Neetel Inside ニートノベル
表紙

探偵・風祭優~名探偵の弟子~
case1『シトには向かない夜』

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 名探偵という存在が現実に居るなんて、私は正直信じてなかった。
人並みには探偵小説を嗜むけれど、子供の頃でさえそんなことは思ったことがない。だから、私は上司から「名探偵が横浜にいるって、知ってるか」と言われた時、吹き出す物を押さえるのに少しだけ苦労した。
 東京は品川にある小さな出版社に勤める私は、藤田椛(ふじたもみじ)。年齢は二六歳。目の前のハゲ頭は、私がルポを書いている雑誌の編集長。彼は、何かの紙に目を通しながら、私に目もくれず、忙しさをアピールしていた。
「いや、知らなかったですけど……そんなの居るんですか?」
「ああ。何年か前に、『ミスター・K』って流行ったろ」
「そういえば……」私はそう呟いて、まだ新人だった頃にテレビで見たニュースを思い出していた。確か、人気バンドのボーカルがその存在を匂わせたことから流行りだしたんだっけ。私は当時から、若干懐疑的に見ていたけれど。絶対売名だと思ってた。
「でな、誰もその探偵ってのにたどり着けてないんだよ。もしそいつに独占取材できたら、売り上げは伸びると思わないか?」
「今更過ぎませんか。あれから二年経ってるんですよ? 読者が食いつくとは思えないんですけど……」
「そんなの特集の仕方でなんとでもなるんだよ。都市伝説とか、あの人は今とかで取り上げちまえ」
「はあ……」
 相当気が乗らないけど、しかし私はサラリーマン。給料で首輪をつながれた女。めんどくさいけれど、それに従わないわけにはいかないのだ。
 オフィスの隅にあるホワイトボードに、私の予定を短く『取材』と書き込んで、編集部を出た。


  ■


 ハイヒールを鳴らし、会社の地下駐車場から私の愛車『フィアット・500』の黒に乗り、とりあえず横浜へと向かった。当てなんてまるでないけれど、仕事だから。
 どうしよっかなあ。どこを探せばいいのかなあ。いろいろ迷って、結局餅は餅屋。人を捜すなら探偵を使えばいい。
 信号待ちの間、スマホで電話帳のサイトに飛び、横浜の探偵を検索する。さすがに、探偵の口コミ評価なんてない。たしか、ミスター・Kっていうのはイニシャルだったはず。なので、私は事務所の代表者のイニシャルが『K』という事務所を選ぶことにした。験担ぎというやつだ。
「……甘露寺探偵事務所かあ。どっちも『K』だ」
 代表の名前は『甘露寺啓介』イニシャルは『KK』
 ここにしよう。住所を確認し、カーナビに指示して、ルートを案内してもらう。

 甘露寺探偵事務所は、横浜の関内、もっと言えば中華街近くに事務所を構えており、一階に雰囲気のいい喫茶店がテナントに入っている雑居ビルの三階にあるようだった。
 喫茶店に入ってコーヒーで一服したい気持ちを抑え、ビルの共用階段を登って、擦りガラスのドアをノックする。ドアサインさえなくってここが本当に甘露寺探偵事務所なのか不安になった。
 さらに返事さえないもんだから、私は少しだけ恥ずかしい気持ちになる。
「すいませーん。誰かいらっしゃいませんかー」
 言いながら、ドアノブを捻ってみる。すると、鍵がかかっていなかったらしく、すんなりとドアが開く。
「あれ……」
 もしかして空き家だったのだろうか。事務所の中に足を踏み入れると、きちんと事務所の様相を保っていた。窓際にあるデスクと、壁際のファイルがつまったキャビネット。そして、中心に存在する応接セットには、一人の女性が寝転がっていた。
 黒のベストに白のワイシャツ。赤いネクタイと黒のジーンズ。そして、ジーンズと同色のブーツ。まるで男性みたいな格好をしているから一瞬男性かと思ったが、胸が膨らんでいるし、腰付きも女性の物だ。顔には黒い中折れ帽が乗っている為、その顔つきは見えない。が、髪型は茶髪のショートカットであることがわかる。
「……甘露寺啓介じゃ、ないわよね……」
 とりあえず、彼女を起こさない事には話が始まらない。私は彼女の傍らにしゃがみ込むと、その肩を掴んで、「すいません、起きてください」と声をかけた。
「ん……んー?」
 と、彼女は吐息を漏らし、顔に乗った帽子をどけて、私を視界に捉えた。その目は猫のように丸くて、つり上がっている。柔らかそうな血色のいい唇が妙にセクシーだ。男装をしてはいるけれど、どうもかなり女性的な見た目の持ち主らしい。
「あれ、……あんた誰」
「あ、私は、依頼人で……こういう物です」
 スーツの胸ポケットから名刺を取り出し、彼女に差し出した。
「一新社、週間スポットのルポライター、藤田椛さん?」
 彼女は起き上がり、帽子を頭に被る。私は彼女の傍らでしゃがみこんだまま話をするわけにも行かないので、彼女の向かい側にある黒革のソファに腰を下ろした。
「あー、私の名刺……」
 彼女は、ベストの内ポケットから見市を取り出し、私へ名刺を差し出した。そこには、『甘露寺探偵事務所 所長代理 風祭優(かざまつりゆう)』と書かれていた。
 所長の甘露寺さんじゃないのか……。まあ、探してもらう分には、誰でもいいか。
「改めまして、所長代理の風祭優。よろしくー」そう言って、彼女はあくびを一つ。
「……え、っと。眠いんですか?」
 探偵に依頼をするなんて初めてな私は、どう切り出したらいいかわからず、そんな無意味な話を振ってしまった。しかし、彼女は照れたような笑顔で「いやあ、ちょっと」と頭を掻いた。
「昨日の仕事が終わったのがさっきで。でも依頼はきちんとこなすから」
「そ、そうですか……。じゃあ、えっと、風祭さんは、『ミスター・K』を知っていますか?」
 その瞬間、彼女の表情が変わった。先ほどの愛想笑いか、突然張りつめたような表情に。なんだろう? と思いつつ、話を続けた。
「実は上司から、彼を捜して取材をしろと言われまして。それで、まあ探偵に捜してもらおうと」
 彼女はズボンのポケットから、棒付きキャンディーを取り出して、その包みを破き、頬張った。
「……悪いけど、その依頼は受けられない」
「えっ」
 まさか断られるとは思っていなかった。若干手間のかかりそうな依頼ではあると思っていたのだけれど、しかしだからと言って、こうもあっさり断られるなんて。
「『ミスター・K』の正体は、ここの所長、甘露寺啓介だってことは、わかってる?」
「え!?」
 そんな。なんて確率だ。いきなり本物を引いてしまうなんて。運が向いてきたのか? よくわからない高揚感が胸を包んだ。
「……知らずに来たの? まあでも、啓介のダンナ――じゃない。所長はそういうの嫌いだから」
「まあ、そうですよね……」
 仮に取材がオーケーという男なら、二年前にとっとと取材を受けている。私は元々気が乗らなかったという事もあって、それであっさりと諦める事を決めた。けど、だとしてもなにか他のネタが欲しいな。そうじゃないと、あの上司は納得しないだろうし。
 そんな時。まるで神が私の願いを聞き入れたみたいなタイミングで、事務所のドアがノックされた。
「開いてるよー」
 客であるだろうにそんな不躾な返事をする風祭さん。そんな出迎えを受けて入ってきたノックの主は、三〇代前半の女性だった。白のブラウスに水色のスカーフを巻き、クロップドジーンズを穿いている。黒髪を後頭部で髪留めを使いまとめた、キャリアウーマンのような雰囲気を纏っていた。
 しかし、その目は覇気がなく、目元が腫れていて、ひどく泣きはらしたようだった。
「……話は終わりでしょ? ほら、早く帰って」
 風祭さんの言葉に、私はさっさと退散しようと、一瞬思った。
 けれど、今入ってきた女性の顔に、私は――ルポライターの勘が働いたのだ。記事にできるできないは後で判断するが、ここは彼女から話を聞きたいと、私のルポライターとしての勘が告げている。
「あの、ここが甘露寺探偵事務所ですよね……? 私は持田希(もちだのぞみ)と言います」
 力のない声。彼女は、私と風祭さんの二人を交互に見て、「どちらが探偵でしょう……?」と首を傾げた。
「あー、私。所長代理の風祭優」
「……そちらの方は?」
「あ、えと、週間スポットのルポライター。藤田椛です。すいません、すぐ帰りますんで」
 さすがにルポライターの勘だけで、探偵の依頼人に話を聞くわけにもいかない。諦めて帰ろう。そう思ったのだが、彼女の横を通り抜けようとした時、彼女は「待ってください」と私の肩に手を置いた。
「……あなたにも、是非私の話を聞いて欲しいんです」
 と、彼女は酔狂にも、ルポライターを名乗った私を引き留めたのだ。さすがに本人から話を聞いてくれと言われては、風祭さんも私を追い出すわけにもいかなくなったらしい。
 私は風祭さんの隣に腰を下ろして、彼女と向かい合った。彼女は、先ほどまで座っていたソファに腰を下ろすと、静かに語りだした。
「……私には、五年付き合っていた恋人がいました。名前は『遠藤春馬』私と同じ三二歳でした」
「……でした、というのは。もしかして」
 風祭さんも察しがついたらしい。持田さんは頷いて、「殺されました」と呟いた。
「一ヶ月くらい前になります。仕事から帰る途中、家の近くで、彼は誰かに胸を刺されて死んでいました。……警察は犯人を特定できていないそうです。……探偵さんには、その犯人を見つけて欲しいんです」
 そんな依頼、フィクションの中でしか聞いたことがない。持田さんは、よほど追いつめられてしまっているらしい。警察が頼りにならないから探偵。……探偵なんて、現実だと素行調査などしかしないだろうに。
 しかし、私のそんな予想に反して、風祭さんは「わかった。全力を尽くすわ」と頷いた。
 私は、驚きの表情で、彼女を見てしまう。
「……何よ?」
「い、いえ。受けるつもりなんですか? だって、警察に見つからないんだから、探偵に見つかるわけないじゃないですか」
「啓介のダンナはそれくらいやってたわ。弟子の私ができないわけないでしょ」
「あ、ありがとうございます! 受けてくれたのは、ここだけです……。みんな、それは警察の仕事だって言って……取り合ってもくれなかった……」
 涙を目に浮かべ、持田さんは頭を深々と下げる。私にとっては、今まで持田さんの依頼を断ってきた探偵の判断の方が正しく見える。事件を解決するのは警察の仕事じゃないか。
「……でも、その話を、なんで私にも?」
「警察の怠慢を、記事にして全国に広めて欲しいからです」
「はぁ……なるほど……」
 そこで私は、二つの心から同時に意見されることになる。一つは、私個人の心だ。『早く犯人を見つける為に、警察へ発破をかける意味を込めて記事を書いてやりたい』という意見。そしてもう一つは、ルポライターとしての心。『その手の話は記事にしてもらえるかどうか』という意見だ。私は曖昧に頷く事しかできなかった。
 その後、彼女は契約書を書いて前金の三万円を渡し、事務所から出ていった。
 私と風祭さんは、二人で事務所に残り、無言でしばしの間見つめ合った。私たちはお互いに、なんでこいつが目の前にいるんだろう、と考えているに違いない。本来ならば、私達は持田さんが来た時に別れ、二度と会わないはずだったのだから。
「じゃ、しょうがない。行きましょうか」
「え、行くって……どこへ」
「事件を調べによ。取材するなら、必要でしょ?」
 私は、ここで数秒悩んだ。
 もしここでこれを断り、他のネタを追いかけていれば、私はただのルポライターとして、平和な暮らしができたはずだったのだ。けどその時、『他のネタを探すのはめんどくさい』と考えて、「わかった。付き合います」と頷いてしまった。

