Neetel Inside ニートノベル
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RE:クエスト
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僕の世界の変調はいったいどこからだったのだろうか。

「……は……は……あ、ぐ」

鉄の匂いのする女だった。

見た事も無い制服を赤黒く染め上げ、息を荒くさせる中学生くらいの少女。

銀の絹糸の様な、腰までの髪を呼吸と共にゆっくりと揺らす。

肌には珠の様な脂汗が、大量に浮かんでいた。

「きみ」

彼女の体に塗られた塗料が、血液である事に気づく事。

そして、その血が恐らく彼女のものでない事を理解するまで、そう時間は必要無かった。

「大丈夫? 救急車、呼ぼうか?」

だから、他人の血で体を塗らした彼女に、僕は声をかけ、ポケットに入っていたハンカチを伸ばす。

闇夜の公園。周囲には誰も居なかった。

時刻は午後10時超え、そして血塗れの少女――――誰がどう考えてもおかしいとしか言えない状況に、僕は順応し始めていた

「――――は、は……はぁぁ」

「は…………は……」

僅かに躊躇を見せた彼女の視線。

「…………さっき百均で買ってきたやつだから、気にせず拭くと良い。返してくれなくてもいいよ」

「…………有難うございます」

補足する様にに言葉を付け加えると、彼女はようやく僕のハンカチを受け取ってくれる。

「救急車は、いいです……私自身の怪我では無いので」

「そう」

明らかに異常を孕んだ会話。

考えれば、僕の意識はその時点で完全に麻痺していたのだろう。

――――真夜中に現れる血塗れの少女。そんな組み合わせなど、夢や演劇でも無い限り本物である筈が無いのだから。

「…………」

まだ乾ききっていない部位を、ハンカチで乱暴に擦る少女――――錆付く血臭の中、僅かに香る石鹸の体臭が鼻腔を擽った

背丈や顔の作りから鑑みるに、齢はおおよそ中学生程度、なのに。

「……なにか?」

ずくりと心臓が脈を打った――――ひどく、艶かしい色気を放つ彼女に、思わず僕の眼は釘付けになっていた

「いや、何か知らないけど、大変だなと思って」

真正面から見据えられ、ちょっとした気恥ずかしさに、的外れな言葉で濁して僕は鼻をすする。

「……いえ、お気になさらず――――それより」

緋色の眼と薄紅の唇を細めて、彼女は告げる。

こなれた娼婦の様な口ぶりで、真っ赤な舌を覘かせて。

「もしよろしければ――――今晩、あなたの家に泊めていただけないでしょうか?」

名も知らぬ少女は、僕に問いかけた。

「…………それは」

違和感は拭えなかった。

どうして僕なのか。

他人では駄目なのか。

理由でもあるのだろうか。

自分の事を後回しにした疑問が生まれては、消えていく。

「駄目、でしょうか?」

彼女は、ひどく残念そうな顔をしていた。

人形の様に整った顔が崩れる様は、酷く官能的であり、同時に心が痛む光景でもあった。

困っているのだろう。彼女は。

縋りたいのだろう。彼女は。

「…………」

ほんの数秒の躊躇と、ほんの数秒の思考。

そして、十秒にも満たない時間で僕は返答を口にした。



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Q:「僕」は、この少女を……
  (大本の話は変わりません)
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1.家に泊める


2.家に泊めない


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「バスタオルは戸棚の中にあるから」

遠く漏れた有難うの言葉を糧に、僕は片手鍋を振るっていた。

――――結局、僕は彼女を家に泊めてやる事にした

お金だけを渡して、ネットカフェで休めと言う事も出来たが、そうはしなかった。

理由なんて、それこそ簡単なものだ。

価格が張る――――学生にとって、見ず知らずの他人にお金を渡す事と言うのは、あまり容易な事では無い。

その点、常日頃から自炊してる身から言わせて貰えば、自宅暮らしと言うものは非常に安い。

ネットカフェで使うお金を切り詰めれば、一週間は生きていける程だ。

いくら困ってる人とは言え、簡単に財布の紐を緩めようとは思わなかった――――もちろん、それ以外の理由もあるにはあるのだが

「ねぇっ! シャンプーはどっちぃ!?」

「赤い方! 赤い方がシャンプーで、赤くない方が浴室用洗剤! 気をつけて!」

「わ、わわわっ!? なんかヒリヒリしてきたっ!?」

「それ間違いなく洗剤! 早く荒い流して!」

世間知らずの声が風呂場から響いた。

「グワーーーーッ!? いた、いた、痛いぃぃぃっ! こけたよーーーーっ! 頭ぶつけたよーーーーっ!」

「うあーーんっ! いた、いた……うぎゃーーーーっ! ちくしょーーーー! もーーーーやだーーーっ!」

最初に会った彼女からは考えられない、泣き声混じりの子供の様の声が台所まで聞こえていた。

「ちゃんと自分で体拭けそうーー?」

「え、え、え、えっちっ! そ、それくらい自分で出来るもんね! 何さ、馬鹿にして!」

「だったら良かった。ちゃんと温まってから出ておいで」

声高に告げて、完成した料理を更に盛り付けていく。

野菜炒めと、キャベツの味噌汁、自家製の漬物に、今朝炊いていた炊き込みご飯。

二人分にて大体500円。健康にも僕の財布にも優しい献立だった。

「おっ! あっ! もう出来たのかっ! 早いっ! これは早いっ!」

爛漫と弾む声に、思わず口角が緩む。

「ちゃんと言った通り肩まで使ってきたみたいだからね。ちゃんと体は拭いてきたか――――い……?」

そして、そのままの状態で静止する。

「おうっ! ちゃんと綺麗に拭いてるよ! ちゃんと肩まで浸かって百も数えてきたしね!」

「…………あのね」

何、首を傾げる彼女に、僕は頭を抱えて彼女が来た方向を指さして言う。

「せめて前は隠そうよ。バスタオルとかで……」

丸出しであった。

生出しであった。

生殺しであった。

「え? あ?」

「ふぇ……?」

「え、ええええ…………と」

目を白黒させ、顔を紅潮させ、両手で自分の身体を抱く様にして身体を震わせる。

そして――――

「ごめ、ごめ、ごめ……」

「ごめなさぃぃぃぃ……」

何故か、その場で蹲って泣き出してしまった。

「あぁあぁ、いいから……大丈夫だから」

出来立ての料理を放ったらかしにして、僕は彼女の服を探す為に部屋の中を走り回る。

ようやく彼女のサイズに合う服が見つかった時、既に料理は最高とは言い難い状態だった。

「……ちょっと冷めてるけど、キミの料理、滅茶苦茶おいしいね!」

そう言って他人と家で食事を取るのは、新鮮、ではあった。

完食、洗濯、掃除――――気づけばあっと言う間に午前様だった。

「それじゃ、お休み」

ありがとう、そう言って僕の部屋に向かう彼女を見送り、僕は一階のソファーに寝転がる。

「…………そう言えば、結局あの子」

「名前、教えてくれなかったな――――」

寝返りを打つ。

打つ。

打つ。

ソファーが軋む。

軋む。

軋む。

眠れない夜は、予想以上に早く終わりを告げた――――強張った身体と疲労を僕の身体に残して

朝。

ひどく重たい瞼を開いた眼前。

「おあよーーーー……よく眠れた?」

眼窩に深いクマを作り、寝癖を手で掻きながら僕を見下ろす彼女に、僕は開口一番、疑問を告げる。


「おはよう。ところでどうして君は何をしてるんだい?」

僕の首を横に曲げ、うなじを覗き込む様に見る彼女に、僕は寝惚けた言葉をかける。

性別が逆ならセクハラと叫んでいるのだろう。性別が逆になった事がないから分からないけど。

「僕の首に何かついてたかい?」

「ん……」

すると彼女は、少し考える様に首を曲げ。

「ま、いっか……コレ」

そのまま、僕の上でくるりと旋回し、自分の首を指差した。

「能力者の証……みんな持ってるはず」

うなじのすぐ下。そこにはハート型のアザの様なものがあった。

「…………」

なるほど――――彼女が何を言っているか、分からない

だが、分かった事がある。

「僕は能力者じゃないからね、そんなものはないさ」

それは、僕が一般人だと言う事と、彼女が『能力者』である事だ。

昨日、彼女が血だらけだった事と何か関係があるんだろうな――――そう思いながら、僕は憂鬱の残滓に疑問を追いやった

「さ、分かったなら早く顔を洗っておいで。すぐに朝ごはんの準備をするから」

転げる様にしてソファーから立ち上がる。

彼女を洗面所にやり、自分はキッチンに立つ。

「……」

彼女は恐らく学生だ。

そして、それは僕も同じ。

学生同士が一つの屋根の下に居る――――奇異の目は免れないだろう

もし彼女の親が警察に通報したりしていた場合、僕にいらぬ嫌疑がかかるのは間違いないだろう。

だが……

「ま、とりあえず今日まで様子を見て、それから判断しよう」

特に、彼女を再び放り出す気もなかった。

出て行きたいと思うならば出て行けばいいし、もうちょっとここに居たいと言うなら、僕が学校に居る間、ここに居て貰ってもいいだろう。

僕の生活を過度に圧迫さえしなければ、少々の迷惑を被った所で、大して問題は無い。

「どちらにせよ」

「今は――――朝食だな」

緑茶用のヤカンが金切り声をあげた。

     

「――――そう言えば、君の名前は何て言うんだい?」

「私? 私は……えぇとね、そう、犬子」

散歩中の犬を眺めて彼女は言う。間違いなく適当だった。

「ふぅん。じゃあ犬子はいつまで家に居る予定?」

「……知った途端に名前呼びとは。随分と慣れ慣れしいわね」

「ん、じゃあ苗字を教えてよ。そっちで呼ぶから」

「……犬子でいいわ」

いじけた様に顔を逸らす。あぁ、言い難い事情があるのだろうか。

それとも――――実は犬子が本名なのだろうか?

「話は戻るよ? 犬子はいつまで家に居る予定?」

「と言うか」

「なんで君はここに居るの?」

信号機の無い横断歩道を、少し大股で歩きながら、僕は疑問を口にする。

ここは通学路。少し坂を上れば、僕が通う学校であり――――それ以外は何も無い場所だった

「何でって…………そりゃあもちろん『能力者』を探す為に決まってるじゃない」

「探してどうするのさ?」

「決まってるじゃない。『殺す』のよ」

「……随分と…………物騒なんだね」

世界の違う会話を交わしながらも、僕の足は進んでいく。

「もしかして、昨日の返り血も『能力者』を殺した際についた血だったりする?」

「殺せなかったわ。致命傷は与えたけどね」

「ちなみに、キミを頼ろうと思ったのは、キミが私が闘った『能力者』と同じ制服を着ていたからだったりするのだよ」

試す様に彼女は告げた。

なるほど、理解が出来た。

「残念ながら、僕は能力者なんて知らない。知ってたとしても、多分、言わない」

「……ふぅん。私に殺されるとしても?」

「そう言う人は大体、言っても言わなくても見つけ出して殺すんだろ? 言えばきっと、僕は殺人扶助の罪悪感に苛まれる事になる」

「僕は、そんな罪の意識を持ちたくないから、言わないよ」

「……ソイツがとんでも無い悪人だったとしてもか?」

「うん。言わない。まずはきちんとその人が悪人かを確認しないといけないからね」

「は、馬鹿だろお前。悪人が自分の悪事を素直に言う筈が無いだろう?」

「うん。だから調べる。徹底的に調べて、その人が悪か悪じゃないかの証拠を探す――――その上で、出来る限りの償いと更正をさせる」

「…………キミは、馬鹿だろ?」

よく言われる、その言葉を最後に僕と彼女は別れを告げる。

別方向に向かう彼女を一瞥し、僅かに歩を緩めて前を向く。

異常な会話だった。

とりとめなく。

感嘆もなく。

まるで日常生活に混在する不和をぐちゃぐちゃに織り交ぜた様な言葉だった。

「…………殺す、か」

「…………」

「物騒だな」

鐘の音も鳴らない校舎の中を歩いていく。

時刻はちょうど八時を回ったところだった。

もう少しすれば、下駄箱は人でごった返すだろう。

あと少しすれば、廊下は人の声で埋め尽くされるだろう。

それらはいつもと変わらない、凡々たる一日の光景であり。

そんな中に、明らかに異端な少女が入ればどうなるか――――

結果は、分かりきった事だ

――――普通、であるわけがなくなる

『あっ! おい、そこのお前! ちゃんと制服で登校しなさい! パジャマは、その、良くない!』

『え? い、いや、これは……えと、その! 制服が今、汚れてて、その……!』

『なるほど、それは困りましたね。ですが、ならば学校指定のジャージを着れば良いだけの話です』

『え、えと、それはそう、ですけど……えぇと、んと、その……ジャージもまだ乾いてなくてぇぇ』

『ジャージも!? だからと言ってパジャマは無いでしょう!? それに、それはどう見ても男もののパジャマじゃないか!?』

『えっ!? いや、そ、それは、えぇと……これは、えと……お兄ちゃんから借りたやつでぇ……』

『ONICHANッ!? よりにもよってONICHANだと!? けしからん! それは羨まけしからん! 故にっ!』

『ゆ、ゆえに……?』

『君を生徒指導質まで連行する。私の事をお兄ちゃんと呼ぶか、[近親相姦]と言う文字を作文用紙に30枚書き取るまでは家に帰さんよ』

『お、……おにぃ、ちゃん?』

『うむ。次からはちゃんと着て来いよ?』

「…………」

「…………なんだ、アレ」

五分も経たないうちに、日常は容易く脅かされていた。

いや、でも、まぁ。

「……平和的解決だった分、まぁ良いんじゃないかな」

小さな溜息を吐き出し、僕は再び歩み出す。

いつもより、少し遅れての教室の扉をくぐる。

「おはよう」

適当な談笑と適当な挨拶で時間を潰し、僕は椅子に座る。

時刻は八時十五分――――聞き慣れない金管楽器が八つ響いた

『はいさい緊急連絡の時間だよ。2年B組の出席番号13番――――今すぐ、生徒指導室にゴーマイエ”ェ”イ”』

『今すぐね。今すぐって言ったら今すぐだよ! 今すぐだからね!』

「…………」

「…………」

「…………僕、何か悪い事でもしたっけ?」

十分も経たないうちに、僕の日常は容易く脅かされていた。

     

「はいこんにちははじめまして私の名前はあぁいいや自己紹介なんて面倒臭い事する前に君に説明をしなければならない事があったのよね」

扉を開けた途端だった。

矢継ぎ早にまくしたてた女性の言葉は、当然の様に言葉の端折ったいくつかの単語しか聞き取れなかった。

耳に入った瞬間に、先ほど校内放送を言った声の持ち主だと言う事は分かった。

だが――――

「…………」

瑠璃の様な青い肌に、蝙蝠の如く真黒の翼。

羊の如く捩れた角に、黒の虹彩の黄金の瞳。

そんな人物と、いや、人と呼べるかも曖昧な有機物と相対し、気圧されている僕を見て担任の教師が言う。

「あぁ、心配しなくても良い。この方は――――正真正銘の天使だからね」

満面の笑みで彼は言った。先生同士どころか、生徒にも見せない様な笑みだった。

なるほど、先生と僕の間にある音楽性の相違と言う溝は非常に深そうだった。

天使か――――僕にはどこをどう見ても、悪魔にしか見えなかった

「まぁ色々とあると思うがようやく人数が集まったから早速ゲームを始めようと思うのよねいやぁ上の方からウダウダ言われ続けていい加減に試験管としてイライラしてた所に来てくれた君はなんというか私の救世主みたいなものだよねおおと話が反れたそれじゃあ一応だけどルールを説明しようか」

こちらの意見を通す暇さえ与えず、彼女は一方的に言葉を並べていく。

「勝負開始は今日の昼十二時から勝負終了は各々が選んだ能力者が戦いあって最終的に一人になるまで敗北条件は相手を敗北させてこの世界から追放する事ここまではオーケー?」

「…………えと、一つだけ良いですか?」

「良いよ。何でも聞くよ」

「もう少し遅めにお願い出来ますか? 正直、早すぎて僕の耳が追いつかない状態なので」

「…………」

「基本的な敗北条件としてはギブアップと相手に言わせるか十二時間以上意識を失わせるか第三者の目から見ても確実に戦闘不能だと言う所まで追い込めばオーケーだよ」

「…………」

「そんな顔しないでも後からちゃんとルールブックあげるよじゃあ次の恐らく出てくるだろう質問に先に答えておくよ」

「基本的には敵を殺したら負けとか言うのはナシだよ別に殺してもオッケーだよ理由としてはこの世界は実はあくまでもこのゲームの為に作られた世界であってこのゲームで死んだ人間はそっちに強制送還されるだけだからねちなみにその世界自体は本物の世界でこっちの世界が仮想世界って考えた方が良いかもネ」

「…………仮想世界」

ぎゅうと握った指先に力を込める。

肉に爪を食い込ませると、掌が白く染まり鈍い痛みが神経に通う。

舌の先を前の歯で強く噛み締める。

肉に歯を食い込ませると、痺れる様な痛みが口腔から神経を通る。

何も変わりは無い――――なのに、これが現実では無いと言うのか?

