Neetel Inside 文芸新都
表紙

ロングスカート愛憎会
転【癲】

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 居ても立ってもいられなくなり、俺はガードレールを飛び越えた。風を切り、車の流れを縫い、人の波を掻き分けた。後ろでクラクションや急ブレーキの音が鳴り響いたが、そんなことはお構いなしだ。俺の一大事だというのに、周りの都合など考えていられるか。
 どうか見間違いであってくれ。どうか、俺の勘違いであってくれ。
 願って駆け寄るが、しかし彼女の声と横顔は、紛れもなく俺が心を許せるたった一人の同士のものだ。それが、下品に膝を見せて歩いている。
 どういうことだ。ミニスカートなんか邪道だと言っていたのは誰だ。スカートの長さはモラルの高さだと高説していたのは誰だ。たとえ天地がひっくり返ろうともロングスカートを愛し続けると誓いを立てたのは、どこの誰だ?
 ミヤコだ。
 そのミヤコが、まるで「今どきの女子高生」のように、あのときのアヤカと同じく、あの品性下劣な妹の通った道を辿るかのごとく、ゆるやかな坂道を登ってホテル街へとしけこんでいった。
 彼女は建物に入る直前で横目に俺と視線を合わせ、わずかに眉を上げたが、男に肩を抱かれたまま歩みを止めなかった。

 何故だろう。
 アヤカが素性の分からない中年に体を売っていると知ったときには、これといって燃えるような怒りも、深い悲しみもなく、自分でも驚くほど冷静でいられた。
 だが今日のミヤコについてはどうだ。実の妹の不貞を目にしてもさほど波立つことのなかった自分の心が、趣味を同じくしているだけの友達が他の男と逢引きしているのを盗み見たことで、どうして腹の底が掻き回されたように気持ちになるんだ?
 あの家政婦のお姉さんが他の人と結婚すると聞いたときでさえ、これほどの熱っぽさを覚えることはなかった。
 ミヤコがミニスカートを穿くことなんて絶対にあり得ないと信じていたから、それが覆されたから、俺はこんなにも胸を痛めているのか?
 じゃあ、例えば、もし仮に、ミヤコがロングスカートを穿いたままウサダとホテルに入っていく場面を目の当たりにしたとして、その場合だったら俺は平静を保てたんだろうか。
 俺はミヤコに、どうあってほしいと思っていたんだろう。

 何故だろう。
 こんな疑問が頭にこびり付いて離れないのは何故だろう。
 こんなに面倒くさい問題を頭に抱えて、歯ぎしりをしているのは何故だろう。
 現国の試験で登場人物の心情を読むのは得意なはずなのに。


 月曜日に学校へ行くとき、足がとても重かった。
 昨日の夜に、意識が無くなるまでずっと自室の壁に頭を打ちつけていたせいか、頭もズキズキと痛い。寝不足と相まって、ときおり目がかすむ。おまけに腹も、なんだか苦しい。
 体調は最悪だ。
 出来ることなら、今は何も考えたくない。これ以上、答えの出ない問題に悩みたくない。今日ばかりは、ミヤコの顔を思い浮かべることすらしたくない。
 それなのに、最悪の上塗りだ。
「おはよ、サメぴー」
 下駄箱のところでミヤコが、両手を後ろ手に組んだ姿勢で俺を待っていた。その腰から下は、ももの半ばまで見えるようにスカートを折っている。彼女と目が合った瞬間、俺は心臓が針で刺されたような気分になった。
「ちょっと話したいことあるんだけど、いいかな?」
 いや、よくない。
 だが上目遣いに訊ねてきたミヤコは、返事を待たずに、俺の袖を引いて特別教室棟へと連れて行こうとした。俺は抵抗するのも億劫なので、彼女に従った。
 一昨日までは、あれほどミヤコと話をしたいと思っていたのに、不思議なものだ――そんなふうに考えられる程度には、この時点では冷静だったと思う。

