黄金外電 『奇跡の妨害者』



 その鷲鼻の男を、シンは「大佐」と呼んでいた。本当に大佐だったのかどうかはわからない。そもそも自分の所属している組織が軍の秘密部隊なのか、それとも潤沢な資金源をバックにつけたテロリスト集団なのか、シンには知らされることはなかったし、興味もなかった。ただやるべきことがそこにはあり、シンは淡々とそれをこなしていた。だから信頼され、こうして執務室に呼ばれ、革張りのソファに腰を下ろしている。暖炉では炎が赤々と燃え盛り、なにかの紙切れが燃やされていた。
「おまえを呼んだのは、重要な任務を与えるためだ。わかっているな、シン?」
 鷲鼻の男は猛禽類の熱っぽい視線をシンに注いだ。シンはそれを、どこか茫洋とした、掴みどころのない表情で受け止めた。年齢は二十代半ばに見えるが、真相は誰にもわからない。東洋人のようだが、大陸系にしては目元が柔らかい印象がある。話しかけやすく、頼られがちな雰囲気は、ファイターにしては珍しかった。
「命じられれば、やるだけです。俺にはここ以外、行く場所がないですから」
「そのとおりだ」大佐は満足げに頷いたが、その目は一瞬も油断せず、自分の望みから逸脱した行為を相手がした時、すぐに動けるように柔軟な殺意が充満していた。だがそれも、シンの前ではいつもより薄まっている気がしないでもない。
「おまえは我々の同士、家族なんだからな。そして家族の一員である以上、おまえには役目がある。それを果たせない者は、ここにいる理由がないし、それを破ろうとするのは、家族全員への冒涜だ。許されることはない。裏切りに時効はないからな」
「そう、裏切りは許されない。……だから、俺が呼ばれたわけですか」
 大佐はニヤリと笑って、頬に皺を刻んだ。そして磨き上げられた机に、封筒から数枚の書類と写真を取り出して占うように散らばらせる。
 シンは自分の膝に当たって止まった一枚の写真を見つめた。そして気のない素振りで写真を集めてはめくっていく。
「フィフティ、アーヴィン、オレグ、テオ、ユーリ、セルゲイ、エギル、スヴェン……見知った顔が多いですね。第6研究部隊ですか?」
「そうだ。我々の貴重な実験に粉骨砕身し、己の血を献じてくれていた同胞たちだ」
「殺されたんですか」
「皆殺しだ」
 シンは写真を机に置いて、大佐を見た。
「誰に?」
 大佐は一葉の写真を指差した。そこには黒髪の、どこか臆病そうな垂れ目をした少年が写っている。唇が切れているのは彼の曖昧な態度に業を煮やした誰かの鉄拳が入ったからだろう。
「フィフティ……“中途半端”のフィフティですか?」
「ああ」
「……いや、まさか」シンは首を振る。
「フィフティにエギルたちが倒せたとは思えない。あいつはステージ2もギリギリだったはずです。それに理由がないはずだ。あいつはよくからかわれたり殴られたりしてましたが、それでも部隊を仲間だと思っていた」
「仲間だと思っていたんだろうよ。私怨で殺したんじゃないだろうからな」
「じゃあ、いったい何が?」
「正義感――、だと思うよ」
 シンは虚を突かれて言葉が出なかった。そして大佐が出してきた最後の写真を何も考えずに受け取った。赤毛の、12,3歳の少女が悲しげにシンを見つめてくる。
「任務は簡単だった。ある村――もうこの国の地図には当然、載っていないが――そこに住む少女の身柄を確保し、指定された実験施設まで護送すること。それが第6部隊に与えられた命令だった。ブレインへ転送されてきた報告は任務開始から2日後まで問題なく届けられている。隊長のエギルはターゲット以外を殺してもいいかと聞いてきた。私はブレインを介して、『それも君たちの通常任務の一つだ』と答えた。エギルは笑って、『これから確保する』と答えた。それが最後だ」
「その少女は何者なんです?」
「適合者だ」大佐は引き締まった肉体の上で指を組み合わせた。友人の娘の顔でも思い出すように視線を逸らし、
「この少女が熱を出し、市街の病院に運ばれた。軽い感染症だったから抗生物質で病気は完治したが、もちろんそこには我々の同志がいて、彼女の血液を採取した。結果、良性。それも完璧な適合者だ。……ドランカーになる可能性もない」
「つまり、無限に戦えるというわけですか」
「我々の夢だな。人類の希望だ」大佐は含み笑いをし、
「かつて日本の研究施設で、たったひとりだけアイスピースを投与されておきながら、脳を破壊されなかった被験体がいたが、試験戦闘で死亡した。それ以来、この世界中で脳の中のブラックボックスを揺さぶられて生き残った人間はいない。……もちろん、君たちもじきに死ぬ。ステージの進行具合によって、早いか遅いかの違いがあるだけだ」
「心得ています」シンは無表情だった。
「で、フィフティのやつは、仲間の残り少ない生命を犠牲にしてまで、……その少女を逃がそうとした?」
「あいつが思っているほど、手荒に解剖する予定はなかったんだがな」皮肉そうに大佐は言う。
「我々が到着した時、すでにエギルたちは全滅していた。村人も殺されていたが、それをエギルがやったのかフィフティの巻き添えを喰らったのかはわからん。確実なのは、その少女――シヴとか言ったか――彼女と、フィフティの死体だけが見つからなかった」
「誰かべつの人間に殺されたか拉致された可能性は?」
「エギルたちを殺せるのはブラックボクサーだけだ。そしてここは我々の管轄地域だ。誰も侵入できない。もちろん、まだ見ぬ謎のボクサーがすでに我々の懐へ潜り込んでいる可能性がないわけではないが――わかりやすいだろう? フィフティが情に絆されて、いたいけな少女と逃げたというシナリオは」
「ええ。正直なところ、俺もそれで納得できます。あいつとは1年近く、同じ部隊にいましたから。……あいつがエギルたちを皆殺しにできた、というところだけが解せませんが」
「まさか自信がないとは言わんだろうな? シンよ」からかうように大佐が言う。
「後輩だぞ、おまえの」
「年功序列は戦士の嘘です。ま、やりましょう。殺せるようなら倒しますし、負けるようなら代理人を用意しておいてください。……少女の方は?」
「殺せ。貴重なサンプルだが、もしフィフティと逃げたのであればアイスピースを渡されている可能性がある。エギルたちの装備からは全部抜き取られていたからな。……『魔法の5分間』を超えて戦えるブラックボクサーは危険すぎる。もしフィフティに訓練でもされていたら、おまえでも危うい。確実に抹殺してほしい」
「……わかりました。でも、期待しないで欲しいですね。俺を買いかぶると損しますよ」
「いまのところ、言い値で買わせてもらってるがな、『死なない男』?」
 大佐は笑った。しかしクロスで拭ったように笑顔は消えて鉄皮が戻る。
「すでにフィフティが逃亡してから30時間が経過している。すぐに追跡してくれ。装備隊に必要なものは用意させてある」
「ずいぶん時間がかかりましたね、俺を呼ぶのに」
「もしかしたら二度と出てこないかもしれない奇跡の原石を殺すんだからな、危険性と魅力の天秤がどちらに傾かなければならないのか、上層部を説得するのに時間がかかったよ。……ま、アマギリョウがいたんだから、第二第三のシヴがいてもおかしくない。気長に待つさ。人生は長いから」
 シンは気の利いたジョークを聞いたフリをして、顔で笑って出ていった。

