1「色付く乙女の憂鬱」

 鮮血が舞った。
 それは澄み渡る空の青と、高槻茜の赤で見事なコントラストを描いたのだ。
 ゆるやかに時が分割されるようにして半弧を描きながら後ろへ倒れゆく様は幾何学のそれではないほどに美しい。
 剛右腕投手が渾身の一球を投じたフォームに等しく、体軸いっぱいに重心を寄せて、肩掛けスクールバッグが捻じれながら脈を打つ。唯一校則に反した長すぎる髪が私の顔面を覆い、奥歯が鳴るほどに硬く結んだ唇に張り付く。その一瞬、高槻茜の下がる両肩から覗いた、いつもの二人組が見せた歪む表情。こればかりは私でもわからないけれど、あの醜くて不愉快な笑みからは想像ができないほどの良い表情だった事は確かだ。
 恐らく、恐らくではあるけれど、高槻茜も私と同じようにスロウモーションを体感しているのなら、奴は今、恐怖しているのか。それとも、驚愕しているのか。いずれにせよ笑える。たった数秒の、それだけの間に私は多くの悪罵(あくば)を精選した。高槻茜の着地までに要する時間はそれほどまでに長く、長かった。

 ◇

 善悪を判別するのは個人の裁量だろうか。
 例えば、私が人を殺せば悪になる。当たり前の事だ。しかしながらそれは社会が認める悪、法律が定める悪でしかない。仮にである。私に人を殺さなければいけない絶対的な理由があったとしたら。私の肩にもナイフが突き立てられていたとしたらどうだ。さすがに「それは神様が決める事」なんて言える年齢でもないし、気休めにもならない妄信を主張したところで何かが変わるわけでもない。どこの誰が善悪を決めているのかなんてそんなもん知ったこっちゃない。社会が決めた事。それでいいと思う。だけど、少なくとも、いち私立高校のクラスメイトが決めるものではない。
 生きている理由。そうだな、生きている理由か。高槻茜が私に問うたその言葉には一理あった。あの時その辺に転がっている、ありふれた青春を拾い食いして、あいつらみたいにバカ笑いしながら大手を振って歩く事ができていれば。なんて。そんな事ができていればこんな事にならなかったのかもしれない。どうして私はこうなったか。
 物心がついた頃には、両親は鍵だけを預けて家を空けていた。父は東京大学医学部附属病院の外科医であり、母は同附属病院の内科研究医をしている。幼い頃、一度だけ誕生日を祝ってもらった記憶があるが、それ以外は何もない。誰もいない広々としたリビングには、いつも焼けるような西日が差していて、南側の壁一面を支配する巨大な液晶パネルに酷く哀れな顔をした小学生が立ち尽くしていたのを今でも覚えている。兄が東京大学医学部に合格した時、父はそれを褒めるでもなく、母は祝うでもなく、ただ当然の結果が示されたかのように、リビングにはいつも沈黙が落ちていた。
 その因果な必然が作り上げた線路の上を私も歩くのだな、と、ただ漠然と想像したのもまた当然の帰結だったのだろうか。誰が悪いわけでもなく、用意された今日が、予定されている明日が、私を作り上げて、いつしか仮面を被っていないと呼吸さえも困難な状態に陥っていた。恐ろしく不気味で、ある種の自己暗示的な呪いに似ている己への固執が黒々と取り憑いている小学生なんて、もはや人間じゃない。
 それから高校へと進学し、学業では優秀な成績を収め、品行にも気を配り二年の夏には生徒会長にも選ばれた。全ては順風満帆で、何も間違っていないと思っていた。
 その時から私は、既に悪だったのかもしれない。

 ◇

 心臓が高らかに鳴っていた。
 高槻茜が仰向けに地面へ倒れ伏すと同時に、抉(えぐ)り込んだ拳が目に入った。手の甲が赤く染まっている。高槻茜の血液か、私から出血したものか、もしくは、その両方か。
 顔面を打ち抜いた際、軟骨か何かの柔らかい組織が砕ける感触がして、その後すぐ私の拳に鋭い痛みが走った。私は初めて、人を殴ると自らも痛みが伴う事実を知った。
 それから随分と経った後で富田美代子、摂津彩の悲鳴が響き渡った。本当なら一瞬の出来事だったはずなのに、何もかもが手に取るように理解できた。