 その時から始まったのだ。私と、横浜の男装探偵、風祭優との腐れ縁が。



case1『シトには向かない夜』

     

 私と風祭さん。ルポライターと、探偵。
 そんな統一感があるのか無いのかよくわからないコンビは、事務所から出て、私の車に乗り込んだ。彼女は助手席に遠慮無く腰を下ろすと、シートベルトも締めない内から「みなとみらい署に向かって」と指示を寄越した。どうにも、依頼人に対して敬語を使わない上、年上の私を敬う態度すら見せない辺り、あまり礼儀に頓着しないタイプらしかった(年齢は訊いてないけれど、おそらく二十歳ほどだろう)。
 しかし、私自身礼儀というのも年齢というのもあまり気にしないタチだったので、言及することはしなかった。キーを回し、アクセルを踏んで車を出した。
「あの、風祭さん。警察に行ってどうするつもりなんですか?」
「馴染みの刑事がいるから情報をもらうのよ。――というか、椛さんだっけ? 年上でしょ? 敬語とかいいから。それと、風祭も言い難いだろうし、優でお願い」
「そ、そう。じゃあ、タメ口で行かせてもらうけど。優、馴染みの刑事なんているの?」
 信号が赤に変わり、ブレーキを踏む。彼女は前を見たまま、「探偵なんてやってると、いろんなところにコネができるもんよ」と言って、ポケットからまた棒付きキャンディーを取り出して、口に入れる。
「ラジオ聞いていい? 車の中で聞くラジオってのはさー、格別じゃん? ドライブしてる、って気になるよね」
「まあ、わからなくもないけど……」
 ものすごい馴れ馴れしさだなあと思う。けど、それで特に不快感を感じないのは、彼女が人との距離をどう詰めたらいいのか熟知しているからなのだろうか。彼女は、カーナビを操作し、ラジオを起動させた。電波状態は良好。クリアな女性の声が社内を包む。彼女が選局したのはFMヨコハマ。湘南だかどこかからに密着して活動しているバンドの曲が流れる。穏やかな声に寄り添うような楽器たちの音が耳に心地いい。昼下がりのドライブにはぴったりだ。これで向かうのが警察署じゃなくて湘南の海だったなら、もっとウキウキだっただろう。
 仕事をサボって、鎌倉にでも行って、喫茶店巡りでもしたい。そんなことを思わずにはいられない選曲。お腹も減ったし、煙草も吸いたい。
「あーあー。なんかかったるくなってきちゃったなあ」
 どうやら優も私と同じ事を考えているらしい。しかし、それ以上は何も言わない。仕事は仕事。社会人として最低限の常識は持っているらしかった。