 ○

 装備隊の格納庫はいつも閑散としている。シンは物珍しげに戦車や大砲を眺めていたが、やがてシャッターの前でバイクを整備しているイリーナを見つけた。黒い色素を鬼に抜かれたような白髪を腰まで垂らした女は、黒の作業着でリヤタイヤのアクスルナットをレンチで締め込んでいた。ぼんやりと近づいてきたシンに気づいて、チラリと青い目を向けてくる。
「また出撃なんて、人気者ね、シン」
「大佐は俺を信じすぎなんだ。惚れてるのかもしれない」
「その可能性は大いにあるわね」
「やめてくれ、悪寒で風邪を引く」
「あんたが言い出したんでしょ」
 イリーナは最後の調整でリヤタイヤを蹴っ飛ばし、白髪を翻してシンに向き合った。
「フィフティが女の子と逃げたんだってね」
「誰かに聞いたのか? 極秘じゃないのか」
「ふふん、やっぱりそうなんだ。結果は隠蔽されてたけど、任務内容はあたしらにも知らされてたからね。ターゲットが美少女だっていうから、もしかしてそうなんじゃないかなって。ふうん、あのフィフティがねぇ」
「……女の勘ってやつか?」
「あんたがバカ正直なのよ」
 イリーナはレンチを足元の工具箱に放り投げた。
「整備は終わってる。チェーンも巻き直したからずぶずぶの雪踏まなきゃどこまでも走れるよ。……どこまでもってことはないか。ま、のろまのフィフティぐらいなら捕まえられるでしょうよ」
「給油はどうすればいい」
「マップにスタンドの位置をマークしてある。一応、携行缶も積んでおくけど追跡が長引けば足りなくなるから最後のとっておきにしておいて。はい、これアイスピースのバッグ」
 シンはそれを受け取り、中身を確認した。どろりとした血のような液体が内包された氷製のケースに入った薬剤が、6×2セット差し込まれている。シンはチラっとイリーナを見た。
「これだけか?」
「短期間にそれ以上、飲んだら死んじゃうよ」イリーナはアハハと笑った。
「もし足りなくなっても、どうせフィフティが隠し持ってるでしょ。それを奪って戦いなさい」
「至近距離でやりあえればいいがな。ヒット&アウェイで逃げ回られたら後手の俺が死ぬ」
「じゃあ、これでも使えば?」とイリーナがハンドガンを一丁、シンの胸に押しつけてきた。
「……アイスを張ってる時に銃なんか使えない。跳弾して自分に当たるだろ」
「そこをなんとかするのがあんたの仕事でしょ。大丈夫、あんたが死ぬところなんて見たことないから。……それにしても」
 そしてイリーナは、広々とした格納庫を見やった。どこかで安定器の悪くなった蛍光灯がチカチカと瞬いている。
「……フィフティか。いいやつだったけどね」
「よく話してたのか?」
「べつに。でも、一回だけお菓子もらったかな。手作りなんだって。結構おいしかった。あれで案外、手先が器用なんだよね。生き方は不器用なくせに」
「ああ、そうだったな……俺も一度、へたくそな似顔絵を描いてもらった。そういうやつだ。あいつのこと、憎めなかったよ、俺は」
 イリーナはシンを見た。
「でも、……これから殺しに行くんでしょ?」
「任務、だからな」
 そしてふと、なんの気もなくシンはイリーナに尋ねた。
「なあ、殺さない方がいいか?」
 イリーナはなんの感情も浮かべずに、シンを見つめた。
「あいつが殺したエギルとは何度かデートしたことある。いいやつだったよ、手も握ってくれたしね。フィフティと同じくらい、……いいやつだった」
 イリーナは指先でくるくるとバイクのキーを回した後、それをふわりとシンに投げた。そのまま背中を向けて、「じゃね、処刑屋さん」と歩き去っていく。シンは仲間の整備兵を見送り、シャッターの開閉ボタンを押した。ガラガラとシャッターが引き上げられていく。ポールに吊られたリングホルダー、そしてそこに束ねられた白と黒の手袋をシンは掴むと、腰のベルトに装着する。右に黒、左に白。一枚ずつ千切って両手に嵌める。870ccの氷原走行用カスタムチェーンバイクのメッシュシートにまたがり、防寒ヘルムをかぶり、最後に一度だけ、自分の家も同然の兵舎と、監視階のスモークガラスの向こうでひらひらと手を振るイリーナを見た後、ギアをローに入れて発進した。
 殺戮の旅だった。

 ○

 もしも芸術家が『砂漠』という題で絵を描くとしたら、なだらかな丘陵や、掴めばさらさらと指からこぼれ落ちてしまう儚い砂質の砂漠を描くだろう。きっとごつごつした荒れ地のような、無骨で創造性に欠ける風景にはしないはずだ。
 シンが疾走する氷原もまた、そういう荒れ地を凍結地帯にしたような、窮屈で見通しの悪い場所だった。殴るように氷を噛み込み摩擦力を得ているチェーンタイヤがガリガリガリと耳障りな音を立てる。気にせずシンはアクセルを回した。時折、停車してはロードマップを眺め、何かしるしをつけている。気ままな旅行者のように。
 大佐から渡された情報によると、第6部隊が現地へ乗り込む際に使ったクルマは消えていたらしい。ということは、フィフティはそれに少女を乗せて逃走したということだ。もしかするとフィフティだけが乗り込み少女の囮になったか、もしくは少女だけを乗せてフィフティはそこで善意の救出劇を自分の手で幕引きし、生命惜しさにどこまでも単独逃避行に打って出ている可能性もある。が、シンはおそらく二人は一緒に逃げたと見ていた。小細工できるような精神で、エギルたちを皆殺しにできるほどのガッツは創り出せないはずだった。
 あいつは本気なのだ、とシンは思う。あのはにかみ屋で恥ずかしがりの、惚れた女にお菓子を作ってあげられる優しさを持った少年は、本気で少女と逃げ出したのだ。仲間を皆殺しにして、振り返りもせずまっすぐに。そして自分は、その逃避行を終わらせるために疾走する死神だ。
 ふとシンは思う。俺はなぜ、こんな組織に入ったのだろう。こんな、人間の脳をいじくり回して奇跡を創り出すような狂った世界にどうして飛び込んでしまったのか。後悔するほど未練がましい思い出なんてありもしないが、しかし、こうして裏切者の顔見知りを殺して回る処刑人になると知っていたら、自分はこんな世界を選んだだろうか。
 おそらく、
 選んだだろう。
 シンにはほかに行く場所がなかった。目指すべきものもなかった。すべて足の向く先は行き止まりで、そのいつもいつでもどんなところにも自分の眼前に立ちはだかる壁を、シンは壊したかった。愛も夢も、他人だった。
『世界を捻じ曲げてみたいですか?』
 路地裏でギャングに殴り殺されかけていた少年に、あの女は言った。一度使ってしまえば、もう二度と帰れなくなるけれど、と。シンはその差し伸べられた手を、その指先に乗せられた魔法の弾丸(マジックブリット)を選んだ。帰る場所など、最初からなかったから。
 きっと、フィフティも同じだったのだろう。
 俺たちは同類だ。だが、どちらかは必ず死ぬ。ともすれば、両方。
 いつもずっと、そうだ。

