をごそごそ漁り始めた。エロ本が無いことはとっくにわかっている。引っ張り出してきたのはダンボールに詰め込まれた殊村の私物のマンガだ。ラインナップはざっと見ただけでも、なかなかいい趣味をしている。
 鋼は腹ばいになってマンガを読み始めた。殊村の口元が釣り針に引っ掛けられた魚のようになっている。呆れているのだろう。
「……今までいろんなブラックボクサーを見てきたけど、君ほど自由なやつはいなかったなあ」
「ふーん。……今まではどんなやつらがいたんだ?」
「十人十色さ」
「なにそれ?」
「いろいろってこと」
「いろいろねえ。女はいなかったのか?」
「いたよ。ピースの効果に男女の性差は関係ない。もっとも女性は出産などにどんな影響が出るか分からないから、あまり投薬したくないけどね」
「それで、そいつはどうなった?」
「もういないよ」
 殊村はディスプレイに向き直ってカタカタとキーボードを叩き始めた。鋼がマンガから目を上げる。鋼はキーボードが打てない。ネットもやらない。
「また仕事か。まじめだねえ」
「君のためにやってるんだよ」
 殊村は優雅にコーヒーカップを手にとって傾けた。殊村は煙草を吸わない。
「俺のため?」
「君、説明をちゃんと聞いてなかっただろ。前にも言ったと思うけど、君の仕事は新しいピースの被験。超能力者になれるクスリを飲んでその効果のほどを大暴れして実証してもらう。でも君にだって体質はあるし、隠れたアレルギーだってあるかもしれない。だからピースにその時その時でいろいろ混ぜてみて君の脳の反応を観察し、できるだけ君が飲みやすいよう微妙に改良しているんだ。精製式っていう、まあ料理のレシピみたいな根幹のフォーマットまでは変えられないけどね」
「へえー」
「わかってないだろ。……要するにさ、君の脳に『これはおいしい? これはまずい?』って聞いてみて、君の脳が『おいしい!』って言ってくれる味付けを調べてるってわけ」
「ああ、それであのMRIとかいうゴンゴンガンガンうるせえ機械に入れられたのか」
 鋼の言っているMRIとは核磁気共鳴画像法のことである。核磁気を共鳴させて、頭蓋骨に穴を開けたりしなくても脳の画像情報を撮影できる優れものだ。鋼はラボに来てすぐに一度撮影されていた。
 だが、鋼は分かっていない。一度脳の画像を撮影しただけで、その後も鋼の脳を情報追跡していくことなどできはしない。それに気づくことなく、鋼はウンウン訳知り顔で頷いている。
「なるほどなあ。でもさ、味付けするならもう少し美味くしてくれよ。炭酸は苦手なんだ」
「本当に味付けなんかしてないし、できないし、そもそも炭酸なんか使ってないよ。ああ、でも、次にお披露目する氷菓は甘いって涼虎ちゃんが言ってたかな。あの人舐めてないのにどうして味がわかるんだろう」
 鋼は笑った。
「あいつもブラックボクサーだったりして……」
「そんなはずない。僕たち研究員は自分で自分に投薬しちゃいけないんだ。もしバレたら殺」
 口を噤み、
「……追放は免れないし、中にはブラックボックスが『ノック』されたら過激反応を起こす物質をすでに飲み込んでる研究員もいるよ。初期メンバーなんかはそのクチ。ウチでいうと涼虎ちゃんとか」
「それって危なくないのか?」
「抗生物質の悪玉バージョンだね」
 よく意味がわからない。
「ピースの中の溶液は外殻が砕けて舌上に広がった瞬間に溶けて消えるから、間違って飲んじゃったら一巻の終わり。ウチの涼虎ちゃんに限ってそんなことはないだろうけど」
 殊村は澄ました笑いを作った。
「ま、僕や涼虎ちゃんがブラックボクサーになる羽目にならないように、君たち現役には頑張って実験資金(ファイトマネー)を稼いでもらわないとね」