  ■みなとみらい署


 警察署の駐車場に車を停め、堂々と歩いて行く優に続いて、みなとみらい署の自動ドアをくぐった。吹き抜けが開放感を演出する大きなエントランス。周囲には老若男女様々な人がいる。なんだか病院の待合室みたいだ。何歳になっても、トラブルからは縁が切れないというのは、なんだか生きる希望を無くしてしまいそうな考え方。
 優は受付の婦警に、「鴨川健二警部呼んでくれない? 優が来たって言えばわかるからさ」と告げ、受付から少し離れた。
 しばらく待つと、エントランスに焦げ茶のコートにカラシ色のネクタイを締めた中年の男と、グレーのコートに青いネクタイを締めた若い男がやってきた。優は、彼らに向かって、「おーい、こっちこっちー!」と手を振る。
「よお、優じゃねえか! どうよ調子は」
 中年の刑事は、優に対して、まるで久しぶりに会った姪っ子でも相手にするかのような破顔した表情を見せる。だが、その目つきは三日ほど食事にありつけていない野犬の様に鋭い。薄くなった白髪まじりの黒髪はボサボサで、ヘアケアというものはあまり気を使っていないらしい。
「やっほー鴨ちゃん。ちょっと聞きたい事があってきたんだ」
 優が鴨ちゃんと呼んだ事から察するに、どうやら彼が鴨川健二という刑事のようだった。
 どこが鴨だ。野犬、あるいは狼みたいな男じゃないか。
「そりゃあいいんだけどよ……。そっちのべっぴんさんは?」
「ああ、藤田椛さん。週間スポットのルポライター」
 優に紹介された私は、どうもと頭を下げ、名刺を差し出した。鴨川さんはそれを受け取り、まじまじと見てからポケットに突っ込むと、「なんでルポライターが優と一緒にいんだ?」と、疑いの眼差しを向けてくる。まあ、当たり前か。
「まあ、取材の関係上ですかね」
 曖昧な笑みを浮かべて答えると、その後ろから、若い刑事の方が「事件の事はマスコミに明かさないからな」と威圧的な態度で、私を威嚇してきた。背が高く見下されてしまうため、なおさらそう思ってしまう。
 その人は、黒髪を無造作に垂らしているだけのヘアースタイルで、どうにもオシャレは最低限でいいと考えるタイプらしい。その表情はいかにも勤勉な若者という感じが見て取れた。まだ若いのだろう、肩肘を張っている感じが少しばかり微笑ましくもある。
「なんだ。ダメ刑事も来てたの? あんたは呼んでないんだから、とっとと帰りなよ」
 優は、咥えていた棒付きキャンディーを出し、その先端で若い刑事を差した。その態度に彼はカチンと来たのか、「私はダメ刑事じゃなくて、鳴海アキラだと何回言えばわかるんですか! 風祭さん!」と怒鳴った。エントランスの中が騒がしかった為にあまり注目されずに済んだのが、不幸中の幸いか。
 鳴海アキラを名乗った彼は、怒鳴ってしまった自分を戒めるかのように咳払いをし、「教えることなど何もないので、帰ってください」と優に冷たく言い放つ。が、優は一切眼中に無いという様子で、鴨川さんだけを見て口を開いた。
「遠藤春馬って男が殺されてる事件。管轄ここよね? わかってることあったら、聞かせてほしいんだけど」
「マスコミの前でそんな事言えるわけ無いでしょう!」
 鳴海さんは、私を一瞥して言った。まあ、確かにそうだろう。有ること無いこと書かれるかもしれないだろうし。とは言え、私は半ば趣味でやっている仕事なので、書かれたくないことは書かないし、自分の仕事には品を持ちたいと思っている。まあ、こんなこと鳴海さんに言ってもしょうがないんだけど。
「おいおい鳴海よぉ、失礼だろうが。悪いねえ、椛ちゃん。こいつはまだ若くってよぉ。口の利き方ってのを知らないんだ」
 頭を下げた鴨川さんは、「教えてやりたいのは山々なんだけどよ、分かってることと言えば、凶器が刃渡り十センチのナイフで胸を刺された事によるショック死、ってことくらいなんだよな。凶器も見つかってねーし」そう言って、頭をガリガリと爪で削るみたいに掻いた。よほど苛立っているのか、フケがスーツの肩に落ちる。
「え、じゃあ容疑者の絞り込みは? 目撃者とかいないの?」
「ああ。遠藤春馬は、磯子にある工場で働いてて、その近くに自宅もあるんだが……。自宅近くは人通りが少なくてな。その上、あまり街灯も無い。目撃者から割り出すのは難しいだろう」
「それって、殺すのにかなり打って付けってことだね……。じゃあ、盗られたものとかは?」
「おそらく無いだろう。財布の金は万札も残ってたしな」
 優は咥えていた棒に手を添え、何かを考えこむ。「じゃあ、遠藤が働いてた工場と現場を教えてくれる?」と言って、ポケットからメモ帳とボールペンを取り出し、鴨川さんに渡した。
「ああ。構わねえ。そっちもなんかわかったら情報回してくれ」
「鴨川さん! 探偵に頼るつもりですか!?」
 先程から怒鳴ってばかりの鳴海さん。そんな彼に、鴨川さんは鬱陶しそうな目線を向け、「いいんだよ。こいつは俺が信頼する探偵の弟子なんだから。外にゃ事件を漏らしたりしねーさ。椛ちゃんも、頼むぜ」と言って、住所を書いたメモ帳とシャーペンを優に返した。私も、事件を記事にしないという意味で頷いた。元々私の狙いは『ミスター・K』だけだ。とはいえ、何かネタを見つけないとまずいかもなあ……。
「サンキュ、鴨ちゃん」
「なーに。おやすい御用よ。お前らは、誰かに依頼されたのか?」
「うん、恋人の持田希って人からだけど」
「ああ……。早く犯人を見つけろって叱られたな……。まあ、こっちもそうしてやりてえのは山々なんだが……どうもそうはいかなくってな」
「あの、物盗りじゃないっていうなら、怨恨の可能性は?」
 おずおずと、思いついたことを提案してみる。鴨川さんは、苦い顔をした。
「まあ、それも考えたんだけどよ……。遠藤春馬は特に性格が悪いわけじゃなくてな。よっぽどの恨みを買ってるってことはなさそうだし……。その上、大体の人間にはアリバイがある。まあ、ちょい難しいな……」
「ってことは、通り魔的な犯行ですか」
「今のところはそう考えてる奴も多い。俺も、それは視野に入れてる。でもなんか、納得が行かないんだよな。殺すには絶好のところで殺してる辺り、衝動的な犯行じゃなさそうだが……」
 なんにしても、警察の捜査が進展していないという持田さんの話は間違っていないらしい。それに悔しさを抱いている辺り、鴨川さんがどういう刑事かもすぐわかる。
 しかし、突然鴨川さんが、キョロキョロと周囲を見渡し、私に少し顔を近づけ、「……こっからは、優がつれてきたアンタを信用して話すんだが。遠藤には前科がある」と言った。その言葉には驚いた。しかし、何故今その話を……。
「前科って穏やかな話じゃないわね……。スリとか?」
「ははははっ。オメーじゃねえんだからねえよ。なあ、元スリ師のガム様よ。未だにお前を捕まえたかったって言ってるやつは多いぜ」
 と言って、鴨川さんは優の肩を叩いた。ガム? スリ師? 優とは符合しない単語だ。私が知らない、過去の話のようだけど。
「あのね、鴨ちゃん。ガムって呼ぶのやめてよ。私もう足洗ってるんだから。今は『ハマのキュートな名探偵、風祭優』よ」
「そのダセー決めセリフは啓介からの直伝かあ? あいつもよく言ってたっけな。『クールが売りの、ハマの名探偵』だっけか。……そういやあ、アイツはどこ行った?」
「……その話はいいから。遠藤の前科について、教えてよ」
「ん、ああ。そうだったな」
 あれ。今、甘露寺啓介についての話題を逸らした? なんで……。ここで聞ければ、会えるチャンスかもしれなかったのに。
「遠藤はな、一〇年くらい前に交通事故を起こしてる。その時に、轢いちまった相手を死なせちまってるんだ」
「……じゃあ、その遺族からは恨まれてるんじゃない?」
 優の言葉に、私も頷く。人を殺してるのであれば、その復讐は怨恨の動機としてしっかり成り立つ。
「かもな。向こうさんも急いでたのか、信号をちろっと無視しちまってる上、遠藤側はきちんとした運転だったと目撃証言もある。執行猶予もついた」
「それなら……。恨みを晴らす為に、遺族側が行動に出てもおかしくないじゃないですか」
 だが、事はそう単純じゃなかったらしい。鴨川さんは鼻の頭を掻きながら、「アリバイがあるんだよ……」と呟いた。
「死んだ娘さんの遺族は母親一人。名前は風間仁美。だがその日、風間の死亡推定時刻、彼女は京都にいた。ちょうど旅行だったそうだ。友人の証言も取れてる」
 確固たるアリバイだ……。私は思わず、「自殺って線はないんですか」と口走っていた。
「ねーな。傷口の角度、刃の侵入具合から見て、自殺の可能性は相当低い」
 まあ、そうだろう……。私は的外れな質問をしてしまった事を少しだけ恥じた。が、鴨川さんに肩を叩かれ、なんだか励まされたような気持ちになる。
「とりあえず、私らは事件現場と職場を当たってみる。サンキュー鴨ちゃん」
 そう言って、優は先程受け取ったメモ帳をポケットに戻す。
「ああ。俺らが調べたから新しい物は出ないと思うが……。一応頼んだぞ」
 それだけ言って、鴨川さんは元きた道を引き返していった。鳴海さんは、私達を複雑な面持ちで睨んだ後、その背中を追いかけていく。
「……椛は今回の事件、どう思う?」
「えっ」突然意見を求められ、私は少し困惑した。しかし、なんとか間を作らずそれに答える。「……計画性が見え隠れしてるから、なんとなく通り魔じゃないと思うけど……。ううん、殺人事件について考えたことなんてないから、どこから考えたらいいのか……」
「私もほとんど同意見。すごい恨まれてた訳でもなく、だからと言って物盗りや通り魔の線も見当たらない。目撃証言もなく、ただ殺されたって事実だけが残ってる……」
 彼女は、キャンディーを舐めきってしまったらしく、残った棒を近くのゴミ箱に放り、もう一つのキャンディーを取り出した。……いくつ持ち歩いてるんだろう?
「あのさ、好きなの? キャンディー」
「まーね。昔はガム派だったんだけど。これだと、煙草吸ってるみたいに見えるでしょ?」
「……見えたからなんなの」
「別に?」
 少し気になったけど、まあ、いいか。
 しかし、あれだけのハイペースでキャンディーを食べてスタイルを維持できるというのは、正直うらやましい話だ。
「あ、後さっきのガムとか、スリ師とかっていうのは?」
「昔のアダ名。この街でスリしてたのよ。高校行った後、進学も就職もかったるかったから。風船ガム膨らまして、割った音に驚いたヤツから、その隙にするっていうのをね……」
「へえ……。今の話からするに、相当すごかったみたいだけど。どこで習ったの?」
「我流。昔から手先は器用だったから、まあまあ稼いだかな。一年くらいはそれで食べてた。――で、啓介のダンナに捕まったってわけ」
「そこから甘露寺探偵事務所に入ったの? 自分を捕まえた相手じゃない」
「いやあ、『レッドブロックイレギュラース』って知ってる?」
 ああ、一度ルポを書いたことがある。横浜を根城にする関東最大級の規模を誇るカラーギャング。レッドブロックイレギュラース。彼らは『ジン』と呼ばれる男を頂点に、横浜の自警団を自称する悪ガキ達。関係者数人に会ったことはあるが、皆ジンという男を崇拝していた。
「あたし、そのメンバーから財布スッてたのよね。――んで、啓介のダンナはレッドブロックイレギュラースから依頼を受けて、あたしをとっ捕まえた。リーダーのジンはあたしをリンチにする予定だったみたいだけど、なんの気まぐれか、啓介のダンナはあたしを事務所に引き入れて守ってくれたのよ」
「……え、そこで初対面よね? もしかして優に一目惚れしたとか?」
「いやいや。啓介のダンナは女に弱かったけど、単純に気に入らなかったんだと思うよ。あの人の判断基準は自分が気に入るか、気に入らないかだから」
 甘露寺啓介という男が、私にはさっぱりわからない。ミスター・Kとして有名になっている名探偵像とは、非常に程遠い人間像を彼女達から感じる。
「ねえ。これは私個人が気になったから訊く。ルポライターとしてじゃない。藤田椛としての疑問。――甘露寺啓介はいったいどこ? さっきあなた、鴨川さんから甘露寺啓介の話が出たとき、ごまかしてたわよね?」
 彼女はそれを訊いて、黙ってしまった。そして、「すべてが終わったら話してあげる」と言って、私を置いてさっさと出口へ向かって歩いて行く。腑に落ちない事ばかりだけど、しかしこれだけははっきりしていた。
 私は、私の中で暴れる好奇心を押さえつける気なんて、まったくないってことだ。

