Neetel Inside 文芸新都
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 しばらくの間、いくじいは道路脇で何やら作業をしているらしかった。
 私は俄(にわ)かに浮き立つ鳥肌を撫でながら車内に戻った。暗闇の中を矢の様に走るヘッドライトに反応してか、大小の気味悪い虫が集まり始め目の前を右往左往している。冷房の効きすぎた車内で込み上げる虫唾(むしず)と格闘しながらひたすらにいくじいの帰還を待った。
 しばらくして、いくじいが手をシャツで拭いながら戻ってきた。
「そこの小川で手洗ってきたからどうもない」と予(あらかじ)め私に断りを入れてから軽トラは再び急発進した。そこから二人は一言も会話を交わす事無く夜道を進行した。生野に到着早々、衝撃の展開を目の当たりにした私は恐らく戻ってきたいくじいに冷え切った一瞥(いちべつ)を送ったのかもしれない。それでいくじいは多少なりとも落ち込んでいるのだろうかと思い急に申し訳なくなった。
 畑らしきところに閑(かん)として佇む一軒家をいくつか見送ったのち、我々を乗せた軽トラックは本道から脇道に逸れて灯りのある民家へ到着した。広々とした玄関前には軽トラックと軽自動車が駐車されており、我々の進入に気付いた番犬の猛る咆哮が夜空に吸い込まれていった。私が降りようとすると、いくじいは「待っとけ」と一言残し車を降りて行ってしまった。窓を開けいくじいの後を目で追うと、軽トラの荷台から先ほど不慮の事故に遭遇した鹿らしき物体が黒いビニールシートに包まれて登場したので私は即座に窓を閉めた。
 恐る恐るいくじいの動向を観察していると、一軒家から腰の酷く曲がったおじいさんが手押し車を持って出てくるのが見えた。暗くて良く見えないが、灯りに照らされたその姿だけ見れば漫画に出てきそうな仙人のような風貌である。頭頂部はツルツルであるが、その周囲に残った毛髪が天を目指すかの如く角の様に上を向き、あんな頭の形したウルトラマンいたなぁと沁々(しみじみ)思った。
 いくじいが鹿らしき物体を手押し車に乗せ、いくつかウルトラ爺さんと会話を交わしてから再び車内に戻ってきた。
 私が不思議そうな顔をしていると、いくじいは顔面を皺だらけにして「すぐには食えんのよ」と言った。
「あの人は?」
「解体屋じゃ」いくじいはそう言いながら窓を開け、煙草に火を点じ渋そうに煙を吐いた。
 生野に来て思うのだ。
 解体屋なんて言葉、東京じゃまず聞く事はない。