 下校しようとしていた周りの生徒達は何が起こったのか判然としない様子で唖然とこちらに視線を向けてくる。大脳回路へ電気信号の到達が遅れ、こちらに視線を移しつつまだ笑顔で会話を続ける男女。ランニング中に振り返る陸上部女子のポニーテールの躍動さえもスロウに見えて、何だか不思議な気分だった。
「え、喧嘩?」「どうしたの?」「あれ、生徒会長じゃないの?」「倒れたの誰?」
 人が集まり始めると同時に、私は踵を返して校門を出た。けたたましい蝉の鳴き声を背に、私は「あ」と思い立ち止まる。
 あれだけ選りすぐった、とっておきの悪罵を高槻茜に贈るのを忘れてしまった。
 多少躊躇はしたが、なんだか騒がしくなってきたので私は急いでその場を離れる事にした。とにかく、この場所が大変不愉快に思えたのだ。
 青々と茂る通学路の並木から刺すような日差しが漏れ、清々しい草の薫りがする。真っ白い夏が頭上から降り注いでくるようだった。
 そうして、ふと見上げた夏空の広さといったら。
 私は今日、大嫌いな高槻茜をぶん殴ってやった。
 ほぼ最終らしき列車で生野(いくの)駅に到着したのはかなり夜が更けてからであった。
 下車したのは私だけ。乗客も私だけである。夜風に晒され痛む右拳を庇いながら、空箱になった播但(ばんたん)線を見送った。そうして今日何度目かわからない溜息を落とした。
 こじんまりとした駅構内に入り、蒸しあがったばかりの桜饅頭に似た初老の駅員に切符を渡して表へ出てみると、それはもう愕然としたものだ。
 見た事もない夜が広がっているではないか。夏の湿気た匂いを含む闇の塊がそこにべったり張り付いているようで、目を凝らせば凝らすほどに恐ろしくなった。夜はこんなにも暗いものなのか。
 私のすぐ後ろ、かろうじて灯された駅改札の文明光が強烈に愛しくなって振り返った途端、最後の灯りが消えて旨そうな桜饅頭が事務所の扉をパタンと閉めた。そして颯爽と自転車に跨り去って行った。
 私は一人、暗闇に没した。
 腹が減ってたまらなかった。さっきの駅員の所為(せい)だろう。桜饅頭なんかに似ていやがったから余計腹が減ったじゃないか。腹の中心でぐるぐると熱い何かが動いているのがわかる。とにかく何でもいいので胃に入ってきたものを消化しようとしているのだ。
 そしてさっきから皮膚に貼り付く衣類が汗を吸って香水と混ざり合い、なんとも濃厚で幾何学的な香気を醸し出している。暑い。暑くてたまらない。冷房の効いていない鈍行列車に長時間揺られたおかげで眩暈も感じる。クソ、こんな田舎に香水なんて振ってくるんじゃなかった。
 兎にも角にも、この現状がたまらなく不快だった。気持ち悪いし、臭いし、暗い。腹が減って、腹も立つ。
 迎えが来る予定の時刻は当に過ぎているらしかったが、列車の中で携帯をいじりすぎたおかげで電池が切れてしまい時刻を確認する事ができない。駅内の時計を確認しようにもドアが閉められ奥にある掛け時計はこの暗がりでは全く見えずである。私は凝然としたまま、パンパンに膨れたボストンバッグを放り出し入口の階段で膝を抱えた。憎き高槻茜を貫いた英拳が思い出したようにまたピリピリと痛み始めた。
 モノエタノールアミンの臭いは何故にこう、痛々しい刺激臭がするのだろう。
 蛇口から流れ出る水を止め、顔を上げると軽い眩暈がして視界が歪んだ。針を通した耳にまだ鈍い痛みが残っている。
 鏡の向こうにいる女は金色の髪から水を滴らせ、酷く冷めた目でこちらを睨みつけていた。私の何がそんなに憎らしいのか、ギッと視点を据えたまま動かない。大切に伸ばしていた長い髪を切ったから? それとも気に入っていた黒い髪を奪ったから? まさかそんな事。
「黙れよ」と鏡の向こうにいる無愛想な女は言った。
 物音ひとつしない洗面所。不躾で可愛げの欠片もないけれど、今の私に話しかけてくれるのはあんたぐらいだと思った。

 ◇

 それからの話だ。