 それで思い出した。鋼はパスッとマンガを閉じた。
「ヤスに会った」
「ヤス? ……ああ、ヤシマくんか」
「ヤシマ? ヤシマって読むのかコレ」
 鋼は左手でポケットから食堂で拾った磁気カードを取り出した。殊村がそれを指先で受け取る。
「うん。ケンザキヤシマ。君より半年ほど先輩のブラックボクサーだよ」
「強いのか」
「強かったのかな。成績はそれほど悪くなかった」
 過去形だ。
「今は?」
 殊村は鋼の声が聞こえなかったように、手元の磁気カードを見下ろしている。
「彼、何か言ってた?」
「チャーシューあげたら喰って帰った」
「何やってんの君」
「仲良くやろうぜって言いたかったんだ」鋼はすねた。
「新入りが気に喰わないってのはジムの中でもよく見かけた。でも俺はそういうのキライだ。来るもの拒まず去るもの追わず、それが気持ちのいい関係ってやつじゃないのか」
「うーん。彼の場合は、ちょっと事情が複雑なんだ」
「事情?」
「……ピースはクスリだ。そしてどんなクスリでも絶対に効かないやつがいる。特異体質ってほどでもないけど、それぞれがクスリに対する反応は違う生き物みたいに別々だ」
 殊村は言った。
「彼はね、僕たちが今作っている新薬のテストで不適格だと診断されたんだ。そのピースを飲んだ彼のブラックボックスの反応はノッカーよりも低く、Ω波周波数220Hz以下。クスリが効かないんじゃそのお披露目はできないよね」
 ミラーグラスが鋼の方を向いた。
「だから、君が呼ばれたんだ。彼の代わりに」
「……それじゃあ俺が嫌われるのも無理ないかもなあ」鋼は頬をかいた。
「でもよ、えっと、俺が飲むのは新しいやつなんだろ? だったらヤシマは古いので頑張ってればいいじゃんか」
「ただ闘えばいいってわけじゃないのさ」
 殊村はため息をついた。
「勘違いさせちゃってるのかもしれないけど、いいかい黒鉄くん、ブラックボクシングの主役はボクサーじゃない。ピースなんだ。君たちはいわば新車のテストドライバーみたいなもので、『上』からしたら君たちの素性も努力も知ったことじゃない。もちろんテストドライバーが腕利きなら新車も物凄くいい走りをするだろうし、構造上はよその車の方が上質でも結果として出てくる『数字』はこっちが上ってことになる。評価もね」
 鋼は英語の授業を思い出していた。
「なんで?」
 殊村には鋼がなぜ理解しないのかが分からない。
「……ちょっと最初からおさらいしようか。黒鉄くんのアタマの中で何が起こってるのか僕にもよく分かんないからヤシマくんのことも含めて簡単に説明するね」
 咳払い、
「僕たちはピースを作ってはラボ同士で競わせて、その年の上半期にひとつ、下半期にひとつ、優秀なひとつの銘柄を決める。たとえて言うならタイトルマッチみたいなものさ。上半期はそれまでラボが作ってきた代表的な銘柄の改良系、下半期は一度ゼロから組み立てなおした新しいピースを使った新人戦。ヤシマくんは上半期では総合成績四位、ウチの銘柄に『優』のハンコを押して戻ってきてくれた。でも――涼虎ちゃんはその銘柄を破棄した」
「なんでまた?」
「その精製式をフォーマットにしたピースで引き出せる脳の黒域が限界に達したから。それ以上、改良の余地がないものを後生大事に抱えていても仕方ない。その銘柄『パスポート』は殿堂入り扱いにしてデータを他のラボに公開、その役目を終えた。同時に、ヤシマくんの役目も。ピースは実験期間中はその精製式をラボが独占していていいんだけど、それが済んだら公開してよそのラボでも作れるようにしなきゃいけないんだ。これは、ラボ同士の面子の取り合いじゃなくて国家から要請されている『実験』なんだから勝手はできない。だから、君の言ったような古いので新しいのをやっつけるなんてことは無理。ヤシマくんは、もうウチではスパーリング・パートナーとしてしか扱えない」
