第三部 『PANKRATION』






 夢とは何か。
 夜に見る夢か。しかしあれは思い通りにならない。あんなものはまがい物もいいところだ。本物の夢はあんなのとは違う。何もかもが思い通りになるのが、夢だ。そして何もかも思い通りになる夢なんてものは叶った瞬間に飽きる冴えない夢だ。
 本当の夢は、何でも叶えることができるのに、それをしないやつが見る夢だ。
 叶わないと誰よりそいつが知っているのに、夢見ざるを得ないもの。絶対に届かないのに、どうしても手を伸ばしてしまうもの。氷のような空を掴むだけなのに。分かっていながら、何度でも手を伸ばす。今度こそ。今度こそと。
 夢とは、繰り返しだ。
 永遠に叶わない夢こそ真の夢物語。
 ならば、この都市は夢の街と呼んでも差し支えはないだろう。
 どれほど傷つこうとも、どこまで壊れようとも、地底深くに作られたその都市は、明日を迎えれば元通りに復元される。まるで最初から誰もおらず、一滴の血も流されたことなどなかったかのように、澄ましている。
 だが、もう数え切れないほどの挑戦者がこの都市に屍を撒き散らして死んでいった。氷の塊に押し潰されたもの。炎の弾丸に焼き殺されたもの。真横に落ちる稲妻に真っ二つにされたもの。風に喘いでなすすべもなく転落死していったもの。
 もう、数え切れないくらい多くの人間が無駄に死んだ。
 彼らの死はまぎれもなく無駄だった。
 死ぬとはそういうものだ。無駄死にじゃないやつなんていない。
 その代わりに、彼らは一人残らず感じて死んでいったはずだ。
 止め処なく、溢れるほかない、まじりっ気なしの人生を。





 いま。
 灰かぶりの都市に、一人の男が立っている。
 塔と言ってもいい、周囲を睥睨してやまない傲慢な建築物の頂上に、彼は立ち、風を浴び、前を向き、狂気の時を待っている。
 片腕の男だ。利き腕を落とされ、もう自分の名前さえ満足に書けなくなった男だ。顔よりも前に空っぽの袖を見られることに慣れてしまった男だ。俺は誰よりも強いのだと信じていた男だ。
 この男がリングに上がることは、もうない。
 永遠に、その腰に栄えあるチャンピオンベルトが巻かれることはない。
 誰よりも強い男だった。誰にも負けない男だった。
 その男が今、もう一度、世界に喧嘩を売ろうとしている。
 失われた右腕の貸しを取り立てるために。
 俺はお前になれなかったと言い残して消えていった男の仇を討つために。
 負けるわけにはいかない。
 風が吹いている。
 年老いた悪魔が腹の底から吐き出すようなぬるま湯の風だ。
 その風の中に、男は、残った手で掴んでいた布きれの束を、ばら撒いた。
 超一流のパントマイムのように、ばら撒かれた手袋が人の手の形に膨らんでいく。白黒六つの拳が、虚空に装填される。
 男は、左手を前に伸ばす。
 その指先のさらに先から、透明な氷がパキパキと張り巡らされていく。貪欲な樹木の根のように。もっと先へ、先へと、広がり伸びて、男を球形に包みこむ。
 開いていた手を、握る。
 視界の上で、雷雲が不機嫌な猫のように唸りながら、チカリチカリと瞬いている。
 もうすぐ、稲妻が落ちるだろう。
 予知能力などなくても、分かる。
 耳の後ろから聞こえてくる励ましに、頷きで答える。
 視線の先にある、二重螺旋と馬上槍。
 男の敵もまた、その塔を見上げているだろう。
 首筋に触れると、びっしょりと冷たい汗をかいていた。
 頚動脈が今まさに産まれようとしている赤子のように打ち続けている。
 指先が、震える。
 それを握り潰すように、拳を作る。
 逃げ出したくなるような快感が背筋を走る。
 熱を持った眼球が石になったように動かない。
 喘ぐような、待ち時間。
 永遠さえも繰り返したかのような、気の遠くなる一瞬を越えて、
 真っ黒な雷雲から、一振りの稲妻が落ちた。
 それは、どこか樹木に似ていた。
 男は駆け出す。声援のような風が彼を後押しする。
 ジオラマのような都市の空に、一匹の男が飛び出していく。


 男の名前は黒鉄鋼。
 黒塗りの拳闘士/ブラックボクサー。



 欲しいものはなんでも手に入った。




 燎は螺旋塔の周囲をスプレイで旋回、青い風の尾と連れ従える白黒六つの拳を引いて、刃物のような視線を二百メートル先へと送った。
 黒鉄鋼は、白と黒、それぞれ三つずつの拳を引っ張っていた。
 W3B3だ。
 ブラックボクシングにおいて、W4B2の次にバランスのいいと言われるスタイル。どちらかといえばエレキを扱う黒が一つ多いために、攻撃的なスタイルと呼ばれる。
『距離、百三十メートル』
 ブレインの声に合わせて、撃った。
 四つの白から怒涛のごとく火球が放たれる。耳を劈く削岩機のような音。あっという間に黒鉄鋼と自分の間にあった空間が黒煙に閉ざされる。
『スプレイを提案』
 言われるまでもなく、右上に回避。直前まで燎がいた空間を黒鉄鋼が撃ち返して来た炎のジャブが通過していく。黒煙の雲は晴れない。一端、視界の晴れたところまで飛んで状況を整えてもいいかもしれない。ぺろり、と燎は真っ赤な舌で唇を舐める。さて、どうする。
 いや、突っ込もう。
 黒煙を嫌がって背中を見せた獲物を、みすみす逃がすことはない。
 スプレイダッシュ。
 燎はまっすぐ黒煙の中に飛び込んでいった。マウントスタイルは捨身(リベリオン)。背後を気にする必要はない。
 煙が、晴れる気配を見せる。
 思ったよりも、早い――






「!」



 目の前に、敵の氷殻があった。
 出会いがしらに四つの瞳が、見開かれる。
 かわせない。
 耳障りな音を立てて、高速でこすれあいすれ違った氷殻が火花を散らした。痛む脳髄を黙らせてハードスプレイ。氷殻にかかった回転を止め、姿勢を安定させる。
 なるほど。
 同じ考え方をしてくるのか。
 燎は笑った。
「やるじゃん」


 ○


 覚悟していてよかった。
 出端を挫かれる形にはなったが、キスショットをもらって、ファーストに亀裂程度で済んだのは幸先がいい。鋼は左手で鼻をこすった。もう汗ばんでいる。
『オッケーオッケー、ミスじゃない。これからこれから』
 ルイが言った。鋼は頷く。
 視線は前から逸らさない。
 黒煙はすでに埃っぽい風の中に紛れて千切れ、都市の空は束の間の晴れ間を取り戻している。
 敵は、ゆっくりとスプレイして、こちらを中心にサークリングしている。その周囲を白四つ、黒二つの拳が追随していく。
 W4B2。
 ファイアスターター。
『カウント確認。Eの6-6。フルマウント』
 Eの6-6。どちらもエレキ(E)/シフトを未使用という意。
 フルマウント。言わずもがな。
『長期戦に持っていこう。1Rから飛ばすことないよ。落ち着いて、冷静に』
『オーケー』
 こちらも白三つを氷殻の前に、倒したコーンのように構える。黒二つを護衛として左右に。残った一つは奇襲(シフト)に備えて背後。
 スタイル・フレイムチャージ。
『――ッ!!』
 お前は俺の使い方を間違えている――そう言って苦痛を与えてくる脳髄を無視して、強めのパイロを撃ちまくる。今度は拡散させていないため黒煙も小さい範囲にまとまって、相手を捉え切っている。前方から敵のパイロが三つ。黒二つでパリングさせ、残った一つをソフトスプレイで丁寧にかわした。
 距離を、詰めていく。
 今こそ上手くパリングしてくれたが、不調の黒は、相変わらずキレが悪い。距離を取られ、パイロを撒かれればそれに細かく対処できるとは思えない。
 長期戦――鋼は思う。
 果たして自分には、そんな時間があるのだろうか?


 だが、立ち止まって考えてみたところで、状況が好転するわけでもない。
 それどころか、攻め時だった。
 フレイムチャージからのパイロの集中砲火。強いパイロ、ではなく、全力のパイロを一息でかけた。爆音と黒煙の量が一気に増える。鋼は釣り針のような軌道で黒煙に飲み込まれた敵を追った。自分までまた黒煙の中に突っ込めば危険な上に、シフトされて狙い撃たれてはたまったものではない。
 この距離から、シフトも警戒に入れつつ近づくのがベスト、だ。
 敵が黒煙から逃げ出してきた。シメた――と思い、ハタと気づく。敵は、曇天を足下に見る形で、都市へ落ちていっていた。なかなか賢い。背中を都市に向けて落ちれば、確実に頭上にいる鋼を一発で視認できる。
 ――面白ェ。
 パイロをいくつか撃って追ったが、小刻みなスプレイで逃げられた。滑空するツバメのように緩やかなコースで距離を取られ、くるりと反転、仕切り直される。構え直される、敵の六つの拳。
 本体よりも、白(ひだり)を狙った方がよかったな、と微かな後悔。
『どうやら、少年Aクンはジャブの応酬がしたいらしいね』
『インファイトが苦手だと思うか?』
『どうだろ。最初に雲(けむり)の中に突っ込んできた辺りなんか、ケッコウ好戦的に見えたけど。ま、インに入ればウチが勝つからいいけどね』
『おだてるのが上手いネ。で、どうする。リードしてくれよ』
『うぅん』
 ルイは悩ましげな声を出してから、あっけらかんと答えた。
『逃げちゃえば?』



 ○



 パイロの扱いには自信があった。球速も時速450キロ強。全力を出せば時速500キロは出る。
 燎は金色に染め上げられた髪をかきあげ、鋭い視線を飛ばして状況を復習する。距離は百八十メートル弱。少しスプレイをかければあっという間に詰まる。敵はフレイムチャージで好戦的。シフトしてやれば動揺するだろうが、どうもそれを誘ってるようなニオイもある――相手の思う壺になるのは面白くない。
 結局は、待ち。
 ジャブの応酬になれば球速も破壊力も、こっちに分がある自信がある。今さっきみせた追い撃ちのパイロ、あれが黒鉄鋼の全力のパイロだろう。悪くはないが、物凄くいいとも言えない。及第点、プラスアルファといったところ。
 俺の敵じゃない。
 ジャブで差を見せつけ、相手の戦意を殺ぐ。
 ましてや相手が元ボクサーなら、感傷的にもかなり効く。
『マスター、ここは待ちを提案します。なぜなら――』
『はいはい』
 ブレインに適当な相槌を返す。いつまで経っても、ボクサーの思考レベルに追いついてくれないのは、所詮はイルカということか。
 美雷なら、そんなことはないのに。
『――ん?』
 燎は、目を細めた。
 相手が、スプレイをかけている。が、近づいてこない。青い炎が、瞬いた瞬間を最大にして、どんどん小さくなっていく。
 黒鉄鋼が、逃げている。
『距離、三百を突破。戦闘想定範囲外です。追撃を提案』
『どういうことだ――?』
 疑問に思いながら、スプレイダッシュ。猛加速してもすぐには追いつけない。
『何を考えている? ビルの森に下りる気配もない。このままじゃ壁に激突するぞ』
『恐怖に駆られて逃げ出したのでしょうか』
『それはない、と思うが――』
 それとも、どちらかといえばこのオープニング・ラウンドを巧みに切り返して攻めさせないこちらを『優勢』と見て、間を置くつもりか? 第2ラウンドに入って、仕切り直したいのか。もしそうなら、それほどまでにジャブの応酬を嫌がっているということになる――燎は唇を歪めた。
 思ったよりも、早くカタがつくかもしれない。
『よし、追い詰めてやる。もっと加速するぞ』
『どうなさるおつもりですか?』
『ふん、あんな速度で飛んでれば激突寸前に急ブレーキをかけなきゃならない。そこでアイツがヒヨったところをキスショットさ。ブッ潰してやる』
『いい作戦です、マスター』
『お前に言われるまでもない』
 うっすらと、視界の端に壁が見えてきた。黒鉄鋼は鉄砲玉のようにまっすぐに飛んでいく。なるほどなるほど。ギリギリまで高速で飛んで、間一髪のところで旋回、燎を壁にぶつけようという腹らしい。馬鹿が。そんな手に引っかかる俺だと思うのか?
 俺は、お前の腕の仇なんだぜ。
 チキンレースだ。俺は逃げない。
 受けて立つ。
 歯を食いしばり、アイスが軋むほどの強烈なスプレイをかけて、黒鉄鋼の背後につける。これでは鋼が速度を落としただけでもキスショットになる。
 前門の虎、後門の狼。
 ハサミ撃ちだ。
 壁は、もう目の前に。
 さあ、どうする、元チャンプ――!!


















『マスター』
『…………』
『マスター』
『うるせえな、なんだ』
『一つ、疑問に思ったことがあるのです』
『後にしろ』
『いえ、ぜひ今に』
『チッ、早く言え。なんだ?』
『黒鉄鋼の手のことなのです』
『手?』
『はい。彼の手はどこにあるのか、と――』
『馬鹿かお前。話聞いてなかったのか? あいつの腕は俺が落としてやったんだよ、地獄にな』
『いえ、そうではないのです。マスター。私が言いたいのは――










 ――彼の白と黒の「ナックル」はどこにあるのか、ということです』










 な・に?








 前を見る。慌てて探す。
 ない。
 黒鉄鋼は、単騎だ。
 一人で飛んでいる。
 お供の拳もつけず、に。
 壁が、もうすぐそばまで迫っていた。
 避けられない。避けられるはずがない。
 事実、そうなった。
 こんな速度で、黒鉄鋼は、マックススピードのスプレイダッシュで壁面に突っ込んだ。その勢いのまま、しかし、アイスには亀裂ひとつ走らない、そのまま、吸いついたように壁に止まっている。いや、それは所詮はアドレナリンが見せた束の間の夢だった。なぜなら黒鉄鋼は壁に吸いついたわけでも、速度を魔法で殺したわけでもなかったから。
 ただ、自分の白黒六つのナックルを、重ねて使っただけだった。
 『クッション』として。





 幼女がぬいぐるみの群れに飛び込んだ時のように、黒鉄鋼を受け止めた六つの拳は彼があらぬ方向へ跳ね返ったあとに弾んで吹っ飛び、燎の前にはもう、ただの壁しかなかった。
『――ッ!!』
 悲鳴が出そうなほどのスプレイを前方にぶっ放した。が、無論、殺しきれるわけがなかった。
 激突、衝撃。
 セカンドにまで達したインパクトに燎の脳がシェイクされる。嘔吐寸前だった。畜生、アイツ、なんでこんな――本当にこれが初戦のブラックボクサーか? 本当は前から訓練を受けていたんじゃないのか? 聞けば俺よりスパーリング回数は少ないはず――なのに。畜生、認めたくない。アイツの強さが、
 アイツの強さが、『本物のボクサー』だから、なんて。
 馬鹿か。阿呆か。それとも白痴か。あるわけない、そんなこと。本物のボクシングをやっていたからって、こんなに戦闘センスが培われてたまるか。それならまだ、同類だと認めた方がマシだ。
 アイツが神様から愛された、自分と同じ『ギフテッド』なのだと。
 もう容赦はしない。スプレイを自分にかかった回転と逆方向にかけて姿勢の支配を取り戻す。見上げると、クッションを使ったとはいえ猛スピードで突っ込んだ黒鉄鋼の方もようやく体勢を整えなおしたところだった。
 くそっ。
 今してやられたこの屈辱を、アイツに何倍にもまして味わわせてやりたい。
 だが、慌てるな。まだ1R。深追いするにはまだ早い。脳をつつくブレインの声は、もう残り時間が五秒もないことを伝えてきている。ダメージでは確かにこちらの方が被害を受けた。それだけのことだ。
 やられはしたが、やられる気はしない。
 くるりと燎はスプレイで旋回。距離は二百五十メートル近くまで広がった。ここから攻めてくるってことはまずない。
 まず安全圏――


