Neetel Inside 文芸新都
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天麩羅学生のうた(改稿版)
二.かべごし

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二.かべごし



 果たして吉野の唯一の隣人は、遠藤さんであるということが明らかになった。今までの彼の好奇心は覆いの掛かったアンノウンに対してのそれであったが、覆いが除かれた瞬間、今度は姿を表したそれへの興味が湧くことしきりで汲めども汲めども尚一向に尽きる気配を見せない。

 ここでウエハースである。この壁の魔力たるや、狭間にアフロディーテでも住んでいて、吉野の欲望の高まりとともに「出番ね」とばかり小指を立てて啜っていた紅茶のカップを置き、何やら淫らなあれやこれ、吉野の脳髄にじかに送り込むが如きさまであった。
 かくして吉野は日々アンノウンの生活音にもやもやとさせられていたのだが、さてそれが遠藤さんの所作による音だと分かった瞬間から、もやもやした思いは顔かたちが判然と浮かんでくるにもかかわらず音でしか様子がわからない、そのもどかしさへと忽ち変貌を遂げた。以来、彼の頭の片隅では常にアフロディーテが手をこまねいて待っている。

 炬燵にいる彼の耳に、遠藤さんと思しき女性と、彼女が招き入れ饗応しているであろう相手の声が聞こえることはこれまでにも無かった訳ではない。しかしながら彼が聞いていた、いや、聴いていた限りでは――とはいえ、今冬は雪の降り始めたあたりから殆ど家を空けることの無くなったプライム級の自宅愛好家である吉野は九割九分彼女らの会話を聴いていたとみえるのだが――これまでの遠藤さんの饗応相手は決まって女性であり、それが複数人集まった時でさえ、それは「女子会」とでも号すべきまだ許せるイベントの範疇にあった。漏れ聞こえる声もきゃっきゃとしていて如何にも華やかであったため、吉野もそこそこ耳の保養にあずかることが出来ていたのだ。言わばギブアンドテイクといった状態であった。
 それが今日は勝手が違っていた。遠藤さんの笑い声と共に聞こえてくるのは、阿呆の男の笑い声と、似たトーンで発せられる頭の悪そうな相槌であった。

     

 男の声が聞こえた刹那、吉野は雷に打たれた心持がした。アフロディーテが全身をもぞもぞと触って来る。彼は思わず手やら脇腹やらをさすり始め、まるで声の主がこの部屋に居るかのように左右を見回した。
 遠藤さんの交友関係にどうこう言える筋合いは隣人風情の吉野にはとても無い。されど隣人として自分の居住スペースにおける生存権の確保は声高に主張しても誰に怒られることも無い筈である。ましてやプライム自宅愛好家の彼である。毎月家賃の納期を守り、最上階に住む管理人の婆さんに「期日を守ってくれるのはお前さんくらいだよ」と毎度一字一句違わぬ文言を聞かされ、家賃と引き換えに判を押された領収証と二三日期限の切れたヨーグルトとを貰って帰ってくるというルーティンワークをそつ無くこなしているため、多少彼の方に有利な主張であっても融通は利くに違いない。ただ、相手が相手である。
 どう策を講じれば良いのやら、思いあまって炬燵蒲団を持ち上げて、吉野はその下へと潜り込んでしまった。