「…………」
「で、これから君に飲んでもらうのは下半期用に用意されている新柄だ。ウチは代表銘柄を破棄してしまったから実質、現行で研究されているのがこれひとつしかない。下半期で結果を残してそのまま来年の上半期へエントリーする資格をその銘柄が得られなければ、最悪、たった一度の負けでラボの取り潰しもありうる」
「そんな、おおげさな。こんなでかいラボなのに」
「おおげさじゃない。ウチは弱小なんだ、こう見えても。施設は大きくても人気(ひとけ)のなさでわかるだろ? 一研のラボなんて電車が走ってるらしいよ」
「マジかよ。いらねえだろ竪穴に電車なんて」
 あれ確かにそうだなと思ったが殊村はすぐに思い直した。一から七までのラボはすべて相互不可侵で研究員はお互い立ち入りできない。
「とにかく、そういう事情があるんだ」
 これで話は終わりだと殊村はむんと胸を張ったが、鋼はまだもごもごしている。
「あのさ、またヤシマの話なんだけど、移籍ってのは駄目なのか? ピースを研究してるラボは七つもあるんだろ? だったらさ……」
 殊村は笑った。
「できるよ。でも、一方的な移籍じゃなくて交換って形になる。そして、わざわざこっちが困ってる時に手を差し伸べてくれる敵なんていると思う? ヤシマくんの交換を拒否していれば、七研のブラックボクサーは不足、結局は新人を本土からスカウトしてくるしかなくなる。下半期が始まるまで一月もないっていうのにね」
「…………」
「それに、一度ピースに拒絶反応を出したボクサーは、クセがつくっていうか、変な言い方すると縁起が悪いんだ。新しいピースでエラーを出したってことはその系譜を継いでる後発の作品でもエラーを出しやすい。一度そうなったボクサーをもう二度とリングに上げないなんてのは、よその研究所じゃそれほど珍しいことでもない」
 殊村はため息をついた。
「何か出来ることがあれば、とっくに僕らでやってる。ヤシマくんには悪いけど、どうしようもないんだ。たぶん、彼は僕らが自分のことを切ろうとしているんじゃないかって考えてるんじゃないかな。そりゃ気も立っちゃうよ」
 鋼は黙っている。
「そういうわけだから、ヤシマくんのことはそっとしておいてあげて欲しい。あまり刺激しないようにね」
「わかった」
 鋼はようやく納得したらしく、マンガ本を元に戻して出て行こうとした。殊村が本格的にディスプレイに向き直りかけ、鋼の手がドアノブを握ろうとした時、先にドアが開いた。
 涼虎が入ってきた。
 鋼の身体を擦るようにすれ違う。
「あのさ、枕木、昨日は」
「そのことはもういいです」
 涼虎は切って捨てるように言い放ち、一瞥もくれずに背中を向けた。
「殊村くん、明日のテストの件なんですが、ピースにパイロ用のニトロを混ぜようかと思ってるんです。一度きっかけさえあればもう少し出力の度合いもスムーズになると思うのですが」
「え、ああ、うん、いいんじゃない? ねえ黒鉄くん?」
「俺が知るかよ」
 鋼は出て行こうとした。その背中に、涼虎が言う。
「黒鉄さん」
「なんだよ」
 涼虎は手元のカルテのようなものをめくっていて、その表情は鋼からはよく見えない。わずかに唇が動くのだけが見えた。
「まだ身体が薬に慣れていないはずです。なにもない日は、無理せずに休んでいてください」
「…………」
 鋼は静かに、ドアを閉めた。