 そう思った、ため息のすぐ隣を、
 斜めに稲妻が横切った。


 かすりもしなかった。
 稲妻は、ビルの森を深々と貫いて、終わった。
 もう水の出ることのない、誰も戯れることのない噴水の前に、サイズを間違えて生まれた子犬の遊んだあとのような傷跡が残された。
 崩れ落ちていくビルの森。
 積み木を倒した時のようなその音を聞きながら、燎は思った。
 今のは、螺旋塔に落ちるはずだった、『本物の稲妻』じゃないのか。
 今のが、人間の脳髄から搾り出した能力でやったことだというのか。
 振り返る。




 あれが、黒鉄鋼のサンダーボルト・ライト――……




 嘘だ。
 絶対に嘘だ。
 あんなエレキをもらったら――
 シフトなんて、関係ない。
 当たれば、死ぬ。
 殺される。






 喉が唾を飲み込む。冷や汗が首筋を濡らす。
 天と地ほどの距離を隔てて、二人の視線が絡み合う。
 脅える男と、脅す男の瞳。
 鈍くかがやく黄金は、むしろ黒く見える。


 投手が捕手のミットにめがけて自慢の速球を投げ込むように、虚空の鏡をぶち抜いて出現した黒鉄鋼の身体が転送座の中心に音を立てて激突した。アバラが軋み背中が弾む。勢いよく咳き込み始めた鋼の背中を殊村がさすってやった。
「くそっ、ノーコンめ」
「ボクサーをこの距離で安定して転送させられるだけ、ルイはいいブレインです」
 相変わらず鉄仮面の涼虎が、人形のように整った表情のまま鋼の顔をタオルで拭った。鋼は子供のように嫌がって、殊村が差し出したボトルを奪ってその水を口に含むと、べっと飲まずに吐き出した。その慣れた様を静かに見つめながら、涼虎が言う。
「さっきのは、『ノリ』ですか?」
 鋼が急に異国語で話しかけられたような顔になる。
「――何? なんだって?」
「最後のエレキライト」
「最後のって――ああ。お前、俺がこの土壇場で何も考えずに動いてると思うのか」
「違うんですか?」
「当たり前だ。――俺の黒は残念ながら今度も言うことを聞いてくれない。エイリアンに乗っ取られたような気分がする。1ラウンドは白の差し合いになったから目立たずに済んだが、クロスレンジになったらオモチャ同然なのが丸分かりだ」
 だから、と一つ空咳をし、続ける。
「たとえエレキカウントを一つ消費してでも、敵に見せておきたかった。俺の黒の威力を」
「その効果はあったようです」涼虎はその場に跪いて、鋼の腰のグローブホルダーを新品と取り替えた。最後のエレキライトを除けば鋼の黒の消耗はゼロ。拳数が無為に増えずに済んでよかった、と目で思いながら、
「相手のボクサーは明らかにあなたの黒に動揺していました。恐らく、不用意にあなたの黒に近づくような真似はしないでしょう」
「それはそれで困るんだがな。黒が利くあたりまで接近しなきゃ、ノックアウトで倒せない」
「逃げ腰の相手を追い切れないあなたではないでしょう」
 鋼の口に2ラウンド用のノッカーを詰め込んでいた殊村が笑い出した。
「――とにかく、黒鉄さん。あなたは今、エレキカウントを一つ失っています。その意味はわかっているはずです」
「ああ。極端な話、俺がこれから残った五発のエレキを相手に必殺の位置から撃発したとしても、向こうがすべてシフトでかわせば、俺が残弾ゼロの時にヤツは残弾1。そうなれば、獅子に喰われるシマウマは俺の方になるな」
「ええ。ですから、長期戦は不利です。あなたの黒のこともありますし」
「じゃあどうする」
 涼虎は言った。


「次のラウンドでノックアウトしましょう」


 鋼と殊村が目を丸くしている。
「――真琴くん、俺はひょっとするともう駄目かもしれない」
「ああ、君もか。僕も駄目だからお揃いだね」
 涼虎がむっと眉根を寄せる。
「私が積極的な意見を言ってはいけませんか」
「お前は俺をなだめる役だと思ってたよ」
「違います。私はあなたを勝たせる役です。心身ともに充実させ、リングへ送り出すのが私の仕事です。黒鉄さん、私に見せてください。本物のボクサーの『ノックアウト』を」
 鋼は、くすぐられたように笑った。そしてそれを綺麗に引っ込めて、言った。
「目ぇ瞑るなよ」
 インターバルは九十秒。
 空気が弾ける音だけ残して、鋼は転送された。


 ○


「ビビったら向こうの思う壺だよ」
 めっきり口数の減った虎の子のボクサーの顔を拭ってやりながら、美雷は言った。その目はもう助からない小動物が死んでいくのを眺めているかのように、冷えている。
「――わかってる」
「わかってないよ。何、その顔。さっきまでの威勢はどうしたの?」
 燎は、いま初めて自分の前に誰かがいるのに気がついたような顔をした。
「お前こそ、浮き足立ってんじゃねえのか。顔、赤いぞ」
 美雷はものでも扱うようにいきなり燎の顔を両手で挟んだ。驚き硬直する少年の目に、自分の視線を注ぎ込もうとするかのように、見下ろす。
「当たり前でしょ。あたしは今、黒鉄鋼と闘ってるんだから」
「――俺だろ、闘ってるのは」
「1ラウンドはね。でも、もう分かったでしょ。白黒六つの拳と異能を振り回すだけじゃ、ブラックボクシングはできないし、あの男を倒すこともできないって」
「そんなの――」
「これ以上、あたしに逆らえば」
 美雷の親指が、燎の目元を撫でた。
「両目を潰す」
「――――」
「逆に考えて。今、あたしが君を殺さないのは、まだこっちに勝ち目があるからだって」
 燎は、隙間風のようなため息をついた。
「勝ち目、だと?」
「そう。君は気づいていなかったかもしれないけど、黒鉄鋼は完全なブラックボクサーじゃない」
「どういうことだ?」
「モニターで見ていて分かった。彼は、自分の黒をかばっている」
「かばうって、黒はマウントし直せるだろ。かばうなら白だ」
「ちがう。動きが不自然なんだよ。黒ならもっと先行させて囮にしたっていいのに、まるでお気に入りのペットみたいに黒鉄鋼は三つの黒を自分のそばに置いていた。なぜか?」
 燎は、もどかしげに先を促した。
「――なぜなんだ?」
「脳の中のブラックボックスは不可知領域。あたしにも分からないことだらけだけど、でも、ひょっとすると黒鉄鋼は右腕を切断してから、左脳の地図が再配置されているのかもしれない」
「再配置?」と聞き返す燎の口の中に、美雷はノッカーを指で押し込んだ。これはボクサーの脳に『ブラックボクシングはまだ続いている』と錯覚させ、一度マウントを解いた白と黒を再び長時間、といっても数分だが、使用できるようにさせるための投薬だった。3ラウンド以降はその反応が複雑になるため、ミストを使用することになる。
 美雷は話を続けた。
「今まで右腕を動かしていた脳の一部が、右腕をまったく使わなくなったことによって別の領域に侵蝕されて働きを変化させること。もし、彼の脳でそういうことが起きているのだとしたら――あの黒は、思うように動かせないのかもしれない」
「威力は、あったみたいだが」
「天性のものか、ピースメイカーのアイスが上等なのかもね。どっちにしろ、次のラウンドではっきりする」
 燎はとうとう折れた。どうしたらいいのか教えてくれ、と呟くボクサーに、美雷は指示を囁いた。
 セコンドの言葉を飲み込むうちに、ボクサーの目に光が戻っていった。


 ノックアウト。
 狙いにいくなら、攻めの姿勢が必要だ。手駒はエレキとキスショット。パイロは消耗戦にしないのであれば撃たなくていいくらいだ。が、気前よく切り札を振り回したところでつまらぬワイルドピッチになるだけだ。要は、切り札を使える場面まで、戦況をどうやって持って行くか。
 カウントは、すでに相手が一つ優勢。
 ダメージは、相手の方が受けている――とは、言い切れない。鋼は足下のビルの森を氷殻越しに見下ろしながら、左手で口元を拭った。
 鼻血が出ている。
 今までも、スパーリングで鼻血が出ることはあった。が、ここまでひどい頭痛を伴う鼻血は初めてだ。性質の悪い二日酔いのように、耳の奥がガンガン鳴っている。自分の呼吸の音がやけに大きく聞こえる。W2B1を前方に、W1B2を後方に配置したスタイル・ダイヤモンドの中で、鋼は第2ラウンドの雷鳴(ゴング)を聞いた。
 激励してくるブレインの声に頷き返し、スプレイダッシュ。青い澪を引きながら、敵との距離が死んでいく。
 希望を持つなら、接近戦だ。
 近距離なら鋼の黒も大人しくなる上に、キスショットもしやすくなる。偶発的な接触が起こりやすいということもあるが、遠距離ではキスショットを狙ってシフトした瞬間に相手に警戒されてしまい、せっかくのエレキ/シフトカウントが無駄になる。しかし近距離ならばスプレイダッシュで視界から外れたのか、それとも本当に瞬間移動したのか咄嗟の判断がしにくい。もっとも近づけば相手がそれを鋼にやってくる危険性も増してくる。いわゆる諸刃の剣というやつだ。
 そのためにも、まずはあのうるさい白(ジャブ)を掻い潜らなければならない。
 そう思い、身を強張らせた鋼だったが、予想に反して敵はパイロを撃ってこなかった。四つの白を四方向に配置させサークリングさせ、二つの黒を斥候がてら前方に押し出しているスタイル・ダブルホーンを維持したまま、近づくでも離れるでもない曖昧な距離感を保っている。
 妙だ。
 第1ラウンドの展開を考えれば、向こうは被ったダメージと、そして先手を打たれた焦燥感でもっと過激にパイロの弾幕を張ってくるものかと鋼は思っていた。そのゴチャゴチャした乱戦を丁寧に切り裂いて相手の懐まで潜り込んでいこうと思っていたところに、相手がまったくパイロを撃ってこない。氷殻越しに滲んで見える表情も、冷静そうに見える。
 局面だけ俯瞰すれば、絶好の機会だ。
 何せ相手が集中砲火の手を休めてこちらの思惑に乗ってやろうと譲歩してくれているのだ。インファイトで黒の差し合いに持っていければ、悪戯にパイロを撒かれて長期戦にもつれ込まずに済む。
 だが、気にかかる。
 たとえ自分が望んだ方向に進めるとはいえ、相手の誘いにまんまと乗ってやる形になるのは、よくない。常に、相手の罠である可能性に対していくらかの集中を注がねばならないし、実際にそうであることもありうる。かといって意固地になってこのまま睨めっこを続けているわけにもいかない。不自然すぎるし、相手に不調をバラすようなものだ。
 ゆえに、ここは進むしかない。
(……くそっ)
 煮え切らない気持ちのまま、鋼はスプレイダッシュをかけた。
 勝負とは、不思議なものである。相手がパイロを撃ってこない、それだけで心理的に鋼は圧迫されている。何もかも鋼の考えすぎなのかもしれない。相手はただ、パイロの無駄撃ちを温存しているのか、あるいは先制した鋼の動向を様子見しているだけなのかもしれない。そういった可能性が確かにあることを踏まえつつ、鋼はそれでも相手の手札に自分を殺せる刃が眠っている危険性を無視できない。だが、それでも殺るか殺られるかの瀬戸際から両手を挙げて撤退することはできない。鋼は、争うことでしか他者と関わりを持てない男だからだ。
 金髪のボクサーは、バックスプレイをかけて後退したが、やりあうつもりはあるらしい。風を孕んだ青い炎に背中を押された鋼に向かって、そのまま自らの黒を二つ、パンチとして放った。一発は軽めのジャブで鋼のパイロが撃ち落とした。二発目は黒同士のバッティングで両拳相殺(あいうち)。鋼はホルダーから一枚の黒(みぎ)を千切って投げた。たちまちカサカサと手袋が膨らみ充填される。スタイルをリベリオンに変換。背中は捨てる。
 敵が充填し直した黒が再び攻めてきた。今度は本体のアイスもスプレイで突っ込んでくる。さすがに四つの白からパイロの連射が撃ち出されてきた。鋼も応戦、だがどうせ自分の身を喰う蛇のようにグルグルと相手を追う形になる接近戦では多少のパイロはもらってしまう。それよりも、黒に重きを置いた方がいい。
 かすかな精神の糸で繋がった右手を心で探って確かめる。
 反応は、薄い。
 だが、それでも撃つしかない。
 まっすぐに突っ込んできた敵と交差していくその黒をダックスプレイでしゃがむようにして回避しながら、右辺上方、ちょうど本物の右手があればそれをまっすぐ伸ばした四本分の距離に配置してあった黒を、遮二無二まっすぐ振り抜いた。
 だが、鋼の黒が撃ち抜いた空域には、スプレイの残り香が漂うばかり。しかし外れるのは、想定内だ。問題は、それがどの程度、信憑性のある外れ方だったかということ。
 はっきり言って、黒が当たらぬとバレればこの勝負はおはなしにならない。
 ゆえに、徹底的にあの金髪のボクサーには『黒』の恐怖に囚われて続けてもらわなくてはならない。そのために貴重なエレキカウントを一つ消費したのだ。元は取る、絶対に。
 スプレイを丸くかけて反転、ビルの森を頭上に見ながら追撃の手を休めない。赤紫の炎の卵を虚空にばら撒き、とにかくまっすぐを意識して黒を殴りつける。空振りしたスウィングの反動で、自分の身体が六倍になったかのように思える。
 振り抜いた黒が足下の雲海に飲み込まれていったが、そんなことはどうでもよかった。
 視界には、灰色の濃淡があるばかり。
 敵がいない。どこにもいない。
 ということは、
(シフトキネシス――!)
 ふたたびショートスプレイで背後へ反転する。拳たちもくるりと向きを直して身構える。捨身(リベリオン)で背後を晒していたのは半ば誘いだった。これだけ無防備な型なら相手はいずれシフトで背後を攻めてくる。あらかじめこちらが用意していた隙ならば咄嗟の瞬間移動にも対処しやすい。ごくりと生唾を飲み込む。相手がキスショットしてくれば、カウンターを取れる。
 エレキなら、なおいい。
 唸り続ける黒の拳から小さな紫電が迸る。
 躊躇うことはない。
 勝てばいいのだ。何も考えず。すべて置き去りにして。
 相手が視界に入る前よりエレキを走らせておけば、上手い具合にタイミングが噛み合って衝突してくれることだろう。
 撃ち抜け――

 だが、エレキが撃発されかかるまでのコンマ数秒が経っても、相手はどこからもキスショットを撃ってこなかった。あまりの時間の短さにルイからの声すら届き切らずに止まっている。呆然とする鋼の首筋に、ぞわりと怖気が走った。ほとんど時間が止まっているかのような感覚の中で回避できたはずもない。
 剣と剣を打ち合わせたような甲高い音がして、鋼の上辺後方から全力でスプレイダッシュをかけてきた天城燎のキスショットがものの見事に炸裂した。引鉄を落としかかっていたエレキが衝撃による集中力の切断でキャンセルされる。接触したアイス同士から氷の破片(チップ)の飛沫が上がり、鋼の顔が苦痛と驚愕にゆっくりと歪んでいった。時間に油が差し直されて、二つのアイスボールはキューに突かれたビリヤードの球のように角度をつけて勢いよく弾かれた。鋼のアイスは見えないレーンに乗せられたかのように滑らかなコースでビルの森へと落下していく。やがて立ち並んだビルを何本もなぎ倒して、やっとアッパースプレイをかけて持ち直した。が、そこに追跡してきていた敵の黒がまさに鼻っ柱をへし折るといったようにストレートを鋼の顔面真前にぶち当たり、鋼のアイスはやはりアスファルトにめり込む羽目になった。ストレートか、と相手のパンチの拳種を覚える。瓦礫と砂塵を渦巻く風の力で吹き散らし、首根っこを掴まれた猫のように鋼はアスファルトに空いた穴の中から飛び出した。そこを待ち構えていた相手の二つの黒がフックを繰り出してくる。一つは避け、もう一つはしたたかに貰った。返す刀でこちらも黒を振り回して相手の拳をパチンと潰した。本体はハンドキネシスの平均射程である一八〇メートル以内にはいるのだろうが、姿は見えない。かわした敵の黒をパイロの連打で焼却処分しながら、鋼は考える。セオリーなら、頭上から炎の雨を降らせてくるところだが、その気配はない。どうやら相手は完全に持ち直したらしい。まったく恐れることなく、シフトを上手い具合に死角になっていた『鋼の斜め上辺前方』にかけ、こちらが警戒している背後へ反転した瞬間にキスショットを落としてくるとは――そもそもパイロを撃たずにこちらの動揺を誘ったあたりから考えても、もうこれは相手のボクサーが優れているとか強敵だとかいう話ではない。
 本当の敵は、金髪の少年じゃない。
 向こうの、セコンドだ。
 静まり返った都市の中で、磔にされたように身動きが取れないまま、鋼の顎を冷たい汗が滴った。
 第2ラウンドが始まって、三分が経過しようとしていた。