「えーともしかして本当の世界は今の自分とは違う人間なのかもって思って不安になってるのかもしれないけどそこは安心するといいよだってこの世界はあくまでも君達の世界にゲームと言うプラスアルファを付け加えただけの世界だから正直元に戻っても今までと全く同じ生活を営むだけだよだから別に心配しなくても勝負に負けたら元の生活を続けてもらうってだけなのよね」

「……死なないんですか?」

「死ぬよ」

極めて淡白な返事に思考が止まる。

「足を千切られたら泣き喚くし腕を潰されれば発狂するし腹を抉られれば痙攣が止まらなくなって頭を抉られたら世界が変わるまぁぶっちゃけると痛みもあれば苦しみもあるよそもそもキミ自身は生身と変わらないんだから意識が飛んだだけみたいなもんだよあくまで世界が違うだけオーケー?」

「……死んでもきつい、けど死んだ所で別に損はしないって事ですか?」

「「おーおー聞き分けいいじゃん大体この話をすると大概の奴が萎縮するから発狂しだすってのにキミは随分と冷静じゃないのさ私は好きだよそう言う聞き分けのいい子は」

彼女は細い指先を白磁の灰皿に手をつけ、好意的な笑みを見せる。

目もくれず、指の先に乗せて皿回しの様にくるくると回し出す。起用な人、及び起用な天使だった。

「うんうんこれならいいねいつでもバトれる状態だねオーケー中々の逸材だよそれじゃあ早速キミに能力を与えてゲームスタートといこうか」

彼女が僕に向けて手招きをする。

にこやかに笑う彼女の目は、僕に対する期待で満ち溢れていた。

「……能力者になる事で何らかのデメリットはあるんですか?」

「ないねないない普通に使ってればまず無いわよまぁ悪用したりいきなり変わった自分の変化についていけず自滅する人はいるかもしれないけど基本的には能力ってのはプラス効果しかないからまともにしてればデメリットなんてまるでないわよ」

夢の様な話だった。夢の様なルールだった――――しかし

「最後に一つ、いいですか?」

ゲームの根底。開催理由。最も重要な事を聞いていない。

「そのゲームに優勝すると、何があるんですか?」

この死別をかけた闘いに挑む理由。いわゆる、餌。

「…………」

灰皿の回転が止まる。ゆらゆらとバランスを取りながらも、何とか爪の先で静止する。

初めて、少しだけ考える様な仕草を見せ、はっきりと告げる。

「――――何でも一つ願い事が叶う」

瞳を真正面から見据えて言った。

僕を射抜く荘厳の双眸には、紛れも無い根拠があった。

「何でも?」

「文字通り何でもだよ鉄を金に変える事も空を自由に飛ぶ事も世界一の金持ちになる事も人類を皆殺しにする事も不老不死になる事も世界一のイケメンになる事も世界一の天才になる事も世界から武器をなくす事も世界を平和にする事も抽象的な事から具体的な事まで何でも一つ願い事が叶う」

「……随分と太っ腹ですね」

「それだけ価値があるのよキミたち百人の命にはまぁ正しく言うとこの戦いの参加者と勝負自体にはね詳しい事自体はさっきも言った通り後で渡すルールブックに書いておくから適当に読んでおくとするといいわそれじゃ」

彼女が指が人差し指から小指まで階段を昇る。

「当然、参加、するでしょ?」

そう言って彼女は黒曜の目を薄く細め、口角を大きく裂いた。

「…………」

僅かな思考。微かな躊躇。多少の欲望。多少の覚悟。

甘いルール。死活の戦。理想の商品。

自分でも驚く程に冷静な理性――――余命一年。僕は生まれて初めて自分の生唾の音を聞いた

「ん、それじゃあ私の近くに来て私の手を握って。キミにあった能力をあげるから」

彼女の言葉に誘われる様に足を進める。

悪魔だとか天使だとか。

常識だとか非常識だとか。

けど――それが縋れるものならば、僕は縋る。

プライドなど何もなく、僕はその手を伸ばす。

「…………ん?」

「……ん、……ん? ん?」

彼女の顔が疑問が浮かぶ。

同時に、握り締められたひどく冷たい手に力が篭る。

「あれ、あれ、あれ……あれ……これは…………あ、と……これって」

「あー、あー! なるほど、そう言う事か。そう言う事なのね! だったら説明もつく!」

僕の手を取り、何やら自分の中で彼女は納得する。

向いていなかったのだろうか。僕は戦いに参加する素質が無かったのだろうかと、そんな考えが頭を過ぎる。
だが、彼女はそんな僕の不安を断ち切る様に口を開いた。

「キミ、もう能力を持ってるじゃないか――――」

     

「……僕が能力者、ですか?」

悪魔の言葉に、僕は訝しむ様に眉を落とす。

その変化は僕が思うより顕著だったのだろう。彼女は少しだけ考える様に首を傾け、言う。

「気づいてないと言うか知らないのかなと思ったけど考えてみれば潜在的に眠ってるに近い形みたいだし確かに本人自身が気づいてないってのも仕方ないっちゃあ仕方ないのかもしれないけどねなんてったって私も直接こうやって触れるまでは感じ取れなかったわけだし……」

「あの……それで、結局のところ僕の能力はどんな能力なんですか?」

なおも続く彼女の言葉を遮る様にして僕は言葉を綴る。

視界の隅で担任が慌てた様な様相が見えたが、気にはならなかった。

「んーんーいい感じに淀んでるわねぇ天使様の有難い説明を途中で遮るとは度胸欲望共に中々に良好と言うやつねでも」

ぴしり、と音がした。

心臓を押し潰されるかの様な重圧に、思わず呼吸が止まる。

「て、天使……さま…………い、いったいなに、を……ひ!?」

ただの一瞬。静止する時間も何も無かった。

「私はね、邪魔されるのが嫌いなんだ」

――――視界の隅で、人間が一人、石くれ、へと変化を遂げた

「…………」

何が起きたのか理解が出来なかった。

彼女の眼が怪しく光ったと思うや否やの出来事だった。

次の瞬間には、見知った担任の姿はそこには無かった。

大量の蛆虫が全身を這う様な不快感と恐怖が思考を犯す。

怖い。怖い。怖い。

握られている手が震える。

足がガクガクと痙攣する。

歯の根がガチガチと鳴る。

怖い。怖い。怖い。

目の前の異形の存在に対し――――恐慌が思考回路を埋め尽くす

「わかるかしらん天使って言うのは身勝手なものでねやっぱり人間が話を聞かずに自分勝手してるとどうしても罰を与えたくなっちゃってまぁこう言うのって直接本人に罰を与えるよりも近くの人間を見せしめにした方が案外精神的にも……」

「……先生を元に戻してあげてください」

無意識に僕の指先に力が篭っていた。

助けようとなんて夢にも思っていない。

話を聞いてもらえるなど思っていない。

助かる保障があるとすら思っていない。

「…………へぇ」

文字通り、無意識だった。

「先ほど僕がした勝手に、先生は関係ない筈です。戻してあげてください」

握り潰す様に力を篭めて行く。

敵う筈が無い。通じる筈が無い。

なのに――――僕は恐怖に満ちた眼のまま、彼女に正対していた

「…………ふぅん」

「ふぅん、ふぅぅぅん、へぇぇぇぇ!」

にやにやと彼女は笑う。何が楽しいのか。理解出来る気がしなかった。

勝てる気も説得出来る気も、心底助けて貰えるとすら思わなかった――――だから

「なるほどね、なるほどね、なるほどね! そう言う事か!」

「あぁいいよ、いいよ。君の言う通り、君の先生は関係無かったよ!」

そう言って、空いた方の指を鳴らす。

「――――――……っ!? ぜはっ……ぜはぁ……ひ、ひぃぃぃ…………!?」

泡の弾けるような音――――瞬間、無機物に色が戻る。生気を取り戻した先生は崩れ落ちる様に膝をつく。


「だ、大丈夫ですか?」

「ひ、ひ、……ひぃぃぃぃぃぃぃぃっっっっ!?」

生徒に取り繕う顔すら保てず、恐怖のままに表情を壊す。

「ひ、たす、たすけ……っひ、ひぃぃぃぃぃっっ!」

そして、脱兎の如くその場から逃げ出した。

想像もつかなかった。彼がどれほどの恐怖を味わったのかなど。

「おや可愛い生徒を素性も知らない私と二人きりにさせるなんてキミの先生も随分と薄情なものだなぁせっかく助けてあげたのにこれじゃあ助けたくなくなってしまうんじゃないのか?」

「…………」

試されているのか、おちょくられているのか。

どちらにせよ、彼女が僕に対して最悪でも『無関心』では無い事を理解し、少しだけ安堵する。

もし彼女の矛先が僕に向いていなければ――――先生と僕の立場はきっと逆だっただろうから

「それより、さっきの話の続きですが――――」

「あぁそうだったねそうだったねいい加減人間の生意気聞いてやるのも神様の務めだしねうんいいよ私今すごい機嫌良いし寛大だし色々重なってるからキミの我侭に付き合ってあげるとするよ勝負前に信じられないってのもなんだかなぁって感じだろうしそれじゃあ一つだけ披露してあげるとしようよぅく目を凝らして見ておくといい」

と、そこまでまくし立てる様に言葉を告げると、彼女は黄金の瞳を僅かに細め、空いた手のひらを灰皿の上にかざす。

ぎし――――と

軋む音がした。

きぃ――――と

硝子を掻く音がした。

手も触れずに灰皿が中空で静止する。

「キミの能力はこんな感じの事が出来る能力だ」

そして、そのまま。きちり、と。

『灰皿』は拳ほどの大きさに圧縮され、割れる事も無く、簡素な音を立ててテーブルの上に落ちた。

「…………念動力、ですか?」

目の前で起きた事が信じられなくて、でも信じるしかなくて。

僕は馬鹿みたいに言葉を告げる。

「んーんーまぁキミがそう思うんならそうなんだろうねぇまぁぶっちゃけるとキミの能力は使い方次第じゃチート臭い能力だしキミ自身結構無礼だしであんまり教えたく無いのよねぇ聞かれても教える気は更々無いしねぇあぁでも発動条件と限定条件なら教えてあげても良いわよだってそう言うルールだし」

「限定条件は他人の能力を見る事」

「発動条件は頭の中に強く願う事」

「キミの能力の発動条件はただそれだけよ試しに私が圧縮したこの灰皿をそこのゴミ箱の中に触らずに捨ててみると良い」

――――世界が変わるよ

彼女の言葉に釣られる様に、僕は落ちた塊に手をかざす。

動け。

動け動け。

動け動け動け。

奥歯が砕けそうな程に、血管が破裂しそうな程に、瞼が内出血を起こしそうな程に。

ただ、願った

ただ、思った

ただ、念じた

「…………ッっっ!」

音も無く、触れもせず――――重力を無視した白磁の物体が宙を舞った

おめでとう

彼女の賞賛が右から左へと消えていく。

ありがとうございます

本当に自分がそう口に出したのかは上手く覚えてはいない。

ただ、何かを成し遂げた妙な満足感と倦怠を孕んだ脱力感

そして――――

「僕が、能力者……」

短い人生の中で、感じた事の無い喪失感が僕を支配していた。

     

「…………」

午後十二時三十五分。

昼休みが刻々とその時間を潰している間、僕は頭を抱えていた。

「おう13番! 学費を工面する為の算段でも考えてんのか!? ハハ!」

「別にそんな理由で呼ばれた訳じゃないよ…………それと、いい加減に名前で呼んでよ」

僕の不安が雑談に塗り潰される。

「だったらNo.13とかどうよ? ザ・サーティーンとかどうよ?」

「……語呂悪くないかい? ……はぁ」

「なんだ? 思春期特有の悩みならオレ様が解決してやるぜ? 文字通り精神的なものから身体的なものまで色々とな」

「……遠慮しておくよ。僕はまだ清い身体で居たいからね」

友人の言葉を適当に流し、僕は再び頭をもたげる。

『――――あぁ、あと最後に一つだけ補足をしておくとキミの能力には当然の様に発動に限りがあってね具体的にはキミの能力が使える回数制限の事なんだけどあぁもちろん』

『その限りを教えてあげるほど私は優しくないんだけれどね』

『あははちなみに私の名前は正式名称は中々長いけどそうだね気楽にバールって呼んでも良いわよ今度会う時はまた何か用事がある時とかだろうけどねぇそれじゃあ同じ世界で会いましょう』

それだけを残して彼女は霧散する様にその姿を消した。

「…………はぁ」

悪魔の様に笑った彼女の残滓が網膜の内側で僕を蝕んでいた。

ルールブックはカバンの中。

僕の身に訪れた異常を再認する事など出来る筈も無く。

僕はただ想像に妄想を巡らせながら時の経過を噛み締める。

「お、おい! なんか変な奴が居るみたいだぞ!?」

見知らぬ声が耳を叩く。

自分にかけられたものでは無いと思いながらも、僕はそちらへと目を向ける。

「なにやら、下級生苛めてた不良連中を一発でノしたらしい! しかも、小学生か中学生くらいの女子がらしいぞ!?」

ありえない、マジかよ、見に行ってみようぜ。

探究心に満ちた大衆の興味に対し、僕は一人机に肘をついてごちる。

「犬子ちゃん……」

「話題の奴のこと知ってんのか? サーティーン?」

「多分、だけどね……」

溜息を一つ漏らし、僕は虚空を仰ぎ見る。

僕は能力者だ。彼女を殺さねばならない

彼女は能力者だ。僕を殺しに来るだろう

なるほど――――随分と短絡的な思考だ

「お前は、見に行かねェのか? 知り合いかもしれないんだろ?」

「……ん」

知り合い。その言葉でひとくくりにされる程、僕と彼女の関係は浅いのか。それとも、深いのか。

「――――どうせ暇なんだろ? 」

未知の扉を前に、友人の顔は好奇心に満ち溢れている。

その顔に、不安などまるで無く。

その目に、疑いなどまるで無く。

「…………僕は」


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1.彼女の元に向かう事にした

2.彼女には会わない事にした


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「あぁもう常識的に考えてみりゃあ、特徴だけで赤の他人を見つけられるわけねぇだろくそう!」

午後十二時五十九分。

そう言って帰ってきた友人の姿に、僕は苦笑する。

――――結局、僕は行かなかった

大体、彼女に会った所で何をすれば良いと言うのか。

能力者は殺す、と。

そう軽々しく放った彼女に対して何を伝えれば良いのだろうか。

「…………ふぅ」

溜息が出る。最近は少なくなってきたと思っていたのに。

頭をもたげて天井をもたげる――――瞬間、だった

『GYYYYYAAAAHAAAAAァァァァッッッ!』

何かを爆発させたかの様な轟音と、世界が崩落するのではないかと思う程の振動が教室全体に走った。

いったい何が起きた――――判断する間も無く、響いたのは天蓋が砕ける音! 視界に入ったのは崩落した天井! それによって教室の中央に空いた3メートルほどの大穴!

「な、な、な…………ぁッ!?」

巻き上がる灰煙の中心、彼女は居た。

モノクロの霧の中から白銀の長髪を靡かせ。

その細やかな足の先で何かを踏み付ける様にして、この教室に文字通り『降り立って』いた。

「あ、あ、あ、あ、ががががぁぁっぅぅ」

粉塵に隠れた彼女の足元で、何かが呻き声をあげている。

人間の男。声変わりはしている。そして、酷く苦しげな声だった。

「――――ふん」

彼女のシルエットが、僅かに足を上げた。そして

硬いものと柔らかいものを、同時に砕いた様な音が鼓膜を震わせ、濃い赤が周囲に飛び散った。

「「「――――ッ?!」」」

何が起きたのか。

何が起きようとしているのか。

コレはいったい何なのか?

目の前で起きている常識離れした光景に、恐慌に陥るクラスメイトを片目に、彼女は煙幕から微かにこちらを一瞥し

「――――先に家に帰っとくよ」

そう残し、開きっぱなしの窓から跳んだ。

地上三階。そんな事を微塵も感じさせぬ足取りは、一種の美しささえ感じられた。

「ひ、ひぃぃぃ……なんだよ、なんだよコレぇ!」

彼女が現れ、そして去っていくまでに十秒も経たぬうちの出来事だった。

コンクリートの塵が晴れた中で、勇敢にも最初に口を開いたクラスメイトの声の矛先。

そこには人影などなく――――人の形に凹んだコンクリートの床と、噴出した赤黒い血液だけがこびりついた光景があった

「…………」

容易に想像出来る眼前の顛末。

胸に去来するルールの内容。

元の世界への送還方法。

ゲーム内容と勝利法。

殺人の黙認と結果。

死体すらも、残されない、敗北者の、姿――――

「…………は、はは」

「何だよ……これ?」

末端神経まで凍りつく様な惨状を目の当たりにして――――ただ、僕の心臓だけが激しく動き続けていた

     

『……突然起きたこの学校における爆破事件において、幸いにも死傷者はなかったものの、依然、学校の周辺では以前警戒を強めているとの事です』

抑揚を感じさせないキャスターの声が耳を叩く。

早退した僕の眼の先では、カメラがいつもとは違う光景を映していた。

大穴の開いた天井。黄と黒のラインテープ。日常にそぐわない警官の姿。

午後二時十五分――――まだ僕の家に彼女の姿は無い

「……ふぅ」

なんだか狐につままれた様な気分だった。

テレビ越しの世界が酷く遠く感じられる。

『イヤ、マジありゃ妖怪の仕業ッスよォ! 爆弾とかじゃねェですってェ! だっていきなり床を踏み砕いたンすよォ!』

『爆弾? 馬鹿言うんじゃねぇよ! 絶対ありゃあ爆弾なんてチンケなモンじゃなねぇ! そもそもそれだったらどうして誰も怪我してねぇんだよ!?』

『金属疲労!? ウチは金属じゃなくてコンクリート校舎だぞ!? え!? 金属じゃなくても物質は疲労するもの? そりゃそうだ馬鹿にしてんのかアンタ! つーか、ンなヤワな校舎じゃねぇよ! 幾度もの災害を無補修で耐え抜いた校舎だぞ!? 馬鹿な学生だと思って頭の悪ィ質問繰り返すな馬鹿ヤロー!』

アナウンサーの質問に対し、声を荒げる学生の声。

モザイクで顔を隠し、変換機材で声を潰し、現実から目を反らすかの様な光景が酷く可笑しかった。

「…………」

落とした視線。握り締めた拳。

テレビの向こうで頭を抱える彼ら。

こちら側でそれを傍観している僕。

――――何が違う、何が、違う。

「能力者、か…………」

リモコンに手をかざし、少しだけ目を瞑り――――取りやめる

「……確か、ストックがどうとか言ってたな」

悪魔の、他称、天使の。笑みと言葉を思い出し意思を飲み込む。

『――――キミの能力は発動に回数制限があるから』

「あの一回きりって事はないとは思う……けど」

むざむざ、必要の無い事に使う必要も無いだろう。

「…………」

それに――――色々と確認する事もある

僕はテレビを消し、浴室へと向かう。

服を脱ぎ、下着を脱ぎ、少しだけ覚悟して鏡を覗く。

見覚えのある身体の見覚えの無い――――左胸。心臓の中心にそれはあった。

「…………骸骨とは、また、不吉な」

昨日までは無かった筈の痣が、くっきりと皮膚を冒していた。

能力者である証――――殺意を向けられる対象の位置

「しかも、心臓部って…………」

最悪の位置だった。ほぼ間違い無く命を刈り取られる位置に、僕の命綱は存在していた。

『ただいまー! 今帰ったよー!』

「ッ!?」

酷く明るい声に全身が総産毛立つ。

扉を閉めてなかったなど、うかつにも程がある!