 ○


 照明の絞られたモニタールームは青い光の層の中に沈んでいる。そこに響き渡る恐ろしい戦闘音は、天井に備え付けられたスピーカーから漏れ出している。べつに誰がやめろと言ったわけでもないのに誰も大きな声で会話したりしないのは、なんとなくモニタールーム内の空気が映画館のそれと似ているからかもしれない。
 研究員たちはおのおの椅子に座っていたり立って画面を見上げていたりするが、中にはゴザを敷いて仮眠を取っていたり座禅を組んでもう明日のメシにも致死量ギリギリの毒物の扱いにも悩むことのない深みへ旅立っているものもいる。サヴァン症候群スレスレの秀才を集めているとどこでもこうなる。普通のふの字を見ただけでアタマの中に「ふ」から始まる単語が五十も百も溢れ出す連中にまじめになれと言っても「まじめ」という単語に辿り着くまでに五十や百は関係のないくだらないことを思いつくだろう。特異研の中でも七研がイロモノ扱いされているのは、よそからはみ出してきた流浪の天才児たちの受け入れ先でもあるからだ。ラボによっては「七研の馬鹿どもとはクチも利きたくない」とはっきり言って憚らないところもある。


 あるクチの悪いやつは言う。
 ――誰が一番の変わり者かって枕木所長が一番そうなのさ。あの人にゃ誰も彼もがおんなじに見えていて、自分の役に立つか立たないか、それしか見えていないんだ。そうと来ればおれたちなんて、やるこた奇天烈でも結果出せって言われりゃ一研の連中にだって引けは取らねえ馬鹿とハサミの紙一重。ゴザ敷こうがパンツ被ろうが仕事さえ完遂させることができるなら、おれたちなんてあの人にとっちゃそれで充分満足の小道具なのさ。


 だいたいこういうことを言い出すやつは、どうせフタを開けてみれば涼虎と面と向かって喋った日の晩など自分の枕に顔をうずめて大絶叫しているのが常なので、もう誰もそんなことをまじめに聞いたりしはしない。


 だがそれでも、涼虎があの人形じみた表情の向こう側で何を考え、何を目指しているのか、それは研究員たちの誰を逆さにして振ってみたって分からないことであるのも事実だ。そもそも下っ端の研究員たちは氷菓精製の理由すらロクに知らされていない。どいつもこいつも戸籍さえあるのかないのか危うい連中ばかりなので、とにかく喰いっぱぐれないために来る日も来る日もA試験体とB試験体を混ぜては溶かすしかないのだ。そういう意味では研究員たちもブラックボクサーとそれほど立場は変わらない。


 その日も涼虎は、映画館のようなモニタールームの中央で、白衣のポケットに両手を突っ込み、怒っているのか無視しているのか分からないような表情で、液晶画面いっぱいに映し出された戦闘風景を眺めていた。
 そしてそれを、殊村は見ている。


 液晶画面の中では、鋼が白を振って火球を三つ放ち、迫り来る星を三つとも爆破したところだった。幾筋にも引き裂かれた黒煙が鋼の氷殻に沿って後方へと流れていく。鋼の目が右へ左へと動く。
「もう星四つじゃ足りないね。追加で出してもすぐ撃墜されちゃうし、ノッカーで引き出せる脳の黒域は完全に塗り潰したと思っていいんじゃないかな?」
「そうでしょうか」
 涼虎は、不満があるというよりも、どちらとも決めかねているようだった。
「パイロ用にデコレイトしてあるノッカーでの成績ですから、まだ次のステップへ進むのは早計ではないでしょうか。パイロで星を割れるようになったのも突然すぎて、なんだかかえって……」
「不安?」
 にやにや笑う殊村に、涼虎は平然と頷いた。
「ええ。彼に何かあれば、私たちには後がありませんから」
 殊村は肩をすくめた。
