Neetel Inside 文芸新都
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第二節 映像

映像に価値があるだろうか?
オッパイを見る事
チッパイをねぶる事
それに伴う映像に意味や価値があるのだろうか?

人間の五感というのは、複雑と思われている。
その実、自分の内と外、外界である環境を、
快楽と不快に判断する単純な物である。

生命を維持する事を快楽とし、その逆を不快とする
その応用に過ぎないのである。

それを前提に言えば、
心の求めた美しい女性を手にして
耐え難き苦痛を得ることになるのが我々なのである。

手にした彼女が絶世の美貌を備えたダッチワイフであれば
彼女は、いつしか疎ましいタンスの肥やしとなるだろう

我々は、その彼女の美貌に価値を見いだせないからである。
彼女は快楽の為に生まれてきた正解であるはずが、
不快を生み出す存在へと我々の思考は一変するのだ。
想像に容易い事だろうと思う。

この当然の人間の機微を、我々は忘れてしまうのだ。

言葉や映像の価値を貶めている現況というのは
我々の忘れやすさと、飽きる事、覚える事
一見矛盾する反する2つの作用が原因に他ならない。

この真実を前に、忍者が施す古典的な術が
アイコラであったり、MAD制作であったりする。

こうして、乏しい価値の時代を超え、
射精こそが全てであった我々に
「過程を楽しむ」という価値が誕生し、
寸止めオナニーの時代に入った事を確信するのである

金銭やオッパイは決して直接的価値を永続させる物ではなく
忍者の過程作りによって、我々は生かされて射精を楽しむ。

今の幸福とは何か?
過程によって、我々は生かされている!
過程に最大級の射精で答え・・・

       

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