『どこに居るのー? あ、お風呂だねっ!?』

「や、ば……ッッッ!」

僕の返事も待たずに扉が開く。

殺される。

殺される。

殺される。

――――――死ぬ

「ま、って……ッ!?」

僕は反射的に僕は胸を隠す。ただそれくらいしか、僕に出来る事は無かった。

「…………えぇと」

上から下へと彼女の視線が向けられ、とある点で目が止まる。

「な、な、何、かな?」

人として恥ずかしい場所を凝視されてもなお、僕はその姿勢を動かせずにいた。

死ぬ、動いたら死ぬ。

死ぬ、バレたら死ぬ。

動けば僕は殺される。

恐怖、だった。

空調の利かない場所のせいか、じっとりと脂汗が滲み肌を湿らせる。

自分よりも年下の少女に、裸を見られていると羞恥心など問題では無かった。

僕からすれば永遠とも呼べる沈黙。彼女からすれば手で数えられる程度の秒数。

「ふ、ふぅん、き、き、き、着痩せするタイプなんだぁ」

「う、ふふ……そ、そっかぁ、そうだったのかぁ……はは」

「あ、え、えと……邪魔だったよね?! ごご、ごゆっくり!」

目を頬を耳を赤らめた彼女の、意味不明な言葉を漏らし、慌ててリビングへと去っていく彼女と共に。

「……助かった」

「…………の……か?」

間抜けな僕の声が浴室に響いていた。

     

「そう言えば、さ」

夕食を振る舞い、美味しいと無邪気な笑みを浮かべる団欒の最中。

僕はさも他人事にの様に切り出す。

「犬子の能力ってどんな能力なんだい?」

聞きたい?

彼女の悪戯っぽい笑みに、僕は機会があれば是非と紡ぐ。

「ん、本当は教えちゃいけないけど……良い人そうだし、今回は特別に教えてあげる」

そう言うと、彼女は少しだけ思念する様に目を閉じた。

そして、三秒ほど時間を空けてからその指をティッシュ箱へと伸ばす。

一体何が起きるのだろうか――――そう思っていると、彼女はティッシュを一枚、小さな手の中で握り

「ん……っ」

片目を少しだけ細め、奥歯を噛む仕草を見せた。

時間にして、おおよそ二秒にも満たない短い時間。

僕よりも小柄な彼女の、握力の内側。

「……………………はい、出来上がり」

開かれた指の中――――そこには、BB弾程度の小さな塊が一つだけあった

「…………」

一瞬、思考が停止する。

何が起きたのだろうか、と僕の中を多種多様の疑問が渦巻き。

「もし……かして…………」

今日見たばかりの記憶が頭を巡る。

学校に空いた大穴。三階からの跳躍。今しがた手の中で変化したティシューペーパー。

震える唇で恐る恐る放つ言葉に、自分自身でも薄ら寒いものを感じずにはいられなかった。


「……身体能力の大幅な向上、とか?」

僕や、悪魔の使っていた能力と比べて、良く言えばシンプル。悪く言えば地味な能力を持った彼女は。

「ん。当たり。よく判ったね」

「他にも、天使様からは色々と凄そうな能力を勧められたんだけどね、私はやっぱり、体一つで戦うのが一番カッコいいと思って、コレにしたんだ」

「なんてったって、車に跳ねられたってへっちゃらだしね」

そう言って、小さな拳を握って笑う。

既に一人を『脱落』させた少女は、『僕』の前で天使の様な笑みを見せていた。

「そう言えば、今日の朝も聞き忘れてたけど」

ずぐり、と心臓が高鳴る。

「犬子は、いつまで僕の家に居る予定なの?」

「……わ、私っ? わ、私は、えと、その……」

僕の言葉に、どぎまぎと視線を泳がせる。

責めているつもりは無かった。

彼女にも理由があるのだろう。

「…………私は、その」

言い難そうに彼女は口元を抑える。

言わなくてはいけない事。知られたくない事。

二つが理性の中でぐちゃぐちゃに混ざり合って、彼女を心を苛んでいるのだろう。

当然だ。

彼女は、見ず知らずの他人を、戦いに巻き込むか瀬戸際に立たせようとしている。

彼女にまともな理性があるのならば、良心が彼女にあるのならば。

彼女は、僕の家に滞在しようとすると言う『異常』に対し、ここまで迷う事は無かったのだろう。

最低でも――――彼女は僕に対して一宿一飯の恩を感じてくれている。

一方的に蹂躙する事が出来る力を持ちながら、僕を人間的な目で見てくれている。

でも、対する僕のそれはきっと、彼女を助けたいと言う綺麗なものでは無い。

優越感にも似た、汚い感情なのだろう。

でも、それでも。

「もし――――」

聞いたのは僕だった。

選んだのは彼女だった。

「もし君が、帰る場所が無くて困ってるのなら」

僕は一度手を伸ばした。

最後までなんて事、出来る筈も無かった。

それでも、もう少しだけ、彼女達が生きる別の世界が見たくて。

生きて、自分の目で、別の世界を見たくて。

「君が落ち着くまでの間だけでも……僕の家に居てくれよ」

僕は地獄への切符を――――彼女と言う人間を、他人への抑止力となりうる彼女の力を、手に入れる道を選んだ

     

「……はぁ」

染みの無い天井を見て僕は溜息を漏らす。

午前一時二十五分。

「…………」

妙に冴えた目をぼんやりと開くと、薄明かりが周囲の輪郭を形作る。

壁に貼られた日捲りカレンダーの数字が、彼女と出会ってからまだ三日も経ってない事を理解させる。

「……ふぅ」

目を擦り、僕は体を縮こまる様にして再び布団の中へと入る――――

「すぅ、すぅ…………ん、んんん…………そこはいかん、ですぞぉ……」

「…………」

互いに40センチも無い距離。

セミダブルのベッドの上に、僕達は新婚夫婦の様にして並んで眠っていた。

「……んん、むにゃ、むにゃ……無敵のボインボイーン、テーン、えへへへ」

「……なんでこんな事になったんだろ」

本当眠っているのか――――僕の意識が闇に堕ちようとする度に、彼女はこうやって寝言を漏らす

僕と彼女が一つのベッドで眠る『理由』は簡単なものだった。

『眠ってる時に別の場所に居るキミを襲われたら、一溜まりも無い』

つまり、彼女なりに僕を守る為に出してくれたものだった。

だが――――

「ディヒヒディヒヒ…………ん、むにゃ……スカル鑑真……」

「…………」

彼女の寝相は一言で言ってしまえば『最悪』だった。

小さな体ながら、手足を大の字で占拠する為に彼女の所有面積は桁違いに広かった。

眠たければそんな事は気にならない、と言う人間も居るだろうが、僕にとっては彼女と眠る事自体が不可能な事だった。

「別に……意識してるつもりは無いんだけどな……」

純粋に、眠れないのだ。彼女の隣で眠ると言う行為自体が、僕の睡眠妨害に繋がるのだ。

三度。拳を顔に叩きつけられた。

二度。寝ぼけて服を脱がされた。

一度。僕の貞操が奪われかけた。

彼女が眠っているとしても、起きていたとしても、関わり合いたくないレベルだった。

「…………」

「うん……今日まではソファーで寝よう」

明日、学校の帰りにシングルの布団を買って帰れば問題は無いだろう。

そう思い、僕は昨日に引き続いて一階のリビングへと向かう。

真っ暗な階段。電気も点けずに降りていく最中――――ぱちん、と。何かのスイッチを入れた音が聞こえた

「……?」

誰も居ない世界を、僕はゆっくりと歩を進めていく。

虫の声一つ聞こえない住宅街。他人行儀の隣人はこの時間には寝ている筈だ。

段々と上がっていく鼓動。裏腹に音をなくしていく呼吸。

辿り着いたリビング。僕の今日までの寝床。

「…………」

僅かな不和。確かな違和感――――なにか、ちがう

なんだ、なにがちがう?

暗闇。カーテンを閉めた部屋の中は真っ暗だ。いつもと変わらない、真っ暗だ。

誰も居ない。そんな気配など存在しない。誰も居ない部屋の中。何も違う所など無い筈だ。

そう、思った瞬間だった。

ぱちん

もう一度、先ほど耳にした音が聞こえた。

「…………ひッ?!」

ぞわり、と背筋を今まで感じた事も無い恐怖が襲う。

わかった。わかった。わかった。

暗く塗られた見慣れた世界が、その一瞬でホラーテイストに彩られる。

――――僕の目の前で、電気が、点いた

「ひっ!?」

自分の口角が強張ったのが解った。

恐怖に爪先が硬直したのが解った。

――――あの悪魔と対峙した際に僕の心理の奥底に潜り込んだ筈の、潜在的な恐怖が、ただの一瞬で蘇る

『能力者』

人でありながら、人ならざるものの存在が、僕の領域の中に居ると言う現実。

「いぬッ…………!? か、は……っ!?」

そして、助けを呼ぼうとした僕の首が――――突然、見えない力で圧迫された。

「うぁ……か…………き、ひ……っ!」

何だ。何が起きた。何が僕の体に起きているんだ。

「ひぎっ……! っく……! ひ、ひ…………! くぁっ……!」

首を捻ろうとも体を捻ろうとも、視界の中に何も映らない恐怖に、僕はパニックに陥る。

力の強さ。そして範囲から、僕が何者かに首を閉められている事だけは理解が出来た、なのに――――その姿が映らない。僕の目には映らない。

「い、ひ、…………つっ!」

苦しみが痛みに変わり始める。このまま首を捻じ切られるのでは無いかと思う力に、全身から脂汗が噴出す。

殺される。

ころされる。

コロサレル。

僕が、殺される。

僕が、殺される。

死んだ事すらも知られずに。

僕と言う存在が――――なくなる

「いや……だ……」

酸素が消えていく。物の境界がぼやけ始める。

「――――死にたく、ない…………っ!」

どうすることも出来ず、ただ無我夢中で振り回した。

誰でも良かった。何でも良かった。

こんな惨めに殺されるくらいなら、後の事など何でも良かった。

「ひ、ぎ……っっッ?!」

足で食器棚のガラスを割り、テーブルを力の限り突き上げた。

『ッ……』

瞬間、だった。

耳元に、聞き覚えの無い声が響いたかと思うと、ふっと首にかかっていた力が抜けた。

「くっ……は…………」

酸欠一歩手前の身体に、僕は何度も酸素を取り込む。

そして、次の一瞬で僕は走り出す――――敵の能力と、自分の置かれている状況を判断して、全力で床を蹴る

「痛っ……ぐぅぅっ……っ!」

夥しい量の血が足から流れて、ぬるりと足を滑らせる。

尋常じゃない痛みが脳髄まで僕を満たす。

相手の能力が解った以上、僕がここに居るのは得策では無い。

もちろん、僕がこの場で守りに入って、犬子に助けを呼ぶ事だって出来る。

僕の能力で、辺り一帯を押し潰す事だって可能なのかもしれない。

――――でも

「犬子! 犬子! 助けて! 助けて! 助けてくれ!」

僕は叫ぶ。

僕は走る。

僕は逃げる。

無様に血を垂らし声を荒げ目に大粒の涙を垂らしながら、彼女の力に頼る。

『自分の身体を完全に見えなくする』

恐らく、それが敵の『最低限度の能力』だ。

不明瞭な点はあるが、概ね間違ってはいないだろう。

逃げて敵を背を向けるよりも、犬子を呼び続けた方がマシなのかもしれない。

だが、僕が思う相手の能力――――それはあくまでも僕の予想に過ぎない

「犬子! 助けてくれ! 敵が来たんだ! 能力者が来たんだ!」

息荒く、痛みと恐怖で強張った口から出た言葉は、ちゃんと彼女の耳に入っていたのか解らない。

それでも、叫ぶ。それでも、走る。それでも、逃げる。

痛みで鈍くなった足を必死に持ち上げ、永遠にも感じられた階段を抜けた、最後の直線――――

「………………………………なんで」

姿形は見えなかった。

音一つも聞こえなかった。

気配すらもまるでなかった。

なのに

「なんで……居るんだよ」

目測4メートルほど先――――人間の腰の付近で浮いた包丁が、闇の中ではっきりとその姿を現していた

     

ずぐん

心臓が啼いた。

どくん

心臓が戦慄く。

「…………」

刃の切っ先は、僕に向けられている。

僕に対する明らかな敵意がそこにはある。

張り詰めた神経が、興奮で鈍らせていた傷の痛み再発させる。

痛い。痛い。痛い。

痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いっ!

「ぐぅ……」

涙が溢れそうになるのを、奥歯で噛み締めて悔い止める。

今、この場で痛みに恐怖に絶望に啼く事ならば誰だって出来る。

でも――――そんなものは、いま必要なものじゃない

「……なんで僕の家に来たんだ?」

一歩、足を後ろに下げ、僕は口を開く。

『敵は無色透明になれる能力の持ち主である』

先程の圧迫感。そして現在、中空に存在する刃物の存在で、僕はそう判断する。

もちろん、これはあくまでも過程の話だ。

『それ』以外の、例えば僕の様な念動力の持ち主だったりした場合、敵はナイフの位置には居ない事になる。

つまり、その場合だと前方で動くナイフに後方の見えない敵と、僕は完全に詰んでいる事になる。

だから僕はその思考を排除する――――100%不可能な事を打開しようとするくらいなら、絶体絶命の状況を打破出来る作戦を探した方が良いから

「ねぇ、聞こえてるんでしょ? 話し合おうよ。君だって簡単にこの戦いに勝ち抜けるとは思ってないでしょ?」

返事は無い。

僕が一歩下がる度に、同じ様に幅を詰めて来る相手に、戦々恐々としながらも僕は言葉を続ける。

「ねぇ――」

「もう一度言うよ――――話をしようよ」

少しだけ語気を強め、腸から絞る様にして出した強がり。

制する様に伸ばした手の平。反対の手で手首を握り締める。

――――見る人間からすれば、まるで『何らかの能力を手の平から発動しようとしている』かの如き、構え

「僕は、この家を壊したくないんだ。とても気に入ってる。大切な家なんだよ」

もちろん、そんな事は出来る筈は無い。するつもりも無い。

『…………』

ハッタリ――――されど、僕の後退に引き続いた次の一歩を躊躇させる程度の効果はあった

そして、同時に眼前の敵の能力が自らを透明にする事、と言う事が殆ど確定的になる。

「取引をしないかい? 僕には強力な仲間が居る。接近戦のスペシャリストだ」

言葉を一つ一つ選びながら、僕は言葉を紡ぐ。

どぐん、ずぐん、と。

心臓の激動を決意で飲み込んで、僕は口を開く。

「――――君の能力と彼女の能力の相性は抜群だ。彼女の能力と組み合わされば間違いなく大概の敵を一掃出来るよ」

「君だって――――家を軽く潰せたり、拳一つでコンクリートに大穴を空ける化け物を相手に、一方的に勝ち続ける事が出来るなんて思ってないだろう?」

脂汗を滲ませたまま、僕は口角だけを持ち上げる。

――――五秒。十秒。いや、もっと経ったか。

直線上に立ってから、どれくらいの時間が経った頃か。

『…………ちッ』

痺れを切らしたかの様な舌打ちが聞こえ。

『…………しかたなかね』

階段から見上げた闇の中に、何も無い空間からナイフを持った人影が現れる。

「一旦休戦や。お前の話も気になる。ワシの名前は、……影虎、ってのはどげんや?」

妙な訛りを持った少年は、そう言って包丁を床に置くと、ゆっくりと僕へと近づき始める。

「……いいんじゃない?」

「……とりあえずお前も、いつまでも構えてないでその手ェ下ろせや……恐ろしくて落ち着いて話も出来ん」

後ずさり、再び元の定位置まで戻った影虎が、呆れた様な声を漏らす。

「え……あぁ、ごめん」

何度か指先をしぱしぱと握り込み、僕は大きく息を吸い込むとゆっくりと階段を上り始める。

そして、初めて対面する敵『だった』男――――それは、中々に『ごつい』男だった

身長は僕よりも遥かに高く、腕周り、胸元、腹、尻、太腿、脹脛、足首に至るまでが、筋肉と言う鎧に包まれていた。

「で、お前の名前は?」

太い腕を厚い胸板の前で組み、少しリラックスした声で影虎は言う。

「……え、と」

僅かに躊躇し。

「…………サティ、です」

そう、口にした。

「サティ? オーケー。んじゃあ今後、そう呼ばせて貰うとするわ」

もちろん、本名では無い。

『13・サーティーン』から取っただけの、適当なものだ。

後で犬子に説明しておかなければいけないだろう。

「早速やけど、サティ――――ちょっとばかりお前に質問のある」

射抜く様な眼光。僕の中を推し量られている様な感覚は、気持ちが良いものとは思えなかった。

「犬子、と叫んどったな。ソイツがお前の言う仲間の名前なんやろうが……」

「……本当に、おるんか?」

影虎の声に緊張が混じった気がした。

当然だろう。

彼からしてみれば、ここは紛れも無いアウェーであり、何が起きるか解らない敵の本拠地だ。

そこで僕は逃げる最中に第三者の名前を叫んだ。つまり、声が届く範囲にその『仲間』が居る事を示し続けた。

――――結果として

彼は、『近距離型のエキスパート』である犬子と、『自称・広範囲型』の僕を正面から相手にしたくないと言う結論に至ったわけだ。

知られずに逃げる事は可能だろう。だが、今の彼は姿を見せている。

と言う事は、つまり――――彼の言葉。休戦と言う言葉が一気に信憑性を増す。

しかし、同時に。

「いますよ……ついてきて下さい」

彼女の存在を証明する事が、彼を仲間に引き入れる為に絶対必要条件だと言う事にも繋がっていた。

彼の横を通り抜け、彼女が眠っている部屋。数日前までは僕の部屋だった場所へと誘導する。

「おう。あぁ、あとさっきはスマンな」

途中、彼は、ばつが悪そうに口を開く。

「……さっきの、と言うと?」

「首さ。きちんと入っとらんかったけん、苦しかったやろ? 気絶させてから拘束して終らせようと思ったっちゃけど、最初でズレて上手くいかんかったけんな」

「いっその事、そのまま折っといた方が、お前もそんな痛い思いばせんで良かったかもしれんな」

「……怖い事を言わないで下さい」

能力者ってのはみんなこんな頭のぶっ飛んだやつばかりなのだろうか。

僕はため息を一つ漏らしながら、彼の小さな後悔を一蹴し、ドアノブに手をかける。

「――――っッ!?」

瞬間、僕は触れた手を情報が脳に到達するよりも早く引っ込めた。

違和感――――いや、そんなチャチなもので括れる様なものじゃなかった

「どげんした?」

背後から聞こえる影虎の声。

汗が滲む。

脂汗、冷や汗、いや、そのどれもが違う――――!