     

 警察署から車へ戻ると、優は「遠藤さんが殺されたっていう場所に行こう」そう言って、助手席に深々と腰を下ろした。
 私は運転しながら、今回の事件について考えていた。私の好奇心を満腹にするためには、今回の事件を解決して、優から甘露寺啓介の行方を訊くしかない。
 殺された遠藤春馬には前科があった。車で交通事故を起こし、一人の女性を轢き殺していた。だが、女性側に責任が大きく、遠藤は執行猶予で済んだのだという。一番考えられるのは、その遺族が殺したというパターンだが、しかしアリバイがあり、それは不可能なのだという。帰り道に刺されて殺されている以上、推理小説なんかでよくある遠隔殺人トリックは無理だろう。
 考え事をしながら運転するというのは、もうクセになっているので、私はほとんど無意識ながらも遠藤春馬が殺されたという路地にたどり着く事ができた。その入り口に車を停め、路地へと一歩踏み込む。
 人が殺されているからなのか、それとも日当たりが悪いからなのかはわからないが、周囲の建物に囲まれ影になってしまっているそこは、昼間だというのにひんやりとした空気だった。まっすぐな一本道で、地面には生々しい血の後。
「んー……」優は、それに臆すること無く、死体があったのであろう場所にしゃがみこんだ。
「勇気あるわね……」
 思わずそう呟いてしまった。一〇メートルほど距離はあったが、静かな場所だから聞こえてしまったらしい。「仕事だからねー」とのんきな声が返って来た。
「ねえ、ちょっと来て!」
 優に呼ばれ、恐る恐る近寄る。彼女は地面に散らばる血を指さすと、「どう思う?」答えが決まっているとも思えないような質問を繰り出してきた。
 その血はまるでいくつか雨が降ったみたいに点々と地面に落ち、二〇センチほど前方に大きな血の跡を作っていた。どう思う、と言われても困ってしまう……。血の跡ですね、と言うのは少し恥ずかしい。答えられずにいると、優はアメを咥えて、「多分、これは歩いている途中に立ち止まって、胸を刺されたんだと思う。それで、膝から崩折れたんだよ。――血が綺麗な丸になってるってことは、少なくとも抵抗はしなかったんじゃないかな」
「綺麗な丸?」
「うん。え、っと、例えば水を手で掬って、思いっきり投げるじゃない? そうなると、地面にぶつかった水は進行方向に向かって伸びる様な跡になるんだよ。逆に指先から垂らすように落とすのをイメージしてもらうとわかると思うけど、動かずに地面から落ちたら、綺麗な円になるでしょ?」
「――ああ、そうか。なるほどね」
 イメージができた。そうか、そういうところを判断しろと言われていたのか。……しかし、抵抗しなかった? 抵抗しないって、どういうことだ?
「抵抗しないってことは、少なくとも通り魔的犯行じゃなかったんじゃない?」
 通り魔のような犯人だったら、さすがに思い切り抵抗するだろう。逃げようとしてもいいだろうし、戦ってもいいけれど、血がもっと荒々しく飛んでいてもおかしくはないはずだ。優は腕を汲んで、咥えた棒を上下に揺らす。口の中でアメを弄んでいるのだろう。
「うーん……顔見知りの犯行かなぁ」
「動機がありそうな人はみんなアリバイがあるって、鴨川さんが言ってたじゃない」
「だったら、動機が無さそうな人のアリバイはどうなんだろうね?」
「はあ?」
 どういうことよ、と訊こうとしたが。優はさっさとケータイを取り出し、どこかへ電話をかける。
「あーもしもし、鴨ちゃん?」どうやら鴨川さんへかけているようだ。「あのさー、持田希さんのアリバイって調べてる?」持田さん? まさか、優は持田さんを疑っているのか?
 電話を終え、彼女は私の目を見ながら微笑み、「やっぱり持田さんのアリバイないって」とケータイをしまう。
「で、でもそれならなんで、持田さんは優に依頼なんてしたのよ?」
「疑われない為じゃない?」
「だったとしても、アリバイ工作くらいはしておくでしょ。そこまでするんなら」
「まあそうなんだけど……。殺せそうな時間的余裕があるのは、現段階で彼女だけ。――それに、恋人なら二人しか知らない動機があってもおかしくない」
「ま、待ってよ。だったとしても、まず顔見知りの犯行っていう前提が間違ってる可能性だってあるじゃない」
「もちろん確定じゃないよ。ただ疑わしくはなったけど。――まあ、顔見知り以外で警戒されないっていう人間も、いないわけじゃないだろうけど。まだそこまではわかんないよ。とりあえず、遠藤の務めていた工場に行こっか」
 それだけ言うと、彼女はさっさと路地から出て行ってしまう。犯人が落とした遺留品とか、探さなくてもいいのかと声をかけようとしたが、ここは障害物も遮蔽物も何もない、まっさらな道だ。ここで遺留品など、あるわけがない。