 あれは昨年の暮れ、吉野が痺れを切らして袂を分かったサークルの副会長が、役務の引き継ぎ処理に残しがあったから教えてくれと彼を呼び出した日のことである。暗黒企業の二年目会員ともなると大した説明も無しに重要なポストに割り振られてしまう。役員決めの日に欠席しても、その後勝手に送られてくる勝手な決定事項を書いた勝手なるメーリングリストをいくら無視した所で、決まったことは決まったこと、お前のものは俺のもの。吉野の私生活も何割かサークルの所有物になりかけた。そうはさせまいと先手を打って一抜けしたところで、その穴を埋めるのも残りの会員であって、畢竟ひとりでも抜けたらキャパシティオーバーとなるような脆い組織体系なのであった。だから何度説明した所で、結局は作業直前にもう一度指導を仰がねばならなかった。「引き継ぎ処理の残し」とは、つまりは補習である。
 この補習のために吉野は久々に理学部を訪れた。この年の夏学期の授業で、理学部の大講堂を使った大人数の講義があり、吉野は毎週眠い頭をどうにかもたげて真面目腐った五十そこそこの教授の話に耳を傾けていたのだった。
「おう、久しぶり」
副会長はフランクに吉野を迎えた。対して吉野の方は、サークルを抜ける前は確かにフランクな付き合いをしていた――キャンディーズに始まって新御三家に聖子ちゃん百恵ちゃんを経由して、いまだブレンディのコマーシャルでその愛らしい表情を見せる原田知世で終わる、「その世代」を生きていない彼らなりの毒にも薬にもならぬ懐かしスター談義によく花を咲かせていた程であった――のだが、吉野が抜けた後の活動に忙殺されていたこともあってか、その後は疎遠になった訳で、いきなり会ってフランクな口振りをされると、自分の所為で忙しくさせているのだという意識も相まってか、同じようにフランクには応えられないのであった。
 遣る方無く、おかしな表情のまま二度三度頭を下げて吉野は彼のもとへ歩み寄った。

     

 吉野はサークル主催の発表会後に行なわれる、打ち上げの幹事職だった。無論何の面白みも無い役務であった。全国に無駄に散らばっている総じて鼻持ちならないアウト・オブ・ボーイズンガールズ達にせっせと定型文で塗り固めた出欠確認の葉書を送りつけ、電子メールを出し、店を押さえ、当日は自分の発表と同様に気を揉み、挙句の果てには酔っぱらいどもから薄っぺらな感謝の言葉を下賜されなければならぬのだ。二日酔いで眠っているうちに昨晩の幹事の名前なんか忘れてしまう癖に。
「それで、葉書の宛名リストなんだけどさあ」
「それだったら、USBに入れてデータ移した筈なんだが」
「いや、でも差し込み印刷のやり方がね」
「それは辞める前にマニュアルを書いて部室に置いていった筈なんだが」
「だが」……の後に一体何が続くのだろう。無責任に放った言葉を噛み締めながら副会長の目をちらと見遣るが、答えは出ない。本当に自分の発した言葉なのだろうか? 吉野は話すそばから言葉がぷかぷか浮いていくのが見えた。

「うん、そうか。そういえば、お前さ」
 理学部に漂う、薬品と建材のにおいの溶け合ったような独特の臭気は、吉野にとって嗅ぎ慣れず魅力的である反面、文学部生の、異邦人としての彼を強く浮き彫りにしていた。もっと居たいような、それでいて今すぐにでも帰りたいような、アンビバレントな感情に彼の身体は磔刑に処されたかの如く固まっていた。
 その時だった。ぼそりと放たれた副会長の一言が吉野を強く揺さぶった。
「そういえば、吉野、遠藤さん知ってたよな?」