 ――追跡には痕跡が必要だ。
 シンはマップを頭のなかで反芻する。エギルたちが襲った村から北上し続けているが、景色は変わらない。まばらに人が住んでいるのかどうかも怪しいあばら家や、寒冷地特有の針葉樹林帯が過ぎ去っては消えていく。
 逃避行には目的地が必要だ。あの村から逃げるなら、必ず西にある空港を目指すはずだった。もちろんそこには大佐が配置したブラックボクサーが最低でも三名は構えているだろう。だが、エギルたちを倒したフィフティならその防衛線を突破して小型飛行機くらいは奪取できるかもしれない。
 だが、おそらく激戦になる。
 少女を庇いながらフィフティが多数のブラックボクサーを撃破できるかどうか。――もしくは、完全適合者の少女を訓練し、戦闘させるか。あのフィフティがそんな過激なことを考えるとは思えないが、むしろシヴの方が事情を説明された場合、『闘う』と言い出す可能性もある。あくまでシンの想像に過ぎないが、そんな気の強い少女をフィフティが保護したとしたら、おそらくやつは言い負かされて流されるだろう。小さな拳を振り上げ自分はやれると力説するシヴと、ハンドルを握りながら困った表情でうろたえるフィフティを想像して、シンはヘルメットの奥で微笑んでしまった。
 俺は何をやっているんだろう。
 これから皆殺しにするというのに。
 いずれにせよ、フィフティたちは空港か、あるいはこの氷雪地帯のどこかに雲隠れするか、どちらかしかない。ブラックボクサーはスプレイダッシュによる圧縮空気の幻影によって飛翔すら可能だが、5分間では海まで逃げても別大陸へ渡ることはできない――
 そこまで思考してから、シンは「あ」と呟いた。素直で無垢な驚きだった。誰も考えなかったのだろうか。大佐から注意喚起されていてもよさそうなものだ。そう、フィフティにはどうあがいても、仮にステージ9までブラックボックスが進行していたとしても、間違いなく海は超えられない。が、
 シヴなら?
 完全適合者の少女なら、二人でどこまでも飛んで逃げられる。
 完璧な逃避行だ。
 シンはマップの位置を見直して、給油を考えながら、最終目的地を『海』にした。
 もし空港へ正面突破を挑んだならば、彼らの末路を祈るつもりだった。
 しくじったとしても、大佐の手駒が無能だったというだけで、道に迷っただけのシンが責められる筋合いは、ない。

 ○

 一日、超えた。
 シンはあばら家で眠った。祖国を捨ててから寒さに以前よりも強くなった。大都市の裏側はヒートアイランドの恩恵で、孤児やゴキブリたちの楽園だった。それに比べると、この最果ての北国は氷漬けにされているようなものだ。見渡す限りのアイス、アイス、アイス。
 出発してからここまで、痕跡らしいものは見当たらなかった。タイヤ痕ぐらいあってもよさそうだが、強く吹きすさぶ風と白夜の日差しで砕けやすくなっている氷はあっという間に騙し絵となって追跡者を翻弄する。シンですら、永遠にこの氷の世界でさまよい続けてしまいそうな気になってきた。ナビゲーターとしてブレインをセコンドにつけてもらえればよかったが、シンは何度かブレインを思念の逆流で焼き殺してしまっている。おかげで無期限の使用禁止命令が発せられ、今でもそれは解除されていない。何にでも相性はある。
 少しずつ焦り始める自分を自覚して、なぜ焦るのか、自分が何を求めているのかを考えながら疾走していると、ふいに視界の隅を何か黒いものが素通りしていった。とても小さい。時速150km近い速度で走っていたバイクを急制動して振り返ってももう、何も見えなかった。
 どこまでも続く氷。
 だが、何かを見た確信があった。
 バイクの鼻っ柱をターンさせ、低速で周囲を観察しながら戻る。何かを見た。そしてやはり、それは氷原に落ちていた。そばに停車し、エンジンを切ればかからなくなる恐れがあるためアイドリングさせたまま、シンはそれを拾った。布切れのようだった。広げてみる。
「…………」
 男物の靴下だった。色は黒。裏返してみると、爪先に穴が空いていた。銃痕か、とシンは注意深く観察してみたが、ただ解れて穴になっただけのようだった。なんの変哲もない靴下。それが落ちていたのが、氷漬けの追跡路でなければ、だが。
「……なにやってんだ、あいつら」
 もしかすると、近隣に住む誰かがなんの意味もなく捨てたのかもしれない。だが、シンにはこれがあの二人の捨てていったもののような気がした。ほかになにか落ちていないか探してみたが、その靴下しかなかった。
 13歳だろ、まさかな、と呟きながらシンはバイクのシートにまたがる。そしてアイドリングして震え続けるバイクの上で、深々とため息をついた。
 なんとなくわかった。
 シンもイリーナに部屋が汚いとかだらしない格好でうろつくなとか叱られた覚えがある。女というのはなぜか男の世話を焼きたがり、忠告ばかりしたがるものだ。無駄なものならなんでも捨てられてしまうはずだ。だが、代わりにフィフティは何を履いたのだろう。手袋だろうか。
 ――なにやってんだか。
 脱力したままマップを見直し、近くにスタンドがあることに気づく。給油に立ち寄ることにした。
 氷原の、ガソリンスタンド。
 客などいるわけもない。道路すらないのだ。だが、それは確かに地図上のマークと一致する地点に存在した。大都会でなら見慣れたレギュラー・ハイオク・軽油の価格表示灯も、氷の国では悪い夢に思える。舗装されたスタンドの路面にバイクを乗り上げさせ、キー・オフ。シンはガソリンタンクのキャップを外した。まだ残量はいくらか残っている。給油装置に近づくと、現金を要求された。釈然としない気分で満タンを選択し、ノズルからタンクへハイオクを注ぎ込む。慣れた行為だが、いつも場違いさを覚えてしまう。
 なんとなく周囲を見渡すと、店員の待機所に電気がついていた。
 いつもは組織の用意したこのガソリンスタンド群は、協力者が隠れていたとしても堂々と電気をつけていたりはしない。人影が動くのを見て、シンは待機所へ歩いて行く。
 左手がバッグのケースの中に指先を押し込む。アイスの感触。
 リィ――――――ン……
 ドアベルを鳴らしながら、シンは店内へ入った。想像していたのは、休憩用のボックス席で向かい合って座って何か話しながら、侵入してきたシンに驚愕と絶望の表情を浮かべるフィフティとシヴ――だが、そこにいたのは、
「げえっぷ」
「…………」
 赤ら顔の男だった。
 ボックス席に座り込み、酒のボトルを抱えている。ラッパ飲みしているようだ。シンは警戒を解かないまま、男に近づいた。
「あんたは?」
「酔っぱらいだよ」男はくすくす笑った。
「この先の村に住んでる。誰だか知らないがこんなところにガソリンスタンド建てて、何がしたいんだかね。おもしろいことに、たまに給油に寄るクルマがあるしさ。世の中、不思議なことでいっぱいだ」
「あんたの村はここのスタンドの所有者から金をもらってるはずだ。近づくな、口外するな。――そう忠告されなかったか?」
「兄さん、いいかい。一つ覚えておきな。……約束、ってなァ破るためにあるんだ。特に女房に死なれて、もう何もかもどうでもよくなってる男にとってはな」
 ひっく、とまた一つ酒くさいゲップを吐きながら、男は自棄気味にボトルを煽る。ぐびぐびと喉仏が動き、度数の強い酒が男の臓腑へ染み込んでいく。身体に悪いからよせ――そう言いかけて、シンは自嘲気味に笑ってやめた。どの口が言うのだろう?
 シンは誰かが隠れていないか確認した後、男に言った。
「おっさん、誰か――というより、走っていくクルマを見なかったか?」
「たまに見る」
「ここ数日、いや昨日か今日は?」
「見たよ。たぶん軍用のジープだった」
「誰が乗っているか、見たか?」
「若い、子供だったな。15,6ってところか」男は酔っているにしてはハキハキと答えた。もう心から酔えなくなってしまったのかもしれない。酒ごときでは。
「給油して、そのまますぐに出ていった。入ってくるかと思ったがね。まァ、ここにはサンドイッチもコーラもないしな……料金表に載ってるだけで。ま、裏の冷蔵庫漁れば酒ぐらいはあるんだがな。誰が補充してるんだか……あとクソまずい、ありゃなんていうんだ、レーション? あとたまにワインみたいなやつが氷に入れられた小せぇ菓子があるが、あれはなんなんだろうなァ……」
「ああ、なんなんだろうな、それは」
 大佐が聞いたらこの男を殺すだろうが、シンにはそこまでする義理はなかった。もう用はない。フィフティはこの補給スタンドで食料や追加のアイスピースを手に入れなかった。網が張られていると思ったのかもしれないが、ブラックボクサーの絶対数は少ない。すべてのスタンドに伏兵を忍ばせるのは無理だし、いても一人いるかどうか。それなら殺して物資を補給しようとしただろう。それをしなかった。フィフティたちはやはり海を渡るつもりなのだ。南半球へと。物資などいらないのだ。
 二人が渡海する前に始末をつけなければならない。イリーナの昏い横顔と、死んだエギルの嘲笑が脳裏をよぎる。
 ドアベルを鳴らして出ていこうとしたシンに、酔っぱらいの男が「ありがとうよ、楽しい時間を!」とボトルを掲げてみせた。シンは肩をすくめてみせたが、男はさらに言った。