 涼虎は、憔悴していた。
 空席になった転送座の傍らに添え木のように立ち、肘掛に手を乗せて、心の炎に焼かれた顔が苦しげに歪んでいる。その瞳は、映像を流し続けるモニターを捉えたまま凍りついている。無理もない、と殊村は思う。自分のボクサーの前では気丈に振舞っているだけ、立派なものだ。自分が拾ってきた運命が、今まさにこの瞬間の中で翻弄されているのだ。普通の人間ならば、底なしの罪悪感に責め苛まれる。そして涼虎は、普通の人間だった。
 自分のせいで人が死ぬのだ。
 恐怖と悪寒の見えない糸が、彼女の身体をがんじがらめにして、根が生えたようにその場から微動だにさせない。その姿は、端から見ている殊村の目からは、罰を受けているようにも思える。
 風か雲の研究でもしていれば、こんな目に遭わずに済んだものを。


「――『ビルの森』に追い込まれましたね」
 か細い涼虎の囁きに、そうだね、と殊村は言葉を返した。
 画面の中で、氷殻に鎧われた黒鉄鋼が、小刻みなスプレイダッシュをかけて『森』から抜け出そうとしているが、その度に密偵のような敵の白がパイロを撃って鋼の進路を妨害し、炎の塵が舞った。鋼も果敢にカウンターを狙って相手の白を撃ち落さんと攻めるが、相手は白を物陰の奥へとあっさりと引っ込め、大進撃を目指さない。そのために鋼は翻弄され、悪戯に時間と体力と無為に潰れる拳ばかりを費やした。
「まるで、モグラ叩きみたい。……相手は、なぜ一気呵成に攻め込んで来ないのでしょう」
「……涼虎ちゃんはさ」
 と、殊村はそれに答えずに、逆に聞き返した。
「ボクシングにおける『最強のパンチ』ってなんだと思う?」
 涼虎はモニターから視線を切って、殊村に向かって小首を傾げた。
「最強の、パンチ?」
「そ。最強の、パンチ。有名な話だよ」
 見えない糸に瞳を引かれたように、涼虎の視線が宙を泳いだ。
「えっと……ストレート、ですか?」
 殊村は首を振った。
「違う。……僕はつくづく思うんだ。このブラックボクシングは、悪い冗談みたいになぜだか、本当の拳闘に似ている部分がありすぎる。ひょっとして、誰かが雲の上から仕組んでるのかとさえ思える」
「……どういうことですか?」
 殊村はミラーグラスを掌ではめ込むように押し上げた。
「ボクシングにおいて、最強のパンチは『見えないパンチ』なんだ。どんなパンチも、それがストレートだろうとフックだろうと敵に読まれれば、ガードすることができる。かわし切れなくても、来ると分かっていれば耐えられる。でも『見えないパンチ』は、それが出来ない。貰えば、絶対に倒れる。人間の耐久力を超えたパンチを読めないタイミングで顎に喰らうんだから当然だ」
「それが、相手の戦法と繋がっていると?」
「そうさ。極端に言えば、この状況自体が黒鉄くんにとっては『見えない』んだ。向こうのセコンドは、この『モグラ叩き』じみた状況から、黒鉄くんが読めない攻撃を出してきている。突然現れた白による極端なヒットアンドアウェイ、セオリーから外れた動きによる心象霍乱。涼虎ちゃん、相手は――氷坂美雷と天城燎は、ボクシングをして来ているんだよ。黒鉄くんの脳に確実な『ダメージ』を与えるために……」
 モニターの中で、相手の白を追った鋼の黒が大振りのスウィングブローでビルの一つを瓦解させ、倒壊した瓦礫の中から粉塵が巻き上がっていた。鋼のアイスは立ち昇った破壊の煙を幾条も浴びて、まるで灰色の植物の根に、きつく絡み取られているようにも見える――殊村は喉仏を晒すように顔を上げ、それを見ていた。
「たかが六つの異能を振り回してくれているだけなら、相手がどれほどハイスペックでも怖くない。……怖いのは、相手がしっかり考えてきているということ。対策を練り、こちらの嫌がる状況へ持っていき、なおかつ『見えないパンチ』に繋がるカードを執拗に切り続けてくること。どんな正論も言い訳にせず、どんな忍従をも厭わずに、確実にこちらを殺しにかかって来ている。氷坂美雷は、この2Rを黒鉄くんの『心/メンタル』を崩すことに決めたんだ。たとえそれが、どんなにもどかしく、一見すれば好機を手放しているようにしか見えなくても……」
 涼虎は、息をするのも憚って、殊村の話に耳を傾けていた。
「シフトで離脱するのは、駄目なんでしょうか」
「百人いたら百人そう考えるから、駄目だね。氷坂は罠を張ってる。……なぜさっきから、モグラ叩きに稀少価値の高い白ばかり振ってくると思う? べつに黒だっていいんだぜ、天城の黒はこっちみたいに照準が狂ってるワケじゃないんだ。黒が出てこないってことは……」
 涼虎が、白く小さな顎に手をやり、おずおずとその先を引き取った。
「振ってこない黒は、べつのところで使っている……?」
 殊村は頷いた。
「だろうね。使い道はたとえば、……黒鉄くんがシフトで逃げたらすぐに『森』に潜ませてある黒を撃発して、黒鉄くんのアイスのドテッ腹を狙い撃ちにする、とかね。サンダーボルトライトの隠し砲台さ。ハズレりゃいいけど、当たれば死ぬよ。シフトの射程は平均九〇メートル。それに対してハンドは平均一八〇メートルもあるんだ。視界が限られている『森』の底で、逃げ道なんてありはしない」
「でも、シフトの射程距離なら、一八〇メートルまで延長できるナックルシフトを使えば……!」
「この状況でどうやって自分の黒を天城の白の包囲網から出せる? 撃ち落されておしまいさ。わかってる? 涼虎ちゃん」
 殊村はまるで今そこに涼虎がいることに初めて気がついたかのように、ミラーグラスの向こうから透明な眼差しを送った。モニターの中では、六車線のストリートの中央にいる鋼がスプレイもかけずに、その場に留まっている。天城の姿は、影も形もそこにはない。
 殊村は、言った。
「今って、スゴくピンチなんだぜ」



 パン屑のような砂礫がパラパラと降り、視線の先で砕けては散っていく。鋼は誰かに首を掴まれたように喉仏を晒しながら、それを見上げていた。卵黄のような瞳が水を飲むように周囲の情報を収集する。
 ビルの中にいた。倉庫か何かの一階になる予定だったのか、あちこちに柱が点在し、無人のフロアには塵芥が漂っている。壁の一角には子供が乱暴に引き剥がしたような大きな穴が空いていた。記憶が少しずつ、紙を火で炙るようにじわじわと戻ってくる。白い拳、唸る風、砕けた氷、痛む眼球。
 殴られたのだ。
 鋼は両足を跳ね上げ、その勢いで起き上がった。両足が強く床を噛む。瓦礫の中から白と黒を呼び起こす。W3B1。左手でホルダーから二枚続けて千切って放る。W3B3。
 さて――と鋼はその場で胡坐をかき、左手で口元を覆った。考え事をする時のクセだった。
 このままビルの中からスプレイダッシュで飛び出していくのは簡単だ。が、恐らくまた敵のパイロの集中砲火を浴びることになるだろう。それではまったく状況が好転しない。とはいえ、このまま相手が何もしてこないのをいいことに我慢比べよろしくこのビルの中で座り込んでいれば悪戯に時間と体力を消耗するだけだ。
 シフトするしかない。
 だが、それは敵も考えていること。たかが九〇メートルの射程距離では、どこへ逃げても黒を隠し砲台として設置されれば逃げ切れる保証はない。仮に九〇メートル近くのビルにシフトして息を殺していても、いつかは外に出なければならないのだ。その時にパイロを貰うのではなくエレキを貰うのであればお話にならない。
 鋼は海の中に沈んでいくように深く考え込んだ。
 恐らく敵が張っている九〇メートル圏包囲網を超えるならば、シフトを連続でかけるという手もある。シフトカウントは喰ってしまうが限界シフトを連続でかければ一八〇メートル。ナックルシフト程度の緊急離脱が可能だ。だが――
 臓腑を震わす衝撃と共に、天井から砂礫の小雨が降ってきた。鋼は顔をしかめた。この衝撃の原因は明白だ。敵は、九〇メートル圏内のビルを白か黒かは知らないが片っ端からぶち壊して回っているのだ。鋼が気づかずに九〇メートル圏内でシフトをかければ丸裸になる算段だ。どの程度の幅で建物を損壊させまくっているのかはルイに聞けば分かるし、もちろん、何も九〇メートルでなくとも、敵がビルを壊していない範囲でまず小さくシフトし、そこから改めて限界シフトで逃げ去るというのも手だ。だがそれではあまり距離が稼げないし、隠し砲台に撃墜される確率も高まる。いずれにせよ一度相手の独壇場に飛ばなければならない以上、どう頑張っても危険度はゼロにはならない。ゆえに、逃げるなら限界一杯で逃げたかった。それも、シングルシフトで。
 鋼は、自分の黒を氷殻の表面近くまで呼び寄せ、見上げた。
 打つ手は、ないこともない。
 ナックルシフトをかければいいのだ。あれなら、ハンドの射程距離一八〇メートルまで逃げれる。
 だが言うまでもなく、このビルから黒などを飛び出させようものなら、敵の集中砲火を浴びて焼き尽くされるのが落ちだろう。
 しかし、その拳が稲妻だったら、話は違う。一撃で九〇メートル圏包囲網を突破できる、そんなパンチを、鋼が撃てれば――
 そんなパンチが、あれば――――……


 鋼は、不調の黒を軽く振ってみた。氷殻ギリギリ一杯まで寄せてみても、まだ違和感は残っている。今度は右フックをくるくると氷に触れるような近さで回してみた。拳が何度も鋼の周囲を、子犬のように駆け巡る。
 もっと速くしてみる。
 拳の輪郭が融けるように滲んでいく。吹き荒れる風が床に積もった塵芥を払い清める。
 本来ならば腕のリーチという『限界』が阻んでしまう勢いを残さず加速させていく拳は、砲丸投げのそれのように、あるいは極小の衛星のように、氷の星の周囲を旋回する。
 キーワードは『遠心力』――
 八洲とのスパーリングの時に、すでに考案してあった隠し玉。だが、その性質上、その場で静止していなくては撃つことのできない『欠陥品』――今を逃せば次はない、二軍のパンチ。
 このパンチなら、貯めに貯めた遠心力を解放すれば、九〇メートルどころか一八〇メートルまで軽々と届くだろう。竜巻のごとく、周囲のすべてを破壊しながら。
 絶好の切り返しを思いついた鋼だったが、しかし、その顔は浮かない。それどころか、拳の旋回さえ止めてしまう。
 一つでは足りないのだ。
 このパンチなら、九〇メートル圏内から脱出することはできるだろう。しかし、それでは『次』に繋がらない。敵は鋼がシフトしていようがしていまいが拳が出た瞬間にこのビルをパイロキネシスで木っ端微塵にするだろう。そして拳が貫き去った方角へ追撃をかける。これでは相手の優勢が崩れない。
 もしこのパンチを使うなら、せめて双方向へパンチを出したい。そうすれば相手は追撃の手をどちらかに絞らなければならなくなり、空パンチの方へ向かえばよし、本命へ追撃をかけてきたとしても、一瞬の隙は奪える。その差は大きい。
 しかし、八洲相手のスパーリングですら見せたことのないこのパンチを実戦で、それも二つも使うことには危険性が伴う。ほぼ零距離で黒を無制限に旋回させ続けるということは、一つ間違えば鋼自身のアイスを砕いてしまう。笑い話にもならない。自身の強打が命取りだ。
 リスクを考えれば、やるべきではない。
 まだ無策に突っ走って外へ飛び出した方が損傷軽微で終われるかもしれない。
 あるいはいっそ、サンダーボルトライトを二発撃ってそこからナックルシフトをかけるか――その場合は、エレキキネシスの反動でグローブが破裂するまでのタイミングを取る必要があるが、それでも、最も距離が稼げる、最も安全な手段に変わりはない。
 今を生き残ることを最優先にするなら、トリプルカウントのエレキシフトだ。
 それでも残弾は二つ残る。一発でもあればノックアウトのチャンスはあるのだ。今ここで死ぬ可能性を我武者羅に追いかける必要などない。
 生き残れなければ、そこで終わりだ。
 いつまでも時間は待ってくれない。敵もそろそろ痺れを切らしてこのビルを吹っ飛ばすくらいはしてくるだろう。
 鋼は、音もなく滴ったぬるい鼻血を左手の親指で拭い取って、握り潰した。