 とてもとても良い子で人望もある優等生の高槻茜さんを渾身の力で殴りつけた狂人は当然の如く停学処分が下されて、御丁寧な事に学校からペラの処分届が送られたのである。処分期間の始まりは終業式の前日である昨日の日付が記されており、それから先は空欄になっていた。
 無期限の夏休みということか。実に慶賀(けいが)の至りである、最早あんなクソみたいな学校へ更々行くつもりもなかったので丁度良い。
 高槻茜が運ばれた先の病院ではタイミング良くうちの父が外来診療を受け付けていたらしく、学校から連絡が来るより先に今回の騒動を知る事となった。どういう経緯があったのかは知らないが、患者の左頬を腫らした諸悪根源が実娘であると知った時の父を一度見てやりたいものだ。一体どんな顔をしていたのだろうな。しかしあの父の事であろうから、表情一つ変えなかったのかもしれない。私は随分と父の顔を見ていないし、そもそも家に帰ってこないからわからない。どうでもいい。
 母は処分届に捺印だけを残してまた研究室に戻った。叱られるわけでもなく、学校や高槻茜のところへ謝りに行くわけでもなく、いつものように私を放置した。無干渉には変わりないが、やはりあのような騒動を起こした私は悪にしか思われていないだろう。世間体だけで構築されたあの家族にしてみれば私は腐った膿でしかない。父も母も兄も、さぞかし決められた路より脱線した娘の腐敗する臭気に鼻を曲げた事だろう。
 一度築かれたルールより逸脱した者は速やかに淘汰され暗く湿った四隅に追いやられる。死ねばいいとさえ思われているかもしれない。割と本気で。
 髪を金色に染め上げたその夜、帰ってきた母は私を見て一瞬「ギョッ」としたが、取り繕うようにして顔色を戻し静かにテーブルに着いた。私はキッチンの蛇口を捻り水を飲もうとしたが、コップを手に取るだけで痺れる痛みが拳に走った。自分で巻いた包帯には薄らと血液が滲んでいる。茜ちゃんはもっと痛いのよ。そんな言葉は期待などしていない。母は母であるが、母親ではないと思っている。母は確かに私を産んだ実母であろうが、子供を持つ母親ではなかった。思い起こせば母に叱られた記憶なんてほとんど存在していない。小学生の頃、友達の家へ遊びに行って驚いた事がある。友達の母は私にお菓子を出し、私に様々な事を聞いて、たくさん笑っていた。そんな当たり前の母親像が子供ながらにして衝撃的だったのだ。母親とはこんなにも喋るものなのか、こんなにも何かを聞いてくるものなのかとショックを受けた記憶がある。
 その時から母に対してコンプレックスを抱いていたのは事実である。他の人とは違う母がどうしても悔やまれた。担任や友人は「お医者さんのお母さん、すごいね。綺麗なお母さん、羨ましいね」と口を揃えて言ったが、私はそれを聞く度に強烈な劣等意識を抱いた。だってうちのお母さん、私に興味ないんだよ。仕事の方が大事なんだよ。どんなにそう言いたかったか。
「ねえ」
 いきなり背中から母の細い声が刺さって驚いた。私は返事をせぬままコップを置いた。
「夕飯は食べたの」
「うん」
「そう」
 会話が終了する。
 私はしばらく母に背を向けたまま次の言葉を待っていたのかもしれない。哀れな事ではあるが。
 しかしすぐにそんなものはあり得るはずがないと思った。この髪の色も、母にしてみれば屑の身勝手になるのだろうか。いつものように無干渉を決め込むつもりだろうか。
 私が部屋に帰ろうとすると、母はわざとらしく咳払いをして鞄から何かを取り出した。
「いくばあちゃんの検査結果、あまり良くないみたいなの」
 いくばあちゃん。生野に住んでいるからいくばあちゃん。全く覚えていないけれど、まだ物心つかぬ私がそう呼んだそうだ。いくばあちゃんは母方の母親にあたる。先月、大学病院に数日ほど検査入院の為東京に来ていたらしい。ちょうど私はテスト中で会う事ができなかったけれど、親戚の明おじさんが送り迎えをしてくれたのだそうだ。いくばあちゃんは心臓の動脈弁が人よりほんの少し小さく、血液の送り出す力が弱いからすぐに息切れをおこしてしまう病気だと聞かされていた。
「そう、なんだ」私は背を向けたまま恐る恐る返事をした。