「なァ、兄さん。あんたも“楽園”へ行くのかい?」


 シンは足を止めた。無表情に、特に興味もなさそうに、振り返る。だが、握ったドアノブを少しも押し開けようとしなかった。
「楽園?」
「ああ、そうさ。楽園。とてもいいところ。もう何も考えなくていい理想郷だ」
 案外、この男は学者か何かだったのかもしれない、とシンは思い始めた。尋ねる。
「そこには何があるんだ? どこにある?」
「楽園はな、氷がないんだ。わかるか? この掘っても掘ってもどこまでも、地球の裏側にまで続いているんじゃないかっていう途方もない氷がひとっかけらもないんだ。そこにはあったかい大地があって、植物が咲き、溶けた氷が小さな川になって、そして夜が来ることはない。いつまでもすべてを照らしてくれる太陽……沈むことのない永遠の光……それがそこにいるみんなを守ってくれるんだ。病気からも、戦争からも、……死からも」
 最後、男はすすり泣いていた。しきりに誰か女性の名を呟きながら、口惜しそうにテーブルをどんどんと叩いていた。店内には男だけが取り残されている。
 シンの姿はもう、どこにもなかった。


 もし最後に生命を使うとしたら、何に費やすだろう。
 もうここで死んでしまう、自分には未来(さき)がない。そう理解して覚悟を決めた人間がどう行動するのか、シンは想像する。ハンドルを握りアクセルを踏む自分、隣にはシヴがいる。アクセルペダルを踏む足は常に残りのガソリンについて考えていて、シヴの話もどこか上の空。それでも彼女の言う『楽園』という単語は確かに聞き取れた。聞き返す。
『……楽園?』
『そう、そこはね、もう誰も苦しまなくていい、この氷の国のどこかにある桃源郷なの。いつもあったかい太陽が輝いていて、どこへも沈んで消えたりしない。朝陽を待ち望んだりしなくていい、なぜってそれはずっと、そこにあるから――ずっとね、ずっと』
 シヴは窓ガラスの向こう、どこまでも続く白夜を見つめる。それは太陽の沈まない世界ではなく、太陽と出会い損ねる世界だ。あるはずなのに。
『氷に怯えて、氷に包まれて、氷に守られて生きていると、そんな世界があったらいいなって思うの。ありえないってわかってるんだけどね。でも、消せない。この氷の大地のどこかに、オアシスみたいな場所があるって、つらければつらいほど、泣きたくなればなるほど、強く、硬く信じられる。心の奥で消えない炎になって、ずっとずっと燃え続ける――」
『……マッチ売りの少女みたいだね』
『ああ、そう、それね』シヴは笑った。『言えてる。でも、やめてよね。あれって悲しい結末じゃない』
『そうかな? わからないよ』
『……死ぬのが救い、なんて言わないよね? フィフティ。あたし怒るよ』
『い、言わない。だいじょうぶ。ちがうって。にらむなよ。俺はただ――』
 フィフティはちょっとだけ、崩れるように微笑んだ。
『……何千回も、何万回も、同じ物語を繰り返してたら、いつかどこかのマッチ売りの少女が幸せになる番が来たりしたらいいなって、そう――』
 そう思った。
 そして、自分にはその『力』がある。
 ステージ9まで進行したブラックボクサーはもう助からない。その代わり、最後の希望を手にする。ステージ10。死の瞬間。その段階へ踏み込んだ時、脳の中のブラックボックスが与える六つの異能――ハンド、パイロ、エアロ、シフト、エレキ、アイス――に次ぐ『七番目のサイキック』の扉が開かれる。暴走する脳が見た最後の幻覚が、奇跡を起こす。
 左手で己の胸を掴む。
 粗く掠れた鼓動。
 仲間を皆殺しにした時に、もうほとんど自分は死んでいた。
 だから構わない。
 この少女を、なんの罪もない彼女を幸せにできるのなら――



 ――シンは決断の時にいた。海は北、空港は西、南は荒地、そして東にはどこまでも続く氷の世界。スタンドすらない、吹き荒ぶ突発的な嵐によって、ほとんどの生き物はその清浄な空間に残れない。
 だからこそ、追跡者を振り切るには絶好の方角。
 アイドリングするチェーンバイクの上でシンは思う。冷静に考えれば、フィフティたちが東へ行くはずがない。嵐に巻き込まれて視界を奪われたら遭難だ。逆走して追跡者と遭遇してしまう可能性もある。それよりも急ぎ北海へ到達し、シヴの終わらないスプレイダッシュで完全に逃げ切ってしまうことだけが、あの二人の手の中にある唯一の生存戦略。ほかにはない。
 だが、追跡者はシンだった。ほかの誰でもなく、シンだった。
 おとなしくなりかけていたエンジンをアクセルでふかし直し、白夜にバイクの排気音が鳴り響く。シンはクラッチレバーを握り込み、西を見ず、北を捨て、サイドスタンドを跳ね上げて、東を見た。白夜の夕暮れの太陽が、シンの背中を見ていた。
 どうするんだい、と。
 シンのバイクは流星のように、白の世界へ向かって急進した。嵐の前触れの弱い風が、何かを嘆くように木霊している。
 シンは理解している。
 死の直前にいる人間が何を考えるのか。
 生命をどうしようとするのか。
 生きるというのは、自分を何に費やすかという難問だ。
 死ぬとわかっていて、生命を備蓄しておいてどうする?
 死に楽園はない。最期に思うのは『無駄死にだけはしたくない』という願いだけだ。
 フィフティ、おまえは死ぬ。俺も死ぬだろう。だからわかる。俺達はブラックボクサーだから。俺にはわかる。
 おまえは、楽園を創ろうとしている。