 遠藤の働いていた工場は、殺人現場から一〇分ほどの距離だった。何を作っているのかはよくわからないが、そこかしこで人が機械を操作し、ガタンガタンと仕事をしていた。
 この工場に立ち入ると、優はさっそく近くにいた作業服の男性に声をかける。
「すいません、ちょっと遠藤春馬さんのことでお聞きしたいことがあるんですけど」
 彼女は名刺を取り出し、差し出す。受け取った男性は、被っていた帽子のつばを持ち上げ、「甘露寺探偵事務所? 探偵さんなの?」と優を値踏みするように見ていた。優の恰好はほとんど男装だ。男装している女性が珍しいのだろう。
「探偵が殺人事件の捜査なんて、なんかドラマみたいだねえ。おもしろそうだし、いいよ」
 と、人の良さそうな笑顔を見せた。四十ほどになるだろう適度にシワが掘られた色黒の肌に、茶髪。筋肉もついているおかげが、実年齢よりも若そうに見える。
「俺は田井中拓(たいなかたく)。春馬とは同僚だな」
「仕事上以外での付き合いとかはあったんですか?」
 私はとりあえず、優と田井中さんの会話を見ておくことに。こういうのは優の方が慣れているだろう。取材と聞き込みは違うと思うし。
「ああ。ちょこちょこ酒飲みに行ってたよ。多分、この工場で一番話してたのは俺だろうね」
「なるほど。――じゃあ、なにか変わった事とかはありました?」
「んー……。そういや、アイツはギャンブルが好きでな。まあデカイ額ってわけじゃないが、少しずついろんなやつから金を借りてるんだよ。俺もこの間、もう二万貸したばかりでよ。――ま、香典だと思って諦めるがね」
「じゃあ最後に、遠藤さんが殺された時、なにしてました?」
「アリバイってやつか。ま、女房と晩飯食べてたかな。早上がりだったんでね」
「そうですか……。ありがとうございます」
「あれっ、もういいの? まあ、なんかあったらまた訊いてよ。春馬は少し金にだらしなかったが、基本的には真面目でいいやつだったからさ。殺した犯人、捕まえてやってよ」
 と言って、彼は工場の奥へと消えていった。
「うーん。お金かあ……」
「二万で殺人の動機になるの?」
「人による、としか言えないけど……。考えにくいよね。――それに、あの人『もう二万』って言ってたよ。っていうことは、最低二万の借金ってことになる」
「あっ」そうか。そういえばそんなことを言っていた。「でもさ、それって借りてたお金を返して、もう一度二万円貸したって事にはならないかな?」
「それなら『また二万』っていう言い回しになると思うよ。――なんにしても、あの人は身内のアリバイだけだし、ちょい怪しめだね」
「なんか、みんな疑わしく見えてきたわ……」
「それはしょうがないって。今は絞り込みの作業なんだから」
「これからどうするの?」
「とりあえず、もう一人の容疑者。風間さんのところ行こうか」
 頷いて、私たちは車へと戻った。
 風間さんの自宅は、先ほどの電話で鴨川さんから住所を訊いていたらしく、優の案内で
およそ一時間ほどで着いた。横浜郊外の山に囲まれた閑静な住宅街にあり、静かな雰囲気と景色のよさがなかなかの住み心地を演出しているように感じた。
 その中でも一等大きな木造の二階建ての家が、風間家だ。
 門柱のインターホンを押すと、玄関から初老の女性が出てきた。その人は、品の良さそうな女性で、少し細めだが、首元で切られた白髪の頭は、色あせてはいるがその髪質はまだまだ若いものであることが伺える。紺色のタートルネックセーターにジーパン。体は引き締まっている。
「どちらさまでしょう?」
 その人は、にこりと笑って、私達を出迎えてくれた。その笑顔に、これからぶつける質問を考えると、心に一つ、暗いものが落ちる。
「どうも。私は風祭優、こっちは藤田椛です。――遠藤春馬さんの件について、お話があって参りました」
 予想通り、風間さんの顔色がこわばった。事故だったとはいえ、娘を殺した犯人なのだ。こうなるのも無理は無い。
「わかりました。どうぞ、お入りください」
 風間さんに促され、私達は家の中に足を踏み入れた。ピカピカなフローリングの廊下を抜け、応接間と思わしき和室に通されると、彼女はお茶を持ってくると言ってキッチンへ向かった。
 その間暇だったので、私は部屋の中を見渡してみた。『精進』とだけ書かれた掛け軸に、小さな花瓶が備えられ、部屋の隅にはデスクトップパソコン。そして、薄型のテレビにはブルーレイレコーダーが接続されている。失礼ながら、年配の方にしてはハイテクに強いらしい。――ハイテクって。パソコンとブルーレイくらいで……。
 自分の言語感覚が少し古いことに気づいて愕然としていたら、風間さんは湯気立つ緑茶を持って戻ってきた。
 テーブルの前で向かいあい、優は緑茶で口を濡らすと、さっそく話を切り出す。
「遠藤春馬さんが殺されたということは、もう知っていると思います」
「……ええ。警察の方から聞いたわ。――というより、あなた達は何者かしら?」
 優はそこで、名刺を取り出した。
「探偵……。なるほどね」
「それで、申し上げにくいのですが、やはり一番の動機を持っているのは、風間さんなんです」
「ええ、でしょうね。――けれど、私はもうその事は忘れたいの。遠藤さんだって、もう罪は償っているし、私にはもう、どうしようもないの」
 そう言った彼女の肩は、震えていた。私達の質問は、古傷を抉っているだけなのではないか? 優がどう考えているかはわからないけれど、私にはそう思えてならなかった。
「それに、私はその時京都旅行だった。――殺人なんて無理だわ。ちょうどホテルで友人とお酒を楽しんでいた辺りだと思う」
「ですね。――気にしないでくださいね、一応形式的な物なので」
 私は、思わずフォローを入れてしまっていた。だがそれは仕事を妨害する物ではないと判断されたのか、優は「そうです。『どんな情報でも拾っておけ』って、所長からも言われているので」と私の言葉に便乗する。
「ええ、わかっているわ。――探偵っていう仕事も大変ね」
 彼女は、最初に玄関先で見せてくれた微笑みを、また見せてくれた。こうして人の心の傷に踏み込まなくてはいけないストレスというのは、大変だ。少しだけ痛みを感じてしまう。それが同情という物であることはわかっているけれど、だからと言ってそれを同情だからと切り捨てられるほど、私の心はまだ大人じゃなかった。