「足腰にもだいぶ負担がきているみたい。あの年じゃ手術もできないから。いくじいちゃんも心配してるみたいなのよ」
 いくじいちゃん。生野に住んでいるからいくじいちゃん。同じ理由である。なんとも単純明快な呼称だが、我ながら少しばかり愛嬌も感じる。
「一度、会いに行ってあげてはどうかしらと思って。ほら、いくじいちゃんも掃除や買い物を頑張って手伝ってくれているみたいだけど、お互い年だから。お料理とか、お買いもの、手伝ってあげてはどうかなって」
 じゃあ、あんたが行けばいいんじゃん。
 そんな事は言わない。大人だから。それに母の言葉の裏に隠された真意にもとっくに気付いていたのだ。
 学校で考えられない不祥事を起こして停学になった出来損ないの娘なんか家に置いてはおけない。こういうことだろう。母らしい遠回りな表現だが、そりゃ追い出したいに決まっているだろうよ。
「母さんも仕事が今は手が離せなくて」
 そう言うと思った。
「それとね、お願いだから、その頭で昼間に出歩かないでくれる」
 ほら。やっぱり。
 私の暗澹たる胸間は生野の闇に埋没するが如く浮上する事を許さず、それでも腹は鳴った。
「なにかたべたい」そう膝を抱えたまま呟いてみると、なんだかますます侘しくなって少し笑えた。
 先ほどから遠くの方で聞こえていたエンジン音だったが、どうやら駅の前で停まったらしい。
 私は顔を上げるのも億劫で、蹲(うずく)ったまま聞耳を立てていた。
「千里か?」
 ふいに私の名が呼ばれた。
 腰がへの字に曲がってはいるが、随分と体格の良い白髪の老人が小さくなっている私を見下ろしていた。
「ちぃと間、見んあいだにえらい派手なったのぉ」
 その姿はヘッドライトに照らされ子細(しさい)に確認はできなかったが、聴いた事のある声だった。
「着いたら連絡する言うもんで待っとったら、ちぃっとも連絡寄こさん。どないしたんか思うて周り探しよったんじゃ」
 ああ、いくじいちゃんだ。
 いくじいの播磨弁(はりまべん)も本当に久しぶりだ。この背中がムズ痒くなるような播磨弁のイントネーションを聴くだけで生野に来た実感が一気に湧いてくる。小さい頃は、この言葉遣いが面白くていくじい、いくばあが喋る度にお腹を抱えて笑い転げたもんだ。母も生野へ帰ると同じ喋り方になって、それが不思議で、可笑しくて、いつもの冷たげな母が少しだけ優しくなったような気がして大好きだった事を思い出す。
「携帯の電池が切れちゃった」
 私は立ち上がり、尻を払いつつ言った。
「まぁいいっちゃ。早う乗れ。婆さん待っとんど」
 そうして指し示したのは駅前に駐車された古臭い軽トラであった。荒々しいエンジン音を響かせ錆びついた車体をブルブル震わせている。
 いくじいが私のボストンバッグを背に担いだ。ありったけの荷物を詰め込んだバッグはかなりの重量であり、いくじいの腰は更にへの字になった。
「あ、持つから」
「ええ。早う乗れ」
 不躾にそう言ってバッグを軽トラの荷台に放り投げられた。
「ああ! 大事なものも入ってるから! 財布とか!」
「誰も盗りゃせんわい」
 そう言っていくじいは気忙しく運転席に座った。私は挨拶もろくに出来ぬまま、やたらと気早ないくじいに圧され、急いでバッグを抱え直し助手席に乗り込んだ。
 軽トラックの内部は雑然としており、煙草臭かった。マニュアルシフトには得体のしれない動物の皮で装飾されており、その中央には押し込められるようにして無線らしき機械が鎮座している。
 私がシートベルトをする前に、軽トラは派手なエンジン音を吹かして急発進した。いくじいと出会ってたった数秒ほどしか経っていない気がするけれど、なんかもうすごく疲れていた。
 軽トラは闇に染まる広い道を猛スピードで走行した。ヘッドライトが車線を照らす以外は何も見えず、宇宙空間を疾走するアトラクションを思い出した。窓を少し開けると草の微かな匂いがする。少しずつ目が慣れてきて、遠くの方へ視線をやると黒々と盛り上がる連峰が暗幕の様に空から垂れているようで心底不気味だった。
