Neetel Inside 文芸新都
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曾根崎心中
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 ドラッグストアで醤油と、黒マジックと、トイレ用洗剤を買って外に出ると、空は曇って小雨が降っていた。
 だからショウタはドラッグストアのビニール袋を抱えて、小走りで近くの駅まで走った。スーツが濡れるのは気がかりだが、いま買ったもの以外は手ぶらだし、傘をささないとどうにもならないほどの雨ではない。ショウタは高校時代に陸上部だったので、駅にはすぐについた。いつもこの駅はさほど混んでいない。今日も平日の昼だということを考えても人はまばらだ。ショウタはズボンからICOCAの入ったパスケースを取り出して、自動改札に押し当てる。
 これから電車で梅田駅まで行くのだ。

 私、オオサキ ユイナは自分ができそこないの人間だと思う。
 私はドラッグストアの棚に陳列されている紙おむつを見て眉をしかめる。こういうところに買い物に来るのは本当は嫌だったが、カレシに頼まれて仕方なくきたのだ。めったに来ないので、店のレイアウトもよくわからないから、頼まれたものを買うために店内をうろうろしていたら、やはりこういうものが目に入ってしまった。とたんに胃が痛みだした。私は店員に言ってトイレを借りた。薄暗い洗面所でバッグの中に持ってきた胃薬を飲み、顔を洗って気持ちを整える。洗面所の鏡には薄汚い壁をバックに私が映っている。見た目は正常に見える。両手両足もあるし、顔も自分で言うのもなんだがそこそこ整っている。
 でも私には赤ちゃんが産めない。

 雨の景色が流れていく。
 ショウタは人がまばらな電車のなかで、つり革に右手をぶら下げて外を見ている。ガタゴトと電車が揺れるたびに、左手にぶら下げた醤油と黒マジックとトイレ用洗剤の入ったビニール袋が、フラフラと振り子のように揺れる。外の雨は強くなっているようだった。雨が降っているのはよくない、とショウタは思う。なぜなら魂が天国に行けないからだ。それは親戚のおじさんから聴いた話だ。
 高校生だったショウタが母親につれられて病室に行った日。ちょうど母が席を立って、ショウタがおじさんとふたりきりになったとき、秘密だぞ、と前置きしておじさんは語り出した。人が死ぬとき、肉体から魂が切り離されて、魂は天国へ向かう。しかし雨が降っていて空が曇っていると、屍体から抜けだした魂が雲におさえこまれて空の上に届かず、地上にとどまってしまう。だから、死ぬ日は晴れていなければならない。晴れていれば雲に邪魔されずに天国へ行けるから。おじさんは神妙なふうで語り終えると、にっこりと笑顔を見せて、冗談だよと言った。そんな作り話をするなんて、おじさんはまだまだ元気なんだとショウタは思った。
 その1か月後おじさんは死んだ。夏の暑い日で、とりわけよく晴れた日だった。

 ユイナは傘をさして、徒歩でホテルに向かっている。
 右手には先ほど買ったドラッグストアのビニール袋を持っている。梅田は大阪府の中心街だけあって人が多い。繁華街を通ると、コンビニの前で茶髪に染めたメイクの濃い女子高生たちがたむろしている。そんな光景に目を取られながら歩いていると、前から歩いてきたおばさんにぶつかってしまった。傘から雨粒が飛んで服を濡らし、ビニール袋は落としてしまった。すいませんと謝ると、ヒョウ柄の服を着たおばさんは、気をつけろバカ、どこ見てんだ、と、女性とは思えない口汚い言葉をぶつけて足早に去っていった。
 ユイナはしばらく呆然と立ち尽くしていたが、やがてふつふつと怒りが湧いてきた。どうしてアイツらは許されて、私には許されないのか。中学高校と、まじめに勉強してきて、大学にも進学して、酒もタバコもやらないし、できるだけみんなと仲良く誰も傷つけないようにしてきたし、犯罪をやろうなんて考えたこともない。それでどうしてこうなってしまったのか。なんで私だけこんな目にあわなきゃいけないのか。
「悔しい・・・」
 ユイナはそうつぶやいてホテルへ向かう。この苦しみももう終わるのだ。