 結局、その後すぐに私達は退散することになった。
 これ以上情報はないだろうという、優の判断だ。家から出て、車に乗り込むと、「今日はもうこれくらいだね。帰ろっか」優はそう言って、頭の後ろで腕を組み、帽子を深く被った。
「いいの? 他に行く所とか」
「いいよ。情報はここで終わり。事態が動かない時は一旦休む。啓介のダンナから教えてもらった、仕事のコツ」
「ふうん……。ねえ、優。少し飲みに行かない?」
「え? いや、別にいいけど。椛さん車じゃん」
「一旦家に置いてから、よ。ウチの近くにいい居酒屋があるのよ。魚料理が絶品」
 今日は飲みたかった。殺人事件に関わると、酷く心が疲れる。そんなことを知ってしまっては、酒を飲んで忘れたかった。
 私の自宅は石川町の駅近くにあるワンルームマンションだ。品川にある編集部からかなり遠いけれど、執筆作業は家の方が捗るし、取材であちこちに移動するから基本的に編集部に顔を出す事はあまりない。
 マンションの地下駐車場に車を停め、私達二人は徒歩で五分ほどの居酒屋『大漁旗』へと向かった。私がここへ越してきた時からの常連であり、旨い酒と料理を出す。ここが気に入って引っ越す事ができないのだ。本当はもうちょっとランクが高くて編集部に近い家に住めるけれど。
 暖簾を潜り、「いらっしゃい!」という威勢のいい声に包まれる。カウンターの中から、坊主頭に鉢巻と板前姿の大将、米原長次(よねはらちょうじ)さんが私達に歯を見せて笑った。まるで少年のようだ。もう四〇を越えるという年齢らしいのに、まるでボウリング玉みたいにピカピカしている。
「おっす椛! 久々じゃねえの!」
 大きな声だ。客がいっぱいの店内でもよく通る。しかしだからなのか、あまりうるさいとは思わない。優はきょろきょろと辺りを見回している。あまり居酒屋には慣れていないのか?
 大漁旗の店内は、その名前の通り、漁師らしいアイテムが並んでいる。投げ網が壁にかかっていたり、魚拓が飾られていたり。
「どうも、米原さん。ちょっと仕事が忙しくってね。――奥の席いい?」
「ああ、構わねーよ。好きにしてくんな!」
 ありがとう、と微笑んでから、私は優を奥の席へ案内した。四人がけの席に二人で座る。すぐにやってきた米原さんが、おしぼりを差し出した。
「で、椛よぉ、こっちのべっぴんさんはナニモンだい?」
 ニヤニヤしながら、米原さんは優の顔を見ていた。確かに優は美人だ。男ウケする。なのにも関わらず男装しているのは、一体どういうわけなんだろう? その光景を見て、私はふと疑問になった。
「私の仕事相手。それより、注文いい?」
「ああ、どうぞ」
「とりあえず生ビール。大ジョッキで。優は?」
「あたしもそれで」
「ん。あと、カツオの叩きと刺身盛り合わせ。それから枝豆もよろしく」
「はいよぉ!」
 返事もそこそこに、カウンターへと引っ込んでいく米原さん。お通し(ほうれん草のおひたし)が運ばれてきた辺りで、私は口を開いた。
「優って、その格好、何か意味あるの?」
「んー……特にないけど……あ、でもあれかな。やっぱ、啓介のダンナがこんな感じだったから」
「ミスター・Kが?」
「そう。年中シワだらけのシャツにスーツ着てた。どこ行くときも」
「なにそれ? いい大人がする事とは思えないけど……」
「そういう人だったんだって」苦笑し、彼女は割り箸を割ってほうれん草のおひたしを口に運んだ。「あ、おいしい」
「なんか、段々人間像が見えてきたわ。甘露寺啓介」
「多分想像してるのとあんまり変わらないかも。啓介のダンナは裏表ない人だから。――っていうか、椛はなんでルポライターしてんの?」
「え、なんでって?」
「だってサラリーマン以外の職業って、基本的に夢だったとか何か理由がないとあんまりならなくない?」
 わかるけど、そのイメージ。しかしそれはサラリーマンに失礼じゃないだろうか。
 そんな時、ビールが運ばれてきた。
「っと、まずは乾杯としましょう。今日はお疲れ様」私がビールジョッキを持つと、優も同じように持って、杯をぶつけた。
 そして、景気付けとばかりに、二人して半分ほジョッキを空けた。優もなんだかんだ、疲れが溜まっているのかもしれない。
「――で、なんだっけ。ああ、ルポライターになった理由か。……あんまり笑わないで聞いて欲しいんだけど」
「ん? まあ、心がけるよ」
「『ペンは剣より強し』って言葉あるじゃない。あの言葉が好きなのよ。――で、ペンを一番活かせる仕事って何かなって思ったら、ルポライターにたどり着いたのよ。悪徳を白日の元に晒し出せるからね」
 ポカンとして、数秒ほど彼女は私を見ていた。そして、火がついたみたいに笑い出した。
「ぶっ、あっはははははははははッ!! なにそれぇ!」
「ちょっ、笑わないって言ったじゃない!」
「心がけるって言っただけだよぉ。あはっ、椛ってもっとしっかりしてる印象だった!」
「はあ……。だからあんまり人に言いたくないのよ……」
「や、でも意外すぎて笑っただけで、そういうのいいと思うよ。正義の味方って感じで。椛とは仲良くなれそう」
「からかわないでよ、もう……」
「からかってなんてないってー。椛はいけずだなあ」
 そんな風に始まった二人飲みは、それなりに楽しかった。
 私も、優とはなんとなく、仲良くなれそうだと思ったのは、内緒の話だ。こんな青臭い気持ち、大人になったらそう口には出せない。

     

 盛大に飲んで、私と優は半ば酔いつぶれてしまった。
 もちろんそんな優が帰宅できるはずもなく、私は優を家に泊め、じっくりと寝てしまった。よく考えれば翌日も仕事だというのに、私達はなんであんなに飲んでしまったんだろう?
 私は、カーテンが開けっ放しになった窓から入ってくる日差しに起こされ、目を空けた。白い天井が飛び込んできた。
「ふ……ぁあーあ……」
 大きなあくびを一つ。上半身を起こす。
 そこは間違いなく私の部屋だ。ワンルームのマンションで、八畳半の部屋にはパソコンと本棚、そしてベットしかない。衣類は全てクローゼット。テレビはパソコンとのツインモニター。ここには執筆と寝に帰ってくるだけなので、そんなに荷物がいらないのだ。
 ナイトウェアを脱ぎ捨て、シャワーを浴び、歯を磨いて、私はスーツに着替えた。黒地に白の縦線が入ったパンツスーツ。身支度を整えると、部屋の真ん中に敷かれた布団で寝ていた優が起き上がってきた。
「おはよう、椛……。ふあ……」
 あくびをし、目をこすりながら、彼女は背筋を伸ばした。彼女は急な外泊だったので、着替えがない。だから、下着姿で寝ていた。ピンクのブラジャーとパンツ。服を脱ぐと、なんだか普通の少女だ。思えば、この子もまだ二十歳なのよね……。私より六つも下とは思えない。
「おはよう。今日はどうする?」
「まず、私の着替えとか取り行きたいな……。昨日と同じ下着と服っていうのはね……」
「オッケー。じゃ、自宅に?」
「いや、甘露寺探偵事務所に。私、あそこに住んでるし」
「へえ。住み込みなんだ……」
「まーね」そう言いながら、彼女は顔を洗って、昨日脱ぎ散らかした自分の服を着た。さすがに二日目ともなると、ワイシャツのシワが目立つ。
 私たちは、簡単な朝食を摂って、家を出た。車で一五分ほどで、甘露寺探偵事務所へとたどり着いた。
 優がシャワーを浴びている間、私はソファに座って、優にもらった缶コーヒーを飲みながら(マックスコーヒーとかいう甘ったるいコーヒー。優はこれしか飲めないそうだ)、事務所の端にあるテレビでニュースを眺めていた。特に変わったことはないけれど、一応ジャーナリストとして見ておかねばならない。世の中物騒だ。特に目を引いたのは、殺人事件。殺された人は、やたら髪が長く、目に覇気がなく、肌も青白い不健康そうな男性。どうやらストーカーを行なっていたらしく、その関係で殺されたのではないかと疑われていらしい。
「あれ……。こいつどっかで見たことあるなあ……」
 いつの間にか、私の後ろに優が立っていた。今日も昨日と変らず、白のワイシャツに赤のネクタイ。黒の帽子とベスト、そしてジーンズ。彼女はいくつも同じ服を持っているらしい。
「なに、あの人知り合い? 殺されたんだってよ。胸を刺されて。まあでもストーカーやってたみたいだから。言っちゃ悪いけど、あんま同情はできないかな」
「ああ、そうだ思い出した。前に依頼で関わったことあったんだわ。ストーカー被害の女性が私に依頼してきて、それで私はあいつを撃退したんだ」
「え? それで、あの人はどうなったの?」
「警察につきだして、裁判して、依頼人の半径一キロ圏内に近寄るなって言われてたはずだけど……。一応鴨ちゃんに確認してみよ」優はケータイを耳に当て、通話を始める。「もしもし? 優だけど、あのストーカーやってた奴が殺されたって事件……。え、あいつまたやってたの!? それで――はぁ!?」
 なんだか、雲行きが怪しい。
 優は会話の半分以上驚いていた。ため息で怒りを吐き出すようにしながら電話を切る。
「鴨川さん、なんだって?」
 私が机に置いておいたマックスコーヒーをひったくるようにして飲むと、彼女は「あいつ、別の女性をストーカーしてたみたい。――聞いて呆れるよ。あたしがボコった時なんて言ったと思う? 『邪魔するな。彼女が運命の人なんだ』って言ってたのにこれだよ。またストーカーして、その相手を自殺未遂まで追い込んだんだって」
「まさか……その家族が殺したの?」
「いや……。まだ犯人は捕まってないけど……目撃者もないし、その家族、被害者にはアリバイがあったんだって。心が弱ってた被害者の為に、北海道旅行」
「……また旅行? 神様が珍しく働いたのかしらね」
「――おかしくない?」
「え、なにが」
「風間さんも、この家族も、なんだってそんなに確固たるアリバイがあるわけ?」
「さあ……。神様は見てるんじゃないの? 天罰っていうか」
「神様なんているわけないでしょーが……。アリバイなんてね、割りとふらついてるもんなのよ。四六時中誰かと一緒にいるわけじゃないし……。それに、間違っても偽装とかできなさそうな距離まで出かけてる」
「……じゃあなに、もしかして、優は風間さんやこの被害者家族が犯人かもしれないって言いたいの?」
「犯人じゃないにしても、大分近い所に居そうだけどね……。――よし、行こう椛」
「行くって、どこに?」
「インターコンチネンタルホテル」

