Neetel Inside ニートノベル
表紙

文芸夏の思い出企画
思い出と呼ぶにはあまりに進行形で/栗野鱗

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 ベンチも木陰もなく、殺風景で直射日光と海からの風に曝されるせいで人気(『にんき』でも『ひとけ』でもよい)のない、昼休みの屋上。それでも放課後には、ここにビニールハウスを置く園芸部と、ショボいスピーカーが三個ほど付属した大きめの鉄塔型アンテナを置く放送部でそこそこ賑わうのだが。
 その屋上と階段を繋ぐ唯一の扉に背を向けて、両腕を額の前で交差させ、それを枕がわりに網状の高いフェンスに体重を預ける。眼下の校庭、体力を持て余す生徒たちがサッカーボールとともに右に左にと鬩ぎあう嬌声は上昇気流のように辺りを突き抜け、それはまるであの入道雲を支えているかのような勢いで。

 昨日、下駄箱をポストがわりに使うという古典的でありふれた方法で美里に手紙を渡した。何故そんな手段を使ったのかというと、それは俺が美里の携帯もメルアドも知らないからで、俺自身が懐古趣味であるとか乙女心を擽ろうとあざとい計算をしたとか、そういう理由は、ほんの三割くらいにとどまる。

 そもそも俺が美里のことが気になり始めたのは、いつのことだったか、と問われたならば。
 正確な日付は覚えていないけれども、去年の夏。曇で風の日。
 部活動というものに参加していない俺は、放課後に図書館で本を読むのを習慣にしていて。その窓の外では洋弓部が練習をしていることが、雨の日以外では常だった。
 読んでいた本から目を離し、頬杖をついて、その内容を思考としてまとめるともなしにぼんやりと窓の外を眺めていて。その時、部員のひとりである女子が放った矢が的へと向かう途中、風で舞い上がった枯葉に当たり、その葉が砕け散って。やや間があって、その女子は集中から無表情、驚きへとくるくる表情を変え、そして笑顔。右手で小さくガッツポーズをしたんだ。
 それからその女子は俺の視線に気付いたのか、俺を見て軽く会釈をし、にっこりと微笑んだ。
 その時、その女子が放った矢が正確に的に当たったのかどうかは知らない。ただ、ありふれた言い方をするのならば、その一連の光景は超高画質のスローモーションで脳内に保存されている。
 そして、もっと陳腐なことを言うと、その矢ではなく、笑顔が何を貫いたのかと問われたならば──
 その女子部員が、美里だった。
 放たれた矢が舞う枯葉に当たる、という出来事がどのくらいの確率で、どの程度の必然性があるのかというのは、俺にはわからない。
 だけど、たぶん、美里のことが気になり始めたのは、必然なんだろう、と、思う。