 ○

 フィフティが左手をかざすと、わずかに寄せ集めた枯れ木の束がぼうっと燃え上がった。ぱちぱちぱち、とシヴが嬉しそうに拍手する。だからフィフティも嬉しかった。手袋を嵌めた左手で鼻をこする。血がついているが、どうでもよかった。あれからアイスピースはノッキングしていない。なのに魔法の5分間を超えても、フィフティのパイロキネシスはわずかに残っていた。それが何を意味するのか理解しているフィフティは、氷山の洞窟の中に腰を下ろして、シヴに微笑んだ。
「ツイてたね、嵐が来たと思ったら、こんなに都合よく隠れ家が見つかるなんて」
「そうだね」シヴも冷たい岩の上に座った。手でバランスを取って、足をぶらぶらさせている。
「きっと神様が『逃げ切れ』って応援してくれてるんだよ」
「そうかもしれない」フィフティは捕まえたユキウサギを解体して、生肉をナイフごと焚き火で炙った。シヴに差し出し、自分は小さく切り取った別の欠片を焼く。
「神様なんていないってずっと思ってたけど、間違ってたかな」
「間違ってたんだよ」シヴはゆっくり頷く。「こうしていま、ここにいられるんだからさ」
「……そうだね」
 洞窟の外からは竜の息吹のような轟音が響いてくる。焚き火のぱちぱちぱちと爆ぜる音と、その真紅の幻が創り上げる揺らめく影の舞踏に包まれるように、フィフティとシヴは底のない安寧を感じていた。
「ねぇ、フィフティ」
「ん?」
「どうして、助けてくれたの……?」
「もう何度も言ったじゃないか」笑いながらフィフティは、枯れ枝で焚き火を突いた。
「ほっとくなんてできないよ。ひどい実験のサンプルにされちゃうのに」
「でもさ……わたしたち、その、見ず知らずだしさ。べつに前世で結婚していたわけでもないし」
 なんでそんな話になるんだ、とフィフティは脱力して、言葉のパズルを組み立てようとあくせくしているシヴを眺めた。目を離している時間が、惜しかった。
「その……やっぱり、一目惚れ?」
 シヴはすぐそういう方向に話を持っていきたがる。この旅の間、もう何度「違うよ」と否定してきたかわからない。
 確かにシヴは可愛い女の子だ。最初に彼女の顔を見た時、呼吸を盗まれたように身動きできなくなった。
 それを恋だというならそうかもしれない。
 ただ、シヴがもし、男の子であっても、あるいは何人か子供を産んだ誰かの妻だったとしても、フィフティはエギルたちを皆殺しにしてシヴを助けただろう。
 そう確信させる、言葉の網では掬い切れない何かがあった。
「きみはすぐそうやって色恋沙汰にしたがるんだよな。女の子ってそういうものなの?」
「り、理由を知りたいだけ。中途半端は落ち着かないから。そわそわする」
「べつにいいじゃないか。五分五分も悪くないもんだよ。でもま、きみがそう思うんだったら、やっぱりそうなのかもね。もしかするとだけど」
「フィフ――」
「手、出して」
 何か言いかけたシヴを遮ってフィフティが言った。シヴはおそるおそる、なぜかひどく緊張しながら桃色の防寒手袋に包まれた左手を差し出す。期待と動揺が綯い交ぜになったシヴの視線を感じながら、フィフティは彼女の手袋を脱がしてそっと岩の上に置いた。そして、自分の掌で彼女のあかぎれだらけの手を包んだ。
「……ごめんね。ちゃんと守ってあげられなくて」
「そんなことない! フィフティは、わたしを助けてくれた……」怒ったようにシヴが言う。
「こんなの、こんなのね、どうってことないよ。ここじゃ普通のことだもん」
「でも、僕は君を守るって言った。そしたら、全部ひっくるめて守らないと嘘だ。どんな小さな傷もきみにはつけたくなかった」
「……フィフティ」
「うん?」
 シヴは呆れていた。
「カッコつけすぎ」
 二人はしばらく大声で笑ってから、それぞれに笑いすぎてこぼれた涙を拭った。あー面白かった、とシヴはご機嫌。それはどうも、とフィフティは肩をすくめて苦笑する。女の子には勝てない。
「あーあ、魔法が使えたらよかったのにな」
「使えるじゃない」
「違くてさ、たとえばここにポンと薬とかを出せたらいいのにって」
「それじゃ魔法じゃなくて手品じゃない?」
「ああ、手品でもいいね。願いが叶うならどっちだっていいや」フィフティは適当なことを言った。
 シヴがぐっと前のめりに身を乗り出す。
「ねぇ、楽園に着いたらさ、マジシャンになりなよ。きっとすごく儲かるよ。だってタネも仕掛けも本当にないんだもんね。村を作ってさ、井戸掘って畑作って、フィフティが創ってくれたおっきな太陽の下に村をつくるんだよ」シヴは両手を広げて、満開の笑顔になった。
「フィフティはそこの村長で、たったひとりのマジシャンなの」
「きみはどうするの? 好戦的な自警団のボス?」
「なんでよ。ぶちのめすわよ? ――わたしは、まあ、村長夫人かな。いやほら、村長が独身じゃカッコがつかないじゃない。ね、とりあえず、形だけ整えてさ。旅人を油断させるの」
「発想が狩人だなあ。流石だよ。恐れ入る」
「ちょっとバカにしないでよ。わたし本気なんだからね」
「わかったわかった。きっといい村になるよ。シヴ村だ」
「……やっぱりバカにしてる」
 頬を膨らませたシヴがそっぽを向く。ちょっとからかいすぎたかな、とフィフティは怖くなる。顔は笑っていても、嫌われるのが怖かった。彼女が自分をバケモノだと思っていたらどうしよう、と。実際に、逃避行の最初ではシヴは怯えていたから。その時の、彼女の絶望した表情を思い出すと、脳を取り出して薬液に突っ込みすべての記憶を洗浄したくなる。忘れてしまいたくなる――何もかもが大切な宝物の彼女との記憶の中で、それだけは、どうしても消してしまいたかった。
「フィフティ」
「…………」
「ねぇ、フィフティ」
「え?」
「……ありがとね」
 彼女は微笑んでいる。すべてをわかってくれているような安らいだ表情で。
 フィフティにはそれがすべてだった。
 ほかのなにもいらなかった。
 残りの生命をすべて彼女に注ぎ込んでしまっても構わないと思った。
 フィフティは、シヴの創る村には辿り着けない。
 彼女の夢の続きを一緒に歩んでいくことはできない。
 それでもいい。
 彼女が生きていてくれるなら、それで。

 そう感じた次の瞬間、フィフティの左目が洞窟の入り口側、少し曲がりくねった角を見た。
 白い手袋をした死神の左手が、
 岩壁を掴んでいた。

 ○

 ブリザードがチェーンバイクを殺してしまった。圧倒的なまでの風圧と叩きつけられ続ける雪片が、わずかな隙間からでもバイクのシーリングを破り、堤防が決壊するようになだれ込んだ雪で電気と燃料の系統が破壊された。時が千年進んだかのように、バイクから降りたシンが振り返ると、すでにそのフレームは雪に埋もれて沈んでいこうとしていた。イリーナに怒られるな、とシンは思った。見捨てて進む。
 嵐はどこまでも、背を猫にしたシンの行く手を阻んだ。視界はほぼ無いに等しく、方角もすべて失われた。踏み出す足も重く、シンは眼前に吹き荒ぶ真白な死をゆっくりと噛み締め始めた。『死なない男(アンデッド)』とあだ名された自分の最期が凍死とは面白い。あの二人も喜ぶだろう。間抜けな追跡者がハッピーエンドをプレゼントだ。それも悪くない。神が本気だというのなら、そのバカ騒ぎに乗ってやってもいい。
 だが、それではあの二人は助からないだろう。
 シンが死亡したくらいでは追跡は終わらない。大佐は時間をかけてゆっくりとスペアのブラックボクサーを各地から召集するだけだ。また孤児をさらってきて訓練し直しては、この氷の大地に若い猟犬として解き放つ。
 エギルたちを殺し、シンをも返り討ちにできたとしても――楽園を完成させたとしても、フィフティとシヴに待っているのは終わらない悪夢だけだ。永遠の逃避行。
 フィフティもそれはわかっているのだろう。だが、すでにステージ9まで進行した脳は熱に浮かされた夢を見るのをやめようとはしない。希望があるからエギルたちを殺したのだ。
 あの少年は最期まで、それを手放そうとはしないだろう。どんな結末になろうとも。 
(そろそろ本気で死ぬな)
 シンは腰にセットしてあるピースバッグからアイスピースを抜き取ろうとした。できればこの周囲一帯を吹き飛ばして暖を取るなんて真似はしたくなかった。それに一度、ピースで脳を覚醒(ノック)させてから、5分以降にフィフティと鉢合わせすると不味い。連続使用は負担が大きすぎる。ESPドランカーになりかけの自分は、なんの予兆もなく、おそらく線が切れたようにプツリと絶命するだろう。大佐に尽くすほどの義理はないが、任務は果たす。
 悪魔か俺は? とシンが自嘲した時、風向きが変わった。
 雪片の舞い上がる先が移る。そして視界を覆っていた白が、焦点の合ったレンズのようにわずかな角度の景色をクリアにした。20歩も進まなくてもいい距離に、塔のような氷山がそびえ立っている。神は悪魔を殺さない。生かして地獄を見せる気らしい、とシンは愛想の尽きたようなため息をついてから、休息するべく洞窟の入り口に向かった。誰かの足跡などは、たとえあったとしても降り続ける雪に消されていた。そして焚き火の灯りにすぐ気づき、だがなんの戦闘準備をすることもなく(なぜだろう、とシンは心のどこかで疑問を覚えていた)、白い手袋で覆われた左手で壁をめくるようにして、洞窟の開けた空間に顔を覗かせた。
 フィフティと会うのは、3年ぶりだった。