 みなとみらいには、ヨットの帆みたいな形をしたビルがあることは、割りと知られていると思う。インターコンチネンタルホテルというのは、そのビルの事だ。私の車でそこに行き、ホテルのロビーを勝手知ったる我が家という具合に抜けると、エレベーターに乗り二五階へ。その角部屋である扉をノックする。
「はいはーい」
 中から、まるで角砂糖にガムシロップをかけたような、くどいくらい甘い声が聞こえてきた。出てきた女性は、首元まで届くかどうかという長さの茶髪に、フレームの無いメガネ。英字が入った白いシャツに、黒いショートパンツ。大きく丸い潤んだ瞳と、笑顔。さらに血色のいい唇。この唇からあの甘い声が飛び出したのかと思うと、納得もできる。
「あーお久しぶりです優さーん。お元気でしたぁ?」
 妙に間延びした喋り方をするなあ……。私は、今まであまり接したことのない人種に戸惑ってしまって、彼女をまじまじと観察してしまった。その視線に気づいたのか、あるいは気になったのか、彼女は首を傾げた(首を傾げた!)。
「そちらさんは誰ですかぁ?」
「藤田椛。一新社の『週刊スポット』って雑誌でルポ書いてるんだって」
 優から紹介され、私は思わず頭を下げた。
「あぁー。この間政治家の汚職問題についてすっぱ抜いた記事書いてましたよねえ? 読みましたよぉ。素人さんにしてはよく調べられてて関心しましたぁ」
「……素人にしては?」話聞いてたのかこの人は。私はプロのルポライターで、素人じゃないのよ?
 むっとした表情が出てしまったのか、優が「まあまあ」と言いながら私の肩を叩く。
「この人は君島若葉(きみしまわかば)って言って、情報屋。お金さえ払えば、なんだって調べてくれんの」
「私の手にかかれば、どんな情報だって調べて見せますぅ」
「……本当かなぁ」
 正直、全然信用できない。そんなすごい人には見えないし……。
「まあ、立ち話もなんなんで、どうぞどうぞー」
 彼女に導かれ、部屋の中へ。
 リビングルームにあるソファに座り、ローテーブルを挟んで、私と優は君島さんと向かいあった。そして、座って早速、優は本題を切り出した。
「ここ最近で、前科者――人死、あるいは人が死にそうになった事件をやらかした奴が殺された事件をリストアップしてほしいの」
「はぁ。それくらいなら、五分もあればできますよー」
 嘘でしょ? と尋ねる前に、彼女はさっさと机の上に乗っていたノートパソコンを開き、何かをキーボードに打ち込んでいく。優はそれを見ながら、アメを舐めていた。その表情は真剣その物。私はどうしていいかわからなかったので、手持ち無沙汰になり、君島さんを見ていたり、窓の外を見たりしていた。
 そんな風に時間を潰していたら、君島さんが「出ました」と呟いて、私達にパソコンの画面を向けてきた。
 リストアップされたそれには、無数の名前が浮かび上がってきた。どうやら一年くらい前まで遡っているらしい。――結構死んでるんだなあ……。そう考えると、なんだかゾッとしてしまう。前科者とは言え、死ぬというのは少し可哀想な気もする。だが、ここに名前が出ているのは、その怖い事を誰かに強いた連中ばかりなのだ。そう考えると、やはり自業自得という気もする……。
「じゃあ、今度はそれを未解決でリストアップ」
「ほい!」君島さんがボタンを二つほど押すと、パソコン画面はすぐにその表情を変えた。
「……その遺族に明確なアリバイがある――旅行とか、そういう事件をリストアップ出来ない?」
「ちょーっと待ってくださいねー。ワード検索かけますから」
 そう言って、君島さんは再び画面を自分の方へと向けて、カタカタとキーボードを打ち込む。だがすぐに私達の方へと向け、「これですね」
「この遺族達になにか繋がりは?」
「いいえ、ないですねぇ」
「顔見知りとかは?」
「いませんでしたぁ」
「……そう」
 優は、帽子を脱いで、それで顔を隠した。後から知ったのだけれど、これは彼女が何かを考えるときの癖なのだそうだ。私はそれを知らず、「大丈夫?」と肩に手を置いて、顔を覗き込もうとしてしまう。
「ああ、うん。――大丈夫。けど、困ったな……。顔見知りだったとか、学校の同級生だったとか、ないの?」
「ええ、ないみたいですねえ……。まったくの赤の他人ですぅ」
「やっぱ偶然なのかな……。それともまったく関係ないのか……。もし繋がりがあったらな……」
「……ねえ、優。顔を合わせないで知り合う方法、あるんじゃないの?」
 私には、ふとした思いつきがあった。それは、どんどん頭の中で形作られていく。優は、帽子から顔を出すと、「どうやって」と少し不機嫌そうに唇をとがらせる。
「パソコンよ。――っていうか、インターネット。風間さんの家にもあったじゃない。もしかしたら、それで他の犯罪遺族と知り合ったんじゃない? 自分の心の傷をわかってもらうために、匿名の相手を頼る場合がある。そういうルポを書いた事があるわ。同じように家族を失った人と話したいって気持ちが芽生えても、不思議じゃないし」
「インターネット……そうか! 若葉、調べてほしいことがあるんだけど!」
「はい?」
 優は、元気を取り戻したかのように、机を叩いて身を乗り出した。そして、君島さんに向かって言葉をまくし立てている。私は、それを放って、再び窓の外を見た。――やっぱり、いろいろと、疲れちゃうな……。こういうのは……。






  ■風間家



 インターコンチネンタルホテルを出て、私と優は、急いで風間家へと向かった。車を走らせ、イライラする足を押さえつけながら、息苦しい車内で、私は開放を待ち望んだ。そして、風間家の前に車を停め、私と優はインターホンを押し、風間さんを呼び出した。
「はーい」出てきた風間さんは、私達を見て、微笑む。「あら、どうしたの?」
「――風間さん。あなたに大事なお話があります」
 優の雰囲気に、只事ではないことを感じ取ったらしい彼女は、以前の様に私達を家の中に招き入れてくれた。昨日と同じ居間で、私たちは向かい合う。
「……風間さん。遠藤春馬殺しの犯人は、あなたですよね?」
 そんな優の言葉に、彼女の眉がぴくりと動く。しかし、その表情の大本は変わっていない。笑顔のままだ。
「私が? ――まあ、動機はあるもの。けど、証拠がないし、そもそも私にはアリバイもある。京都にいたのよ? その時は」
「ええ、それは間違いないでしょうね。――正確には、あなたはキッカケになったにすぎない」
「……要領を得ないわね。どういうこと?」
「あなたは、『殺人を依頼した』そうですよね?」
 その瞬間、彼女の笑顔がこわばった。ここからは、私が説明しなくちゃならない。事件の全貌は把握していても、優にはよくわかってない部分だ。
「風間さんはパソコンを持っていらっしゃいますね? それがあれば、当然インターネットにも接続できる。
 ――あなたはそこで、交換殺人のサイトを知った。警察の捜査は基本的に、被害者の人間関係から調べていく。
 だから、『交友関係にない人間は逮捕されにくい』んです。
 繋がりが薄ければ薄いほど、検挙の確率は下がっていきます。
 ――そうでなくても、あなたは遠藤に対して『娘を殺された』という絶大な動機がある。
 生半可なアリバイでは疑われて当たり前。
 だから、交換殺人を頼んだ。そして、実行される日は旅行にでも行けばいい。」
「……全部でたらめだわ。ええ、面白い話だけどね。他人ごとなら笑ったでしょう。けど、私がそれをしたと言われると、心外だわ」
「生憎ですが……こちらには確信があります。その交換殺人サイトにあった掲示板の書き込み――プリントアウトさせていただきました」
 私はハンドバックから、君島さんにもらった紙を机の上に置いた。真っ黒なサイトに、白の文字で、『遠藤春馬を殺してくれ』という書き込みがある。
「このログを調べれば、あなたが書き込んだということはすぐにわかります。――それに、先程も言ったように、これは『交換殺人』のサイトです。つまり、誰かを殺してもらうには、あなたも誰かを殺さなきゃならない」
 彼女は、観念したらしい。うつむいて、しばらく黙っていた。私たちは、彼女が自ら語り出すのを待った。それ以上何かを追求するのは酷だと思ったのだ。少なくとも私はそうだし、優もそうだったはずだ。
「――ええ。全部、あなた達の言う通りよ。私が遠藤の殺害を依頼したし、どこかの誰かも殺したわ」
「なんで……どうして?」
 わかっていた。わかってたけれど、訊かずにはいられなかった。
「どうして? わかるでしょう!! 娘を殺されたのよ!? 私はアイツが許せなかったわ! のうのうと生きてるなんて、アイツが笑っているなんて、それ全部私の娘が死んでもなお繰り返しているのよ!!」
 彼女は笑った。
 そして、泣いていた。
 複雑だった。人の悲しみは、いつだって複雑だ。私はただ、その痛々しいくらいに大きな笑い声を訊いていることしかできなかった。
「行こう、椛」
「えっ……風間さんを放っておくの?」
 首を振る優。「ほら、もう来たから」何が来たのかわからなかったが、すぐに私の耳へと、パトカーのサイレンが飛び込んできた。


