Neetel Inside 文芸新都
表紙

かくも遅咲き短篇集 参
揺らぐ、不透明な膜/つばき

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「二十歳の頃、二ヶ月ほど引きこもっていたことがあるの。
 必要最低限の買い物をしにスーパーやコンビニに行く以外は外に出ず、知り合いとも会わなかったし、電話で家族と話すことさえなかった。一人暮らしのマンションの部屋の中でただ毎日食事をして、本やパソコンに向かって時間をひたすら消費し続けた。それでも定期的に部屋の掃除はしていたし、ほぼ毎日お風呂にも入ってた。朝起きると部屋着に着替えたし、夜になればきちんとパジャマに着替えた。もちろん一度着た服はきちんと洗濯した。ほとんどまともな生活と言ってもよかったと思う。他人との接触がほぼないことと、激しい憎しみを抱えていたこと以外は」

 ある日マイコは偶然に、この世には許されるべきではないものごとが実際に存在することを知ったのだ。そして彼女は外に出ることをやめた。この世界のあらゆる人間は信頼するに値しないと思った。老人は醜く病み衰え、子どもは傲慢で聞き分けがない。若く美しい女は他人を見下し、醜い女は自己卑下の塊で不愉快だ。そして男たちは暴力と性欲を持つ不可解な生き物だった。ここは醜悪なだけではなく、きわめて危険な世界なのだ。外では人気のない暗がりに誰か頭のおかしい人間がいるのではないかと疑い、部屋では真夜中誰かがベランダから窓を破って侵入してくるのではないかと怯えた。その暗がりはある日なんの前触れもなく私たちを捉え、引きずり込むかもしれない。今まで私はどうしてあんなに呑気に、怯えることなく暮らしていられたのだろう。自分だけは被害者になることがないと信じきって。
 人を脅かし傷つけることを悦ぶ種類の人間の頭を一人残らずかち割ってしまいたい。そのイメージは強迫的にマイコの脳内にこびりつき、幾度も繰り返し再生された。何万人もの頭をマイコは叩き割り、大量の生臭い血を浴び、数え切れないくらいの生温い脳みそを破壊した。日々淡々と。けれどその途方もない質量の憎しみはマイコの意識の器を超えるものだった。彼女は食べては吐き戻し、不眠がちになった。体重が減り髪の艶は失われ、鏡を覗くと血色の悪い顔が映った。それでも抗うように毎食きちんと料理をして決まった時間にベッドにもぐった。日々の時間の流れになんとかつかまっていなければとマイコは思った。そうしなければ私は悪意に負けたことになってしまう。
 そして二ヵ月後、それは始まったときと同じように、ほんとうになにげなく終わった。

「そのとき私は煮魚をつくっていたの」とマイコは言った。
「鯖の味噌煮。初めてだったから、ネットで調べて魚をおろすところからやった。頭を切り落としてお腹を切り開いて内臓をかき出して洗って。台所が随分なまぐさくなった。誰かがそんな風に誰かを ―― 人間を殺したりするときのことを想像せずにはいられなかった。実際にこの世界では数え切れないくらい何度もそんなことが起きていたんだと思うと動悸がして手が震えた。背筋が寒くて何度も吐きそうになってえづいて、涙が出た。でも負けたくなかったから眩暈に耐えて冷や汗を流しながら料理を続けたの。
出来上がってもどうせ食べられないと思っていたんだけど、一口食べてみると、自分はずっと飢えていたんだってことを強烈に思い知らされた。夢中で食べ終えてからすぐに続けて料理を始めた。買い置きしていた材料はたくさんあったから。豚の生姜焼き、肉団子、肉豆腐、オムレツ、つくっては食べ続けた。それまでまともに食べられなかった分を取り返すみたいに」
「そして、引きこもるのをやめた?」
 マイコの前には美しい青年が座っていた。色素の薄い髪になめらかな肌、やさしいアーモンド型の目に大きな瞳。鼻筋と口元は彫像のように整っている。マクドナルドの狭い座席には不釣合いな容姿の端正さは当然周囲の注目を集めていた。マックシェイクをすすりアップルパイを齧る彼の身体は適度な筋肉でしなやかに引き締まっていて、美しい肉体の気配は服の上からでも容易にわかった。世の中は不公平なのだとマイコは思う。どれだけ切望してもそれを手に入れられない人と、何の苦労も自覚もなく手にする人が居るのだ。