 言葉はいらなかった。フィフティはかつてシンに向かって照れくさそうに笑った顔を4色に染めていた。恐怖、絶望、焦慮、――そして決意。相手が誰であろうと、かつて同志であり先輩であり尊敬する戦士だった男であろうと、殺して逃げるしかない、フィフティの瞳にはそれが輝いていた。
 双眼に奇跡(おうごん)が宿る。
 交錯する視線がシンに直感させる。フィフティはすでに壊れている。まだやつはアイスピースを飲んでいない(二人は暖を取っているようだった。待ち受けていたというのならシンはすでに倒されている)。だが、その眼は脳髄の覚醒を歌う。
 フィフティの左手が腰のグローブホルダーに伸びた。シンの左手も、時が停止したような鈍さで腰へと動いている。ピースバッグへと。一手遅い。殺される。だからシンは迷わなかった。コールド・ブレイク・コートの胸元に左手を差し込む。イリーナに渡された拳銃のグリップと握手する。これしかない。
 シンはシヴを撃った。
 乾いたあっけない銃声が洞窟に反響する。シンは霊気まじりの虚ろな視線を銃口の先に流す。どっちだろうと構わない。ターゲットの少女が死のうが、フィフティが身を挺して彼女を庇おうが、シンの安全は保証される。今すぐステージ9のパイロキネシスで焼き殺される結末さえ回避できればそれでいい。
 フィフティが生き残りたいのであれば、迷わずシンを殺せばいいだけだった。実験体にされかけた少女が一匹死ぬだけだ。誰だってそうする、誰だって忘れる、当然の身勝手。だがシンはフィフティがそれをできないことを知っていたし、フィフティも脳裏に浮かんだそれを最後まで選べなかった。

 誤算だったのは。
 フィフティが死ななかったこと。

 真夏の密林から履き抜いた歴戦のアーミーブーツが岩肌を蹴り、少年兵がターゲットの前に飛び出したまではよかった。
 弾丸はまっすぐにフィフティの左胸を狙っていた。かわせばシヴの眉間を撃ち抜くバレットライン。二人は抱き合えばきっと絵になる身長差だったろう。その未来が実現する可能性は、分厚いESPによってか細く繋がった。
 結露水が凍結していくような氷晶音が鳴り響き、フィフティの胸の前に氷の盾が張り巡らされる。
 アイスキネシス。
 だがそれはあまりにも盾に似ていた。ブラックボクサーを覆うべき真円は歪み、全面に展開すれば楕円になっているであろう弧を描く。フィフティの粉金色の瞳が氷盾に覆われて消える。
 弾丸は、その氷盾をわずかに抉って跳弾し、洞窟のどこかへと消えていった。
 やはりそうだ、とシンは思った。やつはアイスピースを飲んでいない。アイスキネシスを正常に展開できていない。もし今、大佐がこの状況を知ったら捕獲命令はシヴからフィフティへと変更されるだろう。実験体がここまで生き延びることは稀であり、そしてそこまで生き延びられたブラックボクサーは喉から手が出る即戦力だ。だが大佐はここにいない。判断するのはシンだった。
 生かして置けない。
 この場で殺す。
 右手でバッグから抜き取っていたアイスピースを口に放り込む。視線は敵から逸らさない。そのまま小さな氷の破片を噛み砕き、リーサル・ドーズ・ハンドレッドの赤き劇薬が舌の上に濃厚に広がる。そのさざなみさえ聞こえるような気がする。研ぎ澄まされる感覚。視界が柔らかくなる。触れれば押せそうなほどだ。フィフティの表情が幾重にも変幻して見える。恐怖、激昂、動揺、信念――おまえは正しい。だがここで死ね。ブラックボクサーにぶちまけられるのは絶望と苦痛だけであり、栄光でも救済でもなんでもない。馬鹿げた夢に踊らされたガキが、どこまで逃げようとおまえのために輝く太陽などない。
 シンは殺意で染まった。
 それが隙だったというのなら、フィフティの方がシンより一枚上手だったということだろう。
 ブラックボクサーはグローブホルダーを両腰に吊っている。銀色のリングに千切り易い軽量金属で束ねられた白と黒の手袋。それに脳の中の拳を転写して己の武器とする。
 ハンド、パイロ、エレキ、エアロ、シフト、そしてアイスの六つの異能。どれでも簡単にシヴを殺せた。どれでも簡単にフィフティを超えれた。だが、シンの右手は腰のホルダーに掛かったグローブを掴み取れなかった。
 ――凍結している。
 フィフティが「待て」とでも命令するかのごとく、薄く透明な氷の壁の奥から、掌をシンに向けていた。決然とした表情で。死を浴びてでも外敵を排除しようとする獣の冷たい表情で。アイスキネシスはブラックボクサーの周囲を真円に防御する氷の器。シンは舌打ちする。そんな飛び道具みたいな使い方、俺は教えていない――認めざるを得なかった。フィフティは強かった。
 ――西部劇の射撃主のように。
 フィフティの右手がグローブホルダーからブラックライト・ハンドを抜き取り、充填(マウント)した。薄っぺらな布切れでしかなかった手袋に隆々とした筋肉や骨格を思わせる膨らみが現れる。その甲には金色の抜字で『27』と書いてあった。仲間を皆殺しにするために消費した26のグローブたちの末弟が、フィフティの足元まで滑り落ち、そこからすくいあげるように、川魚を捕獲して飛び去るツバメのように綺麗な線を描いてシンの左胸を狙った。シンはそれを見た。凍結しているくだらない氷を叩き割って自分のハンドを充填する時はシンには残されていない。
 黒き死のフック・パンチが迫る。
 直撃すれば重傷では済まない。鉄筋建築でさえ破壊する拳の幻影。まともに触れれば骨ごと殴爆される。だがもう避けきれない。だからシンは――
 シンは――