 天城燎は、逃げも隠れもしなかった。煌く氷の殻を纏って、黒鉄鋼が潜伏している一柱のビルの真正面に風を噴いて滞空し、その姿を晒していた。固定砲台の黒は見えないが、護衛の白は、氷殻の前にすべて集まっている。これでは第2ラウンドの半分以上に渡って黒鉄鋼を苦しめた『モグラ叩き』が出来る体勢にはないが、それでよかった。
 敵がそう読んでくると分かっていて、そのまま牽制し続けてやる馬鹿はない。
 四つの白を咲きかけの蕾のように集めて寄せ合い、その手の群れが一つの小さな太陽を掲げている。パイロキネシス――その発展系。複数の白のパイロを一点に集中し、巨大な熱球を作り上げる特殊スタイル・ヒートファランクスの影響で、無人の都市は陽炎に沈み、周囲の建材は融解し始め、その炎の主である燎の氷まで涙を流したように濡れている。
 燎の顎をべったりとした汗が滴っていた。
 舌を巻く思いだった。
 黒鉄鋼に、ではない。自分自身にでもない。
 氷坂美雷の見ている世界の深さに、燎は戦慄していた。
 これまで、第2ラウンドに入ってから、黒鉄鋼に対する美雷の読みは一つとして外れていない。この均衡状態さえ、インターバルの間に囁かれていた未来地図のままだった。まるで向こうのセコンドにも美雷がいて、黒鉄鋼の耳に同じ指示を出しているかのよう。
 勝てないわけがない。
 燎の素質と美雷の言葉があれば、どんな技比べにも、どんな知恵比べにも負けるはずがない。
 冷たい興奮が脊髄を焼き抜ける。
 一体、自分たちはどこまでの高みに登り詰められるのだろう。
 いずれにしても、その頂きは、こんな小さな丘では終わらない。
 燎は、丁寧に練り上げた紅蓮の砲弾が弾け飛ばないように、その形質を白い手で整え直した。
 悪寒にも似た興奮で身体が震え、ざわつく。
 すぐそこに『勝ち』が転がっているかと思うと――……
 黒鉄鋼が、もし、囮の黒を撃っただけでシフトカウントを惜しみ、ビルに潜伏し続けてくれば、その時に勝負は決まる。燎は昆虫の足をピンセットで抜く時のように静かにヒートファランクスをビルに向かって撃つだけでいい。極大の火球がその中身ごと氷殻を融かし尽くすだろう。
 これまでの人生で、燎は、これほどまでの『熱』を感じたことはなかった。
 あのサンダーボルトが触れられそうなほどの近くを通り過ぎた時から、この闘いは燎にとって遊びではなくなっていた。本当に相手が自分を殺すかもしれない、そういうシチュエーションに燎は初めて足を踏み入れた。泥沼のような世界だった。何も信じられず、何も正しくはなく、彼我の能力の高低など刹那の気まぐれで粉微塵になる舞台だった。
 だからこそ、と燎は思う。だからこそこの勝負に勝てば、黒鉄鋼を超えられれば、自分は成長できるのではないだろうか。
 そうとも。
 俺はもっと、『上』にいく――
 揺れていた燎の瞳が定まったその瞬間、黒鉄鋼の潜伏しているビルの壁を突き破って二迅の黒拳が駆け抜けた。
「!」
 サンダーボルト・ライトだ――咄嗟にそう思った。それも無理はない、あの速度で出せるパンチはエレキを使わなければ出てこない。しかし同時に『二つ』も使ってくるとは。一瞬焦ったが、だが、とも思う。これで黒鉄鋼のエレキカウントはシフトと合わせて三つも減った。派手なやり方に目を瞠ったが、追い詰められたのは燎ではない。
 燎は、咆哮を上げて酸素を喰らう紅蓮の砲弾を抉りこむようにして眼前のビルに撃ち放った。風船が割れるように空間を引き裂く閃光と轟音が迸り、衝撃波がびりびりと氷殻を走り抜けた。そしてゆっくりと光が晴れていき――
『右っ!!』
 燎側のブレインのファインプレーだったと言うほかない。詳細な説明を省略したそのシャウトに捻くれ者の精神は素直に反応した。酸素と獲物に餓えた火球の流星群からあえて『ビルの森』に深く沈みこんで距離を稼ぎ、そこから一転して急上昇した。慣性の鎖に引きずられた炎の群れはことごとく燎の氷の下を滑り去っていく。
 ナックルシフトをかけ、距離を取ったらそこで『仕切り直し』になると勝手に判断したのは燎側の落ち度だ。黒鉄鋼はシフトした後、すぐに反転して燎がいる戦場へと戻ってきた。それも上空からのフレイムチャージ付きで。
 まるで、一分一秒でも多く闘い続けたいと言うかのように――……
 新たなパイロの雨が燎へと降り注ぐ。
(くそっ!)
 燎も応戦して白四つから火球を連続して撃ち放った。固定砲台として潜伏させていた黒が戻ってくるまであと二秒。それまで、それまで持ち堪えれば、仕切り直せる。
(いや、違う、シフトだ! どこへでもいい、シフトしてしまえば――)
 心を読まれていたとしか思えない。
 燎がシフトのために神経を集中させ始めたその瞬間、燃え盛る炎の雨の中に巨大な氷の礫が混じっているのが見えた。
 黒鉄鋼のキスショットだった。
 燎の目が見開かれる。
 集中が、切れた。
 まるで攻め気を起こしてガードを緩めた瞬間にストレートを撃ちこんでくるボクサーのよう。
 燎は、完全に呑まれた。
 かろうじてスプレイをかけてキスショットだけはかわした。氷の双球が火花を散らしてすれ違う。赤く燃える小さな花の先で猛禽じみた黒鉄鋼の左目が燎を捉えたまま、残光を引いて過ぎ去っていった。全身がよじられた縄になってしまったかのように硬く感じる。燎が我に返った時にはもう、固定砲台として散らしていた黒が戻ってきていた。
 仕切り直せた――
 黒鉄鋼のアイスが曇天の鈍い光を浴びて瞬きながら、都市の方へと落ちていく。追撃でもするか、とどこか遠い気分のまま、燎はフレイムチャージのスタイルを取った。
 白が三つしかなかった。



 ○



 これが欲しかったんだ、と鋼は思う。
 すれ違いざまに黒で盗み取った白の手触りを味わいながら、鋼は落ちていく。
 あとは、この白を握り潰すだけでいい。相手は最終ラウンドまで一つ拳を失ったまま闘うことになる。こちらにとっては充分な優位だ。
 だが、それでは足りない。


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・
 それでは『ノックアウト』にならない。


 鋼の口元に微笑が浮かぶ。
 サイクロンストレートを強行したのはエレキカウントを惜しんだからではない。
 使うために残したのだ。
 見えない手で拭ったように凄惨な顔から笑みが消える。
 くたばれ。


 白を掴んだままの黒にエレキをかけた。稲妻に引きずり落とされて燎の氷が落ちてくる。
鋼はダックスプレイをかけて、燎が落ちてくる軌道から外れる。きっと恐らく燎には見えているだろう。それまで鋼の氷がかぶさっていて見えなかったものが。
 白を掴んで落ちる黒とバトンタッチをするように控えていた、鋼のもう一つの黒い拳が――――
 拳が、紫電を纏う。
 回避不能、直撃コース。
 オリジナル・スタイル。
 ギロチン・ストレート。



「――――――――ッ!!!!」



 双瞬の雷撃がすれ違う。
 諦めていれば、ここで終わりだったろう。だが、燎は諦めなかった。思考を放棄して大人しく死ぬには、彼はあまりにも臆病だった。生きたがりだった。
 白を捨てればいいと気づけばこのスタイルは容易くさばける。
 問題は、一度マウントした拳は破壊する以外にハンドキネシスから解除する方法がないということ。通常なら破いてしまうなり、障害物にわざとぶつけるなりして壊してしまえばいいだけだが、相手の黒に掴まれている状況ではそれも不可能。
 ただし、一つだけ方法が残っている。
 パイロフィストだ。


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 集中力を切れば簡単に自爆してしまうパイロフィストを、燎は初めてしくじった。


 白が黒の中で爆裂した。途端に燎に噛み付いていたハンドキネシスの鎖も消える。死に物狂いのダックスプレイが、功を奏した。
 灰色の雲に波紋を残して、絶好の獲物を逃した黒鉄鋼のサンダーボルトは消えた。それを背中で感じながら、黒鉄鋼はキスショットの果てに都市のアスファルトに着地し、巨大な破壊の爪痕を残しながらようやく止まり、凌ぎ切った天城燎を振り返った。
「畜生っ……!!」
 光が落ちた。
 煙を吹き消したように、黒鉄鋼の姿がフッと消える。
 紙を裂くような雷鳴が、無人の都市を周回遅れで駆け抜けた。
 第2ラウンド終了。






 その目に見られながら唇を奪われていると、まるで唾液と一緒に魂まで吸われていくような気がする。
 血と風と砂の世界を、何億年も過ごしてきた猫のような、その瞳――……
 呼吸をしようとすればするほど相手の舌と自分のそれが深く絡み合ってしまい、髪にかけられた指は逃がすことを許さないとばかりに強く掴んでくる。やがて、蜘蛛の糸のような唾液の線を残して、重なっていた身体が離れる。
 炎のようなキスの後に、美雷は言った。
「どうしてそんなに苦しいか知ってる?」
 燎は、返事もできずに喉を押さえていた。荒い息のまま、視線だけで疑問符を放つ。美雷は白衣の中のアイスピースをガチャガチャと右手でまさぐりながら、転送座に収まる燎を見下ろしていた。
「これじゃあどっちが片端だか分からない」
「うる……せえな……!!」
「確かに最後の切り返しはよかったよ。褒めてもいい。でも、結局は優位な状況を生かしきれず、相手に反撃させてしまった」
「その代わり」ぺっと燎は転送座の下へ白濁した唾液を吐き捨てた。
「ヤツのエレキカウントは、ゼロにしてやった」
 美雷は首を振った。
「はあ……? ふざけんな、あいつはビルから逃げる時に二発、ナックルシフトで一発、その後のあの――あのクロスカウンターみたいなヤツで二発。1Rの一発と合わせて六発。これでゼロだろうが」
「枕木涼虎が七発撃てるアイスピースを作り上げていなければ、ね」
「ぶっ殺すぞ。いつだったか忘れたが、お前が言ったんだろうが。七発撃てるアイスピースは自分に作れないなら他の誰にも作れない……って。前提が違うぞ」
「そうだね――だから、黒鉄鋼はエレキを撃ってないんだよ。あのビルから出る時に、彼はただの黒を撃ってナックルシフトをかけたんだ。ビルに追い込まれたことを逆手に取って、時間のかかる方法でパンチの威力を上げた。たとえば、零距離で拳を振り回して砲丸投げみたいにぶっ放したとかね」
「……ふざけやがって。それじゃあいつは不調の黒でそんな自爆しかねない荒業をやったっていうのか? 俺にあの技を仕掛けてくるために? ただそれだけのために……」
「でも、そのせいで君は追い詰められた。白まで一つ失った」
「それは……!!」
 美雷は、ぞっとするような手つきで燎の頬を指先で撫でた。
「君は、助かろうとしている。黒鉄鋼の上をいくには、前提から違っているんだ。パズルだってそうでしょ? 最初は絶対ここからしかないっていう手順を見つけたら、あとはその繰り返し。それで答えに辿り着ける」
 でも――と美雷は囁く。
「でも、死と仲良しな人間の手順は、普通の人間とはその最初の一手から違うんだ。だから君には彼の心が読めない、分からない。黒鉄鋼は元ボクサー。ただ生きていくには最も不向きな世界からやってきた人間の心は、君みたいな普通人のそれとは最小単位から別物なんだ。でも、私には分かる」
 燎の頬骨のあたりに、美雷の指先が食い込む。罪を告白するように、美雷は言った。
「私は、彼と同じだから。こんな地の底でしか生きていける場所のない私は、死んでいるのと同じだから、分かる。彼の気持ちが。彼だけの苦しみが」
「美雷……」
「ねえ、教えてあげようか」
 美雷は、燎に身体を預け、彼の髪を慈しむように撫でさすりながら、言った。
「黒鉄鋼の弱点を――……」


 ○


 水をぶっかけてくれ、と言い出した鋼の頭に、殊村は並々と水の注がれたバケツの中身をぶちまけた。一瞬で豪雨の中を駆け抜けてきたようになった鋼の髪を涼虎の両手がかき上げる。額を晒す形になった鋼の顔は、リングに魂を置いてきたように覇気がない。サンキュ、と言いかけたその唇を涼虎が奪った。
 鋼の肩にかかった涼虎の指に力が篭る。
 やっとその唇が離れても、涼虎は目を逸らさなかった。
「黒鉄さん……」
「……悪ィ。ノックアウトには、ならなかった……」
「いいんです。それに……あなたが謝ることなんてないんです」
 涼虎が俯き、長い前髪がその表情を隠した。
「私にはもう、あなた達の闘いは高度すぎて、何も言えません。ついていくだけで、精一杯です。だから……」
 涼虎はその場に膝を着いて、鋼の左腕を手に取った。両手でそれをぎゅっと握り締め、傷一つない額に当てる。
 鋼が、眩しいものを見るような目になった。
 呪文のように、涼虎の口が言の葉を紡ぎ出す。




 おまへがたべるこのふたわんのゆきに
 わたくしはいまこころからいのる
 どうかこれが兜率の天の食に変つて
 やがてはおまへとみんなとに
 聖い資糧をもたらすことを
 わたくしのすべてのさいはいをかけてねがう




 涼虎が、顔を上げた。
 風邪を引いたように、頬が赤い。
「み、宮沢賢治です。知っていますか?」
 鋼は何も言えずに首を振った。涼虎は、しくじった、と言いたげな顔を少しだけ見せたが、軽く唇を噛んで焦燥のような恥辱のような何かに堪えた。鋼の左手を掴んでいた手を離す。
 アイスピースとミストが一揃い、鋼の手に残された。
「……本当は、セコンドの私がちゃんと指示を出してあげないといけないのに……私は殊村くんにも教えられてばかりで、今こうして帰ってきたあなたにも、何も役に立てることが、なくて……」
 膝の上で白衣を掴む手に力が入り、白衣がくしゃくしゃになる。
 揺れる瞳が、男を見上げる。
「ごめんなさい、黒鉄さん。祈ることしか、できなくて――……」
 鋼は、何も言わなかった。
 ようやく、ぼそり、と何か言った。
「……この世には、多すぎるんだよ」
「え?」
「それだけで充分なんだってことを、分かってないやつらがさ」
 鋼は、一本指を立てて見せた。
「一発だ。一発エレキがあれば、俺はどんな相手にも勝ってみせる。……さすがにゼロじゃどうにもならないけどな?」
「黒鉄さん……」
「二発もあれば充分だ。そうだろ真琴くん」
 ニヤニヤ笑っていた殊村が我が事のように頷く。
「君に勝てるやつがいたら、そいつは天使か悪魔だな」
「そいつらにだって負ける気がしねえよ。俺には、お前らがいるからな。枕木、真琴くん、ルイちゃん、八洲……」
 そして、ここまで自分を押し上げてきてくれた、かつての仲間たち。
 そのすべてに、いま、感謝する。
 鋼は、アイスとミストを口に含み、噛み砕いた。舌を貫く稲妻の味が迸り、火が点く酒を飲んだ時のような衝撃が身体中を駆け巡る。眼球の毛細血管の一つ一つまで、今なら意識できる気がする。
『クロガネくん、そろそろいく?』
「ああ、いいぜ」
「黒鉄さん、あの」
 何か言いかけた涼虎の頭をくしゃくしゃと撫でて、その手が夢のように掻き消える。
 殊村が、ふっとため息をついて、天井を見上げた。
「勝てねえなァ、やっぱ」
 空になった転送座を見つめる涼虎の横顔を、殊村は、見ていることができなかった。


 最初は、小さな炎だった。
 炎。
 炎は、常に餓えている。
 何に餓えているか。
 酸素に餓えている。
 酸素は何によってもたらされるか。
 風によってもたらされる。
 ブラックボクサーの風(あし)がかき回した都市の気流は、彼らの左/ジャブが残した小さな火種を大喰らいにし、柱の森は炎の海に覆われた。
 その光景はまさに地獄。
 云われのない罪で堕とされた苦悶の亡者の手のような、背の高い炎が風を求め、その先にある極上の生贄を欲している。死者の感情を代弁するように。
 あまりにも深すぎる苦しみは、新たな犠牲者を生み出すことでしか癒せない。
 そんな地獄を足蹴にして、男達は闘う。
 闘い続ける。