「………………熱いんです、ドアノブが」

「それも……………………尋常じゃなく」

熱した鉄鍋に触れたかの様な熱。

暑さ、では無い。

紛れもない、熱。

「…………おいおい、ちょっと待て」

彼の声に狼狽の色が滲む。彼の太い指の差した方向

明らかな違和の正体――――あぁ、どうして僕は『ソコ』に気づかなかったのだろうか

指の先、扉の隙間――――そこから、闇を燻す黒煙が染み出している事に

「……部屋ん中は完全に燃え広がってやがるな」

彼の言葉に、ぞわりと背筋が震える。

『火災』

あまりにも現実離れした行為の後だと言うのに、目の前の現実の光景が信じられなかった。

「…………はっ! そうだ、犬子さんっ!」

彼女がこの中に居る事を思い出し、僕は再びドアノブへと手を伸ばす。

――――だが

「うぐッ!?」

「待て馬鹿っ! 扉に近づくんじゃなかっ!  死にたかとかっ!?」

急ブレーキをかけたシートベルトの様に、腹部に突然かかった万力の様な力が、僕をその場に固定する。

「で、ですがっ! 中に犬子さんがっ! って、うわぁぁぁっ!?」

「近距離型って事は、どうせ身体向上系の能力者だろうが? だったら、この程度の火事でそう簡単に死にゃあしねぇよ多分。それにな――――」

気づけば僕は彼の腰に片手で抱き抱えられていた。

「あれだけ下でドンパチやって助けを呼んだってのに、なんの反応もせんって事は、もしかしたらその時点でその犬子って奴が別の戦いに巻き込まれてた可能性のあるっ!」

「えっ!?」

階段を二つ三つ飛ばし、僕を抱えて豪快に彼は走る。

邪魔にならない様に体をぶつけないように、手と足を縮めると、まるで自分が物にでもなった様な気分だった。

「いくら何でも、寝てたって事もなかろうし、ほぼ100%の確率でどっかで別の能力者と戦っとるやろうよ」

眠っていたと言う言葉に、少しだけ眉を顰め、慌てて思考を『まとも』に戻す。うん。いくら何でも、それは無いだろう。

だが、ならば。彼の言う言葉の方が確率が高いと言うのならば。

「た、大変じゃないですか! 犬子さんに加勢しにいかないと!」

彼女に危険が迫っていると言う事であり、それは同時に僕にとっての『盾』が無いのと同じだった。

「阿呆っ! 俺の人の攻撃すらまともに防御出来ん奴が、化物同士の闘いに正面切って入れる訳がなかろうが!」

「じゃ、じゃあどうするんですかこれから!?」

返って来る当然の否定に、足りない思考回路は最早ぐちゃぐちゃだった。

「はっ! んなのは決まってるだろうが――――!」

そんな中、彼は一際大きな声を上げてペースを上げ始め。

「強い敵に勝てない時!」

階段の最後の段を大きく跳躍し

「何も思いつかない時!」

床を踏み抜く勢いで強く跳ねて

「絶体絶命の危機の時!」

疾風の如く長廊下を駆け抜けて

「そんな時は――――」

一連の動作に、一切の淀みなく

「逃げるが勝ちなんだよォォォ――――ッッッ!」

そう言って、脱兎の如く僕の家から飛び出していた。

     

「……さて、警察に連絡して消防に連絡して一段落って所やけど」

誰もいない公園まで走り、彼はそれまでずっとつけていたPHSを耳元から下ろす。随分と古い型だった。

「まぁ、ここまでくりゃあ一方的に焼き殺される事はなかろう」

真っ暗な闇夜に点る街灯。奇しくも僕達はつい先日、彼女と初めて出会った公園に居た。

「…………」

「まぁ、気を落とすな。日本の機関は優秀や。部屋のボヤ程度で済ましてくれるだろうよ」

家具は全部買い直しだろうがな、そう言って豪快に笑う――――僕を片手に抱えたまま

「……あの」

「なんだ?」

「そろそろ苦しくなってきたんだけど」

「ん? それは無かろ。そもそもワシはそがん持ち方しとらん」

自分の事は自分が一番分かっていると言わんばかりの言葉だった。

ご明察だ。正直な所を言ってしまえば、僕は殆ど苦しくなんてない。

「いや…………えぇとね、その」

だが、純粋に『居心地が悪い』のだ。

自分の両の足が地面についていないと言うのは、中々どうして身体的だけではなく精神的にもこう、安定しないものがあった。

それに――――

「降ろして、欲しいんだけど……」

丸太の様な彼の体の感触は、正直不愉快の部類に入る。

弾力に満ちたナチュラルマッスルゆえの、接した面にかかる微妙な柔らかさ。しかし、百歩譲ってそこまではいいとしよう。

――――問題はそこからだ

彼の筋骨隆々の肉体に搭載された、莫大な量の筋肉が彼の基礎体温を上げているせいで、彼に接している部分はもう暑くて暑くて堪らない。

「ふむん、残念やな」

ようやく、と言って良い時間の後に、彼の手がゆっくりと角度を変えて僕の体を地面と垂直に立たせ。

「お前さん、結構好みだったっちゃけどな……ワシの筋肉はお気に召さなかったか?」

ひどく不恰好なウィンクと共に、彼は口角を三日月に裂く。

スマイル――――その瞬間、僕の背筋を絶対零度の怖気が襲った

「ひぃ……っ!?」

「お、おいおい……そんな顔する事ぁなかろうもん。心は存外に傷つくとよ?」

僕の肩を音が出るほど叩きながら、豪快に笑う。

「ま、とりあえずは今からの事ば考えんばね」

そして、数秒もしない内にその顔に真剣の色を貼り付ける。

「今は恐らく無理やと思うが…………とりあえずは、犬子さんと一旦合流する事ば第一にせんばね」

「緊急時の連絡手段か、合流地点は決めとったか?」

「い、いえ……」

「ふむ……じゃあ向こうから見つけて貰うか、サティの家を軸にして行動原理を決めるかせんば、犬子さんとの接点は殆ど無かって事になるね」

「じゃ、じゃあ犬子宛てに置き手紙を残しておくってのはどうでしょうか?」

「アホウ。本人だけが見る訳じゃなかろうもん。ただですら、今晩はお前の家の中に消防や警察が大量に入っとる筈や」

「その中に、もし敵がおったら、部屋の状態を見てすぐに能力者の仕業って気づくやろう」

影虎は、流れる様に結論を並べていく。

少し考えれば簡単に出てくる言葉。

けれど、上手く言葉に出来ない僕と彼では、精神面で大きな違いがあるのだろう。

覚悟か、経験か、年齢か、どれにせよ僕と彼の間には……。

「……」

「……そう言えば影虎さんって何歳なんですか?」

「秘密。色々と問題があるけんね――――現役の学生、とだけ言っとく」

「……はい? えと……はい?」

「……お前さん、今『このオッサン言う事欠いて学生とか、なに寝言いってんだ』とか思ったろ?」

「そ、そこまで思ってません」

精々、『このオッサン』って所くらいまでしか。

「……まぁいい。そう言うお前は何歳だ? 大学生くらいか?」

「……高校生です」

「…………」

「それにしては随分と…………いや」

妙な沈黙の後、二度三度と自らの指を握り。

僕の体を上から下までなぞる様に見て、納得する様に首を小さく振ってから、言う。

「……お前も色々大変なんやろうねぇ」

「有難うございます」

彼の言いたい事が少しだけ想像出来た。

余計なお世話ですとは言わなかった。

弱点を指摘されようとも、憤りを表面化させないのが大人と言う奴だ。

「まぁいい、で、これからの行動についてだが……」

「とりあえず、今夜泊まる場所を探さないとな。サティ、金は持ってるか?」

「…………」

「ないか……あぁ、今回は『貸し』にしとってやっけん」

「じゃ、さっそく今晩泊まる場所に向かうか!」

僕の肩を抱きながら、妙に、にこやかな微笑みを浮かべる彼。

その目の奥に、野獣の眼光が見えた気がしたのは、きっと僕の見間違いだろう。

「……ベッドはツインでお願いしますね」

「疑り深い奴やねぇ……いくら好みとは言え、嫌がる相手を犯すほどワシは落ちぶれちゃおらん」

「ま、お前の準備が整ったらいつでも飛び込むやろうけどな」

肩を抱かれながら、夜の街へと繰り出していく。

『あ、そこの素敵なお兄さん方。可愛い子揃ってるよ。って、ホモ?』

「バイや」

『あらいい男、ちょっと私と楽しい事していかない? って、ホモ?』

「バイや」

『二次会用意出来るんだけどさぁ、よっていかない? って、ホモ?』

「バイや」

「…………」

「……っと、どうしたサティ? なんか疲れた様な顔しとっけど?」

「…………いえ、大人の世界が刺激的過ぎて驚いただけです」

そして、それを軽やかにとは言い難い言動でかわしていく、彼の面の皮の厚さにも。

確信する――――オッサンだ。この人は間違いなくオッサンだ。例え学生だったとしても学生の皮を被ったオッサンだと

煌びやかなネオンを抜け、随分と質素な、いや寂れていると言っても良い程のホテルに辿り着く。

他の建物と比べても、罅割れ色褪せ、見劣りするそれは、もしかしたら廃墟だと言っても信じたかもしれなかった。

「……ここが、今日の寝床ですか?」

「おう、外はこんなんやけど中は中々ばい? 中と中々……くく」

オッサンだ。こんな若者が居て良い筈が無い。

「つーわけで、行っか」

「あっ? ちょ、ちょっとまたぁっ!?」

肉達磨の腕に強引に腰を抱き寄せられながら、僕はそのホテルに足を踏み入れた。

     

「……なんというか……なんというか」

外装からは考えれない程にコーディネートされた部屋の中は、もはや別の世界だった。

「なんだか……色々と間違ってない?」

キズヒビシミ一つなく、リフォームどころか作りたてを彷彿とさせる高級感溢れる壁。

毛羽立った安物のものではなく、結婚式やホテルにあるタイプのすべすべの赤い絨毯。

更に二人用の部屋のベッドが、両方ともクイーンサイズだなんて誰が考えるだろうか。

「……ちなみに、ここ一泊いくらするの?」

「……さぁねぇ」

にやぁと笑う彼に、鈍い汗が僕の額を濡らす。

「ま、金は落ち着いてからで良い……よっと」

靴も脱がずに、彼がふかふかのベッドに飛び込むと、彼の体が思い切り羽毛布団に沈み込んだ。

思わず息が止まる――――そのふかふかの、なんと気持ち良さそうな事か

「……よ、よぅし」

僕も同じ様にしようと思い、けれど彼ほどの度胸はなくて、靴を脱ぎ靴下を脱ぎ、隣へずらし、準備を終えて――――

『おいトラぁ! 準備終わったんなら晩酌を……ってまたテメェは土足で寝てんじゃねーぞ……って』

『……あ? 何やってんだ、客人?』

「……い、いえ、何でも」

体を亀の様に縮めながら、僕は突然現れた来客に対して自分でも驚くべき速度で正対していた。

――――背中を壁につけて、壁の隅っこに移動した状態だったが

「あー、そういや紹介しとらんかったな。そいつは鳳。ワシの仲間の一人で能力者やけん」

影虎はベッド上で鼻をかみながら、やる気なさげに紹介する。

「鳳だ。能力は……サポート型の能力とだけ言っておく。まぁよろしくサティ」

鳳と紹介された男は、全身ジャージの影虎とは対照的に、随分ときちんとした男だった。

黒のネクタイに黒のスーツに黒の革靴に、ポマードでしっかりと固めた黒の髪。

ホテルマンかウェイターの様な風体は、清潔感だけでは無く優雅さを感じさせている。

しかし、頬と首についた三爪の傷跡と、爬虫類の如く細く絞られた三白眼が、彼と言う人間から近寄りがたいオーラを感じさせていた。

「……よ、よろしく」

立ち上がり、伸ばされた手を握る。

――――妙な違和感、けれど僕が気づくよりも先に彼の言葉が思考を押し流す

「ふぅん、改めて見るとつくづく女みたいな奴なんだな、お前」

「……よく言われます」

――――再度感じる不和。されど僕が考えるよりも先に会話が言葉を磨り潰す

「ま、とりあえずは今日は新しい仲間との出会いだ。飯でも食って互いの親交を深めるとしようや」

「なんだかんだでこっちも現時点でそこそこの人数は揃った」

「これだけ居れば、当分は『安泰』だろうからな」

からからと高らかに笑いながら彼は部屋を出て行く。

「…………」

また、だった。

三度、感じられた、彼との会話中での違和感。

『どこ』が変なのかすら解らないと言う現実に当たり、僕はなぞなぞに挑む子供の様に首を傾げる

「どげんしたし?」

「……いや」

聞けば、教えて貰えるだろうか?

無理だ――――直感的に僕はそう思う

理由など無い。感覚的に、そうだ、と思ったから。それが理由なのだから。

「……まだ影虎が寝そべってるから、お酒を飲みに行くんじゃなかったのかなぁって思っただけ」

「冗談の下手なやっちゃな……あと、ワシは別に行かんわけじゃなか。もう少ししたら行く予定やけん」

「…………」

出来立ての嘘を一刀両断され、思わず言葉に詰まる。

「頭の回らない余裕のなか時こそ口を回せ。口を回す為には常日頃から思考を回しとけ。そしたら考えるより先に直感的に体が先に物事ば判断出来る様になる」

上半身を持ち上げ、ベッドからゆっくりと立ち上がると、彼は随分と遅い歩みで部屋を出る。

「明朝から作戦会議や。ここに居りゃあ当分の間は他の奴らに襲われる心配はなか――――精々それまではゆっくりと考えぇや」

大きな図体を揺らしながら、彼が僕の視界から消えていく。

「……」

「考えろ、か」

二度三度と頭を掻き、そのまま毛布の上にダイブする。

「…………」

人間では無い者同士の戦い。

人間では無い者同士の殺し合い。

人間では手に入らない願いを得る戦。

先日まで人間だった僕は巻き込まれた――――いや、違う

僕は、選んだんだ。自らの意思でこちらの世界を。

「…………」

くるりと身を転がし、部屋の天蓋を見上げる。

視界中を闇が覆っていた。

考えれば考えるほど、思考の坩堝に入っていく気がしてならなかった。

「――――僕も、大人みたいにお酒でも飲めれば、こんな苦しみからは簡単に解放されるのかな?」

簡易的な逃避が浮かぶ。

忘れられるかもしれない。逃げられるかもしれない。

例えそれが一時的なものだとしても。

「…………」

「…………寝よう」

悪い考えだ。短絡的な考えだ。

――――きっと、疲れすぎているんだ

「寝ちゃおう、眠っちゃおう……疲れてるんだ、うん」

布団を被りなおし、もう一度深く目を強く瞑り直した。

疲れていると言うのは本当だったんだろう――――もう一度、目を瞑ると、僕の意識はゆっくりと闇に消えていった

     