「だから、もう一人くらい連れてくればよかったのに」
「言ったでしょう。もう一人の候補者は、私が本土に上がった時にはもう、ファーストにスカウトされた後だったと」
「あっはは、さすが医療の名門・聖杖大学からごっそり引き抜かれてきた超エリートたちだねぇ。やることにそつがないや」
「――私を出し抜いたのは彼らではないと思いますけどね」
 涼虎が言い終えた時、すさまじい爆音が響き渡った。画面を見ると四個の星が燃え落ちていくところだった。まだ錆び切っていない後背筋の浮き出た鋼の背中が、激しく上下している。涼虎は言った。
「ハッチを開けてください」
 研究員の一人がコンソールのキーを叩くと、涼虎の足元が鋭い音を立てて開いた。閉じ込められていた空気まで疲労の気配を孕んでいるような気がした。
 汗だくの鋼が飛び出してきた。
「はあっ……はあっ……」
「お疲れ様です、黒鉄さん」
 涼虎がふわふわのタオルを手渡すと、鋼は頷いて受け取った。喋るのも億劫らしい。
 たまたまそばにいた小太りの研究員の腕をいきなりガシッと掴んだ。え、と戸惑った彼をくるりと回して、その場に跪かせ、「悪ィ」と一言だけくれてやってその背中に座ってしまった。椅子にされた研究員はあまりの手際の良さに物も言えずにいる。
「……黒鉄さん、お疲れのところ申し訳ないのですが、和泉くんの上に座るのはやめてあげてください」
「ぜえっ……ぜえっ……」
 涼虎はため息をついた。
「誰か飲み物を持ってきてあげてください」
「はいはい」
 殊村が俊敏に動いて、簡易キッチンの冷蔵庫からスポーツドリンクのボトルを持ってきた。
「ほら、黒鉄くん。新しい水だよ」
 鋼はそれを左手で奪うように受け取った。
「古くちゃ……ぜえ……困るって……はあ……げほっ」
 渾身の切り返しにもキレがない。鋼はボトルに口をつけると浴びるように飲み始めた。
「――ぷはあっ。生き返った。あんがと」
 一発で空になったボトルを殊村に投げ返しながら、
「倒せる白(ひだり)にはなってきたけどよ、すげー疲れるなこれ。参った。威力が上がってもスタミナが持たねえ」
「そんなことないよ。パイロをあれだけフルに使って三〇分近くノッカーの効果を持続させていられたんだから。充分実戦に耐えられるレベルさ。ねえ涼虎ちゃん?」
「三〇分ではなく、二十七分四十八秒二十四です」
 この女マジか、と殊村は思った。振り返ってそっと窺った鋼の顔はタオルを被っていてよく見えない。もう一度肩越しに振り返って言う。
「ねえ涼虎ちゃん、そんなのもう誤差の範囲だしこの調子でテストしていけば三〇分超えなんて楽勝だよ」
「そうでしょうか。ブラックボックス現象は我々にも完全に把握できている事柄ではありません。楽勝とか、絶対とか、そんなのはありえないんです」
「それはそうだけどさ……」
「平均で言えば、実戦用の氷菓を持続させるにはテスト用のノッカーを最低三〇分、欲をかけば五〇分以上継続して使用できるくらいの耐久力が必要なんです。これでもう充分だなんて言ってる余裕はないんです、全然」
「あのさ、涼虎ちゃん」
「なんです?」
 殊村は、もう涼虎の方を見なかった。
「頑張って戻ってきた人に、そういう言い方はないなって思わない? 僕に言わないで、黒鉄くんに直接言いなよ」
 涼虎は、気がついたら雨が降っていた時のような顔をした。
「私は、ただ――」
 言葉が続かない。
 いつもよりも少しだけ湿った目で、殊村越しに、ぴくりとも動かず座っている鋼の方を見た。殊村もそうした。
 鋼は、何も言わない。その身体が壁にもたれかかって傾く。かぶっていたタオルがずるっと滑って落ちた。