               ――そのフックを、右掌で受け止めた。



 骨が砕ける音がする。視界が無意味な色になる。 
 過集中。誰かが怯えている。誰だ? シンか? それともシヴか? 解らない、解るのは、今この瞬間に、フィフティのハンドはシンの手(ハンド)の中にある。掴んでいる。感じている。解っている。この手の中にすべてがある。シンの命も、死も。フィフティのハンド? 違う。
 ――――俺の拳だ。
 ハンドキネシスにハンドキネシスを叩き込む。二人の奇跡が火花を散らせる。プリズムのような七色の光が洞窟を照らし出した。シヴの怯えた表情、フィフティの驚愕の相貌、そしてシンの己が死にも気づかぬ本気の眼光――
 拳は2つの脳を許さない。
 爆発するほどの精神感応を充満させられたグローブが一筋の亀裂を生み、淡い音を立てて弾けた。その瞬間、フィフティの脳は視覚から送られてきたその情報から、それを“手”と認識するのをやめた。それはあまりにも割れた風船に過ぎなかった。フィフティはすぐに新しいグローブに手を伸ばした。まだ状況は改悪されていない。依然としてシンはグローブを一つも持っておらず、そして今のフィフティのブラックライトを掴み取るという暴挙で、右手の指は五本ともぐちゃぐちゃの方向に折れ曲がっていた。衝撃を喰らってたたらを踏んでいるかつての先輩にフィフティはほんのわずかな同情を覚えた。一緒に笑った過去を感じた。殺さずに済んだ未来を想った。
 それが甘さでしかなかった。
 この近距離戦ではハンドを制した者が命を掴む。だからフィフティは最後まで拘泥するべきだった。自分自身が創り上げた拳に。
 シンは使い物にならなくなった自分の右などとうに見捨てて、左で弾けた黒の27番を追いかけた。飛び去ろうとする黒鳥に縋った。確かにそれはもう手には見えない、だがそんなもの、見方次第でどうにでもなる。たとえばこんなふうに。
 岩壁に、左掌ごと破れた手袋を押し当てた。解れた傷跡が圧縮され、解らなくなる。感じなくなる。掴めなくなる。
 脳が騙される。
 充填(マウント)。
 二人の異能が炸裂したあの七色の閃光から、フィフティは眼を覆い、シンは眼を見開いた。その一瞬がすべてを分けた。シンは弾けた手袋の傷が掌に当たる部分だと気づいた。そして思った。
 拳で握れば隠せる。
 軌道は決めている。シンの顎ギリギリを掠めるようにアングルを調整されたフックの到達地点はあの氷壁。そこに全身全霊の一撃を叩き込む。シンにはフィフティと違って護るべきものなどない。ゆえにこの密空でサンダーボルト・ライトを撃ち込むことに躊躇いなどない。せめて二人仲良くまとめて肉塊にしてやる。だがふと、本当に自分が願っているのはそれなのだろうかと、そんな惰弱が脳裏をよぎった。勝利の美酒はすぐに回る。よぎった時には遅いのだ。





 衝撃。





 ぱらぱらと。
 アイスの破片(ピース)が、フィフティの足元に散らばる。悪霊の血のように。ちゃらりちゃらりと。きらきらと。
 乗っ取ったシンの黒の27番は、フィフティの氷壁を叩き、ながらも、そこで停止していた。その手首から、一振りの刃が覗いていた。フィフティは息を止めて、自分が黒の27番をダガーナイフで刺殺した現実を認識しようとしていた。
 ほんの一瞬だった。
 シンを掠めるようにして奔った黒の拳の軌道が読めた気がした。それがいよいよ膨れ上がったステージ9の見せた幻だったのか、それとも孤独な神の導きか。フィフティは生まれて初めて、後者の選択肢を信じた。本気で信じた。
 氷の盾が思い出したように一勢に砕け散った瞬間、フィフティはZの軌閃で今度こそ完膚なきまでに黒の27番を殺した。それはもはや手袋でさえなかった。ただの布切れ、奇跡の死骸だ。ウェイトがわりに持たせたのかシンのハンドガンがグローブの残骸と一緒に足元に落ちていくのをフィフティは視外に感じた。
 少年兵は唇を引き結び、そして壁際に背中を貼り付けて震えているシヴの顔を見やり、決意を新たに腰のホルダーに手を伸ばした。今度こそ決着をつけてやる。シン、おまえが僕の敵だというのなら――そしてフィフティは見た。ゆっくりと拳銃を握り締める腕のない手が、眼前に生首のようにゆらゆらと揺れていた。あっ、と声を上げる隙もなかった。彼は最期に見た。
 少女のあかぎれした雪国育ちの手。苦労ばかりしてきたかわいそうな手。
 そんな彼女の手から外した、