 めきぃっ……



 派手な音を立てて、眼前のアイスに深々と亀裂が入った。いいストレートだった。蜘蛛の巣状のヒビ割れの向こうに敵の黒がめり込んでいるのが見える。相手の黒を氷に引っかけたまま、鋼の身体に骨が砕けるような重力がかかる。無理に堪えてはいけない。下手にきついブレーキをかけてその場に残ろうとするより、かえって風/スプレイを抜いて、流されてしまった方がダメージは少ない。虚空のレーンを滑り落ちていく鋼の氷殻から、千切れた敵の黒手袋の断片がパラパラと剥がれ落ちていく。衝撃が完全に氷殻をすり抜けたあたりで、鋼はアッパースプレイをかけて体勢を整えなおした。見えた、と思った時にはもう直撃して爆発を起こすは紅蓮の弾丸。氷殻がビリビリと震える。これぐらいのジャブは二、三発ほどもらってしまうのはどうしても仕方がない。それよりもパイロの影に紛れて切り込んでくる黒を一つ一つ丁寧にこちらのジャブで応戦し撃墜する方が重要だった。なぎ払うようなラインでパイロを撃ち放ち、敵の黒が炎華に飲み込まれて炸裂し、氷殻が爆炎で濡れたように輝いた。
 左手をかざして氷殻に刻み込まれた傷跡を消しながら、鋼は一人、熱い吐息を漏らした。
 第3ラウンド。
 天城燎は、白を一つ失った状態で、距離を取らずに攻めてきていた。いつでもキスショットにいけそうな距離を狂った雀蜂のように飛び回っている。氷殻を透かして見える少年の瞳は糸で結ばれたように鋼を捉えて揺るがない。
 双球の狭間には、捨身の陣形が折り重なっている。背後はどちらも捨てている。燎からすればエレキ/シフトカウントが残り二つしかない鋼がキスショットをしてくる確率は低い。逆に鋼からすれば、燎はさきほどの奇襲の幻影がまだ目に焼きついていて、鋼の射程距離には迂闊に入ってこないだろう。もう一度あの『ギロチン・ストレート』を喰らって凌げる保証はどこにもない。この近距離なら、パイロフィストをわざとしくじるなんて味な真似をする前にエレキを喰らう可能性が高い。
 自然、どちらもキスショットを捨てた形になり、戦況は拳と炎による乱戦の相を見せ始めていた。
 どちらも下がらず、相手を轢殺するかのような苛烈な、それでいて最後の一線をどうしても越えられずにいる、そんな際どい接近戦。
 一発もらえば、一発返す。燎の黒が氷を撃てば、不調の黒が強烈なスウィングパンチを振り回して、たまたま当たったどちらのものかも曖昧な黒が敵の氷に直撃し、銀色の欠片が幾粒も砕け散った。どちらも氷を削られ、足下の炎上する都市に雪華が舞った。
 この第3ラウンド、鋼と燎はハッキリと競い合っていた。
 どちらが強いか、を。
 どちらのパンチが、どちらのボクシングが上なのかを――
(その鍵を握るのは――)
 鋼は考える。それは、炎、つまりジャブだと。どちらがより炎を扱えるかが、相手に黒を当てられるかの鍵になる。
 その点で言えば、ここまで全ての白を温存してきている鋼の優位は大きい。燎はエレキ/シフトカウントこそ五発も残しているが、拳は白を一つ失い、W3B2で最終ラウンドまで闘わなくてはならない。拳一つの差は大きい。これまでパイロの撃ち合いでは遅れを取っていた鋼だったが、このラウンドではほとんど互角だった。もう燎は、火力の差をぶつけてラクな試合運びをすることが出来なくなっていた。
 だからこそ、ここではお互いがどれほど効果的なジャブを撃てるかが重要になってくる。炎の裏に忍ばせた黒の一撃、すなわち『ストレート』へと繋げるために。
 そのための、『ワン・ツー・パンチ』だ。
 エレキを使わずとも、黒のスウィングブローは積み重ねていけば氷を砕く――
 そして、それを活かすための白。
 そのための、剣崎八洲との『W1B5』によるスパーリングだった。
(八洲――)
 竜巻のような乱戦を潜り抜けてきた燎の黒を白でパリングし、そのまま握り潰し、鋼は笑った。
(俺はアイツを倒してみせる――)
 冷たい氷殻の中で、鋼の情熱だけが燃えていた。
 魔王の複眼のようなパイロの嵐、それを黒の拳で殴り抜け、弾幕を切り裂き、そこから突破。不調の黒を使うなら、被弾を恐れてはならない。
 爆発の轟音で、とっくに何も聞こえない。
 負けじと鋼も白の拳から火球を撒いた。その裏側に黒の拳を潜ませる。自分のガードも意識しなければならないとはいえ、W3B3の鋼はW3B2の天城燎よりも相手の喉元ギリギリ一杯まで攻め込める。
 第3ラウンドが始まるまで、エレキ/シフトカウントでは明らかな劣勢、ハンドカウントでは一つ優勢というこの状況が果たして自分と相手どちらに利するものか、鋼自身にも判断がつかなかった。だが、今は言える。
 ――俺が優勢だ、と。
 タイムラグのあるエレキは連発したところで当たりはしない。つまり、結局残弾がいくらあろうと肝心要の土壇場では一発で決着になる可能性が高い。そしてそこへ至るまでの砲台が、W4B2から始めた燎と、W3B3である鋼では致命的な一発の差がある。
 活かすしかなかった。
 垂涎の一撃で奪い取った、この一発分の拳の差を。
 スナッピィな拳から火球をリズミカルに繰り出す。燎はそれを踊るような小刻みなスプレイダッシュで避け、かわし、ムチのようにしなやかな鋼のジャブの隙間を縫ってチャンスを狙う。
 二人の間に、濃厚な時間と確実なダメージが積み重ねられた。
 撃たれたら撃ち返す。すでにアドレナリンに支配された神経がそういう風に出来上がっていた。甘美な回避などは姿を消した。そこにはただ我武者羅に攻撃を受けたことを無視し続ける二人だけがいた。氷/ボディに黒を一発もらった鋼が幻想の激痛を脳にぶち込まれた衝撃で胃酸を吐き戻し、ジャブの集中砲火を喰らった燎の鼻から初めて一滴の血が垂れた。
 鋼は、相手のダメージの模様をしっかりと見つつ、砕けるほどに歯を噛み締めた。
(仮にもボクサーが、腹を撃たれてダウンなんかできるかよ……!!)
 双球の高度が下がっていることに、鋼は気づかない。ふと下を見れば、まるでビルの森が燃えながら二人を飲み込もうと競り上がって来たようにも見えただろう。
 酸素を噛み砕きながら燃え盛る炎と、エネルギーそのもののような拳の衝撃が数え切れないほど交錯する。
(――チッ)
 鋼のスプレイが、喘ぐように失速し始めた。
 風(あし)にキていた。
 もし完全に失速すれば、風の支えを失った氷殻は真っ逆さまにビルの森へと落下する。アスファルトに激突すれば、手元から滑り落ちたタマゴのように氷殻は粉々に砕けるだろう。
 ブレインによるブラックボクサーのノックアウト時のサルベージ回収率は、それほど高くない。ボクサーがダメージを受ければ受けるほど、ブレインとのリンクは乱れるからだ。つまり、時間が経過すればするほど、ラウンドを重ねれば重ねるほど、死傷率は天井知らずに上がっていく。
 鋼の目が、チラッと足元の都市を盗み見た。その網膜に枯れた噴水が映っていた。第1ラウンドで鋼がエレキキネシスでつけた傷跡が、凶兆のように深々と刻まれている。
 生唾を飲み込み、そしてすぐ敵へと視線を戻した時、そこには誰もいなかった。
(シフ――)
 ――トかと思ったが、違った。燎は、すぐ真上にいた。
 わずかに、鋼のパイロが甘かった。弾幕にいくつかの死角ができるのは仕方が無いこととはいえ、その穴に黒や抑えのパイロを伏せて置くのがブラックボクシングのセオリーだったが、かすかな隙が鋼の連射の上方に空いていた。たまたま目を切った瞬間に燎がそこを駆け上がったのも痛い。いや、むしろこれは燎のボクサーとしての目の良さを褒めるべきかも知れない。たった一瞬でそこを駆け上がれるために必要な判断能力は、どれほどの稀才がセコンドについていても指示できるものではない。
 とにかく、燎は鋼の頭上を取った。
 スタイルは、フレイムチャージ。
 一斉射撃の構え。
 距離を稼ぐために下がろうとして、鋼は気づく。
 どこへ逃げるというのか。
 鋼の背中には、燃え盛る都市が広がっていた。
 全身から冷や汗がぶわあっと滲み出た。
 雲海を背負った氷殻の中の天城燎が、持ち上げた左手を、笑いながら振り下ろした。
 滝のような炎の魔弾が、黒鉄鋼に降り注ぐ。

「――――ッ!!」

 ロープ際の攻防だった。

 ○

 鋼は逆に炎の雨に突っ込んだ。三点から収束しながら鋼を撃つ炎の流星の中へあえて飛び込んだ方が、収束前にできている隙間から抜け切れると判断した。手痛いダメージを被りながらも真紅の第一陣を突破する。当然のように第二陣が落ちてくる。アタマの狂ったプログラマーが作り出した攻略不能のシューティングゲームのようなその絶望。その中に紫電を帯びた黒が混じっていたことに鋼は一撃で気がついた。
 かわせないタイミングだった。
 考えている時間はなかった。
 死に物狂いのスプレイを真横にかけて氷殻を大スピンさせる。せめてもの努力でなんとかエレキが真芯を捉えるラインから氷殻をズラす。出来ることはそこまでだった。一発の電撃の化身と成った天城燎の黒が鋼の氷殻をギリギリまで削ぎ取りながら都市へと落ちた。幾本ものビルが倒壊する轟音が響き渡り、砂塵が大気を黄色く染めた。鋼はいよいよ死ぬかと思った。が、
 切り抜けた。
 またしても。
(――へっ、ツイてるぜ)
 思っていたよりも近い距離に燎の氷があった。燎は底の読めない無表情のまま、バックスプレイをかけた。焦っていたように鋼には見えた。距離を稼ぐために生贄に出された燎の黒を鋼から一番近くにいた白がパリングして握り潰した。
 反撃開始だ、と突っ走りかけた鋼の前に何か黒いものがひらりと舞った。
 黒塗りのバンダナのように見えた。
 違った。
 マウントされていない、手袋だった。
 その中身が、満たされる。
 充填される。
 紫電を帯びた。
 何を恨もうにも、その手袋を握った拳の中に隠して運んだ敵の黒は、すでに鋼によって潰されている。
 回避するのは不可能だった。
 あまりにも、その拳と鋼の氷殻は近すぎた。ガードの拳の内側でマウントされたのだ。いきなり顎の下に拳が出現したようなもの。
 残弾は二発だったが、迷わなかった。かえって鋼は冷静でさえあった。
 空気が弾ける音だけを残して、鋼の氷殻と護衛の拳が虚空に消えた。
 シフトキネシス。

 ○

 天城燎のサンダーボルト・ライトがどこかへ落ちる轟音を、鋼は氷の振動と己の耳で感じ取った。
 飛ぶなら、ビルの森しかなかった。
 だが、そのほとんどはもはや炎の海に包まれ、飛べばダメージは避けられない。
 しかし一箇所だけ、まだ炎の悪舌に飲み込まれていない地点があった。
 枯れた噴水のそばだ。
 あの周囲は広場になっていて、開けている。仮に飛んでも炎はなく、かつ障害物が少ないため上空への復帰が容易だ。飛ぶなら絶好のポイントだった。
 鋼は静かに氷殻を床に着地させ、ビルの中で安堵の吐息をついた。第2ラウンドで見せた秘蔵の奇策『ギロチン・ストレート』が、どうやら敵にエレキ二連撃のアイディアを与えてしまったらしい。しかしそれも、傷は受けたが、捌き切った――これで相手はエレキ/シフトカウント残り三。こちらは残り一だが、関係ない。
 一発あれば俺は勝つ、と鋼は本気で思っている。
 ――さァ、今度こそ反撃開始だ。
 しかし、スプレイをかけて邪魔な壁をぶち破ろうとしたところで、鋼はふと思った。
 なぜ、自分はビルの中にいるのだろう……

 ○

 転送座に白衣姿の氷坂美雷が座っている。
 頬杖を突き、足を組み、傍らにはコーヒーとクッキーを乗せたミニテーブルが置かれている。まるでそこが自分の場所だと思っているかのようだ。いや、実際、そう思っているのかもしれない。
 マス目模様の綺麗なクッキーを噛み砕きながら、美雷は、モニターの中の戦場を見上げている。
 枯れた噴水のある位置には、倒壊したビルが横たわっていた。
 天城燎のサンダーボルトライトでへし折られたビルの一つの成れの果てだ。
 黒鉄鋼は今、その中にいる。
「弱点……」
 美雷は熱に浮かされたように、第2ラウンド終了時のインターバルで燎に囁いた言葉を繰り返した。
「黒鉄鋼の弱点、それは、――『蛮勇』」
 白魚のような指先で、コインサイズのクッキーを摘み、食べた。
「勇敢であるがゆえに、たとえ残り少ない垂涎のカウントでも使うべきだと決断すれば確実に使ってくる。そしてその経験が、彼に的確な判断能力を与えてもいるけれど――ゆえに、そこが付け目。強気の姿勢も、もはや虚勢」
 両手を組んで、丹精こめて描き上げた絵画を見る画家のように、美雷はモニターを見上げる目を細めた。
「ボディを撃って火の海を意識させたのは、黒鉄鋼の視界の中に不燃地帯の枯れた噴水の画(え)をハッキリと挿入させるため。必ずそこへ飛んでくるなら、どんな必殺の罠でも張れる。……咄嗟のアレンジはあれど、彼のスタイルの骨子には、揺らぐことのない彼自身の『魂の理屈』が通っている。私には、それが分かる。だから……それを、切って落とす」
 モニターの中で、ビルの壁面がアップにされている。
 そこには、白の拳が三つ並んで張りついていた。中にいる黒鉄鋼が姿の見えない白を寄せようとして、壁に阻まれたのだ。
 そしてその拳を一直線で繋いだ先に、天城燎の漆黒の拳が控えていた。
 紫電を帯びている。
「残念だよ」
 美雷は言った。
「科学(わたし)と暴力(あなた)が手を組めば、もっと上にいけたのに」
 その口元が、ニィッと歪んだ。
「今度は、左腕だったね」


 解き放たれた雷撃の閃光が、モニターのチャチな画素数を真っ白に塗り潰した。
 稀才異能が織り成すは致命の一撃。
 ――左腕殺し。


 左腕の感覚が無い。
 本物の左腕の感覚が、だ。
 ほんの一瞬の油断だったと言っていい。ビルの壁も貫けない程度の軽い力で拳を寄せたのが最悪だった。そのせいで鋼の三つの白(ひだり)は一直線に釘づけになり、

 そこを、
 撃ち、抜かれた。

 恐怖の旋風と絶望の氷山が全神経を貫いて、鋼の身体を駆け抜けた。氷殻にこそ喰らわなかったが、あれこそ拳闘における究極の『見えないパンチ』――鋼の左腕の感覚を吹っ飛ばすほどの一撃だった。特効の麻酔薬を原液で注射されたように、肩から先に何も感じない。
 両腕を落とされた気分だった。満足な四肢は両足だけ。それも度重なるダメージで震え、痺れ、崩れかかっていた。衝撃を受ける度に滑り、転び、よろけ、膝を着いた。ダウンの連続だった。
 だが、ブラックボクシングはボクサーの戦意喪失で実験中止にはならない。
 絶対に。
「う――――」
 霞む意識が、痛みによってスクラッチされ、半覚醒状態のまま、耐え難い苦しみだけを与えられた鋼が見るのは、敵意を帯びた無数の拳。切れの鋭いジャブやショートの嵐が鋼の氷殻を整えるように切り刻んでいく。何も出来ずに撃たれ、破れかぶれで切り返した黒(みぎ)の拳は無を押した。拳を潰してくれるならまだいい。天城燎は鋼の不調の黒を掴むと、ハンドの射程一杯で振り回し、今までのラウンドの借りを返すとばかりに鋼をビルの森に叩きつけた。何度も何度も。そして亀裂だらけで真っ白になった鋼の氷殻を燎は黒の拳で直に掴んだ。ばキばキばキばキ、と亀裂がさらに深くなる。指先だけを氷に浅く埋め込んだまま、燎の黒は駄々っ子のように鋼の氷をコンクリートやアスファルトに叩きつけ、引きずり、すり潰し、投擲し、打ちのめし、押し潰した。最後に転がっていた鉄パイプを白と黒で握り締めると、上段から兜割りに振り下ろした。甲高い音が鳴り響き、鉄パイプの方が捻じ曲がった。白と黒の拳が一瞬沈黙し、ポイっとへたった鉄パイプを投げ捨てる。それを燎の目が、冷静と情熱の間の眼差しを湛えて、見下ろしていた。
 鋼の氷は、砕けなかった。
 だが、燎が考えていたように、鋼の氷殻がエレキを使わなければ破壊できなかったわけではない。むしろあのまま延々と攻撃し続けていれば、案外あっけなく勝負は着いていたかもしれない。事実、鋼の氷殻の内側は鮮血と吐瀉物がびっしりとぶちまけられていた。鋼は真っ白になった氷殻の中で、仮死状態の左腕をだらんと下げたまま、両膝をつき、うな垂れていた。
 痛みで涙が出た。
 自分の汚物に額をつき、頬を当て、抑え難い屈辱が目尻からとめどなく流れた。
 つらかった。
 左腕をやられた瞬間、勝負は着いたと思った。本気でギブアップするべきなのではないかと考慮した。それぐらいに、あの左腕殺しは効いた。物質的にも精神的にも、あれは致命傷に違いなかった。パイロを撃てなければまったく戦術が立てられないのだ。すべての攻撃が炎のジャブからスタートしている。左を封じられたというのは、逆転への取っ掛かりその全てに油が塗られたようなもの。どう頑張っても徒手空拳では登れない。何をどうしようとも、どれほど抗おうとも。