  ■甘露寺探偵事務所


 事件は無事――解決した。
 風間さんが逮捕されるのを見届け、私達は逃げるみたいに返って来た。応接ソファに座って、優はアメを、私はマックスコーヒーを飲んでいた。この甘い味はあまり好きじゃないのだけれど、こういう風に神経が擦り切れている時には、とても優しい味に思えた。
「――今頃、警察は大忙しだろうね」
 そんな優の呟きに、私は「ええ……」と気の抜けた返事しかできない。
「椛の気持ちはわかるよ。殺人なんてろくなモンじゃない。そこにあるのは汚いものだけだからね。子供為の復讐――悪い事とは言わないけど、良い事か、正しい事かって言いきれはしないからね。でも、私は仕事だから。こういうのを止めないと。事件っていうのは、それがどんなものであっても、人の心に傷を残すから」
「……たくましいのね」
「そうでもないって。全部啓介のダンナの受け売りだし」
 さすが、探偵をやっているだけはある。事件に対する考え方がしっかりしている。私より年下とは思えない。
 と、そんな時。事務所の電話が鳴り出した。優を見て、目だけで『出ないの?』と訊いてみたが、「ごめん、出てくれる?」
「え、いいの?」
「いいの。疲れてるし」
 まあ、いいか。
 私は立ち上がり、デスクの上に置かれている白い電話の受話器を取って、耳に当てた。
「もしもし? 甘露寺探偵事務所ですが」
『あーもしもし? あ? 誰だあんた』
 突然無礼な声だ。ダルそうな割に、酒と煙草で焼けたハスキーな声。
「はあ? ――電話してきたのはあなたでしょう」
『いや、まあそうなんだけどよ――。俺は甘露寺啓介。その事務所の所長。優はいるか』
「み――ミスター・K!?」
 私の叫び声に、優が勢い良く立ち上がり、私から受話器をひったくった。私は、会話を聞き逃さないよう、受話器の反対側に耳を当て、優と受話器をくっつけているような形になった。
『まだその恥ずかしい名前で呼ぶ奴がいんのかよ……』
「もっ、もしもし!? 啓介のダンナっすか!?」
『あ? おお、優か。久しぶり』
「久しぶりじゃないっすよ!! 一年以上もどこ行ってたんすか!」
 優の声が震えていることに驚いて、思わず優を見てしまう。その頬には涙が流れている。その表情だけで、優が甘露寺啓介という男にどういう感情を抱いているかが、わかってしまった。
『おいおい、泣くんじゃねーよ。俺ぁ女を泣かせる趣味なんてねーんだ。女を泣かせるのはサプライズの時だけだと決めてるんでね』
「ああ……その軽口……間違いなく啓介のダンナっすね……」
『どうよ、元気でやってんの? 桃子はどうしてる?』
「ああ、……桃子さんなら、今は大学に行ってるっすよ。ダンナに『一応行っとけば?』って言われたのが響いたらしいっす。たまに探偵の仕事も手伝ってくれますし」
 桃子? 誰だろう。
 しかし今のタイミングで聞けるほど、私は空気が読めない女じゃない。
『そーかそーか。あんま変わりないみたいでなによりだ。――んで、さっき電話に出たのは誰だ?』
「あ、私は藤田椛といいます。週刊スポットって雑誌でルポ書いてます。ミスター・Kさんの取材がしたいんですけど……」
『わりぃな。取材なんてお断りだ。あんまり顔と名前が売れると、悪い店に顔出せなくなっちまう』
「まあ、そう言うと思ってました。優から取材嫌いだと言われてましたし」
『悪いねえ。デートだったらいつでもいいぜ』
 この男、消息不明じゃないのか。
 デートする気はないけど。
「そんなのどうでもいいっすから! 啓介のダンナ、今どこっすか?」
『あー、悪いね。それは言えないんだわ。お前ら巻き込むわけにもいかねえし。――今回電話したのは、お前が俺の追ってる事件解決したって聞いたからなんだよな。『交換殺人サイト』の事件』
「あ、あれ啓介のダンナも追ってたんすか?」
『ああ。――九条アヤメ、って覚えてるか? 奈々を誘拐したあの女だ』
 九条アヤメ? 奈々? さっきから知らない名前ばかり出てくる。あとで一気に聞けばいいか。
「覚えてるっすよ。それがどうしたんすか?」
『あいつは犯罪プランナーなんだよ。完全犯罪のプランを立てて、それを売り渡すっていう。――んで、俺は今、九条アヤメを追ってる。ちょっと横浜で暴れすぎなんだよ、あいつ。今回の交換殺人サイトもアイツの仕業。俺はそれを潰すために走り回ってたの。今回逮捕された、風間っつったか。その人も、九条アヤメから送られてきたメールでサイトの存在を知ったんだと。マジで殺してもらったら、風間さんも『私はこいつを殺すことで、私と同じ苦しみを持った人を救える』と思って、殺すしかなかったんだろうぜ』
「……なるほど、納得がいったっす」
『そうか。――じゃあな、俺はそろそろ仕事しねーと。しっかりやれよ、優。事務所はお前に任せた』
「うっす! 啓介のダンナも、早く帰ってきてくださいね。あと、桃子さんにも電話しとくように」
『ああ』
 それだけ言うと、甘露寺啓介は、あっけなく電話を切った。きっと優は待ち焦がれていただろうに、それだけに酷くあっけなく見えた。しかし、本人は気にしていないらしく、受話器を置くと、「いやあ、元気そうでよかった」そう言って、ニコニコしていた。
「あなた……。さっきまでボロボロ泣いてたくせに、切り替え早いわねえ」
「啓介のダンナが言ってたのよ。『どーせ待たれるなら笑顔がいい』って」
「でも、犯罪プランナーだなんて、やばそうじゃない。大丈夫なの? ミスター・Kは」
「大丈夫。あれでも名探偵だから。一年前に突然消えた時は、さすがにびっくりしたけど……」
「信頼してるのね」
「もちろん。大事な探偵の師匠だし!」
 それだけじゃないクセに。
 まあ、それは言わないでおいた。人の色恋沙汰に口を挟み込むほど、野暮なこともないだろう。私は昔から、その手の話題が苦手。
 その後、優は持田さんを呼び、報酬を頂いた。一五万円。私たちはそのお金で、またお酒を飲んだ。一仕事終えた後は――特に精神を擦り切ってしまうような仕事の後は――酒が格別に美味いというものだ。



 そして、私は優と別れ、本職に戻った。
 探偵のまね事も終わり。その時のことを書いたルポは、なかなかの評判だった。やはり疲れる仕事というのは、それなりの評価がもらえる物だ。ミスター・Kの事を書けと上司からはせっつかれたけれど、あんなことを聞いたあとで書ける物か。現場を知らない人間はこれだから。
 ――まあ、なんにしても、これで私と優は二度と会わないだろう。そんな予感がする。
 もっとも、そんな予感が当てにならない事は、すぐ証明されてしまうのだけれど……。

       

表紙

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