「っつーわけで、俺達が知ってるうちで、厄介な能力者はざっと5人――――正直、どいつも正面から相手にするにゃあ骨が折れる奴ばっかりだ」

そう言って鳳はA4用紙を僕と影虎に投げてよこす。

「もし単体でソイツらに当たったらその時点で終わりと思っときな」

軽く放たれた言葉に、渡された紙に目を通す。

そこには、合計五人の能力者の隠し撮りの写真と、ちょっとした説明が記載されていた。

『日乃上トガリ(炎を使うよん。三人殺してるよん。数秒で骨まで灰になるよん!)』

金髪に毛羽立つ様な髪型。鋭い犬歯に太い両腕。まるでライオンの様な男性だった。

『外海竜華(水を使うよん。一人殺してるよん。ペットボトルの水一つで溺死させてたよん!)』

紺のスーツにハイヒールとサングラス。やり手の女社長と言う言葉が似合いそうな女性だった。

『神光・C・アリス(電気を使うよん。三人殺してるよん。遠距離から電気を伝わせて感電死させてたよん!)』

真っ白のワンピースと太陽の笑み。首まで伸びたブロンドに健康的な小麦肌。中学生くらいの女の子だった。

『パショナル・キュウト・クルバリン・ラ・キャットレディ(重力を使うよん。四人殺してるよん。相手はぺちゃんこのカエルみたいになってたよん!)』

気品を感じさせる風体に日傘。細く絞った眼と柔らかに裂いた口角。淑女と言う言葉がよく似合いそうな女性だった。

『名前不詳(触られた瞬間に、時間が止まるよん。誰も殺してないよん。相手の時間を二十四時間止めっぱなしにした事で一人をリタイアさせてたよん!)』

少し古ぼけたジャケットとシルクハット身に纏い、右の目を眼帯で隠しながら、大きめの旅行鞄を引き摺る初老の男性だった。

「…………」

ちなみに、書かれている言葉の恐ろしさとは裏腹に、随分と可愛らしい文字で書かれていた。

プリントアウトした訳でも無く、単純に黒一色で書かれた無骨なものでも無く、カラフルなマーカーを多用されて書かれているのがミソだ。

写真付きでキラキラした紙は、一見して怪物達の図鑑とは思えない程だった。

女子高生の勉強の要点ノートと言った方がまだしっくりくる感じだ。

「これを見て、何か質問はあるか?」

「……えと、いいですか?」

「……別に学校じゃないんだ。挙手までする必要はない」

「えぇとですね……初歩的な質問なんですけど」

出鼻からくじけつつも、僕は懲りずに口を開く。

「……この人達って、今どこに居るんですか?」

「この街に居る。正しくはこの市全域のどこかに生息してる――――見つかったら、文字通りどんな場所でも構わず殺しに来る様な奴らだ」

そう言って彼は部屋のリモコンに手をかける。

『昨晩未明、灰工場で見つかった三人の圧死体の件において、警察はこれを何らかの事件では無いかとして捜査を――――』

『先日夕方頃、電車のホームで二人の男性社員が感電死した事件について、警察はこれを鉄道会社の業務上過失の疑いがあると――――』

流れ来るニュース。何度も目先の情報と出入りする情報との整合性を取り、情報を租借し反芻する。

また、だ。

また、何かがおかしい。

重要な点を見逃している。大切な場所を見逃している。手元にあるピースと、想像している中でのパズルのピースが一致しない。

「っと、まぁこんな所だ。能力者ってのは基本的に大々的に犯罪を犯しても――――」

彼が話題を押し流す。

スイッチに手をかけ、僕の思考を次の話題へと持っていく為に。

僅かな誤謬、微かな言動、微小な違い。それらが切り離されて次に思考回路が回る直前の事だった。

――――違和感が、脊髄を締め付けた

「……すいません! ちょっとニュース付けっぱなしにして下さい!」

大きな声を上げると共に、僕は手元のデータに目を向けていた。

彼らの驚きなど気にも留めず、ニュースキャスターの抑揚に興味も持たず、ただ僕の中のリアルと今のリアルを照らし合わせた。

見て、見て、見た。

探し、探し、探した。

考え、考え、考え抜いた。

「――――あ」

まるでそれは天啓だった。

震える唇と軋む背骨。絡む神経と大脳。

されど言葉だけが流水の如く流れ出す。

「――――もしかして、この人達って」

僅かな躊躇。飲み込んだ唾が酷く大きく鳴った。

ずぎ、と胸が圧迫される。それでも言葉は止まる事無く僕の口から毀れ出る。

「一般人を、この戦いに巻き込んだんですか……?」

僅かな沈黙。大の大人は、随分と言い辛そうに眉を折り、目を見合わせて。

「……お前の言う通り、連中はカタギに手を出した。能力者同士の戦いの中、なんの関係も無い人間にな」

カタギ。

自分が自分とは違う世界に住む人間を、別の呼称で言う世界。

それが、つい先日までは自分が居た位置だと言うのに。

「……能力者は死んだら元の世界に戻るんですよね?」

「……そう言っていたな」

「じゃあ」

――――この世界で死んだ普通の人はどうなるんですか。

僕の疑問が言葉が喉の奥で詰まる。

最後のラインで押し留めた言葉の意味は重く。

「……いえ、何でも無いです」

追求する覚悟も力も無くて、僕は開いた口を再び閉じていた。

「…………おいトラァ? お前この子になんか変なこと教えなかったかァ? 一晩で随分と達観してんじゃねぇか」

「残念。なぁんも教えとらんよ。教えようとする前にきっぱりと断られたわ。サティはもっとスリムな人が良いですってな」

「痩せた関取って感じだからなぁお前。あと、最近はセクハラは同姓にも対応するんだからな? 嫌がったらその時点でアウトだからな?」

「うっわぁぁ……少し日本から離れとる間にバイには活き難い世の中になったもんやねぇ。バイにはたまらんばい、なんちて」

「死ねよ。腰を抱くな耳に息を吹き掛けるな俺よりでかい癖に下から薄目で見上げるな」

大の男二人の過度なスキンシップ。端的に言うなら非常に近寄りがたかった。

まぁ……影虎のオッサンが嫌がる鳳さんに一方的にかつ強制的にしているだけだが。

「……と、とりあえず話を戻しましょう!」

らちがあかないと思った僕は、甘いとは到底言い難い二人の空間を断ち割り、会話を続行する。

安堵と不満。対照的な表情を浮かべる二人が印象的だったが、これを無視。

「で、結局、今からどうするんですか? 攻め込むんですか? それなら早めに相手の位置を特定して……」

「あー、ちょい待ち。慌てんな慌てんな。そんなに慌てる様な時間じゃなか。ほら、まだ朝の九時」

そう言って影虎は部屋の時計を親指で差す。

そんな問題じゃないのではないのか、言葉が出る前に僕の口が先に回る。

「何か考えがあるんですか?」

飛び出した口頭に追従する様にして脳が回転し始める。

依存している訳では無い――――けれど、彼の目は僕とはまた違う目線で物事を観察している

そんな彼の意見を聞かないと言う愚考をする程、僕は子供であるつもりは無い。

「ん」

びしり、オッサンの人差し指がこちらに向けられる。

「指を差すなやカス」

ぐきり、とその指が鳳さんによって折り曲げられる。

「痛ったーー……痛かなちくせう……手加減くらいせぇよ」

ふぅふぅと、しばし自らの指に息を吹き付けてから、もう一度オッサンは、今度はおとがいを僕に向けて言う。

「サティ、お前の能力ば詳しく教えろ――――場合によっちゃ、連中の首、取りに行けるかもしれんけん」

顎を突き出し、指を押さえて天に掲げて、息を吹きかけながら、痛みに奥歯を噛み締め、涙目のまま彼は言った。

異様な――――そして意味不明な光景だった

     

世界が止まる。

ずぐんと胸を締め付けられる様な圧迫感に、望まない脂汗が体中から吹き出ていく。

「……もしかして、詳しく言えないん?」

影虎が僅かに眉を持ち上げる。

彼からしてみれば、それは気にも留めない動作の一つに過ぎなかったのだろう。

だが、厳つい顔と岩の様な身体を持つ彼を目の前にした僕は、まるで肉食獣に睨まれたかの様な圧迫感に身を縮こまらせた。

「いや……言えない訳じゃ、ない、ですが」

ついてはいけない嘘をついてはいけない相手につく。

やってはいけない相手の前でやってはいけない事をする。

からからに乾いていく口腔を、舌先で必死に潤しながら僕は次の言葉を繋ごうと頭を回す。

「あン? なんだ、詳しく話せない事情でもあるのか?」

鳳の鋭い瞳が僕を射抜く。その目に、僕の躊躇を待つ様子はない。

当然だろう。新しく組織やチームに入る人間と言うものは得てして信頼を得難いものだ。

「べ、別にそんな訳では……」

流される様な僕の否定に、少しだけ鳳は口角を吊り上げて笑う。

「じゃあ別にいいだろう? 俺は能力の『限定条件』のせいでお前に話せない『理由』があるが、お前は――――」

「え――――」

時間が止まる。

「限定……条件?」

聞き慣れない言葉に、僕はつい馬鹿みたいに素直な反応を示してしまう。

ほんの少し沈黙と疑問――――だが、二人の表情が明らかに変わった事に気づく

「………………お前、もしかして『限定条件』も知らされずに戦いに放り込まれたのか?」

鳳が訝しげに目を細める。

恐らく、その情報は能力者からしてみれば『知ってて当然』の情報だったのだろう。

「サティって……能力の『限定条件』を担当のやつから教えて貰わなかったん?」

影虎が便乗する。少しだけ呆けた様な声。

大丈夫、大丈夫だ――――焦るな

鳳と言う男は知らない。だが、影虎は『まだ』大丈夫だ。

彼の目には、彼の声には、まだ僕への猜疑心は含まれてはいない。

「え、えぇ……担当は、その…………悪魔みたいな方でして、意地悪されてその辺りの情報を詳しく教えて貰えなかったんですよ」

人、と言うには聊か疑問の浮かぶ彼女とのやり取りを思い出しながら、僕は言葉を続ける。

「……は? 悪魔!? ケハっ! こりゃまた傑作だっ! まぁアイツらは見る奴から見れば悪魔みたいなもんだからな!」

何故か楽しそうに鳳が笑う。瞳孔を開いて笑う彼の姿は心底怖かった。

「ふぅん……んじゃあ能力はどげんして判断したん? いくら何でも能力も教えて貰えずにゲームに放り込まれた訳でもあるまい?」

対照的に僅かに唇を折り、不服そうに影虎がポイントを突く。

「えぇ、能力はきちんと教えて貰いました。学校で試しに使いました」

「…………」

二人の能力者に、僅かに緊張が走る。

「そんな顔をされないで下さい。ちょっと物に対して使っただけです。人には一切、傷つけてはいません」

「人は、ねぇ……」

小さく鼻を鳴らし、影虎は目を細める。

「はい。ですが、僕が担当の方から教えて貰ったのはそこまでです」

「自分の能力と、優勝商品と、戦う人の数と、ゲームのルール。それくらいでしょうか」

「あと、最後に意地悪な顔で『キミの能力には回数制限がある』と言われました」

「回数制限タイプか……それで? その回数は?」

「『今度会う時まで勝ち残ってたら教えてやるよ』と言われました」

「…………は?」

「いわく、『教えてあげるほど私は優しくない』そうです」

僅かに嘘を交えた説明を終えて、僕は肩の荷が下りた様に大きく溜息を漏らす。

「……それ、マジで言ってる?」

「はい。僕は勝ち残らないと能力の回数制限を教えて貰えないそうです」

僕の言葉に鳳の眼が一際大きく見開かれる。

そして。

「ハハッッ! 確かにそりゃあ悪魔としか言い様がねぇな! いったい何をやらかしたんだお前は!?」

彼は腹を抱えて笑い出した。

「……別に、ちょっとだけあの人の態度が気に食わなかったんで歯向かっただけですよ」

少しだけ強がってみると、彼は堪らないとばかりに白い犬歯を見せて笑う。

「歯向かったぁっ!? ケハハっ!? 気に入ったっ! トラぁっ! こいつぁ見た目よりずっと馬鹿か天才で最高だ! あんな人外共に楯突くたぁ良い根性してるじゃねぇか!?」

ご機嫌な様子で、強引に僕の首に手を回すと、そのまま逆の手で僕の頭をぽんぽんと叩く。

ハイテンションへの切り替えの速さ。あぁなるほど。この二人がタッグを組んでいる理由がよく分かる。

「まぁいい。能力自体はまだ使えるんだよな?」

「はい。あの人の口ぶりからすると、まだ何回か使えはすると思います……具体的な回数は判りませんが」

一回かもしれないし百回かもしれない。

使い切ってしまった後は、どうなるのか。それすらも僕には知らされていない。

無能力者になってしまった瞬間に、元の世界に送り返される可能性すらも否定は出来ない。

「ふむん――――でもま、その辺りは大丈夫やと思うばい」

影虎が、確信を持った様な表情で告げる。

どうしてそんな事が言える、僕が疑問を吐き出す前に言葉で塗り潰される。

「ワシの所の担当いわく、基本的に能力者の能力は『全員の能力者を同時に相手』にしても勝てる様に設定されてるらしい」

「強い能力にはそこそこの『発動条件』や『限定条件』、弱い能力には弱めの『発動条件』や『限定条件』を与えることで、能力の平均化を図っとるらしいからな――――ま、どの能力でも普通の人間じゃ、まず太刀打ち出来ん能力やけどな」

思い出す。

コンクリートを容易に蹴り砕く力を持つ犬子と、透明になる事が出来る影虎。

確かに一対一で戦った場合、どう考えても犬子が勝つだろうが――――それはあくまでも彼女の能力のコントロールが簡単だった場合の話だ

『例えば、能力を使う度に、身体のどこかに何らかの異常が起きる』

『例えば、能力を使った後、身体のどこかに何らかの異常が起きる』

『例えば、能力を使う最中、身体のどこかに何らかの異常が起きる』

そんな、デメリット部分が大きかった場合、この『戦い』で犬子が勝つかと言われると、非常に難しくなってしまうだろう。

「能力ってのは強力になればなるほど、『発動条件』も『限定条件』も難しくなる。ちなみに、お前の場合はどうやって能力を使った?」

「ぼ、僕ですか……? えぇと」

思い出す。自分が人間でなくなった時の、鮮明な記憶を呼び起こす。

「手を、かざしました……それで、ひたすら念じました」

「なるほど。じゃあそれがお前の『発動条件』や。『手をかざして念じる』。そう考えるとお前の能力はけっこう手軽な能力っつー事になるわけだ」

影虎はそう結論づける。

「説明を続けるぞ? 『限定条件』って言うのは、簡単に言えば『発動条件以外の条件』の事や」

「能力に関係する条件……ですか?」

「例えば『能力を一回使うと、体のどこかに怪我をする』」

「例えば『能力を使用している間は、意識が完全になくなってしまう』」

「例えば『能力を解除する為には、何秒の間か息を止めてなければならない』」

「そんな感じの、その能力に関係している『発動条件以外の条件』の事や」

「ちなみに、ワシの『発動条件』は『拳を握る』こと。んで、『限定条件』は『拳を開くと能力が解除される』やな」

そう言って、影虎は文字通り瞬きをする程の速度で僕の目の前から姿を消し――――僕の尻を一撫でしてから、再び同じ位置に姿を現す

「……そう言うの、本気でやめて欲しいんですけど」

「まぁ落ち着け。とりあえずはこんなもんって事を解ってもらいたかったんだよ。どうだ? 実際、これだけ簡単に消える事が出来たら、超人相手でもまともに戦えるかもしれんと思わんか?」

僕が目を吊り上げて手を向けても、彼はおどけて両手を上げるだけだった。

「そりゃそうですけど……」

「よし、だったら無問題やね。さて、さっきの話に戻るぞ?」

苦しすぎる言い訳に、僕は苦虫を噛んだ気分で彼の言葉を傍聴する。

「えぇと、どこまででしたっけ?」

「お前の能力の回数がまだ大丈夫やろうって話や」

「あぁ、そうでしたね……それで、僕の回数制限と今の会話と何か繋がりがあるんですか?」

僕の言葉に、影虎は少しだけ自らの眉間を揉む様な仕草を見せ。

「サティ、お前の能力が、『強力な力』にはカテゴライズされてなかけん、やね」

半ば確信的に影虎は言葉を紡いだ。

「……どうしてそう思ったんですか?」

どきりとする。

核心を突く彼の言葉に、僕は必死で動悸を抑える。

バレてはいけない。バレてはいけない。バレてはいけない。

――――僕の能力が『大それた能力』では無い事を、感づかれてはいけない

気づかれれば、僕に未来は無いのだ。

だから、必死に『不満』を装う。

自分の『力』を疑われている、『強者』を演じる。

「ふむ……まぁぶっちゃけ、簡単な事なんやけど」

だが、彼はそんな事など気にせず、鼻の頭を掻きながら言う。

「『発動条件が簡単過ぎる』。正直、その一択や」

ぞわりと心臓を闇が侵食する。

はっきりと告げられた『宣告』に、動脈が少しずつ潰されていく様な圧迫感を覚える。

「……僕の能力を疑っているって事ですか?」

「別にそがん事はなかさ。お前が家を壊せるくらいの力を持ってる事は信用しとるよ」

椅子にもたれかかりながら、彼は言う。

「やけどな、お前が言った『家を壊せる』ってのはお前の『全力』やろ?」

「…………それは」

彼の中で僕の嘘が真となった事に、安堵と、恐怖を覚える。

じくりと服の中で冷や汗が滲む。

舌先が乾く。視点が焦点がずれ始め、僅かに揺らぐ。

致命的な反応だった。だが、彼は僕のその変化に気づく事はなく言葉を続ける。

「『強力な力』を持つ連中の能力はな――――本気を出せば家一軒どころか街一つくらい簡単に壊滅させる程度には強力さ」

「…………っ」

言葉が出なかった。

なんだそれは、なんだそれは、不公平ではないか、不平等ではないか。

だが、言葉を紡ぐ前に彼が笑う。

「情けない顔すんな。やけん、そがん連中の『発動条件』ってのは相応のリスクや難しさが伴ってくる訳さ――――ポンポンやられたら簡単に勝負がついてしまうけんな」

「やけど、その分、さっきも言った通り、ワシの能力なんかは逆に大それた事が出来ない分、『発動条件』も『限定条件』も緩く設定されとるわけや。そんな連中相手に十分以上に戦える様にな」