(畜……生……)

 美雷は鋼を『勇敢』と称したが、それは違う。
 ただ必死なだけだ。死に物狂いで勝ちへの道を走り続けることだけが、ほんのわずかな可能性に繋がりうるということを、骨の髄まで知っているだけだ。
 だが、もう、それも限界だ。
 立ち上がる力が、鋼には残っていない。思えば、ここまでのラウンドが奇跡の連続だったのだ。本来、スペックで言えば黒鉄鋼は天城燎に遥かに劣る。そういう身も蓋もない素質の差は、結局のところ、大事な勝負所で待っていましたといわんばかりに顔を出す。そういうものだ。
 それは分かっている。
 それは分かっているが、この男は、そこからなお前を向く。

『――クロガネくん』
『ル――イ――ちゃ――』

 たった一瞬前まで、諦めていたはずである。
 それが、いまや、疲労困憊/満身創痍のズタボロ姿で、フラフラと、立ち上がっていた。自分でも、なぜ立ち上がったのか分からない。亀裂が薄くなっていく氷殻の先に、黒い太陽のような円影が見える。呼吸が少しずつ深く静かになっていく。
 なぜだろう、と自分でも思う。
 こんなザマで、左腕も動かず、泥まみれになりながら、どうして自分は立ち上がるのか。八洲のためか。涼虎のためか。それとも自分のためなのか――
 あるいは、
 ボクサーだから、か。
 10カウントは、まだ聞こえてこない。
『クロガネくん、聞いて』
 鋼の目がぎょろりと動いた。
『いま、相手は迷ってる。すぐにエレキで決着をつけるか。それともこのまま嬲り殺しにするか。いい? すぐにここから逃げて。――ううん、ただ逃げるだけじゃない。白をすべて失った以上、もうクロガネくんにはビルの森を上手く使ったゲリラ戦法しか残されてない。厳密なヒット&アウェイだよ。まともにやったら勝てるわけがない。それは、分かっているでしょ?』
 鋼は頷いた。
『ありがとう。大丈夫、クロガネくんのアイスは絶対に誰にも砕けない。もう一度、キスショットさえ出来れば、たとえどんなにゼロに近くても、勝ち目はまだある――だから一番やっちゃいけないことを、それだけを言うよ』
 鋼は足元を見下ろした。
 黒い手袋を重ねて繋いだ、グローブホルダーが落ちている。燎の黒に氷をオモチャにされた時の衝撃で落ちたのだろう。
 左腕は、まだ指先が痺れている。
 拾うことが、できない。
『一番やっちゃいけないのは、クロガネくん、それは「このままここに残る」こと。いいね? それだけは、絶対にしないで』
『わかった』
 素直に答えて。
 鋼は、

                      ・・・・・・・・・・
 ――躊躇なく、落ちていたグローブホルダーを思い切り蹴っ飛ばした。


 引っ張れば千切れる程度の連結が外れ、瓦礫だらけの枯れた噴水跡地に黒い手袋が散らばる。度重なるスプレイダッシュと燃え盛る紅蓮の炎は人間ごときが踏み止まることを許さない強烈なビル風を巻き起こしており、空っぽの拳たちはその透明な渦に飲み込まれて舞い上がった。

『俺は、ここに残る』

 元々ゲリラ戦を挑めるほど、炎の海と化したビルの森に安全地帯も潜伏地帯も残されてなどいない。ならば逆にこの開けた噴水広場で真っ向勝負を挑んでやろう。
 打ちのめされた記憶はもう消えた。涙は熱気で乾いてしまった。
 その口元に笑みが浮かぶ。
 これほど反省しない男も二人といない。
 アタマの中には、無限の戦闘風景が流れ続けているだけだ。
『諦めるのは、もう飽きた――』
『クロガネくん――!?』
『ルイちゃん――奇襲ってのはな、真正面からやるもんだ』
 絶対に違う。
 違うが、この男はそれを可能にする。
 透明度を取り戻した氷殻の中に活きた瞳を見つけて、燎の態度が変わった。鋼に向かって白と黒の拳を執念じみた機敏さで急降下させる。マウントされていない空の手袋が、すれ違っていく燎の拳の風圧を浴びてヒラリとよろけた。
 燎の口元に笑みが浮かび――それが凍りついた。
 マウントされていない手袋がどれほど脅威になるのか、彼は知っていたはずである。それを知りながら、黒鉄鋼の作戦に気づかなかった理由は、一つしかない。
 考えたくなかったからだ。
『ぐ――――ッ!!』
 虚空に舞った手袋の中から、鋼の拳が三つマウントされて、目覚めたように燎へと襲いかかる。唸りを上げて、触れた空気が歪むのさえ視認できるような豪拳の一発が燎の氷殻に醜い擦り傷を深々と残していった。当たった外れたを問わず一瞬後にはすべての拳が戻ってきた燎の白と黒に撃墜されていた。
 が、拳はまだある。
 虚空にいくつも、舞っている。
 黒鉄鋼はその場から動かず、氷殻をアスファルトに鎮座させたまま、左手をまっすぐ天井へ伸ばしている。
 笑っていた。
 逆らうことが許されぬ下僕のように、いくつもの黒い手袋が、火の粉が渦巻く都市の底で旋回している。鋼の目から見上げれば、それは、拳の万華鏡のように見えたかもしれない。
 どこからどの拳を潰されても、虚空に散った一発限定のマガジンから、すぐに再装填される無限の拳。
 それは相手の考える気も無くさせる、悪い夢のような戦術だった。

(俺はまだまだ倒れない――)
(どうする? 俺はこれでも諦めない――)
(そんな俺を上回る技が、まだお前にあるか?)
(氷坂、美雷――!!)

 指揮者のように鋼が腕を振るうたび、その痺れた指先から散った指示が空の拳へ伝わり、燎を撃つ。燃え盛る炎の熱気で、光は歪み、拳が陽炎の中で揺らめき何重にも重なって見える。それは、拳が大きく見えるということ。
 燎は怯えた。

(くそっ、くそっ、くそっ――!!)

 追い詰めたと思えば、また自分が窮地に立たされている。いくら鋼の拳をパリングして潰しても、すぐに再充填された拳がからかうように殴ってくる。これではさっきと立場が逆だ。燎の唇が震えた。

(どうして、俺が、こんな目に……)

 パリングして、相手に拳数を増やさせているのは自分なのに。
 何故こんなにも単純なスタイルに自分が翻弄されるのかが、分からない。
 ビルの上空では手袋が四散してしまうために使えない手とはいえ、どうしてこんなにも有効な戦術がビルの森の中で効果を発揮してしまうのか。
 こんなにも使えるスタイルなら、なぜそれが伝わっていないのか。それが、ヤツの、黒鉄鋼の『オリジナル』だからとでも言うのか。
 それとも何か、致命的な弱点が、このスタイルにはあるというのか。
 致命的な、弱点が――
 拳の乱打を喰らう燎の目に、ふっと、眠りから覚めたような光が宿った。
 ――黒鉄鋼は、本当に、このスタイルをいつまでも続けるつもりなのだろうか?
 そんな疑惑が湧いた。
 瞬間、心臓を撃ち抜かれたような衝撃を伴って、天啓が燎の脳裏を駆け巡った。分かってしまえばシンプルなトリック、どうして気づかなかったのかと自分を責める時間も惜しい。吹き荒れる鋼の拳の嵐に、燎は自分の拳をガードに回した。拳で拳を取る時は、強くやってはいけない、撫でるように穏やかな手つきで、その拳の圧力と波長を合わせる。三つの拳を同時に捉えた燎は、それを強くパリングして弾き飛ばしたり、ましてや握り潰したりしなかった。ただ、鋼の黒を掴んだ拳をぎゅっと、固めた。
 それでもう、鋼の黒は動けない。カゴの中の鳥よりも窮屈な白と黒の檻の中で、悶えるしかできなかった。燎の槍のような視線が、背骨もへし折れそうな重力を伴って、眼下の鋼のもとへと落ちた。どす黒い殺意そのものが、眼窩から零れているようなものだった。燎の手持ちの拳は白黒合わせて五つある。敵の黒に三つ割いたとしても、あと二つ。
 随分と。
 随分と。
 舐められた、ものだった。
 息も詰まるような真紅の激怒を、燎は胸を膨らませて呑み込んだ。
 鋼が、それを火の粉の渦の底から、見上げていた。

(激昂したのか)
(気分いいだろ?)
(でもな、どんなに理屈をこねようと)
(それを『隙』って、呼ぶんだぜ)

 敵の見せた、そんな瞬間を見逃すほど、黒鉄鋼は詰めの甘いボクサーではなかった。
 考える時間など与えてやらない。
 燎の白に掴まれた自分の黒を、狂ったルーレットのように大回転させて、拘束から逃れさせた。弾かれた燎の白までが緩い回転に引きずられてよろめく。スピンして高々と舞い上がった己の黒を、鋼は、真っ直ぐに撃ち下ろした。
 黒い稲妻と言ってもいいその鉄槌を、しかし、惚れ惚れするほど甘美な後味を残すスプレイダッシュで燎がかわした。間一髪の回避に焦りながらも薄ら笑いが浮かんでいるのが鋼にも見えたが、かわされるのは想定内。そこからさらに鋼の黒は落ちる、落ちる、落ちる――
 激突。
 アスファルトを粉々に砕き、枯れた噴水を木っ端微塵にし、周辺に残っていたわずかなビルまで完全に倒壊させる衝撃が地を割った。落下速度込み、黒鉄鋼の不調の黒、その撃ち下ろしの右/チョッピングライトは破壊だけを撒き散らして跡形もなく千切れ飛んだ。爆音と砂塵が燎を飲み込むのを横目に、鋼はアッパースプレイを氷殻が軋むほどの威力で撃ち放つ。首根っこを掴まれたものの抵抗する意志を失っていない子猫のような姿勢で、鋼は空中へと舞い戻った。
 いいさ、と思う。
 あんな即興スタイルに、どこまでも拘泥するつもりは最初からなかった。欲しかったのは、最初からこの位置。いわばあの拳の万華鏡は、猫騙しのようなもの。
 この空は、ビルの森とは違う。曇天近くのこの高空なら、追い詰められてもコーナー際の攻防にはならない。雲には障害がないからだ。自由にスプレイをかけられる上に、相手からは視認しづらい。限度はあれど、上と下ではまさに天と地ほども条件が違う。
 炎の海に逃げ場はないが、雲の中ならいくらでもある。
 『見えない位置』から撃たれる拳にせいぜい震えればいい。
 黒鉄鋼は狙うだけだ、相手めがけて、
 一撃必殺の――『落雷』を。


 震える指先で、グローブホルダーに触れる。残ったエレキはたった一発。しくじれば、後はない。
 それで充分。
 崩壊したビルの瓦礫から、狂った鳥のように燎の氷殻と白黒五つの拳が飛び出してきた。ぐんぐんと速度を上げて迫ってくる。小型ミサイルのように風を切り裂き駆け抜ける拳が、燎を追い越した。ガード圏内から解き放たれた一対の白と黒の双拳が、緩い螺旋を描いて虚空に浮いた鋼の氷殻を狙う。

(いいカンしてるぜ)

 鋼の指先の感覚は、ダメージの霧に吸い込まれたまま、まだ戻らない。垂涎の白を撃ち落したくとも、肝心の拳がない。
 ゆえに、好機。
 雷鳴/ゴングまであと十数秒。
 雲の中へ逃げたところでそれまで、自分に懸かった条件は少しも改善しない。鋼の視線が豪雨の切れ端のように迫り来る双拳とその先にいる金髪のボクサーへと降り注ぐ。
 世界をどれほど斜めに見下ろそうと、自分を殺そうとしてくる存在を止められるわけがない。倒すしかないのだ。どんな理屈を並べても、お互いの殺意は少しも薄まらないし、抑えたところで痺れに痺れた闇黒は膨らみ続けた挙句に自分の我の中で破裂する。
 だから、獲るしかない。
 骨も残さず、必ず殺す。
 鋼は、痺れに痺れた左手の指先を片方残ったグローブホルダーに一直線で振り下ろした。弾かれたホルダーがベルトから千切れ飛び、衝撃で再び黒塗りの手袋が虚空に舞う。だが、今度は炎の手に押し上げられることなく、すべての拳が落ちていく。氷殻の中で拳を充填すれば、手袋とは違い、それは『己自身』として処理され鋼の肉体と同じように氷の外へ出ることができない以上、他に打つ手はなかった。
 再度展開される拳の万華鏡の中に、虚空を駆け抜けてきた天城燎の双拳が混ざった。充填した鋼の拳は三つ。W0B3。血走った鋼の両眼が、全てを呑み込もうとするかのように見開かれる。パンチの種類は決めていた。脳の中のキャンパスに、死者を蘇らせたがる愚か者のように、深く、深く、それをイメージする。振り払うような拳跡を。接近戦における最強のパンチを。拳を解き放つ。それは、三つ顎のクワガタが獲物を狙ったようなフックの鉤爪。それが、燎の解き放った白と黒の双拳に怒涛のように流れ込む。当たれば砕ける、それが、

 ――当たらないだろうということは、分かっていた。

 三つの拳が、空を貫く感触だけが、生温く残った。
 それでも、攻めるしかなかった。少しでも、相手の首元に刃を押しつけ続けることだけが、勝ちへの細いタイトロープなのだから。たとえ、それがあまりに弱く、あっけなく千切れてしまう程度のものだったとしても――
 鋼は、思わず左腕で顔面を覆った。目を固く瞑り、歯を砕けるほどに噛み締めた。助からない高さから背中を押されたような恐怖が脊髄を駆け抜ける。
 だが。
 衝撃は、いつまで経ってもやってこない。
 鋼は、目を開けた。
 何もかもが夢だったかのように、虚空には何もない。鋼の三つの拳が困惑したように漂っているのと、遥か下で燎の氷殻だけが浮いているばかり。
 鋼を撃ち砕くはずだった、あの双拳は、影も形もどこにもない。
(――――)
 吹き抜けた風が、氷殻にまとわりついた瓦礫の粒を掃って落とした。鋼の目がそれを捉えて、視線を落としていく。おかしい。ぞっとするような違和感が吐き気を伴って這い上がってきた。何かがおかしい。絶対に妙だ。試合中にいきなり蹴たぐりを貰ったような気分がする。怒りに似た戸惑いが鋼の名前を呼ぶ。よく考えろ、と。
(拳が消えた? そんなわけ――)
 揺らめく鋼の目が敵を捉える。
 天城燎の氷殻は、動かない。パンチも出さず、キスショットもせず。まるで鋼が答えを出すのを待っているかのように。
 待ち侘びて、いるかのように。

「――――ッ!!」

 ・・・
 そうか。
 身が千切れんばかりに、鋼は振り返った。
 雷を孕んだ灰色の積雲。
 その中に、爪で軽く引っかいたような白と黒が見えた。
 双拳は、恋人のように指を絡めて、手を繋いでいた。
 高鳴る想いのように炎が燈る。
 小さく細かく弾ける紫電の祝福を帯びて燃える、それは、
 エレキとパイロの合わせ技――――
 パイロフィストとサンダーボルトを結びつけ、組み合わせた撃ち下ろしの双拳。
 そうだ、と鋼は思う。
 シフトキネシスは、本体と共に充填した拳も瞬間移動させる。