 朝のホームルーム前だから、連れてこられた先の理科室にはもちろん誰もいない。
 俺とミヤコの二人きりだ。
「ごめんね、サメぴー」
 戸を閉めてから一拍置いて、彼女は俺に背を向けたまま口を開く。
「あのね、急に、一方的でわるいんだけどさ……」
 俺からは表情が見えない。何かを言い淀んでいるのか、それとも、何を言うべきかと迷っているのか。
「解散、しよう?」
「……解散?」
 俺がオウム返しに訊くと、ミヤコは振り向いた。彼女は目を細めて、眉をひそめて、そんな様子でも真っ直ぐ俺を見据えてきた。
「ほらあの、」
「《ロングスカート保存会》のことか?」
「あ、うん。そうそう」
 今のミヤコの着こなしを見れば大体は分かる。分かってしまう。彼女が俺に言おうとしている話の内容も、その理由も、それがもたらす結果についても。
「昨日さ、サメぴー、渋谷にいたでしょ?」
「いや……あぁ、うん」
 俺は反射的に否定しかけたが、ここで嘘を言ってどうなるのか。目の前に、絶対的な現実が突きつけられているというのに。
「ふふ、どっちよー?」
「いたよ。そして、見てた」
 どうしてか、何を、とは言う気になれなかった。
「やっぱり、見間違いじゃなかったんだねー」
 ふぅっとミヤコはひと息を吐いた。その雰囲気は、さっき俺に謝ってきたときとは違って妙に清々しい。
「今も私のこの格好に何も言ってこないし、見られちゃってたんだね」
 ミヤコはミニスカートの裾をちょんとつまみ、そして離す。
「まぁもう隠してもムダだから言っちゃうけど……実はね、私いま、ウサっち――ウサダくんと付き合ってるの」
 その告白は予想通りのものだった。
「ふふ、占いの人が言ってたの。身近な人と恋に落ちるって、あれ本当だったんだよー」
 ただ予想外だったのは、それを受けた俺自分の気持ちだ。
 どうして俺はこんなに腹が立っている? この怒りは誰に向かっている? 昨日からずっと、この気持ち悪さの正体は何だ?
「つい最近まではね、ぜんぜん意識してなかったんだけど――」
 ミヤコが嬉しそうに、ウサダから言い寄られたきっかけや、奴のゆるそうな外見からは想像のつかない格好良さなんかをべらべら喋りはじめた。だが俺はそんな馴れ初めやノロケには全く興味が無い。しかも朝から続く体調不良に拍車が掛かったこともあって、彼女が何を言っているのか、ちっとも聞いていなかった。
「きみに恋人が出来たのは、分かったよ。その、」
 途中で聞くに耐えなくなって口を挟むが、素直に「おめでとう」の一言が出てこない。
「ところで……それは両立し得ないものなのか?」
 その代わりに、乾いた舌で俺は問いかける。
「その男と付き合うことと、《ロングスカート保存会》の活動」 
「うーん、難しい、かな。っていうか、無理、だね。ウサっちの趣味で」
「ミニスカートを強制されているのか?」
 続いて一歩、詰め寄る。
「こ、怖い顔しないでよー。別に、無理やり穿かされてるってわけじゃないんだから」
 自ら進んで穿いているとしたら、そのほうが問題だ。とんでもない裏切り行為だ。
「もちろん最初は嫌だったよ? 恥ずかしかったし。でもね、サメぴー。恋ってすごいんだよ。本当に私、ずっと毛嫌いしてきたミニスカートだけど、今じゃその魅力に取りつかれちゃってるんだもん。ね、ミニって、よく見たら可愛いでしょ?」
 するとミヤコはふわりと得意げに、その場で一回転してみせた。低俗な丈のスカートが、下着が見えるギリギリの線で舞った。まったく吐き気がする。
 十年来の趣味嗜好が、たった数週間の男との付き合いで覆される? ミヤコにとってのスカートとは、ロングスカートという信仰とは、そんな、砂の城みたいに崩れやすいものだったのか? 俺とミヤコとの同士の絆は、薄氷みたいに壊れやすいものだったのか?
「自分からこんなスカートを短くするなんて、思ってもみなかった。やっぱりね、私、実感したよ。女の子は、付き合う男の子次第で、いくらでも変われちゃうんだって」
 慢心だった。
 ミヤコが特別な人間で、俺だけがその理解者だと思っていた。
 だが違った。俺は彼女を見誤っていた。そもそも固い絆なんて無かったんだ。
 つまり、所詮、ミヤコも他の大多数の女と変わりがない、ただれた貞操観念の持ち主でしかなかったということ。今まで鳴りを潜めていた彼女の性癖が、ウサダに触発されて表に出てきたって、ただそれだけのことなんだ。
 だからミヤコが俺の前からいなくなっても、一緒にLSWをして制服の未来予想図に花を咲かせることが出来なくなっても、一生ポケベルが鳴らなくなっても、そんなことは俺にとって何の痛手でもない。
 失うものは何も無い――そのはずなのに、何故だろう。
 目頭が熱くなって、彼女から顔を背けてしまうのは、いったい何故だろう。
「私は変わっちゃった。だから、さ……ね、サメぴー? 私たちの《ロングスカート保存会》は、もう、おしまいにしなくっちゃいけないんだよ」
 ちらりとミヤコを窺い見れば、彼女はほんのちょっとだけ俯いていた。その声色には、さっきまでの弾んだ感じとは打って変わって、寂しさが滲んでいた。
 騙されるものか。この淫乱が。お前もウサダに、白いたまごっちでも買ってもらったのか?
 いっそ罵倒の限りを尽くしたくもなったが、それすら今の震える口からは、出ない。
 何故か、出せない。
「あのね。元は私が始めたもので、サメぴーを誘って、それが私の都合で辞めるいうのは、たしかにワガママだって分かってるよ。でも私が気乗りしない活動を続けてたって、サメぴーが期待してる感じにはなれない。サメぴーを退屈させちゃう。裏切るみたいなかたちになっちゃう。だから《ロングスカート保存会》の解散は、お互いのためだと思うの」
 ミヤコは俺を案じているような言い回しをしているが、その実、振りかざしているのは余りにも自分勝手な理屈だ。
「あ、でもね、これでも、やっぱりサメぴーにわるいとは感じてるんだよ? だから罪滅ぼしっていうんじゃないんだけど、サメぴーのために、代わりに何かしてあげたいなって思ってるんだけど……そうだっ!」
 不意にミヤコは、わざとらしく、これぞ妙案とばかりに手を叩いた。
「ふふ、サメぴーもね、恋をすればいいんだよ!」
 この女は、いきなり何を言い出すんだ?
「サメぴーは、受験勉強が大変でしょ? 家の人のプレッシャーもあるし」
「それと、恋と、どんな関係が?」
「だってね、恋は、パワーなんだよ。私はウサっちと付き合い始めてから、身も心も充実してる。新しいデザインのインスピレーションもどんどん湧いてくるし、それを作る夢のために頑張ろうって気持ちも段々と強くなってきてる」
 ミヤコの瞳の輝きが、何故か俺にはとても眩しい。眩しすぎて鬱陶しいくらいだ。
「だからサメぴーも、かわいい彼女とか作りなよ。そうしたらきっとバラ色の大学生活を夢見て、勉強する気も自然に出てくるはずだって」
 言っていることが無茶苦茶だ。手段と目的が逆になっているじゃないか。
「ねぇ、サメぴーはさ、いま、好きな女の子はいないの? いるならその恋、全力で応援しちゃうよー」
 屈託のない表情とともに、ミヤコは再び上目遣いに俺を覗き込んできた。
 恋愛が力になるだって? 好きな女のためならモチベーションが向上する? 下らない。馬鹿バカしい。そんなのはモラルの低い、色欲に染められた奴らの戯言だ。
「で、で、どうなのサメぴー?」
「恋愛には興味無いよ」
「えー、でも、あこがれてる人とか、仲のいい女の子の一人くらい、いるでしょー?」
 ミヤコは野次馬根性が半分混じった調子で、ぐいぐと迫ってくる。
 憧れの女性。近くにいるのに、とても遠い存在――そういう人は確かにいた。だけど昔の話だ。いま家政婦さんのことを思い出したところで、そんなのは全くもって無意味な話だ。
 仲のいい女子。気兼ねなく、悩みを打ち明けたり笑い合ったりできる相手――それなら今、目の前にいる。一人くらい、なんて話じゃない。たった一人だ。友達と呼べる、ただ一人の相手が、そこに、
「……いる」
「でしょでしょ? サメぴーだって男の子だもんねー」
 ミヤコは俺の返事を受け、この期に及んで、我がごとのように喜んでいるみたいだ。、
「じゃあさ、その子って、どんな人? 誰? 私も知ってる人?」
 その笑顔を改めて見つめると、また胸が抉られる。