 いくじいはロクに前も見ず、胸ポケットから取り出した煙草をくわえ、火も点けずに私をじろじろ見た。
「しかし千里よ、お前それなんちゅう色や」
 金色に染まった髪の事を言っているようだ。
「どえらい色よの」
「昨日染めた」
「今の子はそんなんがええんけの」
「……わかんないけど」
「ま、よう似合うちょるわい」
 いくじいはガハハと豪快に笑って見せた。前歯が二本とも金歯で一瞬ギョッとした。
 しかし予想外である。自分でも絶望的に似合っていないと思っていたこの髪色なのに。
 これは私が今まで過ごしてきた日々との決別を意味する色であると思って染めたのだ。似合う似合わないはそもそも関係ない。それと両親へせめてもの反抗になればと、自分でも馬鹿馬鹿しくなる実に子供っぽい理由も含まれていたのも事実である。
 高槻茜をぶん殴ったおかげで無期停学と家庭追放の憂き目にある私は校則や世間体を順守する義務もないわけで、髪は染め放題、夜中に歩き放題、買い食いし放題、眉も書き放題で誰からも文句を言われる筋合いはこれっぽっちも無い。
 それにピアスも空いている。校則で全面的に禁止されているピアスである。最早この状況下で品行の是非を問うつもりはないが、およそ謹慎を与えられた者の身なりではない事は確かだった。反省の欠片も見せてはならない。
「その耳の飾りは穴開いとるんけ」
 いくじいが興味深げにピアスを見ていた。
「これも昨日」
「今の子よのぅ」
「そうかな。みんなしてるよ」
「ほう。みんなしとるんか。そうかそうか」
 なんとなくだが。いくじいの事をいくじいと呼ぶ事に躊躇していた。
 幼い私が付けた呼称を今更ながら発するのがたまらなく恥ずかしく思われた。意識すればするほど会話が堅くなり、返事ひとつにも緊張が走る。
 しかし私の憂慮とは別に、いくじいはこちらばかりを見て饒舌であった。
 その時である。
「前!」
 突然、何かが道を塞いで私は思わず声をあげた。
 一瞬見えたのは、ギロリとこちらを睨みつけた眼光である。すぐ身を伏せた後、急ブレーキと共にゴツンという衝撃が来た以外は何もわからない。
「チッ! なにゃこない時に!」
 いくじいが声を荒げながらドアを勢いよく開け外に出て行ったようだった。
 私は突然の出来事に狼狽した。未知との遭遇かと思われた。この暗闇っぷりでは最早何が登場してもおかしくはない。突如空から降った地球外の生命体が軽トラに撥(は)ねられる事もある。それが田舎の常識と言われればそうなのだろう。いやわからないけど。
 私はそんな事を考えながらドアロックを開けたり閉めたりした。自分でも全く意味不明であったが、そうこうしている内に多少落ち着いてきたのでいくじいの後を追ってドアを開けてみた。
 ヘッドライトに照らされたそれはぐったりとして、黒い液体が道路に広がっていた。
 よく見る前に私はそれが死体であることに気付き即座に視線を脇に逸らした。急激に心拍数が上がっていくのがわかる。
 死んでいるのは鹿だ。動物園くらいしか見たことがないが、あれは鹿だった。
「こりゃメスやで。千里よ、メスや」
 いくじいが何故か鹿の性別を私に訴えかけてくるが、それどころではない。死んでいる動物を目の前にして私は脚がすくんだ。
 するといくじいは曲がった腰のまま鹿を脇道へ引っ張っていき、手慣れた動作で鹿の首にナイフを入れたのを見て私は再度視線を逸らした。
「なに。なんで」
 私はパニックになりながらいくじいに問うた。
「何って。血抜いとかんと腐っちまうで」
「血抜いてどうするの」
「せっかくやし鹿食わせちゃる」
 それが田舎の常識と言われればそうなのだろう。本当に訳がわからない。
 しばらくの間、いくじいは道路脇で何やら作業をしているらしかった。
 私は俄(にわ)かに浮き立つ鳥肌を撫でながら車内に戻った。暗闇の中を矢の様に走るヘッドライトに反応してか、大小の気味悪い虫が集まり始め目の前を右往左往している。冷房の効きすぎた車内で込み上げる虫唾(むしず)と格闘しながらひたすらにいくじいの帰還を待った。
 しばらくして、いくじいが手をシャツで拭いながら戻ってきた。