 ◇

 駅より三十分は走っただろうか。長旅の疲労もあり、ボロの軽トラが奏でる荒々しい振動がだんだん心地良くなって私は多少うとうとした。そうしてこんな夢を見た。暗闇の中に浮かぶ二つの眼光が赤や黄色や緑に点灯し、愉快な音色とともに鹿のエレクトリカルパレードが開催された。派手に電飾された軽トラの荷台にはマスコットキャラである鹿がこちらに手を振っている。後列に続く軽トラにも何か乗っていると目をやると鹿だった。さらに後ろの軽トラにも鹿で、その後ろも鹿だろうと思っていたら鹿だった。鹿ばかりのシカニーランドで夢と魔法と罪悪感に充ちたパレードは一人の登場人物によってクライマックスを迎えた。一際派手に装飾された軽トラに乗って登場したのは先ほどのウルトラ爺さんである。ウルトラ爺さんは荷台にて威風堂々腕を組み一点を見つめながら髭を靡(なび)かせている。そして次の瞬間、ウルトラ爺さんは目にも止まらぬ業で目の前の鹿をバラバラにしてしまった。その業は次から次へと繰り広げられ、ついには私の目の前でにこやかに手を振る鹿までも華麗に下(おろ)してしまわれた。丁寧に捌(さば)かれた肉は熟成されたボンレスのハムに似ていて腹が高らかに鳴った。「そういえば、お腹減った」そこで暗転。私の脚元にじわりと黒い塊が染み出し絶叫、そこで目が覚める。
「千里よ、着いたど」
 いくじいが私の頭をポンと叩いて車から降りた。大きな瓦屋根の一軒家に到着していた。大脳皮質の四隅に追いやられていた記憶が沁み渡るように広がり、ああ家の横には駐車場があったな、家の前は木造の立派なお屋敷だったなと思い返しながら、ここが本日の目的地である事をようやく理解する。比較的開けた地域に民家が隣接し、その一角にいくじいいくばあの家はあった。
 オレンジ色の暖かな玄関灯をくぐり中に入ると、美味しそうな良い匂いがする。
「おい。帰ったど」
 いくじいがそう呼びかけると、奥から慌ただしい足音がして登場したいくばあが私に抱きついてきた。
「千里ちゃん! よう来てくれた! よう来てくれたね! さあさあ、お上がり。じいさん鞄持ちなーれや千里ちゃんの細い腕が折れちまう」
「何しよるんや、そない粉だっけの手で千里の頭触りよるさかい、せっかくのブロンドが汚れよるやろ」後ろから入ってきたいくじいが粉だらけになった私の頭を払ってくれた。しかしブロンドって。
「あらごめんあそばせ。千里ちゃん喜んでくれる思うて、揚げ物してたんすっかり忘れよった!」
「なに言いよるんやこの婆さんは。はよ飯の支度せえ。千里もはよ上がれ。荷物はそこに置いとけばええ。いきなり粉かけられてかなんのう、千里よ」
 千里、千里、千里。
 可笑しな事かもしれないが、千里は私の名前なんだなと思った。私の名前をこんなにも呼ばれたのはどれくらい振りなのだろう。学校でも家でも予備校でも、これだけ私の名が呼ばれる事はない。「千里」と私の名が呼ばれる。当然の様にそう呼ばれる私の名が、なんだか少し照れくさくも嬉しく思えた。
 綺麗に磨かれたフローリングの廊下を通った先には座敷があり、巨大なテレビが鎮座している。立派な彫刻テーブルが置かれている場所はどうやら掘り炬燵になっているらしく、座ると足を悠々伸ばす事が出来て実に快適だった。夏場は足元に風が良く通り涼しく、冬場は炬燵布団でぬくぬく出来る仕様であるという。特に生野は豪雪地帯であって真冬は南極昭和基地に匹敵する室温となるらしい。そりゃ掘り炬燵がないと生きていけない。
 荷解きもそこそこに緊張しながら辺りを見渡す私に、いくばあは満面の笑みと愛想で「千里ちゃん。ジュース飲みなあれ。いっぱいあるでよ」と多種多彩の150ml缶を並べてくれた。「どれでもええで。二本でも三本でもええでよ。まだ倉庫に山ほどある」
「お婆よ。茶もあるやろうが。茶にせえ。今の子はそんな甘えもん飲まん」
「あら千里ちゃん。ダイエット中?」
 そっぽを向いて煙草を吹かしているが、いくじいもそれなりに年頃である私を気遣ってくれているのだろうか。いくばあに「いや……。はい。いただきます」と返事をしてパインジュースを手に取ると、いくばあは冷蔵庫から巨大な麦茶パックを取り出し「お茶もあるでよ」と微笑んだ。
 いきなり手厚すぎる歓迎に狼狽する他ない私は、小さく恐縮しながらパインジュースを舐めるように飲んだ。しかしよく見るとこの小缶……見た事のないメーカーだ。
 そうこうしているうちにテーブルには次々料理が運ばれてくる。よく見るといくばあも相当腰が曲がっている。それでもテキパキと給仕するいくばあの様子に、案外元気そう、と少しばかり安堵感を覚えた。
 食卓は豪華であり、いかにもいくばあが張り切りすぎた感が主張しすぎるボリュームとなっていた。
「まあ、とりあえず千里は飲むんか?」と当たり前のように瓶ビールを差し出すいくじいに「まだ未成年だから」と返し、「千里ちゃん大きいなったねえ! 綺麗な髪だねえ!」と褒めちぎるいくばあに「そうかな」と返す。食卓を囲んだ二人による応酬は留まるところを知らず、このまま一晩中質問攻めにされるのかと思い、私は得意としない愛想笑いを送り続けた。
 どの料理をまず手に取るか迷ったが、いくばあが私の頭を粉だらけにしてまで腕を振るったコロッケを一口頂く。美味しい。が、何故か喉を通らない。次にお刺身を口に運んだが、喉をすんなり通る事はなかった。なんだろう、あれだけお腹が減っていたのに。
 ビールが進んで機嫌が上向いてきたいくじいは「お、忘れとった。婆さん、あれ千里に食わせちゃれ」と合図を送ると、いくばあは「あいよ」とホットプレートを出してきた。
 次に運ばれてきたのはラップに包まれた大皿の肉である。それはルビーのような深い赤で、なんの肉だろうと皿を覗き込む私に「鹿や。これもメスやし旨いぞ」と言われた瞬間、腹から込み上げてくるモノに襲われ私はトイレに駆け込んだ。
 闇に浮かびあがりこちらを睨みつける眼、足元に広がる黒い塊、倒れ伏せ動かなくなった鹿が残像の様に脳裏へ浮かび上がってくる。その中で、私は高槻茜の鮮血を思い出していた。
 あの時、夏空の下で舞った赤い、赤い、赤い血。
 それからの事は、私もあまり覚えていない。

       

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