 寝ている。



 ○


「なあ、そんなに怒るなって」
「怒ってません」
「疲れてたんだよ。ゆうべ――いやべつになんもなかったんだけど、ほんとなんもしてないんだけど、今日はなんか朝から体調があんまよくなくって」
「へえ」
「その割には大奮闘してたなって思ってるだろ?」
「思ってません」
「いや思ってる。いいじゃんか頑張ったんだから。見たか? 七分過ぎくらいに後ろから突っ込んできたやつをスプレイでかわして左から回り込んだやつ。あれすげーうまく出来たと思うんだよ。ルイちゃんもすげー褒めてくれたし」
「そう」
「なあ凄かったろ? 頼む! 嘘でもいいから凄いって言って」
「男の人って、そうまでしてあげないと引き下がってくれないんですか?」
 ぐうの音も出ない。


 だが鋼は諦めなかった。殊村は「転校しても友達でいようね」みたいな薄情な表情を浮かべていたが鋼はくじけたりしない。せっかく最近は涼虎とも上手くやれていたのだ、まさかさっきちょっと話し合いの最中に眠りこけたぐらいで気まずい感じになってたまるか。好きだの嫌いだのの前に女子がいたらいい格好がしたい、それが男子たるものの矜持だ。


 もうこの際なんでもいい。放っておくと廊下の曲がり角を巧みに使ってこちらを撒こうとする涼虎を、鋼は左手を広げて通せんぼした。
「いかせんっ!」
「……は?」
「わかった、こうしよう」
 名案を思いついたように廊下の右下を見つめ顎に手を沿え、
「メシを喰おう。俺のおごりで。な?」
「あなたにおごってもらう理由が思い当たりません」
 思い当たってください。もうどうしていいかわからない。
 鋼はテンパってとうとう最終手段のボタンを押した。
「枕木!」
 拳を作っていたら倒せていた速度で左手をぶっ放し、涼虎のもちもちしたほっぺに手を添えた。
 涼虎は、スーファミのソフトを突っ込まれたソニー製品みたいな顔をしている。
「な、な、な……!!」
「前から思ってたんだが顔色が悪いぞ。肉喰え肉。ああでも焼肉屋なんてここないよな? どうしよう。どうしたらいいかな?」
 真っ白になっている涼虎に分かるわけがない。鋼はぷにぷにと涼虎のほっぺを左手で挟みながら喋り続ける。
「食堂にある肉って何があるかな? ハンバーグ? チャーシューメン? もう少し肉っぽいのがいいよなあ。何があるだろ……」
 そこで鋼は空っぽの脳味噌にズガンと天恵を得た。
「……からあげ?」
 涼虎は、びっくりしたように鋼の『背後』を見ている。鋼は、それに気づかない。
「そうだ、からあげだ。からあげがいい。あれ肉っぽいもん。一緒にからあげ喰おうぜ! なあ枕木おまえってレモンかける派かけない派?」
「剣崎くん……」
「剣崎くん?」
 鋼は振り返った。
 廊下の奥、階段の踊り場に恐ろしい顔をした男が立っていた。体格はライト級。飛行機乗り風のジャケット。坊主頭をしばらくほったらかしたような短髪。人工の光を浴びて、あちこちに巻きつけられたシルバーアクセサリーが鈍い輝きを放ち、男の目にも、その銀色が宿っているような気がした。
 霧がかっていたアタマの中が吹き払われたように覚めていく。
「ヤシマ」



 ○



 考えてみよう。
 そいつは不安で不安で仕方なかったはずである。事情はどうあれこのラボにいるということは実社会から爪弾きにされて鉄砲玉になる道を選ばざるを得なかった経緯があるのだろう。家族が病気だ、金がいる。そうかもしれない。親父が死んだ、借金かぶった。それかもしれない。なんにせよ、ブラックボクサーであることを選んだ人間にはここ以外で生きていく道などないのだ。そいつが、ヘマをしたわけでもなく、むしろ今までずっと結果を残してきたそいつが、ある日突然に戦力外通告を受ける。説明されたってわかりっこない。理解できたところで納得ができない。
 なぜ自分が。
 翼をもがれただけならまだいい。翼がなくても頑張れば生きていけるかもしれない。だが自分はどうだろう。毒物を飲んで耐えて闘い続けることで三度のメシを喰ってきた自分が、それなしで果たして誰かに必要とされるだろうか? この世の中というやつは、冗談ひとつろくすっぽ言えないタダ飯喰らいに仮に余っていたとしてもメシを喰わせ続けてくれるのだろうか?
 誰かに必要とされたくても、その方法が分からない。
 スパーリング・パートナー? それだけのために俺に給金を払い続ける? 一度エラーを起こした縁起の悪いこの自分を? それぐらいだったらクスリに強い新人を入れて育てて実戦もスパーもこなせる人材にした方がいいんじゃないか? トレードにも出せない邪魔なカードをいったい誰がいつまで後生大事に隠し持つ? ババ抜きだったらどうだ? 答えはもう決まっているんじゃないか?
 夜も眠れなかったはずである。
 そして妄想をさらに加速させる起爆剤がやってきた。新しいブラックボクサー。見知らぬ男が、見知った空間をウロチョロし始めた。
 あせった。
 そいつに右腕がないことにもだいぶ後になってから気がつく有様だった。ひょっとすると自分が消される原因になるかもしれない、そんなやつが目を覚まして顔を洗って歯を磨いて表へ出ると間抜けヅラを晒してウロウロしているのだ。
 どうにかならない方がどうかしている。
 それでも耐えた。無いアタマを捻って、理屈の鎖で自分をがんじがらめにした。新入りは一人だ。パートナーが必要なはずだ。自分はまだ必要とされている。消されたりしない。スパーリング・パートナーとして生きていけばいいのだ。
 かつては期待を希望を一身に背負ったこのおれが、たかが一人のスパーリング・パートナーとして。
 考えたくないことばかり考えていた。
 それでも、耐えようと思った。
 そんな時だ。
 気に喰わない新入りが、自分を拾ってくれた恩人の枕木涼虎の顔に触れているのを見たのは。
 その時、凍っていく心の中で何を思ったのか。
 本当のところは、剣崎八洲にしか分からない。