 サナカミノルは自分に視線が集まるのに慣れている。それはごく自然なことなのだ。彼は何も臆することなくマイコの瞳をまっすぐに見つめて、話の続きを待っている。
「そう。ちょうど夏休みが明けて、学校が始まって二週間目のことだった。私は何もなかったように日常生活に戻った。夏休みのあいだ連絡しなかったことを友達に訊かれて、携帯が壊れていたし、先週は風邪を引いていたから家から出れなかったと嘘をついた。だから私が引きこもっていたことは誰も知らない。その時間はまるごと行方不明になったみたいに、どこにも何も残さなかった。私でさえそれを忘れていたくらいだから」
「忘れてた?」
 サナカミノルはその整った眉を少しだけ動かす。
「なぜかはわからないけど。思い出したのは最近なの。別に意識して忘れようと思っていたわけでもないから、どうして忘れていたんだろうって自分でも不思議なんだけど」
 夏の夜のマクドナルドは湿った喧騒と熱気に満ちていて、どんな声もそこに溶け込んで匿名の響きに変わる。夢中で喋る女子高生の集団、スマホに見入っている大学生らしき男の子、何をしにきたのかハンバーガーとポテトを無表情に見つめ続けている中年女性、この真夜中に行き場のない人々で溢れている店内の、その一部なのだ私たちは。どこにでもいるみすぼらしい女の子にとびきりの美青年、カップルだとは思われないだろう。格差が大きすぎる。
「魚を血なまぐさく調理したことで、何か変容が起きたとか? 人間は生きている以上誰でも何かの命を奪っているんだ、とか」
 サナカミノルの問いかけにマイコは首を振った。
「そういうわかりやすい啓示的ななにかがあったわけじゃなくて、たぶん、ただ諦めたんだと思う。日々を悪意に怯えながら暮らしているのは本当にひどいストレスで、早くその荷物を投げ捨ててしまいたかったから。たまたま煮魚をつくっているときに、憎しみが飽和点に達したのよ。最低な人間のことを考え続けて私が辛くなるなんて間違ってる、って」
「そういうの、諦めって呼ぶのかな」
「諦めだと思う。でも生きていくためには必要なものだった。なにか予測不可能な恐ろしいものに出会うたびに引きこもるわけにはいかないから」
「まぁ、確かに」
 サナカミノルは肘をつき、組んだ手を口元に当てて何かを考えている。既にアップルパイもシェイクも全て彼の胃の中におさまっていた。何かものを食べるなんて嘘みたいだ。毛穴のない白い肌や濃く長い睫毛を見ていると、なにか特別な―― 名前の知られていない果物だとか、そんなものを食べているんじゃないかと思ってしまう。
 そしてマイコは自分の肌のことを思い出す。思い出さずにはいられない。暑い一日を過ごしたせいで髪は湿って脂ぎっているし、すえたにおいのする日焼け止めやねっとり毛穴を塞ぐファンデーションは汗に混じって溶けている。アイメイクが落ちて目の下は黒ずんでいるはずだ。そんなに濃い化粧をしているわけではなくても崩れれば汚い。服にも汗が染み、辺りに自分の体臭が漂っている気がして後ろめたい。
 不完全な目鼻の造作、なめらかではなく白くもない皮膚、お腹にうっすらついただらしない脂肪、足首は細いのにふくらはぎは張っていて均整のとれていない脚のかたち、そういうものが自分の存在をじわじわと削り、批難している。周り中が自分を笑っているような気がする。目の前の青年には哀れまれてさえいるかもしれない。
「それで、引きこもる原因はなんだったの?」
 サナカミノルに訊かれて、マイコは少しだけ考えた。そもそもこんな話をするつもりではなかったのに、いつの間にこの話題になったんだろう。思い出せない。
「昔起きたある事件のことを、偶然ネットで詳しく知ることになったの。それまでは名前くらいしか知らなかったんだけど」
「どんな事件」サナカミノルが訊く。訊きにくいこと、というのがたぶんこの人にはないのだと思う。