 背後で、ギギギ、と錆びた金属が擦れる重い音がする。その音に振り向くと俺の予想に違わず、それはこの屋上と階段を繋げる唯一の扉が開けられる音で、その音をたてた主は、片目分ほど開いた隙間からこちらの様子を窺っている。そして、人(俺)がいるのを確認し、扉を両手で開けてこちらへと出てくる。
 美里だった。
 美里は鉄扉の前に立ち、俺に向かって手を振ろうとする。つられて俺も右手をあげ、手を振り返そうと、が。
 突風。
 夏休み前の屋上を吹きぬける湿気を含んだ突然の風に、美里は右手で髪を、左手でスカートを押さえる。
 白。
 いわゆるラッキースケベというものなのだろうが、俺は元々そういうものに縁が薄いらしく、気づいた時には既にチャンスは過ぎている場合がほとんどで。それでいて『見たわね』などと咎められるのだから、全くもって割に合わない、と主張せざるを得ない。──今のは見えたけど。だけど俺は思春期特有の潔癖さも手伝って、一応の紳士的態度を示すことにした。
「髪、だいじょうぶ?」
 と、俺は声をかける。洋弓をする都合か、美里の髪はそれほど長くはなく、あごのラインより少し下側で綺麗に内側にカールしている。あえて髪に限定して声をかけたのは、その白を見た気恥ずかしさから。
 美里はスカートや髪に乱れがないかをチェックしながら、
「だいじょうぶよ、ありがとう」
 そう応え、俺の方へと小走りで近づいてくる。とてとてと。
 これが『女の子走り』か、と思いながら、まだ成長期ということもあってか控えめな胸の前で、俺がやったらファイティングポーズになるであろう形の美里の腕の揺れを見て『何が違うんだろう?』と、どうでもいいことに思考が逸れる。
 でも、マジで何故だ。謎だ。
 そして、まだ、とてとてと。遅い。
 美里はそれほど鈍そうには見えないし、実際、洋弓もしているのだから運動神経は悪くはないであろうに。
 間抜けだ。手を降ろすタイミングを見失ったうえに、間が持たない。
 女の子ってすげえ。ほんの十メートルにも満たない距離を小走りするだけで、こんなにも心と視線を掴むものなのか。そう思いつつ、あげたままの右手で痒くもない左肩を掻き、そのまま左の二の腕を掴む位置に留める。
 そうこうしてるうちに、ようやく美里が俺の目の前に到着する。そして、俺を笑顔の上目遣いで見つつ、
「話って、なに?」
 なんだか半分『わかってるのよ、言っちゃいなさいよ』とでも言いたげな、いたずらっ娘のような表情で。
 いや、シチュエーションからして、美里が優位なのは当然だ。
 下駄箱に手紙、話したいこと、屋上。こうして来てくれたことだけで僥倖といえるのかもしれない。いや、自分でもそこまで卑下することもないかとも思うが。
 金網の外、校庭の方から一際大きな嬌声が聞こえる。それにひかれるように、美里は俺のすぐ脇で金網に額を寄せ、嬌声がした方を覗き込む。
「暑いよね」
 そう言って、場をつなげる。実際、昼休みに校庭や体育館で生徒が走り回るのを、学校側は好ましく思っていないらしく、ホームルームやプリント、気温が高い日には校内放送を使ってまで熱中症対策を刷り込もうとしている。万が一のことが起こってしまった時の方便やエクスキューズのためなのだろうが、そのわりに化石級の根性論的な方法論を旨とする指導で知られる野球部を容認しているのが不思議なところで。『だから勝てないんだ』と、揶揄されてもいるが、野球部が勝てないが故に、吹奏楽部のほうは空調の効いた場所で自らの練習に専念できて好成績なのかもしれない。なんだかちぐはぐな印象の残る、妙な校風である。他校の校風に詳しいわけではないが。
「うん、そうだね」
 いかにも流れで返事をしたような口調で、美里。そして、それは続きの言葉を急かしているかのようでもあり。
 そして、それに応える。
「もうすぐ夏休みだね」
「そうだね」
 ここまでは、会話としては定型文といっていいだろう。実際に暑いのだし、夏休みはもうすぐなのだし。そんなことはわざわざ言葉にするまでもないことのはず、なのだけど、会話の枕としては非常に有効で。と、どこかのラノベに書いてあった。ような気がする。
 本題は、ここからなのだ。正念場。
 気持ちを落ち着かせるために、一回、大きく息を吸う。そして、それが緊張のせいだと美里に覚られぬよう、伸びをする振りをし、そして両掌を後頭部へと回して支え、美里の隣、金網によしかかる。
「何か予定はあるの?」
 ……やっと。やっとの一言。
「私は部活よ。アーチェリー。図書館から見てて知ってると思ってたのは、私の自惚れだったかなー」
 それなのに、美里はあっさりと、そう言う。しかも小悪魔的な余裕を見せつけて。
