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ネット忍者”カモメスの言葉”
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第一節 言葉

言葉に価値があるだろうか?
インターネットには約600兆の言葉が溢れ、その99%は利用されずに、
ロボットプログラムが収集しているだけで電力を消費し地球を汚している。
つまり、客観的に言えばリサイクル出来ないゴミが溢れている。

このエッセイがゴミにならないように祈るばかりである。

私はインターネット忍者、カモメス。

客観的に言い換えるならば、
無職の中年であり、恋人は勿論、セックスもご無沙汰。
財布に紙幣が入った事もないニートであろう。

だが、このエッセイを書く理由は、私がインターネット忍者だからであり
忍者としての日常を記す事が、ゴミの軽減に繋がると思ったからだ。

広く知られる所の忍者とは特殊なスキルや道具を用いて、
危機困難をやり過ごし、人知れず世界を支えている裏方である。
私はインターネットにおいて、諜報し先導し幾多の時代を築いた。
そんな自負からか、
何時しか自分をインターネット忍者マスターと自称している。

勿論ネット忍者は暗殺などはせず、
もっぱら検索エンジンを使い、言葉を操り、エロ動画を探し出すが、
基本的には読者諸氏となんら変わらないかもしれない。

違いがあるとすれば、私の心にやどる”忍ぶ心”であろうか。
なぜ忍者は忍ぶのだろうか?
それは誰かの為に、自らを賭して働くからに他ならないと思う。

人は自分の為に働けば、エゴが生じ、
そのエゴは何時しか本人をも飲み込み世界は崩壊する。
エゴによる安定という物がこの世には存在しない為に、
競争が必然となり、エゴはエゴで相殺される宿命にある。

自らを越え、世界を愛した者達は忍者として
世界を支えている。

この事実をエッセイで明かすべきか、悩んだ事もあった。

ただ、忍者もまた人
エゴに追われ、逃げ惑い、エゴにすがる。
そんな弱き男たちの挽歌を言葉に代え、多くの忍びに贈り
世界の闇を解き放ち・・・

     

第二節 映像

映像に価値があるだろうか?
オッパイを見る事
チッパイをねぶる事
それに伴う映像に意味や価値があるのだろうか?

人間の五感というのは、複雑と思われている。
その実、自分の内と外、外界である環境を、
快楽と不快に判断する単純な物である。

生命を維持する事を快楽とし、その逆を不快とする
その応用に過ぎないのである。

それを前提に言えば、
心の求めた美しい女性を手にして
耐え難き苦痛を得ることになるのが我々なのである。

手にした彼女が絶世の美貌を備えたダッチワイフであれば
彼女は、いつしか疎ましいタンスの肥やしとなるだろう

我々は、その彼女の美貌に価値を見いだせないからである。
彼女は快楽の為に生まれてきた正解であるはずが、
不快を生み出す存在へと我々の思考は一変するのだ。
想像に容易い事だろうと思う。

この当然の人間の機微を、我々は忘れてしまうのだ。

言葉や映像の価値を貶めている現況というのは
我々の忘れやすさと、飽きる事、覚える事
一見矛盾する反する2つの作用が原因に他ならない。

この真実を前に、忍者が施す古典的な術が
アイコラであったり、MAD制作であったりする。

こうして、乏しい価値の時代を超え、
射精こそが全てであった我々に
「過程を楽しむ」という価値が誕生し、
寸止めオナニーの時代に入った事を確信するのである

金銭やオッパイは決して直接的価値を永続させる物ではなく
忍者の過程作りによって、我々は生かされて射精を楽しむ。

今の幸福とは何か?
過程によって、我々は生かされている!
過程に最大級の射精で答え・・・

     

第三章 侍か忍者か

忍者ってなんだよ?という心の問いがあった。
忍者が持つ言葉の意味は、忍よりも、
抜ける事が出来ない村人であるか、
権力の汚れを担う奴隷なんじゃないだろうか?

侍というのは、浪人の概念があるから
必ずしも主を持たない。
娯楽物語に登場する侍などは、フリーが多いが、
フリーな忍者というのは、正直あまり印象が無い

抜ける事の出来ない闇を背負っているのが
忍者にとってセットとなっている気がする。
ただ、唯一なる者としてのフリー忍者よりも
背負う闇がある事が忍者である、
忍者としての意味があるのじゃないだろうか?

つまり、忍者は”自由”ではない。

もし、村、城主などに仕えず
フリーで自由な忍者が居たとしても、
自覚として、それは忍者だと本人が思うのか?
否、これは単に犯罪者なんではないだろうか?

どんな大義を掲げても、大義というのは
他人に対するイイワケなので、
単独個人には、大義その物が概念として存在しない。

本当の独立とは外界を一切必要としない

だから、自分を説明する大義やアイデンティティすら
存在しなくなり、
客観的な説明である反社会的な存在でラベルは
”犯罪者”と合致してしまう

振舞い行動としての忍者という言葉は使えるが
今となってみて、
正直な所は忍者という言葉に違和感がある。

人が思想を持ち歩み出すならば、
それはサムライと言うべきでは無いだろうか?
理想の主を求め、自らも磨く、刃と共に。
一騎当千といえど、
主を得なければ天下泰平はならず・・・

       

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