「ある女の子が不良たちに監禁されて、毎日のように暴力やレイプを繰り返されて、最終的にはリンチされた挙句衰弱死するの。遺体はばらばらにして山中に捨てられた。見つかった遺体は損傷がひどい上に、あまりにも殴られすぎて目の位置までもが変わっていた。犯行グループの一人が自首したけれど、自首するまでの二ヶ月の間に、不良たちは3件のレイプ事件を起こしていた。そういう事件」
 思い返すだけで吐き気がした。
「ああ。当時かなり報道されてた。まだ小学生だったけどなんとなく聞いたことがある」
「私もその程度しか覚えてなかった。でもあるとき偶然、ネットのサイトを見つけて知ってしまったの。そこで何が起きたか、女の子は男たちに何をされたのか、どんな風に殴られて、犯されたのか。吐き気がした。そんなことをして悦ぶ人間がいるという事実に。そんなサイトを見なければ良かったのかもしれないけど、一度見始めたら止められなかった」
「そんなにひどいの」
「うん。絶対に見ない方がいい」
 サナカミノルは小さく頷く。
「だってその子はなにをしたわけでもないのよ。ごく普通の高校生の女の子だったの。なのにそいつらのせいで普通は味わうことのないはずの苦痛をめちゃくちゃに味わって死んだ。そのことを許せなかったし、それ以上に怖くて、引きこもろうとした。でも結局その犯人を憎み続けることはできなかった。彼らを憎み続けるのも、頭を叩き割る妄想をし続けるのも辛かった。そういう汚れたものを抱え続けることができなかった。誰かを傷つけるのは辛いことなのよ。本当は」
「でもそうじゃない人間もいる」
 マイコが目を上げると、サナカミノルと真正面から目が合った。
 確かにいる、とマイコは呟くように答えた。

 マイコがサナカミノルと会うのはこれで五回目だ。それは大体二週間に一度、水曜か金曜の深夜だった。マイコの彼氏とサナカミノルの双子の姉が会っている時間帯だ。
 つまりサナカミノルは、マイコの彼氏の浮気相手の弟だ。ただ彼氏が――ヒロがしていることが浮気と呼ぶのかどうかマイコにはわからなかったけれど。
「それで、思い出したのはどんなとき?」
「え?」
「行方不明の引きこもり期間のこと。なにかきっかけがあったんじゃないの」
「それは、……」マイコは黙って、少ししてから首を振る。
「言いにくいし、言いたくない」
「そっか」
 サナカミノルは特に気にする風もなく、携帯をジーンズのポケットから取り出す。机の上には既に彼の携帯が置いてある。二台目の携帯を覗き込みながら彼は鼻で笑う。
「すごいメールが来てる。これもう、ストーカーじゃないかな。ちょっとどうにかしないと」
 マイコはそう、と相槌を打つに留める。
 彼が見ているのは双子の姉の携帯に来たものと同じメールだ。同じ情報が入る仕組みになっているらしい。どうやったらそんなことが可能なのかマイコにはわからないし、電話がどうなるのかも知らない。
 マイコが彼氏の浮気を知ったのはほんの偶然だった。ゼミの飲み会の帰りに普段使わない駅で、仕事で遅くなるはずの彼氏が一人で改札を出て行くのを見かけた。後日こっそりと携帯を見ると、明らかに女の子からの、絵文字満載のメールが来ていた。次の金曜日なら会えるよ、と。
 金曜日、マイコは待ち合わせの時刻にあわせてその駅に向かった。雨が降っていたので途中の雑貨屋で地味な色の傘を買い、それを差した。
 待ち合わせ場所に現れたのは、人形のように白く細く、マイコが今まで人生で関わったことのないくらいにきれいな女の子だった。遠目でもわかるくらいにそれは際立っていた。周囲の空気が、普通ではないものに変わってしまうくらいに。通り過ぎる誰もが彼女に一瞬目線を向けていたし、じろじろ見る人さえいた。ゆるく巻かれた長くきれいな髪、ほっそりとした足。若い果実の匂いがしそうな横顔。たぶんヒロもそんな女の子に関わるのは初めてだろう。二人が腕を組みホテルに入っていくのを見届けてから、マイコは一人で帰った。
 それからマイコはヒロの携帯をこっそりと覗き見しては二人が会うのを見に行った。待ち合わせ場所の遠くから見張り(雨が降らない日は念のため帽子をかぶった)、ホテルに入っていく背中を見届ける。なぜそんなことをするのかマイコは自分でもよくわかっていなかった。ただ、そのきれいな女の子を見たいだけなのかもしれなかった。そして納得する。そう、彼女は生き物としてマイコより圧倒的に勝っているのだから、と。敗北するのは当たり前で、自分には傷つく資格さえないのだと。