「その手を放せ、片端野郎」



 すっ、と。
 涼虎の頬から鋼は手を引いた。振り向く。
「――あ?」
 その顔色は、もはや怒りで青黒い。銀に近い濁った白目が蛍光灯の光を受けてぬらぬらと輝いていた。
 涼虎は声も出ない。
「いまなんて言った」
 きっかり三メートルの距離を開けて、ヤシマも負けてはいない、顔の皮が裂けるのではないかと思えるほど険しく頬を歪めて、言った。
「涼虎に触るなって言ったんだよ、出来損ない」
「どうしてお前に、そんなこと言われなくちゃならない?」
 ヤシマは鼻で笑った。
「元プロボクサーなんだろ? ジムの先輩にゃ敬意を払うのが仁義ってもんだろうが」
「俺は」
 紙やすりですり潰したような声で、鋼は言う。
「強いやつしか尊敬しない」
「言うだけなら安いよな。だいたいそんなナリで誰よりおまえが強いってんだ? 右手がお留守になってるくせによ」
 空気が焼けた。
 蛍光灯が割れた。
「右がお留守で悪かったな」
 鋼の左足がキャンセル不能のモーションに沈む。
「お詫びに、左でお相手してやるぜ」
 あとで分かったことだが、廊下の床には亀裂が入っていたらしい。
 非常用の電灯が点灯するまでの1,6秒をぶち抜いて、塗りたくったような闇の中に鋼の左拳がぶっ放された。ためらいはなかった。容赦もしなかった。殺すつもりでやった。
 何かが壊れる音がした。
 オレンジ色の非常電灯が点く。
 ヤシマは大の字になってぶっ倒れていた。鼻から血を吹いている。白目を向いて、ぴくぴくと痙攣している。ごほっ、と嫌な感じの咳をした。
「剣崎くんっ!」
 涼虎が鋼を跳ね飛ばすようにして前に駆け出た。一気に三つか四つは歳を減らしたように不安と恐怖で引きつった顔をして、倒れたヤシマのそばに跪き、その身体を揺さぶった。それをどこか遠い意識の中で見下ろしながら鋼は思った。どうやらもう、何もかもが終わったらしい。
 どっと壁にもたれかかって、そのまま後ろも見ずにその場から逃げ出そうとした時、涼虎が息を呑む気配を聞いた。振り返る。
 顔面血みどろ。
「おまえ――……医務室、行った方がいいぞ」
「うるぜえ」
 立ち上がったヤシマはごほっと血混じりの咳をした。口の中を切ったらしい。そんなことはどうでもいいとばかりに、ヤシマはちょいちょいと鋼を手招きする。
「どうした、来いよ、それで終わりか。口先だけの片端野郎が」
 鋼の血管が嫌な音を立てて盛り上がりかけたが、なんとかギリギリで抑え込んだ。
「お前分かってんのか。もう一発喰らったら、死ぬぞ、お前」
「来いって言ってんだよ……!」
「や、やめて下さい! 何を考えてるんですか!?」
 涼虎が滅多に出さない大声をあげて、ヤシマの腕に取りすがった。
「どうしてあんなこと言ったんですか!? どうしてこんなっ……」
「どいてろ枕木」
 鋼が左拳を上げた。
「そいつはやめる気がない」
「その拳を下げなさい、黒鉄鋼」
 涼虎の目にその時、宿っていたのは、たぶん、憎悪だと思う。
 黒い瞳の中に揺らめく嫌悪を、鋼はぼんやりと眺めた。
「剣崎くんを殺したりしたら、その時は私があなたを殺します」
 鋼は笑った。
「何がおかしいんですか? これが楽しいんですか? 人を傷つけることが?」
「見てなかったのか。喧嘩売ってきたのは向こうだぜ」
「たかが悪口で……」
「あんたにはたかが悪口かもしれないが、俺にはちょっと勝手が違うんだ」
「どけっ、涼虎、邪魔だ!!」
「ちょっ……剣崎く……あっ」
 ヤシマが腕を振るって涼虎を跳ね飛ばした。
 涼虎は、壁際にしりもちをついて愕然とした。
 これでもう、二人の男の間に立ち塞がるものが何もない。
 誰も二人を止められない。
 けものくさい殺気が蒸気のようにあたりに満ちた。鋼とヤシマはお互いの目を見て逸らさない。瞳孔がお互いを照準したように狭まっていく。ヤシマが両拳を握る。鋼が膝をたわめる。
 ヤシマの膝が震えている。
 ヤシマは絶対、もう退かないだろう。そして、もう、何があっても気絶や失神で決着はつかないはずだ。もし次にヤシマの意識が刈り取られることがあるとしたら、それはヤシマの死を伴う。
 黒鉄鋼の拳は人を殺せる拳だから。
 監視カメラで見ている研究員たちが警備兵を連れてやってくるまでには絶望的な時間が広がっている。涼虎は観念した。もうヤシマのラッキーパンチに期待するしかない。ヤシマが勝って、この喧嘩に終止符を打つ以外にヤシマが生き残る術はない。
 そう。
 ヤシマが勝てば――
 勝負開始の合図になりかねなかったタイミングで、涼虎が叫んだ。

