Neetel Inside 文芸新都
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 モノエタノールアミンの臭いは何故にこう、痛々しい刺激臭がするのだろう。
 蛇口から流れ出る水を止め、顔を上げると軽い眩暈がして視界が歪んだ。針を通した耳にまだ鈍い痛みが残っている。
 鏡の向こうにいる女は金色の髪から水を滴らせ、酷く冷めた目でこちらを睨みつけていた。私の何がそんなに憎らしいのか、ギッと視点を据えたまま動かない。大切に伸ばしていた長い髪を切ったから? それとも気に入っていた黒い髪を奪ったから? まさかそんな事。
「黙れよ」と鏡の向こうにいる無愛想な女は言った。
 物音ひとつしない洗面所。不躾で可愛げの欠片もないけれど、今の私に話しかけてくれるのはあんたぐらいだと思った。

 ◇

 それからの話だ。
 とてもとても良い子で人望もある優等生の高槻茜さんを渾身の力で殴りつけた狂人は当然の如く停学処分が下されて、御丁寧な事に学校からペラの処分届が送られたのである。処分期間の始まりは終業式の前日である昨日の日付が記されており、それから先は空欄になっていた。
 無期限の夏休みということか。実に慶賀(けいが)の至りである、最早あんなクソみたいな学校へ更々行くつもりもなかったので丁度良い。
 高槻茜が運ばれた先の病院ではタイミング良くうちの父が外来診療を受け付けていたらしく、学校から連絡が来るより先に今回の騒動を知る事となった。どういう経緯があったのかは知らないが、患者の左頬を腫らした諸悪根源が実娘であると知った時の父を一度見てやりたいものだ。一体どんな顔をしていたのだろうな。しかしあの父の事であろうから、表情一つ変えなかったのかもしれない。私は随分と父の顔を見ていないし、そもそも家に帰ってこないからわからない。どうでもいい。
 母は処分届に捺印だけを残してまた研究室に戻った。叱られるわけでもなく、学校や高槻茜のところへ謝りに行くわけでもなく、いつものように私を放置した。無干渉には変わりないが、やはりあのような騒動を起こした私は悪にしか思われていないだろう。世間体だけで構築されたあの家族にしてみれば私は腐った膿でしかない。父も母も兄も、さぞかし決められた路より脱線した娘の腐敗する臭気に鼻を曲げた事だろう。
 一度築かれたルールより逸脱した者は速やかに淘汰され暗く湿った四隅に追いやられる。死ねばいいとさえ思われているかもしれない。割と本気で。
 髪を金色に染め上げたその夜、帰ってきた母は私を見て一瞬「ギョッ」としたが、取り繕うようにして顔色を戻し静かにテーブルに着いた。私はキッチンの蛇口を捻り水を飲もうとしたが、コップを手に取るだけで痺れる痛みが拳に走った。自分で巻いた包帯には薄らと血液が滲んでいる。茜ちゃんはもっと痛いのよ。そんな言葉は期待などしていない。母は母であるが、母親ではないと思っている。母は確かに私を産んだ実母であろうが、子供を持つ母親ではなかった。思い起こせば母に叱られた記憶なんてほとんど存在していない。小学生の頃、友達の家へ遊びに行って驚いた事がある。友達の母は私にお菓子を出し、私に様々な事を聞いて、たくさん笑っていた。そんな当たり前の母親像が子供ながらにして衝撃的だったのだ。母親とはこんなにも喋るものなのか、こんなにも何かを聞いてくるものなのかとショックを受けた記憶がある。
 その時から母に対してコンプレックスを抱いていたのは事実である。他の人とは違う母がどうしても悔やまれた。担任や友人は「お医者さんのお母さん、すごいね。綺麗なお母さん、羨ましいね」と口を揃えて言ったが、私はそれを聞く度に強烈な劣等意識を抱いた。だってうちのお母さん、私に興味ないんだよ。仕事の方が大事なんだよ。どんなにそう言いたかったか。
「ねえ」
 いきなり背中から母の細い声が刺さって驚いた。私は返事をせぬままコップを置いた。
「夕飯は食べたの」
「うん」
「そう」
 会話が終了する。
 私はしばらく母に背を向けたまま次の言葉を待っていたのかもしれない。哀れな事ではあるが。
 しかしすぐにそんなものはあり得るはずがないと思った。この髪の色も、母にしてみれば屑の身勝手になるのだろうか。いつものように無干渉を決め込むつもりだろうか。
 私が部屋に帰ろうとすると、母はわざとらしく咳払いをして鞄から何かを取り出した。
「いくばあちゃんの検査結果、あまり良くないみたいなの」
 いくばあちゃん。生野に住んでいるからいくばあちゃん。全く覚えていないけれど、まだ物心つかぬ私がそう呼んだそうだ。いくばあちゃんは母方の母親にあたる。先月、大学病院に数日ほど検査入院の為東京に来ていたらしい。ちょうど私はテスト中で会う事ができなかったけれど、親戚の明おじさんが送り迎えをしてくれたのだそうだ。いくばあちゃんは心臓の動脈弁が人よりほんの少し小さく、血液の送り出す力が弱いからすぐに息切れをおこしてしまう病気だと聞かされていた。
「そう、なんだ」私は背を向けたまま恐る恐る返事をした。
「足腰にもだいぶ負担がきているみたい。あの年じゃ手術もできないから。いくじいちゃんも心配してるみたいなのよ」
 いくじいちゃん。生野に住んでいるからいくじいちゃん。同じ理由である。なんとも単純明快な呼称だが、我ながら少しばかり愛嬌も感じる。
「一度、会いに行ってあげてはどうかしらと思って。ほら、いくじいちゃんも掃除や買い物を頑張って手伝ってくれているみたいだけど、お互い年だから。お料理とか、お買いもの、手伝ってあげてはどうかなって」
 じゃあ、あんたが行けばいいんじゃん。
 そんな事は言わない。大人だから。それに母の言葉の裏に隠された真意にもとっくに気付いていたのだ。
 学校で考えられない不祥事を起こして停学になった出来損ないの娘なんか家に置いてはおけない。こういうことだろう。母らしい遠回りな表現だが、そりゃ追い出したいに決まっているだろうよ。
「母さんも仕事が今は手が離せなくて」
 そう言うと思った。
「それとね、お願いだから、その頭で昼間に出歩かないでくれる」
 ほら。やっぱり。

       

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