「いや、洋弓部は知ってたけど、夏休みも毎日?」
 もしかして、あの日、目が合って微笑んだ相手が俺だって、憶えているのだろうか。確かに、俺は図書館にいることが多いし、窓の外には洋弓部の練習をほぼ毎日見かける。勿論、その中の美里の姿を目で追うことも無かったとは言えないけど、美里が俺を気にしていた様子は一切感じなかった。
 だから、古典的でも遠まわしな方法を選んだのだけれど。
「お盆以外は、だいたい」
 確かに、あの場所は校舎の位置取りの都合から丁度日陰になっていて、直射日光に曝されることがほとんどない。ある程度の風さえあれば、昼間でもそれほど活動に支障はないだろう。ただ、洋弓にとって風というものがどのくらい影響するものかというのは、わからない。陸上競技などでは追い風参考記録というものもあるらしいけど、洋弓では、どうなんだろう?
「も・し・か・し・てー」
 美里の声は悪戯っ娘度を更に増し、上目遣いで俺のほうに顔を向ける。
 並んでみて、こうして傍に立ってみて、意外と身長差が小さかったことに気付く。洋弓の弓って、意外と長いのか。もっとも、備品であるなら丁度いいサイズとは限らないけど。
「デートのお誘い? うふふ」
 どうでもいいことばかりに思考が逸れる俺もどうかと思うが、美里もわりとマイペースに話を進めるので、あまり女子とふたりきりで会話したことのない俺は助かっている。常に流れの先手を取られたりするのは、男子と女子の社交力の差以上に、なにかがあるのだろう。
「いいよー。お祭り行こうよ。縁日の出店」
 こうして、美里は笑顔で主導権を握ってゆく。
 なんだろうね。それが心地良い。
「昼は部活があるけど、縁日なら行けるし。どう?」
 畳み掛けるかのように、美里は会話を進めてゆく。俺にとっても悪いほうへの流れではないので、まあ、いいか、と俺は流れに身を任せる。
「うん、じゃあ、それで」
「なんだー、あんまり嬉しそうじゃないなぁ」
 美里はそう言うと、肘を張った左手を腰にあて、右手で俯き気味の眉間を軽く掻く。アニメっぽい身振りをする人なんだなぁ、と思いつつ、意外な一面であったことは、それもその通りで。
「ってゆーか、なんで私だ、かっこわらいかっことじ。って感じなのよ」
 ここで反応を求めるかのような表情で美里が俺を見たので、ここは正直に答える。
「なんか驚いちゃって。部活は楽しそうだし友達も多そうだし、高嶺の花っぽいかな、とは思ってたからかな」
「おまえがそう思うんなら、そうなんだろうな。おまえの中では、な」
 美里が声を低く、呟くように。
 冷や汗。何か、逆鱗的な?
 取り繕おうにも、何も思いつかん、詰んだか。
「おたがいさま、だけどねー」
 肩を下ろし謝ろうと思った次の瞬間、美里は俯いていた顔を上げてこちらを向き、明るい声と笑顔で、俺にそう言う。
 やべ。まじビビった。明日から暗黒のスクールデイズを一年以上過ごすことも覚悟しかけた。手紙を教室に貼り出される恐怖と同じくらいに怖かった。
 でも、まだ半分おそるおそる、息を整え、一応質問する。
「おたがいさま? なにが?」
「ひみつー」
 そう、無邪気といえばあまりに無邪気なままの笑顔で。上半身を少し前傾させ、自分の腰の後ろに両手を回し。そして、左足のかかとを屋上の床に渇いた音がするくらいに軽く当てて、体ごと金網の外へと向き直る。
 腰を伸ばし、やや空を見上げた美里は、大きく一回、深呼吸をする。そして、
「なんか、他人から見るとどうでもいいことなんだけど、縁を感じちゃうこととか、あるよね」
 今までとは全然違う、落ち着いた、語りかけるような調子で。
「まあ、あるかな」
 俺はそう言ってごまかすけど、あるよ。あるよね。
 たとえば、通りすがりというにはあまりに疾い矢に砕かれた枯葉だったり。美里にとっての『それ』が何かは、まだ今は知らないけれども。
「特に嬉しいことじゃなくても、珍しい出来事とか。それが願掛けみたいに思えちゃったり」
「……」
 うん。何かがパチン、と。
 どこかで何かのスイッチが入って、それは、気持ちのどこかのスイッチが切り替わる音でもあったり。自動的で連鎖的で、でも、意思も気持ちも動かしてしまうような。
 そこから何かが始まるような。
 そう思い、俺が言葉を返さずにいると、
「そゆこと」
 いつの間にか俺のほうを向いていた美里は『えへへー』と少し照れた感じで笑い、
「ゆびきりしよーよ」
 右手の小指を、小さく自分の胸の前で立ててみせた。

       

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