 ――――――――毛皮の、手袋。









                   シンが撃った。









 銃声が鳴り響き、暴力の直線を宿らせた弾丸が正確にフィフティの喉を撃ち抜いた。こひゅ、と破壊された喉から血と呼気(それは暖気で白かった)が溢れ、フィフティは何かを掴もうとするかのように右手を伸ばしたが、空を切り、そしてそのままシヴの手袋に充填されたシンの殺意による射撃をさらに3発、眉間と左目と頬に浴びた。溶けた氷で滑ったブーツが舞い上がり、そのままフィフティは洞窟に倒れ伏した。
 もう動かなかった。
「――――え」
 シヴの呆けたような声。シンはそれを虚ろな目で眺める。
 なあ、フィフティ。
 おまえ本当に楽園なんてあると思ったのか?
 そんなものは俺達にはない。どこまでいっても戦いだけだ。おまえたちを守ってくれる優しい世界なんてどこにもない。
「ないんだよ……」
 シンはフィフティの死体を見下ろした。あとはこれを八つ裂きにすればいい。シヴの前で。
 両手から白と黒の手袋を歯で噛み外す。薄皮一枚先にあるスペアを脱ぐ暇さえなかった。オリジナルの拳にハンドキネシスは叩き込めない。
 ふとフィフティの右足に視線が絡まった。靴が脱げた爪先には、淡い桜色の靴下が、解れた跡を適当な黒糸で縫い合わされていた。そうか、と思う。彼女は世話焼きだったんだな。
 シンはシヴの目の前で、フィフティの右足をねじ切った。
 瞬間、水が沸騰したような悲鳴がシヴの口から漏れたが、それだけだった。この吹雪と共に現れた黒衣の死神に、もし何か言葉をかければ、今度は自分が殺されると理解していたのだろう。凍りついた岸壁にもたれかかり、少女がずるずるとその場にへたり込んだのが見えた。シンが充填した白の1番は、そんな少女など気にも留めずにフィフティの右足を放り投げ、黒の1番と共に他の部位の解体にのめり込んでいった。それを指揮しているはずのシンの表情だけが、拳の饗宴とは裏にして静かだった。解体ショーが続き、やがてシヴの、やめて、やめてよ、という嗚咽を耳にしても、シンはそれをやめなかった。いよいよフィフティの首を人形のようにへし折ったところで、シヴのひときわ高い悲鳴が洞窟に鳴り響いた。耳を塞いでしゃがみこみ、震えているシヴにシンは言った。
「楽園なんてない。どこまで逃げても、おまえは追われる」
 シヴはいやいやと赤子のように首を振って目を瞑っている。か細くすすり上げられる泣き声はシンのどんな感情も呼び起こさなかった。腕を掴み、耳を塞いでいた手を奪う。
「あいつは、おまえに逃げてもいいと言ったかもしれない。だがそんなものはまやかしだ。おまえが生きようとすれば、誰かが死ぬんだ。誰かが生き延びようとするから、おまえが殺されるんだ……」
「やめて……」
 シンは言われた通りに囁きをやめてやった。そして身を離し、じっと震える少女を見つめた。この少女を殺せば任務完了。死神の仕事は続いていく。そしてシンはフィフティの死骸だったものを振り返った。
 シンに似顔絵を描いてくれた気弱で優しい弟分。大したものだった。結局、フィフティは死ぬまでシヴを守り切った。だからこうして彼女はここで泣いている。生きているから泣いている。死ねばそれもできなくなる。束の間の夢。黒の1番が、フィフティの私物から漁ったアイスピースの山をちゃらちゃらと弄びながら、シンの決断を待っていた。
 シンは少女の胸元に、一欠片の氷菓を放り投げた。
「あっ……」
 少女は滑り落ちかけたそれをなんとか捕まえた。それには血と泥をブレンドしたような、穢れた赤の液体が封印されていた。
「行け」
「……え?」
「行くんだ。死にたくなければ、それを使ってでも生き延びろ」
 シヴは凍結したように動かなかった。シンは続ける。
「あいつはおまえに逃げろと言ったかもしれないが、俺は『戦え』と言ってやる。どこまで逃げたって出口もゴールもありはしない。……逃げ続けることこそが本当の苦しみなんだ。だから、行け。行けよ」
 だが、シヴは立ち上がらなかった。
 そして、
 ――もう、怯えてもいない。
 小さな、大人になり始めのあかぎれだらけの手で、放り投げられたアイスピースを握り締めながら、その眼には決意の萌芽が宿り始めていた。
 アイスピースを使って生き延びる。確かに今のシヴにはそれが可能だった。
 今ここでフィフティの復讐を果たすチャンスが、少女の手の中で握り締められていた。
「――――」
 シンはそれを知りながら、何も言わなかった。その昏い眼には、少女の表情だけが反射していた。激昂、憎悪、後悔、――そして何より、『生きたい』という願望が、呼吸する葉の揺らぎのように少女の相貌を彷徨っていた。
 そして少女の眼が、フィフティの死骸を捉える。透明な視線だった。
 少女の瞳に決意が満ちた。
 ――やる気だ。
 そうシンが覚悟した瞬間、シヴはまだわずかに燃えていた焚き火の灰殻を蹴飛ばしてシンの視界を奪った。咄嗟に腕で顔を庇ったシンだったが、最後の一撃は来なかった。
 顔を拭って、眼を開けるとそこにはもう、シヴの姿はなかった。
 吹雪の気配が、足音なんて聞かせてはくれなかった。
「戦えと言ったのに」
 シンはちらっと背後を振り返ってから、ふっと自嘲気味に笑った。
「だがこれで、逃げられないのは俺の方だな」
 足元に転がっていた、薄皮一枚で繋がっているフィフティの首を黒の1番で引き千切り、ほかの残骸のそばに転がした。すでに徹底的に引き裂かれたフィフティの亡骸は山と化している。オイルのように流れ出る粘度の高いESP中毒者の血液が、太古の滝の小さなジオラマのように流れている。ちゃらちゃらとアイスピースを蓄えている黒の1番から、シンはアイスピースを左手で一つ摘んだ。それとフィフティの死体を交互に見る。どうしても必要だった。奇跡を起こすには、フィフティの死体と、シンの死体と、
 彼女の死体が。
 シヴに殺されるわけにはいかなかった。『死なない男』の最後の仕事が、残っている。
 シンはアイスピースを口に含んだ。噛み砕く。たったひとりの死体の山を前にして、左手をかざす。
 2つ目のアイスピースを口に含んだ。わずかに顎に力を込め、噛み砕く。舌先に流れ出る劇薬。巨人の鎚に殴打されたような衝撃。よろめくが、まだ足りない。3つ目。七色の光幻が視界を染める。シンはフィフティの生首を見下ろした。フィフティ、おまえは奇跡を起こそうとしていた。死に際の奇跡、ステージ10のブラックボックスで現実を書き換えようとしていた。命と引き換えでもあの子を守りたかったんだろ? ならその願いを、俺が代わりに叶えてやる。おまえは俺という災厄からあの子を守り抜いた。そのせいで、俺の脳髄はステージ9に進行した。もう生きてこの氷の大地から帰ることはできない。命の使い方を決める日が来た――おまえのおかげで。
 口の中が微温いと思ったら吐血していた。そのまま垂れ流しにしておく。最期の過集中をフィフティの死体に注ぎ込む――肉片どもが生き返ろうとしているかのように蠕動している。シンはフィフティの首を見つめながら、心の中にあの気高い少女の面影を呼び起こしていた。脳を騙すんだ――シンは呟く――脳を――どっちだってよかったんだ。フィフティを逃がそうが、シヴを選ぼうが。俺はどっちだってよかった。皆殺しにして任務を完了させてしまっても、二人とも逃してしまっても。どうあがいても俺達は死ぬ。フィフティを生かしてもよかった。俺はあいつに似顔絵を描いてもらったことがある。俺がこの世に産まれてきて、死と戦闘以外に残せた数少ない物のひとつが、あいつが俺に描いてくれた絵だった。そんなあいつをどうして殺せる? そんなのおかしい――俺はフィフティを殺していない。殺したのは、シヴの方だ。任務はターゲットの抹殺。裏切者の生死なんて大した問題じゃない、特にステージ2で足踏みしていた未熟な少年兵の命なんてどうだっていい。だから俺はフィフティを逃し、それからシヴを殺して、本部から生存している可能性を破棄させるために徹底的に少女の死骸を破壊したのだ。そう、だから、いま俺の足元にシヴの生首が転がっていたって何も不思議じゃない。おかしなことは何もない。俺はシヴを殺したんだ。
 なあ、大佐?
 あんたが俺を信用していたように、俺もあんたを信用していた。
 大佐。あんたは俺を理解していた。二人を生かして逃がすような男じゃないと。その読みは当たっていたよ、だがあんたが本当に心から理解すべきだったのは、死ぬ目前に高鳴るこの胸のざわめきだ。命の使い道を決めなきゃいけなくなった瞬間の感情を、あんたは理解していなかった。だからあんたは俺を信じたまま、フィフティの死体と、シヴの死体と、そして俺の死体を発見して、その死地にどれほど違和感を覚えようが、不審な点が転がっていようが、そこで思考を停止するだろう。あんたにとっては俺は死を賭してまで誰かを助けたりしないキャラクターというわけだ。信用してくれてありがとう、大佐。俺もあんたの無能さを、実の父親のように敬愛していた。ミッション完了。これが俺の最期の任務だ。結末は俺が書き換える。現実ごと、真実ごと、――何もかも、思うがままに。
 8つ目のアイスピースを噛み砕いたところで、シンは膝から崩れ落ちた。すでに視界は鮮血に染まり、拭っても拭っても赤が終わらなかった。顔を上げると、シヴの生首と、そしてところどころ男で、ところどころ女のミンチの山があった。ちょうど半分くらいの。
 左手をかざす。追従して動いたハンドが黒なのか白なのか、もう赤に染まってわからない。シンはそれに最期の火弾を宿らせる。ほどよく手加減――洞窟の中で身を庇いながら放ったようなパイロを装いながら、シンはミンチの山を爆炎で吹き飛ばした。
 ――そして、
 ぱさり、と。
 グローブが地面に落ちる。身体が流れる。シンの身体がどさっと倒れ込む。呼吸がもうない。心臓も止まる。瞼の裏に映る最期の光景だけがやけにクリアだった。白銀の世界をシヴが走っている。見捨ててしまった悔しさと、死なれた憎しみの綯い交ぜになった絶叫が、シンの死んだ鼓膜にどこか心地よく響いた。
 あの真夏の夜のスラムで――あの女、枕木涼虎はシンに尋ねた。「なにを望む?」と。シンは答える。
 俺は奇跡が欲しかった。
 何もかも捻じ曲げてしまいたかった。






 ――それを目で追うだけでも、構わない。




sage