にぃ、と口角を歪に折って、影虎が意地の悪い笑みを見せる。

「それで、だ――――これらの情報から、ワシがお前の能力が『回数制限は気にしなくていいだろう』って言った理由が、わかるか?」

これくらいはわかって当然だろうがな、そんな不適な笑みだった。

「……」

「…………」

「……………………」

「ナンデデスカ?」

「……発動条件の緩い能力って事は弱い能力って事だ。そんな能力に更に厳しい回数制限なんてかけたら、勝負にならなくなるからだよ」

大きな溜息と共に、僕の頭に役立たずの烙印が押された様な気がした。

     

――――夜半

「冗談じゃねぇ……あんな化け物がいるなんて聞いてねぇぞ?」

爆弾魔。

そう呼ばれていた男は、頭を一つ掻いて悪態をついた。

数本の若白髪が抜け落ち、風に乗って闇に消える。

男の名前は上竹照。

言葉とは裏腹に、余裕綽々の笑みを見せて、遥か下方に目を向ける。

「……浮いてんなぁ、キキキ」

――――14メートル。おおよそビル五階相当の差のある地面にに、そいつは居た

腰まで伸ばしたシルバーブロンド。獲物の狙う猛禽類の如き鋭い眼。

焼け焦げ、もはや全裸に近い状態で佇むその女、犬子を見て、照は口角を歪ませる。

「至近距離で爆破させたっつーのに、擦り傷一つ負わねぇなんざ、俺の能力がまるでゴミみてぇじゃねぇか、カカ」

――――そう言って笑った照は、まるで両手同士を叩きつける様にして音を出す

ぱち、と。

鼓膜を震わせる音が空気を伝い――――

――――次の瞬間

「fire」

照の言葉をスイッチに、彼女の近くに停めてあったタクシーが爆発する。

距離はおおよそ4メートル。人が耐えられる筈も無い爆風が、至近距離から彼女を襲う。

がぎん、ごぎん。

そんな音を立て、彼女の軽い体はまるで跳弾の様に吹き飛ばされ、そのまま少し離れたビルのショウウィンドウを全壊させる。

下の世界が完全に静止する。それから、3秒ほどの時間を置いて、野次馬が彼女の元に集まり出す。

大丈夫か、死んでるだろ、何が起きたんだ。

おおよそそんな言葉を吐き出しながら、一定の距離を保ったまま彼女の周囲を囲っていく。

「――――ほら、ついでだ。こいつも取っておきな」

それらの人の行軍を、まるで素知らぬ様かの様に、照はその中心に数本の火炎瓶を投げ込んだ。

人を殺傷するには十分すぎる道具。

それを気づかせる時間も余裕も与えるつもりは無かった。

当然、火炎瓶が彼女にとっての致命傷になるとも思ってはいなかった。

何せ、火炎瓶と言うものはあくまでも爆発してこそだ。

割れる事に意味があるのではない。

圧縮された空気が、分厚い周りのガラスを音速近い速度で打ち放つ事に意味がある。

もちろん、照が用意している火炎瓶がただ爆発するだけの代物である筈がなかった。

「よく燃えて、よく聞こえるぜ、ケケケ!」

雨の如く投擲される、ガラス瓶の形をしたフラッシュバン。

『――――貴様ァッ!?』

彼女の目が、一般人を巻き込む無数の凶弾に対してはっきりと向けられた事を確認し。

彼はもう一度両手を大きく開き、叩き。

口を、開く。

「fire」

爆発の瞬間、空気を焼き切る轟音が、野次馬数人の鼓膜を破る。

あまりの衝撃に、意識を消失させてその場に崩れ落ちる人間も居た。

だが

「…………クク」

照は笑う。

その光景を見て、悪鬼の如く口を裂く。

「なんだそのカッコーはぁ!? カッケぇじゃねぇかぁ!? キキキキキキキキキ!」

照の目に映ったもの。

それは野次馬の輪から少し離れた地点。

『あ、あ…………くぅぅぅぅぅぅ…………』

まるで、芋虫の如く無様に丸まり、苦痛に呻く少女の姿があった。

彼女は、爆弾を空中で取り――――自らの体に抱え込んだ

爆発には間に合わなかった。

だが、音より遅い炎と衝撃を、彼女は自らの体で押さえ込んだ。

『あぐ……ぐぅぅぅぅぅ……ぎぃぃぃ……』

――――無事である、筈が無かった

「カカカ!? まだ生きてる、まだ生きてるぞ! クケケケっ!」

いてもたってもいられず、照は走った。

彼女の元に、犬子の元で彼女の苦しむ顔が見たくて、一心不乱に走った。

「おいおい、これでも致命傷にすらならねぇのか!? 即死ですらねぇのか!?」

体を焼かれて喘ぐ彼女を見下ろし、照は笑う。

羅刹の如き形相で、苦しむ女に笑いを向ける。

「スゲェなぁ超人さんよぉ!? アレで死なないんなら、お前は不死身じゃねぇかぁ!? カカカカ!」

照は、楽しかった。

彼女を追い詰めている今の状況が楽しかった。

『赤色の銀狼・犬子』

『ゲーム』が始まってから、その名を知らない人間はいないと言っても過言では無かったからだ。

生身一つで敵を屠り、生身一つで攻撃を耐え抜く――――まるで神話の中の英雄の様な彼女の姿に、幾度と無く照は嫉妬し恐怖し、興奮した

あの姿が折れる時、彼女はどんな顔を見せてくれるのだろう。

あの姿が砕ける時、彼女はどんな顔を見せてくれるのだろう。

『ただ、それだけの為に』

上田照と言う人間は、これだけの準備を行い行動に至った。

歪んだ愛情の形――――その結果を前にして、彼はただただ恍惚に浸っていた

「――――こんにちは、良い夜ですわね」

そう、声が聞こえた。

「駄目よ。女の子を苛めては」

次の瞬間――――照の腕が、消失する。

「あ?」

正しくは、肘から下を軸に『消失』する。

照の足元に、凹んだコンクリートの床と、真っ赤な花を散らした腕の絵があった。

「あ……ケヒ……、ククク」

否――――目の前で起きた狂気に照は笑う

彼の眼下にあったそれは、絵では無い。

『絵』と見違う程までに、尋常では無い力によって圧縮され、押し潰された、彼の腕だった。

「れでぇには、優しくしないと、駄目ですわよ?」

再び後方から聞こえてきた声に、照は本能的に回避を選択する。

「ク、キぃぃぃっっ…………ケひっ……ぎひひ」

おおよそ0.5秒。対校

彼が全霊を込めて回避した時間に、彼の足が這い蹲る。

左膝から下が消失し、代わりに凹んだコンクリートの床に再び『絵』が記される。

「へぇ、すごいですわ。まだ生きてらっしゃるなんて」

「……はがぁ……はがぁ」

右腕と左足を失い、照はようやく敵と正対する。

「………………おいおい、勘弁して欲しいぜ。なんでテメェがここに居るんだよ?」

照の笑みが、はっきりと強張る。

「ふふ、知れた事ですわ」

「だって、この子は私が最初に目をつけてたんですから」

金髪の女はそう言って笑った。

月夜によく映える純白のドレスを着て笑った。

柔らかな目を細めて、包み込む様な表情を顔に貼り付けて笑った。

「…………あぁ、なるほど。いわゆる三角カンケーって奴じゃねぇか」

「あら、随分と大層な言葉をお使いになられるのね」

「――――私はただ」

砂を磨り潰す様な音が響く。

「邪魔な虫を取り除いてるだけに過ぎないと言うのに」

黒位のテオドラ――――パショナル・キュウト・クルバリン・ラ・キャットレディは、そう言って歪に口を裂いた。

     

どの世界にも、けして手を出してはいけない存在と言うものが存在する。

狼に噛み付く狸は瞬く間に喉を食い千切られ、大鷲の巣を荒らす鼠はその嘴の餌食となる。

弱肉強食。

それが生物の理である以上、生きている人間に抗う術は無い。

これは人間においても言える事だ。

死にたくない。ゆえに。人間は知恵を絞る。

権力の、腕力の、知力のある人間にゴマをすり、吸収し、あわよくばその力を利用して私腹を肥やそうと考える人間はごまんといる。

それらは、金、情報、技術と言ったものを手に入れ、生命としての種を存続させようとしている相手から自らを守ろうとする、云わば本能ゆえの選択と言えるだろう。

自らの情報を取捨選択し、組み合わせ、思考し、自らの鎧としての力を強固なものにする。

種としてではなく、個としての進化。

これは、人間だからこそ出来る奇跡の形。

そして、進化は最終的には――――自らの保護へと辿り着く

敵を打ち倒す事は、名誉を勝ち取る事は、未明を暴く事は――――結局は自分と言う脆弱な塊を守る為に昇華される

金銭欲は、名誉欲は、誇りは。

結局のところ、自分が『他者より劣っている』と云う一種の病気から逃れる為に作り出されたものに過ぎない。

そして、それらの『理由』と言うものは、人間が人間である以上に必ず必要であるものであり。

故に――――人間は理性と言うものを持ちたがる、行動の正当化を理由に求める

『私』はそう思う。『普通』はそう思う。

故に!

故に!!

故に!!!

故に――――理由も無く人を襲うような人間に、理性がある筈がないのは当然の帰結だ

『ふふ、あはっ? おじさんったら随分とデリカシーが無いですのね? 自分が生き延びる為とは言え、何人殺せば気が済むのかしら?』

楽しげな笑い声が響く。だが、その声が私の耳に届く前に、破裂音に掻き消される。

『ク……クカカ! お互い様だろうが? オレは別にお前と戦うつもりは無いってのによぉ? お前がオレを追ってくるから仕方なくやってるだけだよ』

『それになぁ、おじさんは無いんじゃねぇのぉ? こう見えてもオレはまだまだ若いんだぜぇ?』

息荒く、男が笑う。下品な笑い声を浮かべ、何度も詠唱の言葉を口にする。

『fire・fire・fireァぁぁぁぁぁッ!』

きぃんと鼓膜を圧迫する振動、そして直後に響く砲撃の如き爆音と老若の悲鳴。

かろうじて見える眼が辺りの凄惨な光景を映す。

子供があった。大人があった。女があった。男があった。

目に見えて動ける怪我人は少なかった。なにせ動けない怪我人は恐らく即死なのだから。

『たしゅ、たすけて、たすけて…………』

動く事も出来ず、そう声をあげながら立ち竦むだけのギャラリーを気にも留めず、二つの暴風はワルツを踊り続ける。

まだ、私にぎりぎり余力は残っている。

一般人を助けられるかもしれない力は残ってはいる。

だが――――あの暴風域に入って無事でいられるかと言われると話は別だ。

可哀想だから、見ていられない、そんな教え込まれた倫理で容易に失える程、私の命は軽くは無い。

『ひぃ、ひぃぃぃっっ! なんだよ、なんだよアイツらぁぁぁっっぎ――――』

ぱつんと音がして、叫びながら逃げていくカップルの男が消える。

『ひ、ひぃっ!? ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃッッッ!?』

真っ赤な鮮花が地面に開き、イカれた重力に押し潰された男がアスファルトに貼り付けられていた。

『あら、別のを潰してしまいましたわ。ごめんなさいねぇ?』

そう言うと、キャットレディは『余った』片割れの女へと手をかざし。

『あなた達、恋人同士ですわよね? あなた一人残しておくってのも可哀想ですわね?』

笑う――――まるで猫に餌をやる少女の如く柔らかく

彼女にしてみれば、戯れの中で見つけた一つに過ぎなかった。

だが、窮鼠。つまり彼女と言う格上の怪物から追われる上竹照にしてみれば、唐突に生まれた絶好のチャンスだった。

『本当だったら最後の手段だったんだがな』

『残念ながら、オレもここで死ぬわけにはいかんのよ』

おおよそ0.03秒。

『fire!』

人間の反応速度よりも早い男の言葉が、周囲に起爆を引き起こす。

『fire! fire! fire! fire! fire!』

廃けたビルから響く爆音、彼の言葉を糧に、大黒柱をヘシ折られた膨大な質量の無機物が重心を崩す。

『なっ!?』

数百、数千、数万トンに至るビルの質量が、重力を糧にして上空からキャットレディを押し潰しにかかる。

無差別の一撃だった。たった一人の敵から逃げる為だけに練られ、成された無慈悲な一撃。

周囲の人間の事などまるで考えない、容赦の無い一撃。

『お前の能力で消し切れるものなら消してみろ――――ただし自分ごと潰さない保障があるならな』

その言葉と共に、照の姿が闇に消える。恐らく、彼しか知らない独自の逃走ルートを使ったのだろう。

『くッ! あ、貴方なんかにかまったせいでぇッ!』

ぷちん、と音がした。無論、彼女の血管が切れた音などでは無かった。

『あぁもう気に食いませんわっ! 私は虫を払おうとしただけなのにッ! あぁもう気に食いませんわぁっ!』

キャットレディは憤り、襲い来る落下物へと空手を向ける――――両脚を地面に貼り付けられた女の絵を足蹴にして

「…………」

「…………」

「…………」

数十秒後――――地獄絵図と云うには、随分と静かな場所で、キャットレディは膝をついていた

『はぁ……はぁぁ……ふぅぅぅ…………っっ』

彼女を中心として円のみが、ぽっかりと開いた瓦礫の中で、彼女は恨みがましく奥歯を噛んでいた。

『あんな虫如きに、あんなゴミ如きに、あんな屑如きに……この私が、この私がコケにされるだなんて……っ』

能力使用の反動か、余裕綽綽だった顔からは大量の汗を滲ませ、胸を揺らしながら空を仰いでいた。

ぱらり、ぱらりと落ちて来る粉末状のコンクリートを振り払う様子も見せず、ゆっくりと呼吸を整えていた。

――――危機は、上竹照はその場から完全にその姿を消していた

「…………動、ける」

そして私、犬子はそんなキャットレディを前に――――勝機を抱いた

虐殺を、結末を、見続けたが故に、掴んだ彼女の弱点。

膨大な攻撃力、適応性をを誇る強大な能力の、決定的な弱点。

「……一発、一発さえ突っ込めば終わり」

それは、恐らく彼女の身体能力や反応速度が生身の人間と変わらないレベルであると言う事。

発動してしまえば恐らく私の防御をもってしても防ぐ事は出来ないだろうが、発動する前ならば無能力者でも討伐は十分に可能であると言う事。

不意打ち、それさえ決まれば十分以上に私に勝ち目はある。

「…………」

だが、問題もある。

私の体力が限界に近い事だ。

上竹照と言う、強敵から一方的に嬲られた身体は、恐らくどちらかの行動をするので精一杯だ。

――――弱点をついて、今すぐに不意打ちをかけるのか

――――弱点を持ったまま、次の一手を確実にする為に今は逃走するのか

どちらにせよ。

『ふぅ……さて――――そろそろ、犬子さんをぉ、探さないといけませんわねぇ』

「…………」

決断は急がなければなさそうだった。


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Q:「犬子」は、この場面で……
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1.キャットレディに不意打ちを仕掛ける


2.キャットレディに不意打ちを仕掛けない

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「――――は?」

その言葉は、剛直な男の言葉を失わせるに十分過ぎた。

「は、じゃねぇよ。どう言う事だ、も糞もねぇよ」

サングラスをかけた、秋茜と呼ばれる男は笑って言う。

「言った通りだ俺の言った通りだ」

眼前の、ごつい男の考えている事を先読みしたかの様にそう言って、笑う。

「それとも何だ? お前さんは『オレ』の力を信用していないとでも?」

挑発する様に笑う。

口角を歪に裂く下卑た笑みは、初見ならば不快感さえ覚えさせるほどだ。

「……本当、なんだな」

厳しい表情をした男は、再度確認する様に口を開く。

問うてはいるものの、男には解っている。

それが真実だと言う事を理解している、しきっている。

――――なにせ、本物だ。

秋茜の言葉は紛れもなく本物なのだ。

最速で、最大の情報力を誇り、使い方次第では一日もかからずに敵を全て殲滅出来る力を持つ怪物。

それが、彼の眼前に存在する秋茜と言う男だった。

「――――残念か?」

にやにやと、煙草をふかしながら秋茜は片眉を落とす。

「――――いや」

少しだけ息を呑み、男が太い首を僅かにもたげる。

太い眉。硬さを覚える鼻。少しだけかさついた唇。

男の名前は影虎。仲間からは、そう呼ばせていた。

「――――ま、信じたくないのは百も承知だがな」

ふぅと深い白煙交じりの溜息を吐き出し、秋茜が眉を顰める。

下に向けていた視線を僅かに持ち上げ、窓の外のネオンに黒眼を向ける。

「――――俺としても、もうちょい後になると思ってたんだがな」

パトカーの音に混じり、秋茜の言葉が透明な夜に消えていく。

救急車のサイレンに混じって人の悲鳴が混じっていた。

情緒の欠片も無い夜の街を闊歩する闇の住人など眼にも暮れず、無関係な人間達が必死に命を繋ぎあっている。

「残念ながら、町外れで彼女の焼死体を見つけた――――」

秋茜は、もう一度溜息を漏らし、吸い終えた煙草を夜空に放り投げて自虐的に笑う。

「重力使い――――パショナル・キュウト・クルバリン・ラ・キャットレディ」

影虎にとって、深い闇の中、千里を見渡す男の口から出た言葉は、報道される数十の犠牲者よりもずっと早く。

「早々のリタイア、だ」

「…………」

そして、この世界での恋人の死亡は――――強烈に影虎の心を縛り付けた。

     