「わかりましたっ!!」

 時間が止まる。
「……わかった?」
「……って、何が?」
 唇をほとんど動かさずに、二人が聞いた。涼虎は立ち上がって、白衣の裾をパンパンと払った。
「そこまで言うなら認めましょう」
 二人の顔が涼虎を向いた。失礼な表情をしている。
 涼虎は、亀裂の入った床を見下ろしたまま言った。
「特別措置です。そこまでお互いどっちが強いのか知りたいというのなら、準備不足は否めませんが、いいでしょう、決着をつけなさい」
 涼虎はおもむろに白衣のポケットからハンカチを取り出すと、それでごしごしと乱暴にヤシマの顔を拭った。激痛を覚えたヤシマは悲鳴を上げて逃げ惑ったが涼虎は容赦しない。無理やり顔面から血を拭き取ると真っ赤に染まったハンカチを仕舞って、反対側のポケットから今度はひとつのアイスピースを取り出した。それを鋼に放る。鋼は当然、左で受け取るしかない。
 これでもう、拳は握れない。
 涼虎は背を向けて、言った。
「それは『ノッカープラス』。ノッカーの力をすべて引き出し、チュートリアルをクリアしたブラックボクサーに与えられる、いわば卒業証書です。おめでとうございます、黒鉄さん。あなたは形はどうあれ長かった準備期間を終え、いま正式にブラックボクサーとしてリングに立つことを認められました」
 鋼は怪訝そうな顔をしている。手元にあるピースの氷殻、そのすぐ内側にカカオ色の溶液を背景にして生クリームで書いたような『Knocker Plus』の文字を見ながら、言う。
「……そりゃどうも。で? どうしてそれを今、渡すんだ」
「そのノッカープラスはスパーリング用のアイスピースだからです。いいですか、あなた方はブラックボクサーです。もう人間であってなかば人間じゃない。脳のブラックボックスをノックされた人体実験の被験者であり被害者。筋肉以外の出力方法を見つけてしまった進化の異端児です。それを心の底の底からわかっているなら」
 振り向く。
「ブラックボクシングで、カタをつけなさい」
 これでいい、と涼虎は思う。今から『リング』の使用申請をしても間に合わないだろうし、そんな資金の余裕もない。星のカタパルトがある例の隔離室を使うことになるだろうが、ノッカープラス程度の火力ならそれで充分だろう。
「ちょっと待てよ」と鋼が言う。
「俺はさっきピースを飲んだばっかで、今日はもう……」
「ノッカープラスはノッカーで使い切った部分よりもさらに奥の脳域から力を引き出せます。ですから今日でもまだ1Rぐらいなら闘えるはずです。その代わり、慣れていないと反動で二、三日はまともに動けなくなるでしょうが、今更そんなことで止まるあなたじゃないでしょう」
 ぐうの音も出させない。鋼は押し黙った。
「剣崎くんも、それでいいですね。鬱憤がたまっていたんでしょう? だったらそれを心ゆくまで晴らしてください。あなた自身がこのラボに必要だということをあなたの力で証明しなさい。でなければ、あなたは私が何を言っても、きっと納得してくれない」
「…………」
 ヤシマは鼻を押さえてウンともスンとも言わない。だが、その目だけはギラギラと光っていた。
 壁にある内線電話を取り上げて、涼虎は隔離室上部を呼び出した。
「もしもし殊村くんですか? 警備兵は引き上げてくださって結構です。ええ、見えていると思いますが私が勝負を預かりました。今からそっちへいって預かった勝負をハッチの下に落とすつもりですので、準備をお願いします。それでは」
 まだ何か喚き続ける電話機を叩きつけるようにフックにかけて、涼虎は無言の男二人を睨んでみせる。
「これでお膳立ては整いました。何か、ご不満でも?」
 あるわけがない。