Neetel Inside 文芸新都
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色付く乙女の深呼吸
1「色付く乙女の憂鬱」

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 鮮血が舞った。
 それは澄み渡る空の青と、高槻茜の赤で見事なコントラストを描いたのだ。
 ゆるやかに時が分割されるようにして半弧を描きながら後ろへ倒れゆく様は幾何学のそれではないほどに美しい。
 剛右腕投手が渾身の一球を投じたフォームに等しく、体軸いっぱいに重心を寄せて、肩掛けスクールバッグが捻じれながら脈を打つ。唯一校則に反した長すぎる髪が私の顔面を覆い、奥歯が鳴るほどに硬く結んだ唇に張り付く。その一瞬、高槻茜の下がる両肩から覗いた、いつもの二人組が見せた歪む表情。こればかりは私でもわからないけれど、あの醜くて不愉快な笑みからは想像ができないほどの良い表情だった事は確かだ。
 恐らく、恐らくではあるけれど、高槻茜も私と同じようにスロウモーションを体感しているのなら、奴は今、恐怖しているのか。それとも、驚愕しているのか。いずれにせよ笑える。たった数秒の、それだけの間に私は多くの悪罵(あくば)を精選した。高槻茜の着地までに要する時間はそれほどまでに長く、長かった。

 ◇

 善悪を判別するのは個人の裁量だろうか。
 例えば、私が人を殺せば悪になる。当たり前の事だ。しかしながらそれは社会が認める悪、法律が定める悪でしかない。仮にである。私に人を殺さなければいけない絶対的な理由があったとしたら。私の肩にもナイフが突き立てられていたとしたらどうだ。さすがに「それは神様が決める事」なんて言える年齢でもないし、気休めにもならない妄信を主張したところで何かが変わるわけでもない。どこの誰が善悪を決めているのかなんてそんなもん知ったこっちゃない。社会が決めた事。それでいいと思う。だけど、少なくとも、いち私立高校のクラスメイトが決めるものではない。
 生きている理由。そうだな、生きている理由か。高槻茜が私に問うたその言葉には一理あった。あの時その辺に転がっている、ありふれた青春を拾い食いして、あいつらみたいにバカ笑いしながら大手を振って歩く事ができていれば。なんて。そんな事ができていればこんな事にならなかったのかもしれない。どうして私はこうなったか。
 物心がついた頃には、両親は鍵だけを預けて家を空けていた。父は東京大学医学部附属病院の外科医であり、母は同附属病院の内科研究医をしている。幼い頃、一度だけ誕生日を祝ってもらった記憶があるが、それ以外は何もない。誰もいない広々としたリビングには、いつも焼けるような西日が差していて、南側の壁一面を支配する巨大な液晶パネルに酷く哀れな顔をした小学生が立ち尽くしていたのを今でも覚えている。兄が東京大学医学部に合格した時、父はそれを褒めるでもなく、母は祝うでもなく、ただ当然の結果が示されたかのように、リビングにはいつも沈黙が落ちていた。
 その因果な必然が作り上げた線路の上を私も歩くのだな、と、ただ漠然と想像したのもまた当然の帰結だったのだろうか。誰が悪いわけでもなく、用意された今日が、予定されている明日が、私を作り上げて、いつしか仮面を被っていないと呼吸さえも困難な状態に陥っていた。恐ろしく不気味で、ある種の自己暗示的な呪いに似ている己への固執が黒々と取り憑いている小学生なんて、もはや人間じゃない。
 それから高校へと進学し、学業では優秀な成績を収め、品行にも気を配り二年の夏には生徒会長にも選ばれた。全ては順風満帆で、何も間違っていないと思っていた。
 その時から私は、既に悪だったのかもしれない。

 ◇

 心臓が高らかに鳴っていた。
 高槻茜が仰向けに地面へ倒れ伏すと同時に、抉(えぐ)り込んだ拳が目に入った。手の甲が赤く染まっている。高槻茜の血液か、私から出血したものか、もしくは、その両方か。
 顔面を打ち抜いた際、軟骨か何かの柔らかい組織が砕ける感触がして、その後すぐ私の拳に鋭い痛みが走った。私は初めて、人を殴ると自らも痛みが伴う事実を知った。
 それから随分と経った後で富田美代子、摂津彩の悲鳴が響き渡った。本当なら一瞬の出来事だったはずなのに、何もかもが手に取るように理解できた。
 下校しようとしていた周りの生徒達は何が起こったのか判然としない様子で唖然とこちらに視線を向けてくる。大脳回路へ電気信号の到達が遅れ、こちらに視線を移しつつまだ笑顔で会話を続ける男女。ランニング中に振り返る陸上部女子のポニーテールの躍動さえもスロウに見えて、何だか不思議な気分だった。
「え、喧嘩?」「どうしたの?」「あれ、生徒会長じゃないの?」「倒れたの誰?」
 人が集まり始めると同時に、私は踵を返して校門を出た。けたたましい蝉の鳴き声を背に、私は「あ」と思い立ち止まる。
 あれだけ選りすぐった、とっておきの悪罵を高槻茜に贈るのを忘れてしまった。
 多少躊躇はしたが、なんだか騒がしくなってきたので私は急いでその場を離れる事にした。とにかく、この場所が大変不愉快に思えたのだ。
 青々と茂る通学路の並木から刺すような日差しが漏れ、清々しい草の薫りがする。真っ白い夏が頭上から降り注いでくるようだった。
 そうして、ふと見上げた夏空の広さといったら。
 私は今日、大嫌いな高槻茜をぶん殴ってやった。

       

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