「おい、キャットレディがリタイアしたと言うのは本当なのか!?」

「……わざわざ仲間に嘘を言う必要があるか?」

三日目の朝。

神妙な表情で言葉を交わす二人の男達。

「……敵は? 誰に? いや、『なん』の能力にやられたんだ?」

「知らん。ワシが知ってるのはキャットレディが『この世界にはおらん』って事だけだ」

つい数日前まで赤の他人であり、片方は僕の命を奪おうとさえしていた男達の姿。

「――――ねぇ」

「何だ、犯人に心あたりでもあるのか?」

あるわけないじゃん。そう心の中で毒づきながら、僕は少し前から抱いていた疑問を口にする。

「二つ。いいですか?」

「お前が縛られている理由と俺達が上半身裸ってこと以外に関してなら何でも答えてやるぞ?」

「…………」

にこやかな笑みと共に返された、現状打破を真正面から断ち切る悪魔の言葉。

「……もしかして、お二人ともォホモォとかか何かですか?」

「おい、コイツ殺していいのか? いいよな? さ、殺そう」

鳳がナイフを片手に立ち上がる。その腕には大量のサブイボが沸いていた。

「はいはいストップ鳳。サティちゃんも、ちゃんと理由を教えてあげるからそんなに彼を煽らないでやってくれ――――彼はこう見えても童貞やけん」

豪腕で押さえ込みながら影虎が笑う。

「はな、はな、はなせっ!」

「駄目さ。離したらサティちゃんを襲うやろ?」

「現在進行形でお前に襲われかかってるだろうがっ!?」

くんずほずれつ、男と男が絡み合っておる。なんというホモホモしさ。気分は最悪だ。

「で、結局僕はどうしてこうやって縛られてるんですか?」

「うーん、それはね――――」

影虎が、鳳の手からナイフを取り上げて、一秒にも満たないスパン。

それは――――それはまるで旋風の如き速度で視界に飛び込んできた

「うわっ!?」

おおよそ最短。そして最速。

何かが飛んできたと言う判断よりも、ずっと早い回避運動によって得た自らの安全。

そして――――

「い、いきなり何するんですかっ!?」

木製のドアに突き刺さったナイフを一瞥し、僕は堪らず叫んだ。

「うーん、反応がないな……もう一丁いっとくか?」

二丁目のナイフを構える影虎。

冗談では無い、理由もなく二度目の投擲を許してたまるものか。

「待ってください! タイムタイムタイム! 理由を! 僕がこんな目に合う理由を教えてくださいよ!?」

「んー、簡単な事だな」

「ひぃっ!?」

聞をおかず二度目。今度は余裕を持った逃避。ただし脂汗は先ほどの比ではなかった。

「おいおい、避けたら意味なかだろうがよー?」

「うひゃあっ!?」

三、四、五。雷雨の如き降り注ぐ刃を、僕は必死に身を捩って交わす。

一撃が必殺に値する速度は、僕自身の集中力を極限まで研ぎ澄ませる。

「ほぉ……っ! いい動きするじゃねぇか」

「いい動きするじゃねぇか、じゃありませんよ! 理由を説明しろ理由を馬鹿ーーーー!」

疲労と動揺と怒りの赴くまま、僕は叫ぶ。

だんと――――空気の塊が影虎の巨体を吹き飛ばした

「がっァ!?」

高速で壁に叩き付けられた体が部屋全体を揺るがす。

人の物では無いエネルギーの爆発が、騒がしい室内に静寂ともたらす。

――――沈黙を解いたのは、この事件の張本人である影虎だった

「ってぇ……なるほど、激情型タイプか」

頭をさすりながら、影虎が立ち上がる。

「ケケ、自業自得だな。それにしても手を使わなくても能力は使える、か……予想外に役立ちそうじゃねぇか」

それを見て、楽しげに笑う鳳。

「……も、もしかして」

試されていたのか、その結論が生まれるやいなや、彼らの行動に意味が生まれ始める。

「ま、とりあえずこれで明確な戦力が確保されたわけだ」

設置してある冷蔵庫から氷嚢を取り出し、影虎へと放り投げては鳳は笑う。

「あとは冷静な状態で能力をどこまでコントロールできるか、だが」

邪悪に、僕を見て

「これはもう、練習するほかないわな――――」

思い切り、嗤った――――


     

「腐ってやがる……遅すぎたんだぁ……」

部屋に入って感じた違和感に、僕は鼻を摘みながら呟いた。

たった一週間、されど一週間。

ようやく帰ってきた我が家は明らかな異臭にまみれていた。

換気扇を回し、淀んだ空気をかき回し吐き出していく。

「…………はぁ」

一階は荒らされた形跡があった。

と言うか、僕が影虎に襲われた後からずっとそのままだった。

テーブルは倒れ、ガラスは割れ、ひどい惨状だった。

悪臭の元を辿ってみると、どうやらコンセントの抜けた冷蔵庫の中から、らしかった。

「はろう」

「…………」

「そしてグッバイ」

現実逃避も久しぶりだった。まずは部屋の掃除からしなくてはならないだろう。

スリッパを常時使用する人間で良かった、そう思いながら散った破片を拾い、清掃を始める。

袋に詰める、込める、詰める、込める、詰め。

「…………」

新しい袋を用意し、同じ事を繰り返す。憂鬱だった。

「……」

「…………」

「はぁぁぁぁぁぁ」

無言と集中を重ねておおよそ十五分。膨らんだ袋の口を縛り、ようやく一息つく。

倒れた椅子と机をそのままに、僕は壁を背に腰を落とす。

「全部直すのは……また今度かなぁ……」

見上げた電灯が酷く眩しく感じられ、虹彩を焼く光に姦しさを覚えた。

――――自分の家だと言うのに、どこか違和感を覚えた

「…………ふぅ」

二階はどうなっているだろうか。

僕の部屋はどうなっているだろうか。

そうして、そこまで来てようやく辿り着く。

――――彼女は、今、どうなっているのだろうか?

「…………」

無言を、無想を、曖昧な感情を募らせて僕は天井を見上げる。

「はぁ」

長居は出来ない。

無人の家だ。

この家は今、無人の家でなくてはならない。

一週間前、僕はこの家から出る際に警察の音を聞いた。

一週間前、僕はこの家から出る際に救急車の音を聞いた。

現場はそのままだった。

部屋はそのままだった。

それでも、間違いなく僕の家は国家権力が介入する程度には無用心になってしまった。

僕の家は、もう、無人の家でなくてはならなかった。

僕がここに戻ってきたのは、ただの、意思表明。

自分の家を、自分の居場所を、自分の安息を。

安穏としていた僕を、しばしの間、捨てる為の意思表明。

『能力者が戦った場所』と言う危険地帯からの、逃避。

「……」

残り二十分。

あとそれだけで僕はこの家を出る。

恐らく、当分は帰ってくる事もなくなるだろう。

二度と帰らない可能性だって有り得る。

そんな世界だ。

電気ポットがお湯を滾らせた音が無機質な空間に高く響く。

張り詰めた空気が僅かに弛緩した気がした。

僕は冷えたティーカップにお湯を注ぎ、一振り、二振りと紅茶のティーバッグを潜らせ、色をつけた。

礼儀など、作法など。

ただ、今は温かさの証拠が欲しくて、僕は何度もお湯を色づけた。

「……ちょっと濃いかな」

何も入れないストレートはほんのり苦く、けれど火傷する程に熱かった。

何の変哲も無いティーカップ。何の変哲も無いティーパック。

砂糖を入れれば、ミルクを入れれば。

八面六臂に形を変える程度の温かさに支えられる程度の僕の生活は、ここで終わり。

たぶん、当分、終わり。

「……そろそろ行こっかな」

カップの底に茶色を残したまま、僕は床を立つ。

僕が居たと言う最後の証拠を流し台に置いて、僕は踵をくるりと回す。

――――かちんと音がした

時計の針が、短針が十を指し、世界がゆっくりと動き出す。

行かなくてはならない。

僕は行かなくてはならない。

行かなくては――――僕は生き残れない

だから、行くのだ。

だから、往くのだ。

だから、逝くのだ。

『――――』

がしんと鳴った。

酷く鈍い音だった。

自分が出した音ではないと気づき、自分の音では無いと焦り。

明らかな他人の音だと言う事実に、ぞわりと背筋が崩れ震えた。

誰か、来たのか、誰かが、来たのだ。

自問自答にしては馬鹿馬鹿しい即決に、僕は奥歯を噛んで耐え抜く。

大丈夫じゃない、分かっている、だからこそ、大丈夫だ。

違う、僕はもう違うのだ。

曖昧だった僕とは違う。能力を使えなかった頃とは違う。

手を翳せ、頭を回せ、心を燃やせ、力を下せ。

敵に対抗出来うるだけの力があると言う事を、証明しろ――――

「…………」

音は一人。その音は一人が出す音だ。

軋む音で、息遣いで、感覚で、なんとなく、なんとなく。

勿論、その想像は楽観的なものかもしれない。

影虎の如く、見えない第三者の存在かもしれない。

僕なんかの力では奇襲した所でまったく無駄な程に協力な能力者の可能性だってある。

だが――――見ず知らずの他人の家に、家宅捜査をされた後の他人の家に勝手に入ってくる相手は、一般人でない事は確かなのだ

「…………」

僕の能力はそう強いものではない。

高揚で威力は変わるし、最大値もそう強いものでは無かった。

この精神状態なら、精々、人一人をぽぽんと吹っ飛ばす程度だろう。

しかし……当たり所が悪ければ、死ぬだろう。

「…………」

息を呑む。

手を翳す。

――――仕方が無い。そんな言葉はいらない。

僕の聖域を。最後の思い出を。

こいつは汚した――――だから、僕は力を振るう

不法侵入者への制裁は、その程度の理由で丁度良い。

「…………」

手首を握り、指先を広げ、奥歯を噛んで、照準を絞る。

ざわめきだつ――――心臓の音が

『もしかして……サティ?』

聞き覚えのある少女の声で掻き消されていた。

『サティだよね?』

『あぁ、この匂い……間違いなくサティだ!』

弾んだ鞠の如き声――――初めて会った夜の如く、銀を朱に染めた犬子の姿がそこに在った

     

「ひぃぃっ! やめて殺さないでくれっ! 頼むっ!」

恐らく他人に何度も向けた言葉を吐きながら、男は壁を背に涙を零す。

正義と言うには程遠い軽い一撃を放ち、私はゆっくりと溜息を漏らす。

「これで二人目……やっぱり慣れない事をするもんじゃないわね」

少し量の減ったペットボトルの中身に口をつけ、私は鼻を鳴らす。

ぱつんと言う音がして、噴水の様な音と共に鮮やかな朱色が舞う。

「それにしても、馬鹿ね。晴れの日でも無いのに簡単に私から逃げられる筈が無いのに」

糸で切断した様な男の首を見下ろし、私は舌なめずりをする。

あぁ駄目だ。はしたない。こんな事をする為に私はこの男を殺したのでは無い。

「赤海月。こいつの首を連中の所に置いてきて頂戴。出来るだけ目立つ所が良いわ」

出来るだけ血がつかない様に爪先を頭部で蹴り飛ばす。僅かな重みと共に慣性をつけてごろごろと転がっていく。

「竜華様。少々戯れが過ぎます。そのお靴を掃除しているのは誰だと思っていらっしゃるのですか? 大概にして頂かないと、死なしますよ?」

その頭部の髪をむんずと掴み、赤海月と呼ばれた無骨な男は無表情で私を睨む。おぉ怖い怖い。

二メートルを優に超える体躯に、生まれながらの褐色の肌と適当にされたツンツンの黒髪。

そんな鎧の様な筋肉の纏った全身凶器の体で『死なす』などと言われると、色んな意味で洒落にならない。

「仕方ないわねぇ。貴方が言うと冗談にならないから怖いわ」

予め用意しておいたハンカチを靴先に伸ばす。

「竜華様。そのハンカチを洗濯しているのは誰だと……」

「あぁあぁごめんなさいねもう」

手を離す。

「と言うか、そもそもそのハンカチはいつの……」

「あぁあぁ分かったわよちゃんとハンカチは毎日取り替えるわよ」

頭が痛くなる様な説教。相変わらず頭の堅い男だ。

「……能力使用で洗うのも禁止です。そこに水道がありましたから、そこで洗って下さい」

「……」

やろうとした事を先回りに止められ、がくりと方を落とす。

「……なんで能力使っちゃ駄目なのよ」

「また、聞きたいんですか?」

「やめとく」

理由は自分自身が一番知っている。

能力の使用が自分にとって良くない事など自分自身が一番知っている。いや、違うな。

私の能力が危険だと言う事は、他人であり他人では無い赤海月の方がずっと知っている。

「それが一番です」

そう言うと、赤海月はバスケットボールを片手で握れそうな程に大きな手を開き、むんずと赤黒い頭蓋を掴んで歩き出す。

「それと……今、泳いでる連中はいかがいたしますか?」

ぎらりとした眼。荘厳とした黄金の眼が闇の中にはっきりと浮かんでいた。

「ん? 『虎口』の事かしら? それとも『蟻喰い』の事かしら?」

「虎口の方です。最近ちょろちょろと水面下で動いてる様です」

「虎口かぁ。あの影虎くんの所よね。あの子も頑張るわねぇ。もう恋人は死んじゃったって言うのに」

彼の心を思うと少しだけ悲しくなって、同時に少しだけ堪えようもない喜びに満ちる。

「どうやら、戦闘を行える人材を集めている様です。どうやらキャットレディ様が亡くなったのが相当堪えた様子ですね」

「そりゃそうね。なんてったってあの子はこの戦いでもトップクラスだったんだもの」

そんな彼女が、こんな序盤であっさり死ぬなんて誰が信じるだろうか。

「私も未だにあの子が死んじゃったのが信じられないくらいだかねぇ」

でもまぁ、死んでしまった。

『天使様』の定期報告で、はっきりと私は彼女の死亡を聞いたから。

「まぁ人は死ぬ時は死ぬと言う事です」

あんたがそれを言うか。そんな突っ込みを心の中に、私は水道を求めて席を立つ。

「あぁ、そう言えば――――私が虎口に向かおうとした理由が、ですね」

そう言って赤海月は笑う。まるで楽しい玩具を見つけた子供の様に。

「――――キャットレディ様を殺したと思わしき人物と接触したそうです。虎口のメンバーの一人が」

ぐずりと背筋が歪む。視界が一瞬で鮮明になる。

「……面白そうじゃない」

奥歯が歪む。口角が自然と三日月に裂けた。あぁなるほど。

「赤海月。ついてきなさい。首を置くのは後でいいわ」

水道に向かっていた足を翻し、入り口へと向かう。

「どちらへ?」

「決まってるじゃない」

自分が今どんな顔をしているかは分からない。でも。

「ちょっと――――ネズミと戯れに行くのよ」

私、外海竜華は――――いつもの様に、きっと笑っているのだろう事だけは理解出来た

     

「無事……だったんだ」

鉄の匂いを纏わせて犬子は名前の通りの仕草で僕に飛び込んでくる。

文字通り主人を見つけた犬の様に表情を明るくして彼女は笑う。

そう言った意味では、初めて会った時とは比べ物にならなかった。

「う、うん……なんとか逃げられたよ」

それより……約束の時間までもう三分も無い。

一時間だけ自分の家に寄らせて欲しい。

そんな言葉を吐いて僕は影虎達と別れてきた。

こちらが言い出した事を守らない、彼らにどう言う目に合わされるか解らない。

と言うか、見捨てられる可能性すら有り得てしまう。

この年でぼっちは寂しい。ではなくて。

――――今のチームを捨てられ一人で戦い抜けるほど、僕の能力は強くも無ければ、僕自信も強い訳でも無い

いや、別のチームでも同じだ。

と言うか、ルールも半端。強さも半端。そんなハンパものである僕と組んでくれるチームなんて今後存在するのだろうかとすら思えてしまう。

「どうしたの? なんか上の空みたいだけど」

「…………いや。何でも無いよ」

彼女なら仲間になって……いや、その判断は早計過ぎる。

そもそも僕は本当に彼女に信頼されているのか?

体の良い家主、または一宿一飯の恩くらいしか無いのではないか?

その程度で、僕は彼女の恩恵を受けられるのか?

人が居る中で容赦なく人の体ごとコンクリートを踏み砕く怪物に助けて貰えるのか?

「……何でも無いよ。うん、何でも無い」

結論を出すには早すぎる。自分で考えるには難しすぎる。

「そう? なんかサティ。少し会わない間に変わったね……なんというか」

そう言って犬子は僕の服の近くでくんくんと鼻を鳴らすと。

「えぇと……ぐっとくっさくなった」

「……褒めてないよね、ソレ」

ワイルドとか野生的とか、色々と言い方はあると思う。

まぁでも、確かに彼女の言う事は仕方ないかもしれない。

何せ、今日はまだ『特訓』の後にシャワーを浴びていない。

着替えてもいない。と言うかそんな暇も無かった。いわば汗だらっだら。疲労ももりっもり。

と言うか、朝起きてからこの家に来るまでだ。

そんな僕がくっさく無いわけがない。ちょっとだけショックだけど。

「そうかな? ……いいにおいだよ? 頑張ってる人のにおい」

もう一度くんくんと鼻を鳴らし、くやんと口角を割いた。

「な、何してるんだよっ!? へ、ヘンタイみたいだよソレ!?」

恥ずかしさに思わず彼女の体を押しのける。

彼女の体は予想以上に軽かった。そして。

「ひゃ……ん、ぎっ……ん」

何の準備も無く、彼女の体はその場に膝をついた。

「……犬、子?」

一瞬何が起きたのかは解らなかった。

だが次の瞬間、自分が押した事が原因で彼女が倒れた事が明白で。

「いぬ……ッ!?」


彼女を抱いたその手が、真っ赤に染まった事実に、僕はようやく声を張り上げた。

「犬子ッ!? 大丈夫か!? 犬子っ!?」

『おじゃましまーす!』

ぱしゃ、と。

かつん、と。

妙に耳に響く音と共にその人物は現れた。

声の持ち主は玄関。暗闇の中で、されど明確に解る殺意が背筋を凍らせる。

最初に影虎から感じた物とは比べ物にならない膨大な質量を持った感情の激流。

隠すつもりなど更々無い、細胞の一つ一つを殺意が飲み込むかの様に。

「……はぁ……はぁ……誰、だよ? ここは、僕の、家だ、ぞ?」

犬子を手の中に抱き、僕は必死に言葉をかける。

獣であるのならば、僕は既に死んでいただろう。

『あら、でも二人とも居るじゃない? 今日はなんて運が良いのかしらね?』

そう言うと、侵入者の一人は楽しげに笑った。

紺のスーツと黒のサングラス。人の家だと言うのに構わずにハイヒールを履いて犬子を見たその女性は。

「えぇと、キャットレディちゃんを殺したのはそっちよね?」

「初めまして、になるのかな?」

侵入者は小さくお辞儀をし、サングラスを整え、口元を歪めた。

「私の名前は外海竜華」

「貴方、いや、貴方達を――――」

ぐちり、と苦虫を噛み潰す様に歪め。

そうして、ぐにゃりと押し曲げる様にして笑い。

「殺しに来たの――――」

もう一度、僕の耳元で、ぱつんと言う音を鳴らした。

     

何が起きた? 何をした?