「……言えない」

「えー、なんでよー」
 言えるはずがない。
 この痛みの正体が分かったから。
 あぁ、こんなときに気付くなんて遅すぎる。
 手遅れになった後で気付かされるなんて、愚かすぎる。

 俺は、ミヤコのことが好きだったんだな。
 男として、俺は。
 女として、彼女を。

 自覚した途端に、とうとう、目から溢れた。涙が、まずはひとすじ、それを呼び水にして次第にぼろぼろと。こんなざまを見られたくなくて、俺はとっさにミヤコへ背を向けた。
 遠くの青空は、吐き気がするほど美しい。
 好きだったんだ。
 だけどもう、ミヤコは同好の士ではない。その証拠に今はミニスカートを穿いている。
 彼女は既に汚れた女だ。淫乱な雌犬だ。男を覚えて我欲に走った裏切り者の売女だ。その証拠に今はミニスカートを穿いている。
 俺の恋路を応援するとか何とかいう話も、単に自分の罪悪感を薄めようとしているだけのことだ。その証拠に今はミニスカートを穿いている。
「さ、サメぴー?」
「来るな」
 俺はミヤコから離れて、窓際へと歩いた。近寄って回り込もうとする彼女を、絞り出すような声で弱々しく制する。
「来ないで、くれ」
 鼻汁まで垂らした俺の顔が、窓ガラスにうっすらと映っていた。
 俺たちの間に生まれた沈黙を破るように、ホームルーム前の予鈴が鳴った。
「……そう? じゃあ言いたくなったら相談してよ。キューピッド役ならいつでも受けちゃうからね」
 うるさい。お前に何が出来る。
「あ、そうそう、サメぴー」
 タタッと駆けて戸を開けたミヤコが、去り際に言った。
「今度、デートするときは気をつけなきゃダメだよ。夜遅くまで勉強してるのは分かるけど、女の子との待ち合わせ場所で居眠りなんて、本当はアウトなんだからねー。ふふ」
 それじゃあね、という最後の言葉は、戸を閉める音に紛れてうまく聞き取れなかった。
 この理科室に一人で残された俺は、ふっと力が抜けて、立っていることも辛くなった。近くの椅子に腰掛け、流し台に頭を突っ込ませた。それから、腹の中を空っぽにした。

       

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