「そこの小川で手洗ってきたからどうもない」と予(あらかじ)め私に断りを入れてから軽トラは再び急発進した。そこから二人は一言も会話を交わす事無く夜道を進行した。生野に到着早々、衝撃の展開を目の当たりにした私は恐らく戻ってきたいくじいに冷え切った一瞥(いちべつ)を送ったのかもしれない。それでいくじいは多少なりとも落ち込んでいるのだろうかと思い急に申し訳なくなった。
 畑らしきところに閑(かん)として佇む一軒家をいくつか見送ったのち、我々を乗せた軽トラックは本道から脇道に逸れて灯りのある民家へ到着した。広々とした玄関前には軽トラックと軽自動車が駐車されており、我々の進入に気付いた番犬の猛る咆哮が夜空に吸い込まれていった。私が降りようとすると、いくじいは「待っとけ」と一言残し車を降りて行ってしまった。窓を開けいくじいの後を目で追うと、軽トラの荷台から先ほど不慮の事故に遭遇した鹿らしき物体が黒いビニールシートに包まれて登場したので私は即座に窓を閉めた。
 恐る恐るいくじいの動向を観察していると、一軒家から腰の酷く曲がったおじいさんが手押し車を持って出てくるのが見えた。暗くて良く見えないが、灯りに照らされたその姿だけ見れば漫画に出てきそうな仙人のような風貌である。頭頂部はツルツルであるが、その周囲に残った毛髪が天を目指すかの如く角の様に上を向き、あんな頭の形したウルトラマンいたなぁと沁々(しみじみ)思った。
 いくじいが鹿らしき物体を手押し車に乗せ、いくつかウルトラ爺さんと会話を交わしてから再び車内に戻ってきた。
 私が不思議そうな顔をしていると、いくじいは顔面を皺だらけにして「すぐには食えんのよ」と言った。
「あの人は?」
「解体屋じゃ」いくじいはそう言いながら窓を開け、煙草に火を点じ渋そうに煙を吐いた。
 生野に来て思うのだ。
 解体屋なんて言葉、東京じゃまず聞く事はない。

 ◇

 駅より三十分は走っただろうか。長旅の疲労もあり、ボロの軽トラが奏でる荒々しい振動がだんだん心地良くなって私は多少うとうとした。そうしてこんな夢を見た。暗闇の中に浮かぶ二つの眼光が赤や黄色や緑に点灯し、愉快な音色とともに鹿のエレクトリカルパレードが開催された。派手に電飾された軽トラの荷台にはマスコットキャラである鹿がこちらに手を振っている。後列に続く軽トラにも何か乗っていると目をやると鹿だった。さらに後ろの軽トラにも鹿で、その後ろも鹿だろうと思っていたら鹿だった。鹿ばかりのシカニーランドで夢と魔法と罪悪感に充ちたパレードは一人の登場人物によってクライマックスを迎えた。一際派手に装飾された軽トラに乗って登場したのは先ほどのウルトラ爺さんである。ウルトラ爺さんは荷台にて威風堂々腕を組み一点を見つめながら髭を靡(なび)かせている。そして次の瞬間、ウルトラ爺さんは目にも止まらぬ業で目の前の鹿をバラバラにしてしまった。その業は次から次へと繰り広げられ、ついには私の目の前でにこやかに手を振る鹿までも華麗に下(おろ)してしまわれた。丁寧に捌(さば)かれた肉は熟成されたボンレスのハムに似ていて腹が高らかに鳴った。「そういえば、お腹減った」そこで暗転。私の脚元にじわりと黒い塊が染み出し絶叫、そこで目が覚める。
「千里よ、着いたど」
 いくじいが私の頭をポンと叩いて車から降りた。大きな瓦屋根の一軒家に到着していた。大脳皮質の四隅に追いやられていた記憶が沁み渡るように広がり、ああ家の横には駐車場があったな、家の前は木造の立派なお屋敷だったなと思い返しながら、ここが本日の目的地である事をようやく理解する。比較的開けた地域に民家が隣接し、その一角にいくじいいくばあの家はあった。
 オレンジ色の暖かな玄関灯をくぐり中に入ると、美味しそうな良い匂いがする。
「おい。帰ったど」
 いくじいがそう呼びかけると、奥から慌ただしい足音がして登場したいくばあが私に抱きついてきた。
「千里ちゃん! よう来てくれた! よう来てくれたね! さあさあ、お上がり。じいさん鞄持ちなーれや千里ちゃんの細い腕が折れちまう」