           ・・・・・・・・・
 鋼の氷殻を撃つ直前にほんの少しだけ前にシフトすれば、燎の双拳は黒鉄鋼の背後へ抜ける。


 がら空きの背中を撃ち抜く『ラビットパンチ』にしては、それは、あまりにも残酷な攻撃力を持っていた。
 超新星(super nova)のように輝くそれを、見上げる鋼の目が消し損なった炎のように瞬いた。いまにもあの双拳は落ちてくる。回避も防御も出来はしない。相手は殺しにかかって来ている。
 対抗策はたった一つ。
 カウンターを当てにいくしかない。
 威力を殺せればよし、撃ち負かせればさらにいい。それには、絶大な威力が必要だ。ただのパンチだけでは凌ぎ切れない、不調の黒でも真芯を撃ち抜ける速さと硬さを兼ね備えた一撃必殺の拳。それは、敵地で自殺するために残された兵士の弾丸のように、この瞬間に費やされることを望んでいたかのように、黒鉄鋼にたった一発だけ、残されていた。
 選択の余地はなかった。
 最後のエレキキネシスを撃つしかなかった。
 決意の戦慄が黒髪を逆立たせ、全身の肌は粟立ち、紫がかった唇が震え、そして、
 架空の拳(みぎ)に、血が廻った。
 あるはずのない『それ』に、ドクドクと『現実感』が注がれていく。杯に酒を満たすように、時計の砂が積もっていくように。
 それが、溢れた瞬間、黒塗りの拳に紫電が走った。強く握りこまれた拳がさらに深く丸まり、幻想の筋肉が隆起した。返す刀で切り落とす、狙うは直上、金色の一撃。油断し切ったこちらの背後を喰らうつもりだったのだろうがそうはいかない。
 ブチ殺す。
 思い浮かべたパンチの種類は、相手の顎を撃ち砕き、その意識を天井近くまで吹き飛ばす一撃必倒のライトアッパー。拳に絡みついていた取るに足らない支配の網など、撃ち放たれたその一撃の前に消し飛んだ。
 音が死んだ。
 炎と雷から産まれた拳眼を、一発のサンダーボルトが真っ向から迎え撃った。稲妻と稲妻のキスショットが、閃光と轟音のラッキーフィーバーを巻き起こし、その衝撃波で無人の都市を覆い尽くした雲海が水滴を垂らして出来た波紋のように一点から放射状に吹き飛んだ。シェルターの天井に設置された気象制御用のデバイス・アイの冷たいレンズが正体を見破られた道化師のように剥き出しにされ、鋼と燎を等しく見下ろした。稲妻の切れ端が邪魔者の介在を拒むように激突した拳から四散して、その青いレンズに亀裂を走らせた。
 それは、一瞬にも満たない刹那の出来事だった。
 ゆえに、その決着も、あっけなく着いた。
 拳と拳の狭間から迸った無限の光の中で、鋼は見た。指を一本一本、見えない子供の手で無邪気に引き剥がされていくように、己の黒拳が燃え尽きていくのを。震える眼窩で喰い入るように見つめたが、その光景は現実だった。轟音で破れた鼓膜からぽたぽたと血が滴っているのを感じた。やめろ、やめろ、やめろ。何度も胸の内で呟いた。それでも鋼の黒は焼け落ちていく。雷の鍔迫り合いは、刹那を重ねるごとに燎へと勝利の天秤を傾けた。やがて、ただの断片と化した鋼の黒をまとわりつかせたまま、天城燎の必殺の一撃が、紅蓮の炎に包まれた一振りの雷(いかづち)が、真っ直ぐに天啓のごとく落ちてきた。回避はできない。防御もできない。過剰に分泌されたアドレナリンの見せる、眼球も筋肉も動かすことのできない静止した時間の中で、鋼は逃げ出すこともできず、その瞬間を迎えた。
 それは、己の拳で世界を獲ると誓った男がおめおめと見苦しくこんなところまで生き延びてきてしまったことへの、誰のものとも分からない、許され方も存在しない、たった一つの罰なのかもしれなかった。
 世界が白に塗り尽くされる。
 そして、その光の中でなお眩く輝く黄金の炎が、黒鉄鋼の氷殻を直撃した。
 完膚なきまでに。


 氷坂美雷は、養殖された天才だった。


 人間を一人造るのは今の時代では簡単なことだ。年間四十人に一人は体外受精で産まれているし、代理母出産も国籍のない人間や負債にまみれた女を引っさらってくればカタがつく。いつまでもネズミやヒツジをいじくり回していたところで人間の役に立つわけがなく、当たり前のように、その研究はもう数十年も前にこの国のどこかで始まった。
 知能面における、天才児の人工創造。
 記録によれば、氷坂美雷は自殺した作家と没落した資産家の令嬢が提供した精子と卵子を混ぜた受精卵の成れの果てらしい。が、何度となく爪で引っかいても痛がりもしなければ泣きもしないその二人の名前にさして意味などはなく、美雷は、親の愛情の代わりに研究員の好奇心を一身に浴びて、地下深くの研究所で密かに育てられた。まるで怪物のように。
 事実、怪物のようなものだった。
 天才児を作り上げるためにかき集められた精子と卵子に刻み込まれていた遺伝子は、確かに突出した能力を発揮しうる形質を有してはいたのかもしれないが、それは決して次代へ引き継がれるような性質ではなかった。違った種を組み合わせると優れた形質を発現すると遺伝学では言う。いわば、すでに提供者たちの精子と卵子は人間における『雑種』だった。雑種強勢は、一代限りでほとんどが終わる。
 これからサラブレッドを作ろうという時に、雑種と雑種を混ぜ合わせて、どうしてそこから貴種が誕生すると誤解できたのか、当時の科学者たちの盲目ぶりはもはや笑い話だったし、そんな愚昧が罷り通って数百人の恐るべき子供たちが生まれてしまったことも、科学の醍醐味の一つなのかもしれない。
 高名な学者や偉大な芸術家、大企業を興した事業家や血まみれの連続殺人鬼、いずれにせよ正義や秩序を出し抜く力を持った逸脱者たちから提供された遺伝子から誕生したゼロ歳の被験者たちは、そのほとんどが生まれながらに発狂していた。死亡した被験者たちの脳のデータを見直してみると面白い。中には一部の機能が不必要なまでに肥大化してしまっているものや、用途不明の部位が発生してしまっている乳児もいた。右脳左脳からさらに分かれてタンコブのような脳が前頭葉のさらに前に出来てしまっている子もいれば、美雷のように脳地図だけを見れば常人と変わらない個体もあった。
 ゆえに、その実験は成功するはずがなかった。天才たちから集められた種は、楽園の庭園を作るにはいささか根が強すぎた。確率で言えば、出資者たちが求めた結果を得るには天文学的な数字をブチ抜いた幾星霜の年月と無限に近い資金が必要だったろう。あらゆる疑問に答えをくれる神の頭脳が発生するのが先か、人類が宇宙へ進出して繁栄するのが先か。そんなフレーズすら真実味を帯びていた。
 しかし、美雷は生まれた。
 美雷だけではない。現在まで生き残っているその実験の被験者は四十七人。全員が、ほぼ美雷と同等の優れた知能を発揮した。同時に、その秘められた狂気をも。
 生まれるはずのなかった子供たちは、ありえないと言っていいほどの確率を飛び越えて、この世界に生まれてきてしまった。稀にあるのだ。
 勝てないはずのギャンブルに、どういうわけか勝ちまくってしまうということが。
 天才児たちが集められた、なんの変哲もない真っ白な部屋が、幼い彼女たちの作ったもので、いつも小さな遊園地のように賑やかだった。たとえ、そこに閉じ込められた少年少女たちのほとんどが、決して理解し合わず、打ち解けず、愛くるしい会話の一つも交わさなかったとしても――そこには芸術があり、神秘があり、発想があり、そして彼女たちに望まれた『才能』が湧き水のように溢れ返っていた。
 美雷たちを造り出した科学者たちはその光景を、今度こそ、『楽園』と称した。
 けれど、同胞は言う。
 生まれてこなければよかったと。
 どれほどの才能を発揮しても、利用され、結果を出せなければゴミのように処分される。ほんの少しの欠陥さえも許されない。美雷たちに託された研究や実験は未来への価値を孕むと同時に莫大な費用を要する。発狂死を切り抜けられても、成果なしと判断されれば、今度は実験する側からされる側へと転がり落ちる。窓ガラスの向こうの地獄は、いつでも霧のように忍び寄り、彼女たちの足を触ろうとしていた。
 だが、美雷は己の出自を不快には思わなかった。
 それどころか、誇らしかった。自分は書物の中で甘ったるく語られる『愛の結晶』などというなんの硬度も持たない概念ではなく、連綿と築き上げられてきた人類の『叡智の結晶』なのだ。そう思えば、胸に吹き込むどんな隙間風も、祝福の吐息になった。科学者の立場から見れば、手に入れたいものを養殖して育ててしまおう、という考え方は(美雷は決して嫌いではなかった。)
 そして、美雷は与えられた課題をこなしながら、地下実験施設で暮らし、育った。彼女たちの何人かは発現した才能によっては『外』へ出て行くこともあったが、国家機密に関わる実験に携わる美雷のようなタイプは、ほとんど軟禁状態で研究室に押し込まれていた。
 昔、誰かが言っていた。

 天は虚空、地は豊穣。
 実りのあるものは地の底からしか生まれない。

 だから美雷は、太陽を知らない。その肌は悲しいほどに白く、青く、透けていた。彼女にとって自由とは、自分の部屋から研究室へ行く時に近道をするか、遠回りをするかの違いでしかなかった。雨も知らない。風も分からない。
 そんな時だった。
 テレビの中で闘う黒鉄鋼の背中を見たのは。
 その後ろ姿は、氷坂美雷の英雄だった。
 頬杖を突いて見ていたのを今でも覚えている。
 黒鉄鋼のデビュー戦――まだ彼は十七歳の少年だった。
 何かの雑誌の付録だったボクシングの試合のDVDが、たまたま談話室の再生機に入ったまま、流れっぱなしになっていたのだ。普通なら、テレビで放送されるような試合ではなかった。
 初めてプロボクシングのリングに上がった鋼は、ニュートラルコーナーから立ち上がるたびに、真っ黒なグローブに覆われた手で黒髪をかきあげて、眩しそうにスポットライトを見上げていた。ゴングが鳴ると弾かれたように飛び出していって、屈強な対戦相手に殴りかかっていった。いくつもパンチをもらい、たたらを踏んだ。それでも鋼はパンチを返した。撃たれたら必ず撃ち返した。
 それは、どちらの拳が上かを決めようとしているような、烈しい試合だった。美雷の素早い目が、何度も試合をストップしかけるレフェリーを捉えた。だが、結局カタがつくまでレフェリーは試合を止めなかった。
 アマチュア出身、父親は世界王者という鳴り物入りでプロデビューした同い年の少年を、黒鉄鋼は4RTKOで殴り倒した。マウスピースが弾け飛ぶような強烈なショートアッパーが対戦相手の顎を直撃した。両眼から焦点がぼやけ、その身体はストンと両膝を着いた。そのまま、立ち上がれなかった。レフェリーが、両腕を交差させたのを、自分が何をしでかしたのかも分かっていないような顔で呆然と立ち尽くしていた少年の目が捉えた。
 黒鉄鋼は、吼えた。
 何かを背負い上げるかのように右拳を突き上げて、リングを駆け回ってニュートラルコーナーに登りあがって何かを喚き散らしながら馬鹿みたいに笑っていた。リングに拍手が降り注ぎ、セコンドがしがみつくようにして少年をコーナーから引き摺り下ろした。この頃はまだ誰かの前座でしかなかった黒鉄鋼は、いつまでもはしゃいでいるわけにはいかなかったのだ。
 そして順当に試合が流れていき、やがてDVDの再生が終わった。
 頬杖を突いたまま、美雷は泣いていた。頬を滴るそれが涙だと分からず、天井を見上げて首を傾げた。雨も知らないくせに。
 暗くなった画面を、美雷はいつまでも見つめていた。その暗闇の向こうにさっきの少年がいるかのように。
 心を撃たれた理由なんて分からない。
 ただ、似ていたのかもしれない。
 人に触れたことすら数えるほどしかない少女の牢獄と、己の拳でプライドを奪い合う拳闘の世界は、その苛烈さにおいて、ほんの少しだけ、似ていた。

 ○

「読まれてた」
 お気に入りのマグカップを磨くように、乾いたタオルで美雷は天城燎の顔を拭った。燎は為されるがままに顔をしかめながらも、疑問符を浮かべて美雷を見上げる。美雷は裂けるほどに強く唇を噛んだ。噛み千切らないようにするのに苦労した。屈辱に似た熱波が身体を燃やした。読まれていた。自分の秘策が、最高の一手が。
 恥ずかしい、と思った。
「……読まれてた、って?」
 燎が、訝しげに、そして自分が間抜けな質問をしているのではないかという微かな不安を滲ませながら美雷に聞いた。事実、それは愚問に近かった。
 雲海近くまで浮上した黒鉄鋼に白と黒の双拳を撃ち放ち、敵のアイスを撃つ寸前で接近シフトをかける。すると拳はアイスをすり抜け、ノーガードの背後にシフトする。そこで、拳を組み合わせ、白のパイロで火炎をまとい、黒のエレキで渾身の電撃を叩き込む。かわせるはずもなければ、受け止めることもできない至高の魔拳。
 黒鉄鋼は、それに気づいた。そして最後のエレキで切り返してきた。モニター越しでさえ発狂しそうな恐ろしい瞬間だった。燎の魔拳が打ち克てたのは、素材の差だと言っていい。並みのブラックボクサーの魔拳では、黒鉄鋼のサンダーボルト・アッパーは凌ぎ切れなかったはずだ。
 間一髪の連続だった。
 美雷は、燎が自分の返答を待ち続けていることに気づき、目線を上げた。
「あの一撃は、私の切札だった。読まれるわけが、ないと思ってた。でも、黒鉄鋼は耐えた。あの一撃を受け止めた。直撃した瞬間にゴングが鳴ったとはいえ、普通なら耐えられるわけがないんだ」
 ぎり、と奥歯を噛み締める。
 そう、耐えられるわけがないのだ。
 あのパンチをあらかじめ、考案してでもいなければ。
「黒鉄鋼は、たぶん、スパーリングの時はW2B4か、ひょっとするとW1B5を通常スタイルにしていたのかもしれない。第3ラウンドで見せたワン・ツー・パンチのコンビネーションにはファイアスターター特有のにおいがあった。……そうか、くそ、どうして気づかなかったんだろう。サンダーボルト・ライトの威力で眼が眩んでた……どう考えたって、黒鉄鋼はファイアスターターだったのに」
「……どういうことだ? W1B5なんかでスパーしてたら、ブリッツファイターになるんじゃないのか」
「違う。白を一つしか充填していないから、その白を活かすも殺すもボクサー次第になるんだ。こんな考え方、私しかしないと思ってた……そうだ、W3B3なんて、これほど彼の持ち味を活かしたスタイルはない。W1B5で鍛えた白と黒の錬度を全てハイレベルで流し込める、『白黒三つずつ』はまさに理想のスタイル……きっと彼は、使うつもりだったんだ」
 燎が、すうっと静かに目を見開いた。
「……まさか」
「そう。ただ、私達が先にやっただけ。W1B5から彼がW3B3へ転向した、かもしれない、その最大の理由。……エレキとパイロの合わせ技は確実に白を一つ失う荒技だ。W1B5では、チャンスが一度しかなく、しかも使えば必ず左を喪失する。W3B3ならチャンスは最大で三度もある。……彼は知っていたんだ。私の切札を、そして、だからこそ耐えられた。……第4ラウンドに逃げ切った」
 美雷は、拳を握った。
 燎が、その小さなナックルを見下ろした。
「……美雷、どうした?」
 痛すぎる、と美雷はぼそりと呟いた。
「第3ラウンドで仕留めなきゃいけなかった。絶対に殺し切る必要があった。ハンドフェイントシフトからの私の切札は、カウントを二つも消費してしまう。実際に今、君のカウントはゼロだ。ゼロになってしまった……」
 あの黒鉄鋼を相手にして、こちらはW2B2で残弾ゼロ。
 果たして王手をかけられるか、どうか。
 返しきれない負債を抱えてしまったかのようにうな垂れる美雷を見て、燎が笑った。
「心配するなよ、美雷。試合は終わったんだ」
 いきなり獣に身体を舐められたような気がした。
「……は?」
「あいつは立ってこれないよ」燎は当然のことのように肩をすくめる。
「俺は見たんだ。最後、アイスを撃った時、やつの眼から意識は確実に飛んでた。実験終了、再起不能。地面にこそ盛大に叩きつけてやれなかったが、あの一撃は間違いなくクリーンヒットした。ただすぐに砕けなかっただけさ。確かにやつはニュートラルコーナーまで戻って椅子に座ったかもしれないが、立ち上がれるとは限らない。いや、立ち上がれるわけがないんだ」