眼前に居た怪物が小さく笑ったと同時に、僕の耳元で音がした。

ぱつん、と。

ゴムが切れたかの様な音だった。

その瞬間に、ぼんやりと音が遠くなる。

一体何をしたのだ、と。

思う暇も無く、ソレは地面にぽたりと落ちた。

「え――――?」

妙な違和感と合致する目の前の状況。

降ろした視線の先に移る、SDカード程度に切り刻まれた肌色の物体。

そこでようやく僕は、自らの手をソコへと伸ばす。

あるはずものが。存在する筈の物が。

まるで、最初から無かったかの様に。

「僕の……………………耳?」

非現実な現実が、溶岩の如き恐怖と稲妻の様な痛みを伴って狂気を引き起こす。

「んー。いい年した能力者がギャアギャアと叫ぶんじゃないわよ。みっともないわね」

僕の叫び声など意にも介さない様子で彼女は溜息を吐く。

なんだよ、なんだよ、これ……っ!? なんで僕がこんな目に合ってるんだ!?

じゅくりと毀れる血液が、じぐりと意識を刈り取りそうな痛覚が、これが現実である事とたらしめる。

数メートル先に存在する怪物の存在に、全身ががたがたと震えている。

飛び道具か。それとも獲の長い武器か。いや、そう簡単に解る筈が無い。

「……はぁぁ、はぁぁ……う、くッ」

自分の身に何が起きたのかなんて知らない。

相手の攻撃がどんな方法かなんて知らない。

ただ一つ解っている事は――――相手は絶対的な『死』を司る化け物だと言う事

「竜、華……さん、だったよね? なんでここひぎッ!?」

言葉を紡ぐ暇も無く、脹脛を焼く痛みが走り、その場に崩れ落ちる。

支えきれず、犬子の体を抱き込んだまま、その場に無様に倒れこむ。

「もう名前を覚えてくれたのね。物覚えの良い子は嫌いじゃないわ。でも、私の目的は残念ながら貴方じゃないの」

持っていたペットボトルに口をつけ、さも不快に溜息を漏らす。

ペットボトルの中身一つで他人を溺死させる能力を持つ怪物は、そう言って僕と言う存在を歯牙にもかけずに蹴り飛ばす。

「重要なのは、こっち……っ!?」

そして僕と犬子を突き放した、そのまま犬子のおとがいを持ち上げ――――そのままその唇を奪う

「な、何を……っ!?」

「だぁかぁらぁ、この子は強いのよ? キャットレディちゃんを倒したくれい強いのよ?」

理解の足りない僕に、理解出来ない行動を行う彼女は、馬鹿を見る様な目で僕をあざけ笑う。

「私は強い子が好き。別におかしな事じゃないでしょう?」

そう言うと、再び反撃の出来ない犬子の口に自らの唇を当てる

何が起きている。何が起きている。何が起きている。

「や……ん、ぐ……やめ、ろ……っ! ば、ん……ぐぅッ……!?」

犬子が何とか反撃を試みようとした瞬間の事だった。

「――――あぁ駄目駄目。貴方と正面から戦うなんて有り得ないわ」

「んぐぅぅぅっっっ!? ぐぷっっっっ!? あぐっ…………っ!」

犬子が急に苦しみ始め、ものの十秒もしないうちに犬子は気を失ってしまった。

――――何が起きた!? 一体何が起きた!?

「犬子ッ! 犬子っ! どうし――――んッ!?」

「喋んな、って言ってンだけど?」

悪魔の怒りと共に、僕の口に横線が入る。ぷつり、と言う音が後れて聞こえて鮮血を垂らす。

何が起きた、何が起きた、痛い、痛い、痛い。切られた、切られた。

何も見えない何も無い状態から、僕は口を横一線に切られたのだ。

ぼたり、ぼたりと音を立てて雫がフローリングを汚していく。まだ生きている。僕はまだ生きている。

「ふふ、犬子ちゃんったら大切に思われてるのね。そう言うのって心底憧れるわ」

嬉しそうに笑い、再び悪鬼は犬子を陵辱し始める。

深い呼吸をしながら、されど意識を取り戻さない犬子の身体を弄ぶ様にして。

何度も、何度も、何度も、何度も。

ハイエナが餌を貪るのとは違う。

虫が死体に集るそれとも違う。

――――ライオンが弱らせた兎を遊び道具にするそれと同じ様に

「――――あら、この子がどうなっても良いのかしら?」

怪物は告げる。向けられた僕の手のひらを僕に視線を向ける事もせず。

「……離……へろ……いにゅほひゃら………っ」

言葉にもならない意思だけを頼りに、僕は殺意にもならない脆弱な意思を向ける。

脅しにもならないかもしれない。攻撃にもならないかもしれない。

命乞いでも、素知らぬ振りでもしていた方が、まだ生存率が上がったかもしれなかった。

けれど――――僕の手は、僕の力は明確に矛先を向けていた

「手から出るタイプ? それも発動するまで時間がかかるの? それとも発動するのに時間が必要なの?」

だが、彼女は意にも介せず。まるで無駄とばかりに溜息を漏らし。

「どちらにせよ、そこから立ち上がったのは凄いわ。これだけの力量差があってもなお立ち上がるその気概」

「そう言ったのは驚嘆に値するわ。今時いないわよ。貴方みたいな他人の為に立ち上がるって言う勇気のある子は」

瞬きをする暇も無く。一瞥をする暇も無く。次の呼吸を待つ暇も無く。

「かっこ良いわ。憧れるわ。素晴らしいわ」

触れもせず、笑いもせず、音も出さず

「――――興味は無いけれど」

掲げた僕の腕を、切断した。

     

時間が止まった様な感覚。

世界で自分一人だけ。動ける人間は一人だけ。

夢現の世界の中で自分だけが意識を保っていられるかの如き無為の世界。

僕は今、何をしている?

「――――――――――――――――――――――――――――――――ッッッ!!」

獣の声が遠くで聞こえていた。喧しい近所迷惑だろう。

だが世界は何も動いてはいない。

僕の見ている世界は誰も声をあげてはいない。

誰も、声を、あげてはいない。

そこで、気づく。

世界が止まってはいない事を。自分が動いてはいない事を。

「――――ああああああああああああああああああああああああッッッ!!」

声は、自らの口から吐き出されている事を。

ぷつ、と音がして。

ばつんと脳の神経が焼き切れる様な痛みが走って。

それから、僕の肘から先に鮮血の華が咲く。

「~~~~っ! ――――っ!? ーーーーッッ?!」

悲鳴、獣声、絶叫、涙、苦痛――喪失感

意識を保つ事すらも馬鹿馬鹿しく思えるほどの痛み。

痛い! 痛い!! 痛い!!!

「――――興味ない、って言ってるでしょ?」

凍てつく瞳が心身を貫く。

ぱつん、と音がして視界の半分が『消失』する。

「少しは黙りなさいな。さもないと、次は――――殺すからね」

左目の表面を『切られた』と言う事に気づく前に、痛みに泣き叫ぶ前に言葉を潰える。

視界を塞ごうとする半闇が、意識を塞ごうとする痛覚が。

絶望と、後悔と、悔恨と――そして、怒りをもたらす

「……く、ぐぅぅぅ……あ、うぅぅっ」

ぼろぼろと血涙が毀れる。

今すぐにでも逃げ出したい。今すぐにでも出て行きたい。

どうして自分はこんな戦いに身を投じてしまったのだろうか?

世界を赤黒く染められ、腕を切断させられる相手にどうして僕は挑んでしまったのだろう。

「ふふ、やっぱり他人の『子』を目の前で辱しめるのは心が踊るわね……」

こんな『絶体絶命』の自体に至る前に、逃げ出す事だって出来た筈だった。

全身全霊で、顔を見た瞬間に、相手に付け入る隙など与えない程、迅速に。

チャンスだった。逃げるタイミングはあった。

それを…・・・僕は中途半端な『覚悟』と『自信』で潰してしまった。

その結果が、これ。

右耳を裂かれ、右腕を取られ、左目を切り裂かれ。

戦う事もままならない、今後まともな生活すら出来るかどうかの体に成り下がった。

「ん……ふぅん……ん、くふ? あぁ、もしかしてこれって……?」

犬子に跨った怪物は僕の事など気にも留めない。

僕などその辺の芋虫と変わらない、と。

他人の家の葉を食い散らかす害虫程度だ、と。

ただ、自分の家に入れば一切の容赦はしない、と。

一方的に陣地に入ってきた挙句に、だ――――理不尽では無いか! 不条理ではないか! 道理に合わないではないか!

「…………きぃ……ぐぅ……」

涙が零れ落ちる。落ちた右手を拾い上げる、そのまま――切断面を、強引に押し込んだ

「ぐ……くぅぁぁ……っ!」

無駄な事だと分かっていた。無理な事だと分かっていた。無茶な事だと分かっていた!

くっつく筈がない。玩具ではない。切られた腕だ。今すぐ病院にいったとしても治る見込みは少ない可能性だってある。

もう、僕の腕は使えない――――だから、目的は『ソレ』じゃないっ!

「あぁぁあぁぁぁっッ! ぐぅぁぁっっ!」

いたいイタイくるしいクルシイいたいクルシイいたいクルシイイタイくるしいイタイくるしい

剥き出しの骨が神経をえぐる。噴出する血液が肉を圧迫する。

されど、されど、されど――――僕は左手を握り、右の手のひらを正面へと向ける

「ッ――――!?」

竜華の視線がこちらに向いた。僕と言う『毒虫』の存在にようやく意識を向けた。

ようやく気づく、もう遅い! 遅れて気づく、だが遅い!

曖昧になりそうな意識に楔を打ち込み、眼前の怨敵に集中する。

痛みを糧に、怒りを糧に、思いを力に。

止まらない苦痛を、揺るがない意思を、ただ眼前へと打ち放つ。

全力で練ったコレが当たりさえすれば常人ならまず圧死。当たらなければ僕が抵抗にあって死ぬ。

それが僕の攻撃。それが僕の手段。

たったそれだけ――――故に、この一撃は一撃必殺

相手の生死など考えず、味方の生死を考えず

ただ、抱いた思いだけを圧縮した動力に乗せて、僕は打ち放つ。

避けられれば死ぬ。先んじられれば死ぬ。

そして――――撃てば犬子も死ぬ

されど

『………………サ…………ティ……』

意識の無い声。

本名で無い名。

「なッ……あんたがふっっ!?」

満身創痍の犬子の指が、怪物の首を掴み。

『――――……おね……がい……』

そして、最後の力を持って抵抗を見せる。

彼女が『そう』言うのならば。

彼女が『そう』望むのならば。

「ぶっ飛べ――――変態女」

この手には何も掴めない、されどこの手は全てを弾く。

この手では何も届かない、されどこの手は全てを砕く。

「――――Burst!」

後悔など、懺悔など、する猶予も無く――――僕の一撃は怪物達を消し飛ばした。

     

「……腹、立つ、わねぇ」

毒づきながら少女は言う。

尋常では無い血液を頭部から垂流し、常人では気を失いそうになる激痛の中で。

「何……一人だけイって……満足した顔、してんのかしらねぇ?」

怪物は笑っていた。

「……ちっ」

彼女の指先が『水』を弾こうと音を鳴らす。

だが、自らの身体から流れ出た血液がそれを許さない。

腕から指から、真っ赤に染まった液体が彼女の指先を滑らせる。

失血はけして少なくは無かった。当然だ。

「げぐ……くく」

目測。眼前には別の民家があった――――数人くらいならば簡単に入れる程の、大きな穴の開いた民家が

「随分と……遠くまで」

その先。穴の先。おおよそ30メートル程先に、見覚えのある光景があった。

――――ソレ、が先ほどまで彼女が居た場所だった。

「ゲホっ……ガハっ……くく、くくくく」

失血と激痛の頭を抑えながら、彼女は嗤う。

家具を破壊し、家の壁を割り、コンクリートをも破壊せしめて一撃は、彼女の身体に多大な損傷を与えた。

当然の事だ。

サティと言う、なまくら能力者が行った最後の攻撃は、一般的な人間を殺傷するには十分過ぎたのだから。

だが、それは相手があくまでも一般的な人間であった時のみの話だ――――現実、彼女は、外海竜華はまだ、生きている

内臓は損傷し、筋肉は裂傷し、骨は完全にイっている。

同じ年頃の女ならばどうするだろうか。泣き喚き、叫び、神に助けを祈るだろうか。そう考えながら、鮮血を吐き出す。

「――――馬鹿、馬鹿しい」

怪物は立つ。

逆側に折れ曲がっていた足が、捩れて落ちた。

激痛が走り、気がトびかける。

それでも彼女は前へ進む事を止めようとはしなかった。

「く、く、ぐ、ぐ……ぎ、ぎ、ぎ」

歯の根が砕ける音がして、鉄の味が口一杯に広がった。

それでも歩みを止めない彼女の目的は、ただ一つきり。

『やられたら、やりかえす』

そうやって竜華と言う人間は生きてきたのだから。

例え自分に降りかかった害が、自分の手によるものだとしても、それは、それ。

「……は、がぁ…………人を傷つける痛みを……教えてあげる」

飛びそうな意識を痛覚で繋ぎ止め、たった三十メートルをのろのろと近づいていく。

二十メートル。十五メートル。そうして十メートルも無い距離。

遮蔽物が意味を成さない家の前まで来て、竜華の思考に一つの違和感が走る。

何かを忘れている気がする。

言葉にもならない、微かな疑問点。

「――――っ」

息を吐くより先に本来動く筈の無かった体が動いた。

次の瞬間、元々彼女が居た場所を高速の”ナニカ”が通り過ぎ、そのまま横薙ぎに家を”切り裂いた”。

「……アンタ、気絶から回復するまでのスパンが短すぎなンじゃない?」

竜華の額に意図しない脂汗が滲む。

その眼に映るは、赤眼の銀狼――――犬子

「…………」

先ほどとは違い、息一つ乱さない銀狼の異様さに、竜華は唾を飲み込み、緊張に全身の筋肉を強張らせる。

「無言とは悲しいわね。あんなに熱く愛し合った中じゃない、の――――っ!」

奥歯を噛み締め、竜華が思い切りその腕を振り抜く。

四散する鮮血。目晦ましにもなりはしない少量の散弾――――本来ならば!

「ッっッ!」

撒き散らされた血液の雫を、されど犬子は”全力”で回避する。

直後、菓子に楊枝を突き刺す様な軽快な音と共に、犬子の背後にあった壁に蜂の巣状の穴が空く。

「……っぐ、ぅ」

そうしておおよそ右に七十度。そこで犬子は腹部を抑えていた。

致命傷と言うには随分と軽い。されど、”頑丈”を誇る犬子を身体を易々と打ち破る血液の弾丸は、彼女から余裕を奪っていた。

「……これで対等、つぅ訳にはいかなさそうね」

完全な無意識。されど彼女の無意識は血流をも自らの操作下におき、”健常な身体”を作り出す。

千切れた足から毀れる血液が、そこに透明なチューブでもあるかの様に軌道を折り曲げ、別の断面へと戻っていく。

「…………くつ、くつ、くつ、く、く、く」

ばぢり、音が鳴る程に奥歯を噛み締め狂気の眼が犬子を捉える。

強く握った中指と親指。溜め込んだ力点は、一秒の暇すらも与えずに銀狼の喉笛を掻き切る力があった。

「残念だなぁ、折角イイ感じだと思ったのに」

死地をくぐり抜けてきたからこそ判る、コンマ単位の駆け引き。

攻撃に転ずるまでのラグ、防御に徹するまでの動作、回避に至るまでの行程。

犬子がどの選択を選ぼうとも――――水の魔女はそれらをけして許しはしない

最大戦力を、最高出力で、最短距離で。

それが、外海竜華と言う人間だ。

あと数グラム、下方に力を入れるだけで、音速を優に超える水弾は、対峙する犬子の眉間を打ち抜くだろう。

互いに判りきった結末――――互いに想像する事すらも無駄な時間

『ストップ』

第三者、その結末を望まない別方向からの声が、はっきりと響いた。

犬子の後方。大穴を塞ぐ程の巨漢をいからせ、竜華の従者がその身を表す。

「……赤海月。邪魔する気ならアンタも」

「殺す、とでも? お嬢様が私を? この数時間で随分とご冗談が上手くなられた様で」

冗談とも取れる筈の無い殺人鬼の言葉を流し、赤海月はその眼を細める。

「お嬢様には不可能ですよ。性格的にも、物理的にも」

竜華の言葉を鼻で笑い、そうして、数秒程、言葉を区切り、もう一度目を細め。

「天使様がお呼びです――――ここは一旦帰りますよ、お嬢様?」

「は? あ? ふぇ? ちょ、まっ!?」

「と、言う訳でここは一旦引かせて頂きます。ご機嫌様、で御座います」

空気も、殺意も、全てを無視し、有無を言わさず、主人の首根っこを掴み、台風の如く――――歩き、去った

       

表紙

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Neetsha