 電車が梅田駅に着いて、ショウタはホテルとは別の方向へ歩き出した。なぜならホテルに近い出口の方向に、辞めた会社の同僚の姿が見えたからだ。
 自主退職の形を取っているが、実際には辞めさせられたようなものだ。普通に解雇すると会社にとって色々不都合だから、パワーハラスメントをして自主的に辞表を出したくなるように仕向けてきたのだ。半年間、なんとか雇用を継続してもらえるようにパワーハラスメントにも屈せず頑張ったが、会社はイジメを止めることはなかった。ショウタは辞表を出した。新卒で入社してから3年間勤めた会社だった。
 ショウタが元の同僚を避けたのは、何を話せばいいのかわからないからだ。再就職できているならまだしも、こんな無職の身で。会社を解雇されてから、もう半年も無職だった。会社でのイジメの経験から何もやる気が起きず、付き合っている彼女のヒモのようになっていた。ホテルには迂回して向かうことにした。雨はいまだに止む気配を見せない。ショウタはさきほどちらりと見えた昔の同僚の腕に、高そうな時計が巻かれていたのを思い出した。あの元同僚は、イジメの対象ではなかった。今でも会社にいるのだろう。営業成績では自分と大して変わらなかったのに。自分だってそれなりの結果は出していたはずだったのに。
「悔しい・・・」
 ショウタはそうつぶやいてホテルへ向かう。この苦しみももう終わるのだ。
 
「遅かったねショウタ」
 ショウタがホテルの部屋に入ると、ユイナはまず一番に買い物の成果を見せた。ビニール袋から取り出した1リットルほどの液体が入った容器は、ショウタが頼んでドラッグストアで買ってきてもらった液体タイプの入浴剤だった。
 ホテルのカーテンは引かれていて、雨が降っているのもあって、まだ夕方だが部屋は暗い。
「スーツなんて着てきたの?」
 ユイナが尋ねる。ユイナは持っている中で一番高い服を着ている。緋色のワンピース。
「俺みたいな年齢の男が、日中から私服でぶらぶらしてると怪しまれるんだよ」
 そう言ってショウタはベッドに腰を下ろして、ドラッグストアのビニール袋を膝の上に置いた。
「そっか。ショウタは頭いいね」
「入浴剤買ってきてくれたんだ」
「うん。あとガムテープと、カモフラージュ用の味噌もね」
「味噌ぉ?」
「そう、味噌を買うような人が、今日これから自殺するなんて思わないでしょ?」
 ショウタは笑ってしまった。
「じゃあ、ショウタは何を買ってきたのよ」
 ショウタはビニール袋の中身を見せた。醤油と、黒マジックと、トイレ用洗剤。
「醤油だって似たようなものじゃないの」
 そうだな、ふたりとも調味料を買ってくるなんて、やっぱり似たもの同士だな、とショウタは言って、ふたりは笑った。

 ふたりはホテルの浴室の窓とドアの隙間にガムテープを貼り付けて塞いでいった。
 ドアの外側には、黒マジックで「危険!硫化水素発生中!警察を呼んでください」と書いた紙を貼っておいた。ガムテープで隙間を塞ぎ終わると、運動した身体の熱と湿気がこもって浴室はむわっとした空気になった。ふたりはタイル床の上に横並びで座り込んで、ショウタは右手を、ユイナは左手を重ねた。
 外の雨の音は聴こえている。
「ねぇ」
「なに?」
「前さ、雨の日に死ぬと魂が天国に行けないって話、してたよね」
「うん。でもきっと俺たちなら大丈夫だよ」
「私あれから考えたの。雲に邪魔されて天国に行けなかった魂は、この世のお母さんのお腹に宿って、またすぐに生まれ変わるんじゃないかって」
「そうか、そうかもしれないな」
「きっとそうよ」
「そうだな。きっとそうだな」
 ふたりはそれからしばらく喋らなかった。雨の音だけが聴こえている。
「じゃあ、入れるよ」
 ショウタが言った。
「うん、いいよ」
 ユイナがうなづいた。
 ふたりの前にはそれぞれが買い物してきたビニール袋がある。中にはユイナの買ってきた液体の入浴剤が半分こで入っている。
 ショウタは自分の買ってきた洗剤の封を開けて、それぞれのビニール袋にとく、とく、と、注入していった。ふたつの液体が混ざって、今まさにビニール袋の中では、人を死に至らしめるほどの毒ガスが発生しているはずだ。
 あとはビニール袋を頭にかぶるだけで、毒ガスがふたりの命を生まれ変わらせてくれるはずだ。
「ねぇ、ショウタ。顔を見せて」
 ふたりは顔を見つめ合って、口づけを交わした。

 ふたりの魂がどこへ行ったのかは、誰にもわからない。

       

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