私の暗澹たる胸間は生野の闇に埋没するが如く浮上する事を許さず、それでも腹は鳴った。
「なにかたべたい」そう膝を抱えたまま呟いてみると、なんだかますます侘しくなって少し笑えた。
 先ほどから遠くの方で聞こえていたエンジン音だったが、どうやら駅の前で停まったらしい。
 私は顔を上げるのも億劫で、蹲(うずく)ったまま聞耳を立てていた。
「千里か?」
 ふいに私の名が呼ばれた。
 腰がへの字に曲がってはいるが、随分と体格の良い白髪の老人が小さくなっている私を見下ろしていた。
「ちぃと間、見んあいだにえらい派手なったのぉ」
 その姿はヘッドライトに照らされ子細(しさい)に確認はできなかったが、聴いた事のある声だった。
「着いたら連絡する言うもんで待っとったら、ちぃっとも連絡寄こさん。どないしたんか思うて周り探しよったんじゃ」
 ああ、いくじいちゃんだ。
 いくじいの播磨弁(はりまべん)も本当に久しぶりだ。この背中がムズ痒くなるような播磨弁のイントネーションを聴くだけで生野に来た実感が一気に湧いてくる。小さい頃は、この言葉遣いが面白くていくじい、いくばあが喋る度にお腹を抱えて笑い転げたもんだ。母も生野へ帰ると同じ喋り方になって、それが不思議で、可笑しくて、いつもの冷たげな母が少しだけ優しくなったような気がして大好きだった事を思い出す。
「携帯の電池が切れちゃった」
 私は立ち上がり、尻を払いつつ言った。
「まぁいいっちゃ。早う乗れ。婆さん待っとんど」
 そうして指し示したのは駅前に駐車された古臭い軽トラであった。荒々しいエンジン音を響かせ錆びついた車体をブルブル震わせている。
 いくじいが私のボストンバッグを背に担いだ。ありったけの荷物を詰め込んだバッグはかなりの重量であり、いくじいの腰は更にへの字になった。
「あ、持つから」
「ええ。早う乗れ」
 不躾にそう言ってバッグを軽トラの荷台に放り投げられた。
「ああ! 大事なものも入ってるから! 財布とか!」
「誰も盗りゃせんわい」
 そう言っていくじいは気忙しく運転席に座った。私は挨拶もろくに出来ぬまま、やたらと気早ないくじいに圧され、急いでバッグを抱え直し助手席に乗り込んだ。
 軽トラックの内部は雑然としており、煙草臭かった。マニュアルシフトには得体のしれない動物の皮で装飾されており、その中央には押し込められるようにして無線らしき機械が鎮座している。
 私がシートベルトをする前に、軽トラは派手なエンジン音を吹かして急発進した。いくじいと出会ってたった数秒ほどしか経っていない気がするけれど、なんかもうすごく疲れていた。
 軽トラは闇に染まる広い道を猛スピードで走行した。ヘッドライトが車線を照らす以外は何も見えず、宇宙空間を疾走するアトラクションを思い出した。窓を少し開けると草の微かな匂いがする。少しずつ目が慣れてきて、遠くの方へ視線をやると黒々と盛り上がる連峰が暗幕の様に空から垂れているようで心底不気味だった。
 いくじいはロクに前も見ず、胸ポケットから取り出した煙草をくわえ、火も点けずに私をじろじろ見た。
「しかし千里よ、お前それなんちゅう色や」
 金色に染まった髪の事を言っているようだ。
「どえらい色よの」
「昨日染めた」
「今の子はそんなんがええんけの」
「……わかんないけど」
「ま、よう似合うちょるわい」
 いくじいはガハハと豪快に笑って見せた。前歯が二本とも金歯で一瞬ギョッとした。
 しかし予想外である。自分でも絶望的に似合っていないと思っていたこの髪色なのに。
 これは私が今まで過ごしてきた日々との決別を意味する色であると思って染めたのだ。似合う似合わないはそもそも関係ない。それと両親へせめてもの反抗になればと、自分でも馬鹿馬鹿しくなる実に子供っぽい理由も含まれていたのも事実である。
 高槻茜をぶん殴ったおかげで無期停学と家庭追放の憂き目にある私は校則や世間体を順守する義務もないわけで、髪は染め放題、夜中に歩き放題、買い食いし放題、眉も書き放題で誰からも文句を言われる筋合いはこれっぽっちも無い。
 それにピアスも空いている。校則で全面的に禁止されているピアスである。最早この状況下で品行の是非を問うつもりはないが、およそ謹慎を与えられた者の身なりではない事は確かだった。反省の欠片も見せてはならない。
「その耳の飾りは穴開いとるんけ」
 いくじいが興味深げにピアスを見ていた。
「これも昨日」
「今の子よのぅ」
「そうかな。みんなしてるよ」
「ほう。みんなしとるんか。そうかそうか」
 なんとなくだが。いくじいの事をいくじいと呼ぶ事に躊躇していた。
 幼い私が付けた呼称を今更ながら発するのがたまらなく恥ずかしく思われた。意識すればするほど会話が堅くなり、返事ひとつにも緊張が走る。
 しかし私の憂慮とは別に、いくじいはこちらばかりを見て饒舌であった。
 その時である。
「前!」
 突然、何かが道を塞いで私は思わず声をあげた。
 一瞬見えたのは、ギロリとこちらを睨みつけた眼光である。すぐ身を伏せた後、急ブレーキと共にゴツンという衝撃が来た以外は何もわからない。
「チッ! なにゃこない時に!」
 いくじいが声を荒げながらドアを勢いよく開け外に出て行ったようだった。
 私は突然の出来事に狼狽した。未知との遭遇かと思われた。この暗闇っぷりでは最早何が登場してもおかしくはない。突如空から降った地球外の生命体が軽トラに撥(は)ねられる事もある。それが田舎の常識と言われればそうなのだろう。いやわからないけど。
 私はそんな事を考えながらドアロックを開けたり閉めたりした。自分でも全く意味不明であったが、そうこうしている内に多少落ち着いてきたのでいくじいの後を追ってドアを開けてみた。
 ヘッドライトに照らされたそれはぐったりとして、黒い液体が道路に広がっていた。
 よく見る前に私はそれが死体であることに気付き即座に視線を脇に逸らした。急激に心拍数が上がっていくのがわかる。
 死んでいるのは鹿だ。動物園くらいしか見たことがないが、あれは鹿だった。
「こりゃメスやで。千里よ、メスや」
 いくじいが何故か鹿の性別を私に訴えかけてくるが、それどころではない。死んでいる動物を目の前にして私は脚がすくんだ。
 するといくじいは曲がった腰のまま鹿を脇道へ引っ張っていき、手慣れた動作で鹿の首にナイフを入れたのを見て私は再度視線を逸らした。
「なに。なんで」
 私はパニックになりながらいくじいに問うた。
「何って。血抜いとかんと腐っちまうで」
「血抜いてどうするの」
「せっかくやし鹿食わせちゃる」
 それが田舎の常識と言われればそうなのだろう。本当に訳がわからない。