「何しよるんや、そない粉だっけの手で千里の頭触りよるさかい、せっかくのブロンドが汚れよるやろ」後ろから入ってきたいくじいが粉だらけになった私の頭を払ってくれた。しかしブロンドって。
「あらごめんあそばせ。千里ちゃん喜んでくれる思うて、揚げ物してたんすっかり忘れよった!」
「なに言いよるんやこの婆さんは。はよ飯の支度せえ。千里もはよ上がれ。荷物はそこに置いとけばええ。いきなり粉かけられてかなんのう、千里よ」
 千里、千里、千里。
 可笑しな事かもしれないが、千里は私の名前なんだなと思った。私の名前をこんなにも呼ばれたのはどれくらい振りなのだろう。学校でも家でも予備校でも、これだけ私の名が呼ばれる事はない。「千里」と私の名が呼ばれる。当然の様にそう呼ばれる私の名が、なんだか少し照れくさくも嬉しく思えた。
 綺麗に磨かれたフローリングの廊下を通った先には座敷があり、巨大なテレビが鎮座している。立派な彫刻テーブルが置かれている場所はどうやら掘り炬燵になっているらしく、座ると足を悠々伸ばす事が出来て実に快適だった。夏場は足元に風が良く通り涼しく、冬場は炬燵布団でぬくぬく出来る仕様であるという。特に生野は豪雪地帯であって真冬は南極昭和基地に匹敵する室温となるらしい。そりゃ掘り炬燵がないと生きていけない。
 荷解きもそこそこに緊張しながら辺りを見渡す私に、いくばあは満面の笑みと愛想で「千里ちゃん。ジュース飲みなあれ。いっぱいあるでよ」と多種多彩の150ml缶を並べてくれた。「どれでもええで。二本でも三本でもええでよ。まだ倉庫に山ほどある」
「お婆よ。茶もあるやろうが。茶にせえ。今の子はそんな甘えもん飲まん」
「あら千里ちゃん。ダイエット中?」
 そっぽを向いて煙草を吹かしているが、いくじいもそれなりに年頃である私を気遣ってくれているのだろうか。いくばあに「いや……。はい。いただきます」と返事をしてパインジュースを手に取ると、いくばあは冷蔵庫から巨大な麦茶パックを取り出し「お茶もあるでよ」と微笑んだ。
 いきなり手厚すぎる歓迎に狼狽する他ない私は、小さく恐縮しながらパインジュースを舐めるように飲んだ。しかしよく見るとこの小缶……見た事のないメーカーだ。
 そうこうしているうちにテーブルには次々料理が運ばれてくる。よく見るといくばあも相当腰が曲がっている。それでもテキパキと給仕するいくばあの様子に、案外元気そう、と少しばかり安堵感を覚えた。
 食卓は豪華であり、いかにもいくばあが張り切りすぎた感が主張しすぎるボリュームとなっていた。
「まあ、とりあえず千里は飲むんか?」と当たり前のように瓶ビールを差し出すいくじいに「まだ未成年だから」と返し、「千里ちゃん大きいなったねえ! 綺麗な髪だねえ!」と褒めちぎるいくばあに「そうかな」と返す。食卓を囲んだ二人による応酬は留まるところを知らず、このまま一晩中質問攻めにされるのかと思い、私は得意としない愛想笑いを送り続けた。
 どの料理をまず手に取るか迷ったが、いくばあが私の頭を粉だらけにしてまで腕を振るったコロッケを一口頂く。美味しい。が、何故か喉を通らない。次にお刺身を口に運んだが、喉をすんなり通る事はなかった。なんだろう、あれだけお腹が減っていたのに。
 ビールが進んで機嫌が上向いてきたいくじいは「お、忘れとった。婆さん、あれ千里に食わせちゃれ」と合図を送ると、いくばあは「あいよ」とホットプレートを出してきた。
 次に運ばれてきたのはラップに包まれた大皿の肉である。それはルビーのような深い赤で、なんの肉だろうと皿を覗き込む私に「鹿や。これもメスやし旨いぞ」と言われた瞬間、腹から込み上げてくるモノに襲われ私はトイレに駆け込んだ。
 闇に浮かびあがりこちらを睨みつける眼、足元に広がる黒い塊、倒れ伏せ動かなくなった鹿が残像の様に脳裏へ浮かび上がってくる。その中で、私は高槻茜の鮮血を思い出していた。
 あの時、夏空の下で舞った赤い、赤い、赤い血。
 それからの事は、私もあまり覚えていない。
sage