 美雷は殺意を抱くと、かゆい、といつも思う。
 とにかく、かゆくてかゆくて仕方がなくなるのだ。特に相手の眼のあたりなんかが凄くかゆい。指を思いきり眼窩の奥まで突っ込んで、爪が剥がれるまでバりバりと掻き毟ってやりたくなる。本当にやってしまおうかと思う。美雷はすっと親指の腹で燎の頬を撫でた。燎は足し算ができた幼児のように尊大な笑顔を浮かべて美雷の指の感触を楽しんでいる。
 なんて、愚鈍さ。
 読まれてもいた、ゴングに救われもした。けれど、この口先だけの男にあとほんのひとつまみの気概があれば、第3ラウンドでノックアウトすることが出来ていたのではないか? そもそも性能の面から言えば、天城燎は黒鉄鋼を圧倒していなければならないのだ。そう思うと殺意の誘惑に脊髄が支配されかかるのを抑えるのに全神経を注がねばならなくなった。殺してやりたい。
 この少年に何もかも預けるくらいなら、いっそ自分がブラックボクサーとして出たいくらいだった。だが、それは出来ない。氷坂美雷以上のピースメイカーなど、このラボにはいないからだ。
 一瞬、自分があの都市で黒鉄鋼と向かい合っている光景を幻視して、少しだけ機嫌を直した美雷は、ふと燎の発言にも一理あることに思い当たった。確かに言われてみればそうだ。美雷の眼から見ても、鋼が立ち上がってこれない可能性は高い。
 それに――崩れるのは、黒鉄鋼だけではないかもしれない。
 美雷は使い終わった電子部品をダストシューターにでも捨てるように、燎の口に第4ラウンド用のアイスピースを詰め込み、モニターに映る炎の海と化した無人の都市を見上げた。


 都市の名前は、パンクラチオン。
 ギリシャ語で、『全ての力』を意味する。


「涼虎ちゃん」
「…………」
「涼虎ちゃん!」
 珍しく語気を荒げた殊村の声が、ガラス細工になったように虚ろな身体をすり抜けていく気がした。磔にされた無垢な標本のように、涼虎は呆然として、転送座の前に立ち尽くしていた。透明な操り糸に眼球を刳り貫かれてしまった視線が、ある一点から外れてくれない。
 そこには悪夢が座っていたから。
 バケツに汲んだ水をアタマからぶち撒けられたはずなのに、そこに座っている男の顔を滴った水は、冷たい床に落ちて弾ける時にはもう赤かった。十数分前までは焼きたてのパンのように膨らんでいた頬がまるごとげっそり落ちていた。眼窩は過労の隈取に囲まれて暗く落ち込み、その中に浮いた眼球だけがまだ辛うじて生きていた。血と唾液でべっとりと汚れた顎は落ち、線が切れたようにだらりと下げられた左手の指先は小刻みに震え、鼓膜が破れた方の耳から流れた血がジャケットに小さな染みをゆっくりと広げていた。
 とても何かが出来る男の姿ではなかった。
 今すぐ投与されるべきなのは、第4ラウンド用のアイスピースなどではなく、きちんとした栄養剤と暖かい食餌のはずだった。
 それでも、黒鉄鋼の顔をタオルで拭く殊村のミラーグラス越しの視線は、涼虎にたったひとつの役目を要求していた。
 アイスピースを投与しなければ、ブラックボクサーは飛び立てない。
 必要なものはすべて、白衣のポケットに詰まっている。あとはそれを冷え切った手で渡すだけ。
 それが、
 それが、どうしても出来ない。
 見て見ぬフリにも限度があった。自分のボクサーがリングでパンチを貰うたび、自分自身が打ちのめされたかのように身体が震え、壊れそうなほどに回転数を上げた心臓が暴れて胸を痛めた。何かしなければならないのに、自分には、何もできない――その地獄の苦しみが、とうとう涼虎の最後の理性を吹っ飛ばした。
 堪え切れずに、言葉が溢れた。
「どうして……ですか……?」
 そう聞かれた黒鉄鋼は、答えの代わりに血を吐いた。
 涼虎の唇が、震えた。
「どうして、まだ、起きているんですか。眼を覚ましていられるわけ、ないのに」
「涼虎ちゃん」
「どうしてっ……!」
 伸ばしかけられた殊村の手を、そして自分を取り巻く世界そのものを拒絶するように涼虎は拳を固めて叫んだ。
 強烈な自己嫌悪で死にたくなる。
 これではまるで、五体満足で戻ってきたボクサーを罵倒しているようだ。いや、事実そうなのかもしれない。
 ……枕木涼虎は、黒鉄鋼に戻ってきてなど欲しくなかったのかもしれない。
 なぜなら、涼虎はまだ自分の眼の前で誰かが死ぬのを見たことがないから。
 モニターに映る都市に飲み込まれていったボクサーなら知っている。
 アイスピースの過剰摂取で再起不能になったボクサーなら聞いたことがある。
 けれど、こんな風に、眼の前でゆっくりと死に絡みつかれていく人間を直視したことは、涼虎にはなかった。
 今まで考えないようにしてきたことだった。
 アイスピースを投与し続けた人間がどうなるか。
 致命傷に近い一撃をもらったボクサーがどうなるか。
 汚いものはすべて殊村に拭かせて世話をさせ、自分は気障ったらしい真っ白な両手を頑なに守り続ける。
 無事を祈っている?
 そんなわけがない、自分はただ、瑕をつけられたくないだけだ。
 いつだってそうだ。何もせず、見ているだけの、最低な女。それが枕木涼虎という人間なのだ。
 何もかも嘘だ。
 何もかも。
 ぼやけていた眼に焦点が合う。
 黒鉄鋼が、涼虎を見上げていた。
 口から滴る鮮血に眼もくれず、ただ、静かに。
 涼虎は、小さく、首を振った。
「終わりです……実験を中止します」
 履行不能の宣言だった。そんなことを独断でやれば涼虎の生命はない。
 それでも、どうしても、涼虎にはもう信じることができないのだ。
 ――黒鉄鋼がこれ以上、闘えるなどという夢物語は。
 吐くように叫ぶ、
「あなたはもう、闘わなくていいんです。充分にデータは揃いましたから。……これでいいんです……もう、休んでいいんです……無理しなくていい、頑張らなくたっていいんです!! だって……」
 だって、これ以上、闘ったら。
 あなたは本当に死んでしまうから。
「枕木」
 涼虎は、鋼と目を合わせることが出来なかった。背けた頬に涙が伝った。唇を噛む。卑怯も愚劣もここまで来れば立派だ。この期に及んで最後の武器である『女』を引っ張り出してくるとは、もはや情状酌量の余地はない。このまま縊り殺されても文句は言えない。
 もういっそ嫌われた方がラクだった。殺したければ殺せばいいと思った。
 それでも、ポケットの中のアイスピースだけは渡さない。
 絶対に渡したくない。
「枕木、あのさ」
 言ってくれたろ、と鋼が色のない声で言った。涼虎の身体が小さく震えた。
「……なんの、はなし、ですか」
「最初に会った時にさ――」
 ゆっくりと、誰かに無理やり顎を掴まれたように、涼虎は恐る恐る鋼の方を向いた。
 乾いた血のこびりついた顔で、鋼はいつものように笑っていた。
「俺は、お前の『厳正な選定』ってヤツで、選ばれたボクサーなんだろ? だから、心配なんてするな。お前はこんなトンデモないクスリを作れるくらいにアタマがいいんだから、俺みたいにつまんないことで間違ったりしないだろ?」
 一瞬、なんのことを言っているのか分からなかった。
 理解した途端、可笑しくなった。
 ああ、なんだ。
 これはただの罰か。
「……違うんです」
 笑みと泣きの半ばで涼虎は言った。それを聞いた鋼が疑問符を顔に浮かべる。
「違う?」
 ふふっ、と終に笑ってしまった。
「厳正な選定なんて、して、ないんです。ブラックボクサーの被験者の条件は、身体能力でも、正常な脳を持っていることでもない。条件はたった一つ――社会的不適合者であること」
 鋼は、透明な眼差しを向けてきた。
「……それで?」
「ピースメイカーになって、上層部から下りてきた、被験者候補のリストを見て、私は途方に暮れました。いったい、いったい誰を死なせばいいんだろうか、と。か、考えても答えなんか出ませんでした。でも、誰かを選ばなきゃいけませんでした。選ばなきゃ、私が、殺されるから。だから、だから思ったんです。死んでもらうなら――最初から死にたい人がいいだろう、って」
 涼虎は、何度も何度もしゃくりあげて、ようやく言った。
「あ、あなたも、そうやって選びました。リストの中に書いてあったのは、事故で片腕を失った元ボクサー。それだけです。厳正な選定なんか、誰もしてないんです。私が勝手にあなたを選んだんです。だから、だから――」



 だから、私を信じたりしないで。



 どちらにとって、何が残酷だったのか、もう誰にも分からなかった。
 自分の膝にすがりついて泣きじゃくる涼虎を、鋼は何も言わずに見下ろしていた。殊村には、その横顔はあまりにも静かで、かえって底知れぬ怒りが見えたような気がした。
「枕木」
 びくっと肩を震わせて、叱られた子供のように少しずつ、涼虎が顔を上げた。
「俺さ、こう見えて結構、自分のことがキライでさ」
 鋼は言った。
 どこか、照れくさそうに。
 今日がなんでもない、ただの平凡な一日で終わると信じているかのような、いつもの口調で。
「現役引退してからはホントにひどかった。生きてんだか死んでんだか、分からなかった。近所の子供にゃふざけて蹴られるしよ。情けないったらありゃしねーよ。でもな」
 涼虎の頬を伝う涙を震える指先で拭い、
「あの日、お前が俺の部屋に来てくれて、救われたと思ってる。感謝してるよ、枕木。……お前は何も苦しまなくていいんだ。苦しむのは、どこかの別の、誰かでいい」
 そんな甘い言葉を軽々と、了承できるはずがなかった。
 でも、と勢い込んで言いかけた涼虎の胸倉を鋼が乱暴に掴んで、ぐっと引き寄せた。
 そのまま、唇を奪った。
 無意味なキスだった。第4ラウンドは終わっていない。ミストを作る必要はない。
 それでも。
 涼虎は、その一撃で完全にノックアウトされた。接触した皮膚から迸った神経言語が脳を焼き尽くして一瞬でショートさせた。思考中断、抵抗終了。ただ、強張っていた小さな身体から力が抜けていくのを遠い意識の中で感じるだけだった。だから、黒鉄鋼の左手が自分の胸元から滑るように離れ、白衣のポケットの中に差し込まれたのも、知覚できなかった。できたとしても、そのまま為されるがままにしただろう。
 残酷な盗人の左手が白衣から抜き取られる。やはり、アイスピースを指で摘んでいた。
 『二つ』ほど。
 三本の指で器用に挟み取ったその氷菓を、手首を翻して拳の中に握り締めた。
 優しいキスが、続いた。
 そして、ふいに消えた感触を追って、眼を開けた涼虎の前には、誰もいなかった。煙のように、夢のように、男は消えた。
 涼虎は思う。
 夢を見るなら、醒めない夢がいい、と。


 ○


 風が吹いている。
 片膝を突き、左手一本で身体を支える鋼の姿が、ニュートラル・ピラーの屋上にあった。熱に魘されたように呼吸は荒く、脂汗が浮かんだ顔は苦悶に歪んでいる。それでも、顔を上げた。
 炎の赤が雲海を黒く染め上げている。火の粉が逆上がりの雪片のように舞い上がっては、消えていく。眼下の都市では崩れた瓦礫が猛り狂う禍炎を押し潰し、熱量だけが熾火となって、砕けた建材を幽かに喘がせている。
 両足に力をこめて、やっとの思いで立ち上がった。
 左手には、氷菓が二枚、握り締められている。
 炎の影を宿した双眸が、揺れる。
『――クロガネくん、止めても無駄だって分かってるけど、言うよ』
 科学の泉から産まれた妖精が、戦士の耳元で囁く。
『アイスピースをダブルで服用しても、たぶん、望んだ効果は得られない。それでいいんなら、最初から二つ使っているはずだし、無意味で危険ばかりが高いから、誰もそれをやらない。それは、分かっているよね』
 頷く。
『白(ひだり)を再充填できるわけでもない。エレキカウントを回復させられるわけでもない。それでも、使うの?』
 二度、頷く。
『――そっか。そうだよね。ずっと、そうして来たんだもんね。いまさら止められない、よね』
『……悪ィ』
『いいよ。いいんだよ。あなたは、あなたのままで。ありのままのあなたが、きっと一番、強いから。……さあ、行って。もうすぐ、ゴングが鳴るから』
 三度、頷き、手の中の氷菓を見つめる。アイスに包まれた赤と黒を融かし合わせたその液体は、微細な手の動きに合わせて揺らめいている。それを口の中に押し込んだ。霜の下りた冷たさが、鋼の舌を焼いた。

(俺は、自分のことが嫌いだった)
(その言葉の責任を、今、果たす――)

 最後に、声がした。
『――でもねクロガネくん、あたしが人間の女の子だったら、君のこと、絶対に放っておかなかったんだからね』
 眼を閉じて、その言葉の余韻を痛みと共に味わって。
 重ねられた二枚のアイスピースを、躊躇なく噛み砕いた。
 がちゃりと粉々になった氷器から中身が溢れ出す。
 それは、
 それは、『振動』という味だった。『轟音』という味だった。
 脳を誰かに鷲づかみにされたような衝撃と恍惚が神経細胞を駆け抜けて、シナプスに微細なさざなみを引き起こし、不可侵であったはずの原形質の鉱脈から奇跡の原石を採掘する。感覚のより糸がどこまでも細くなり、煌き移ろうプラズマがミラーニューロンの迷宮をデタラメに乱反射する。ルビーの歯に噛みつかれた言語野は絶叫し、連なるように代謝され循環していく妄想が、紺碧の頭脳をどこまでもどこまでも拡散していった。弾けて混ざった空想に現実は改竄され、神話の世界が蘇生する。灰色の屋上に滴っている雫が自分の汗と唾液だと気づいて、鋼は自身が跪いていたことを知った。立ち上がり、ぺっと唾を吐き、ジャケットを左腕一本で脱ぎ取って、吹きすさぶ風にくれてやった。鳥のように羽ばたいていくジャケットが彼方へと流れ去っていく。青みがかった、ショートスリーブのアンダーウェア一枚になった鋼は、ぐいっと口元を左腕で拭った。視線の先で、二重螺旋に取り囲まれた馬上槍のようなモニュメントに今にも稲妻が落ちそうだった。
 やけに落ち着いていた。
 怖いくらいだった。
 ただ、鋭敏になりすぎた神経だけが、鼓膜が破れた瞬間のように甲高く研ぎ澄まされている。どこかの脳地図が壊れてしまったのか、ルイとのリンクは途切れて終わっていた。

 もう誰の声も聞こえない。
 もう誰の声も届かない。
 それでも俺は覚えている。
 忘れることができずにいる。
 自分の名前を、呼ぶ声を。

 左手で引き千切った三枚のグローブを握り締め、黒鉄鋼は爆風を喰らったように駆け出して、ニュートラル・ピラーの屋上から生身のままで飛び降りた。風を喰らって落ちながら、握っていた手袋をばら撒き、充填させた。視界に迫ってくる地獄が産毛を焼き、それを防ぐ氷の盾が獰猛な細菌が繁殖していくように真円をなぞって展開していく。どこかで雷鳴が聞こえ、風王の息吹を氷殻に与え、鋼は螺旋の塔へと飛翔していった。
 最強を目指して。
sage