 吉野はまごついて、「a」と「u」の中間、丁度フランス語の時間に発せば眼鏡をした丸っこい体の女性講師が「Tr?s bien!」と親指を立ててくれるような、日本語にすればいささか中途半端な声を出していた。
 それでも副会長は返事されたことを知ってか知らずか、さらに問わず語りを続けた。
「ほら、俺さ、教養のときの法哲学入門で同じグループだったから、色々話してて。共通項としてお前が知り合いだったって事もあって割と話が合ってさあ」
吉野は、自分が他人の間で話題になったと聞いて少し戸惑っていた。最近では吉野の噂と言えば、畏怖すべきゼミの担当教員が、卒論執筆に向けた面談において吉野の犯した粗相をあげつらってゼミ生全体に流布するといった類の不名誉なものだったため、ある程度の警戒心を持たざるを得なかったのだ。
「知ってんだろ? 美人じゃない? 俺さ、グループで撮った写真あるんだけど」
そう言って副会長は携帯電話を開いて画像を探し始めた。見せられた画面には同じグループのメンバーと思しき五人が笑顔で写っていた。右下で、控えめに肩の辺りでピースサインをつくっている遠藤さん。彼女の黒髪の艶は、この画素数ではまさに毛程も伝わって来ない。
「粗いな……」
「ん? 何が?」
「いや……」
話によれば彼の携帯は全てガラパゴス諸島原産の道具で造られた「ガラパゴスケータイ」なる種類らしく、持った感触はプラスチックに似ていたが、おそらくは島原産の椰子の樹から獲れる樹脂か何かの加工品ではなかろうか。全く以て素晴らしい技術力である。これには文系の私でさえ感涙に咽ぶ程であるが、残念ながらここは理学部二号館と五号館とを繋ぐロビー、授業時間帯でも研究の合間に外出するのであろう白衣の学生や、購買の袋からパンを出して脇目も振らずただ貪婪に口に突っ込んでいく作業を繰り返す眼鏡の女性なんかで常に人目があったので、泣くに泣けず、ただ「大事に使うと良い」と言ってやる事しかできなかった。
「そうは言っても、ガラケーじゃもう遅れてんだろ。そのうち替えようと思ってさ」
「何言ってんだ。先進国の文化だけが素晴らしいってもんじゃ無いだろ。この液晶とか、どうやって造ってんだ。理学部だし、そういうの解らんのか?」
吉野の発言を聞いて、副会長はよく解らないといった顔をした。
「まあ、大事に使うと良い」
「ああ……まあ、そうね」
「じゃあ」
切りが良い。そのまま吉野は辞するつもりでいた。今日はコンビニでビールでも買って、動画サイトで井上陽水の『なぜか上海』でも聴いて、エキゾチックな気分に浸ろう。ガラパゴスはアジア圏では無いが、まあ、上海で良かろう。要は心持の問題である。
「いや、ちょっと待て。聴いてけよ」
吉野は焦れた。今の間で切り良く帰れた筈なのに、これでは尻切れ蜻蛉では無いか。すっと帰らせてくれれば良いものを。

 しかしながら尻切れ蜻蛉なのは吉野の方であった。遠藤さんの写真を見ていた筈が、いつの間にか発展途上の民芸品産業への賛辞を贈って帰る所だったのである。
「遠藤さん、最近変わったと思わないか?」
という副会長の言葉を聞いて、吉野は俄に話を続ける気になった。



 「遠藤さん、最近サークルに顔を出していないらしい。同じ授業取ってる奴が遠藤さんと一緒のサークルに入ってるんだけど、そいつによればここ一、二週間は休んでるらしい。」
「サークルはいつもどの時間帯に?」
「火曜と金曜の午後六時半から、だいたい九時くらいまでらしい」
「それより前には休みがちだった時期とか……」
「それが、ほとんど皆勤賞だったらしいよ。同学年の中でもこまめに連絡取り合うし、先輩からも後輩からも信頼されてるって話でさ」
「ふうん……そんなもんかね」
「『ふうん』て……でもほら、彼女しっかりしてそうだろ?」
「ああ、確かに」
「それがちょっと前から、急に連絡無しで休むようになって、それからはもう全然音沙汰無しなんだって」
「それは……なんでかね」
「だから、どうしてだろうって話を今しているんじゃないか」
吉野は火曜と金曜の晩、自宅の壁伝いにどんな音が聞こえてきたか、記憶の糸を一所懸命に手繰っていた。これまで彼女のたてる音に何らかの興味を示してきた吉野であったが、その興味は音がしたという現象そのものへと向けられており、どんな音がしたのか、何をしているときの音かといったことは考えるのだが、集計や分析といった事にまでは考えが及ばなかった。むろん、そこに考えが及べば即刻変態紳士の烙印を捺されかねない。
 ここで断言しておこう。吉野は変態ではあったが紳士であった事などただの一度も無い。……もとい、吉野は紳士ではあったが変態であった事はただの一度も無い。

 「あ、」
と吉野は言いかけて、とっさに言葉を止めた。
「どうした?」
「……いや、何でも」
「何だよ、気持悪いから言ってくれよ」
「ああ…………そういえば、最近、大学から帰る時に遠藤さんを良く見かける」
「え、そうなの。向こうも帰り道、北側なのか?」
「うん……解らんが」
「解らんが」を免罪符にして、先日の顛末を全て述べる事はしなかった。

       

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