 季節が春から梅雨に移ってもまだマイコは同じことを続けていた。そしてある日サナカミノルがマイコに声をかけた。彼も同じように、自分の姉が男と会う現場を見に来ていたのだ。そこにはいつもマイコがいた。「教えておきたいことがあるんだけど」、と彼は最初に言った。それからこうして二人で話すようになった。
 奇妙な成り行きだ。
 サナカミノルが浮気相手の双子の弟だという言葉をマイコはすぐに信じた。遠くから見た彼女の雰囲気に似ていたし、それにこれだけ綺麗な顔をした人間はそうそういないから。
「そんなにお姉さんが好き?」
 携帯を見つめているサナカミノルにマイコが訊ねる。彼は画面から目を離さずに口を開く。
「好きという言葉が適切なのかどうかはわからないけど、かなり執着はしてる。普段はなにかに執着するってことがないんだ。大抵のことはどうでもいいし、どうにでもなると思ってる。でもメグミのことだけは自分が全部把握していたい。どうしても」
「メグミさんのしていることは嫌じゃないの?」
「男と二人でホテルに行くこと? 嫌じゃないよ。メグミがそうしたいんだったら。でもそれでメグミが危ない目に遭うのは嫌だな」
「そこでしていることが正しいことじゃなくても?」
 サナカミノルは私の質問の意味がよくわからないというようにこちらを見た。
「マイコには申し訳ないと思うけど、それほど正しくないことをしてるとも思ってないんだ。良くないことだっていうのはわかるけど。それにもしメグミが正しくなかったとしても関係ないよ。俺はそういうメグミが好きなんだと思う」
 その言葉はマイコの住んでいる世界の文脈に属さないものだ。マイコの世界では、彼女がいる男の人と二人でホテルに行けばそれは重罪だ。
 それとも私はヒロのことを本当には好きじゃないのかもしれない。だってヒロを許せそうにない。他の女の子と二人でホテルに行くなんて絶対に許されることじゃない。たとえそこで二人が寝ていないとしても。
 そう、二人は寝ていないはずだとサナカミノルは言う。彼の姉のメグミは処女なのだと。でももちろん本人たちから聞いたわけではないから、それは勝手な推測でしかない。
 メグミは男たちと会うけれど、セックスはしない。なぜなら彼らは彼女と行為に至るほどの価値がないからだ。メグミはかなりプライドが高いから、とサナカミノルは言った。メールの内容から推測すれば、彼女は男たちの前で望む洋服を着てみせて、場合によっては彼らが自慰行為に及ぶのを見守っているらしい。それが初対面のサナカミノルから教えられたことだった。どうしてそんなことをする必要があるの、と呆然としたマイコが訊ねるとサナカミノルは首を振った。「それがたぶんメグミにとって必要だからだと思う。理由は知らない」
 それらもまたマイコの世界の文脈には存在しないものごとだ。
 別世界の言葉を、別世界の人間が口にしたのだから、それほど違和感はなかった。言葉も容姿も彼は非現実的すぎた。だから一緒にいると周囲の視線を居心地悪く思うことはあっても、サナカミノルには平気でものを言えた。普段は話さないようなことも彼が相手ならば特に警戒せず話した。自分でも不思議なくらいにするすると言葉が出てくるのだ。引きこもっていた時期のことを人に話したのも初めてだった。
「引きこもってた話、彼氏にはした?」
 サナカミノルは携帯をまたジーンズにしまい、マイコを見て言った。マイコは首を振る。
「あんまり、人に話すようなことじゃないと思ったから。それに聞いても面白くないだろうなと思って」
「そうかな。マイコにとって結構大事なことのように思ったけど」
「でも、途中までは忘れてたくらいだから」
「ふーん……マイコは彼氏のどんなところが好きでつきあったの」
「なに、急に」
「なんとなく気になって」
 マイコはウーロン茶をストローですする。隣の席の女子高生たちが立ち上がり連れ立って店を出ていき、ほんの少し喧騒の厚みが減る。時刻はもう一時近かった。終電もないし、夜のカラオケは高いし、彼女達はこれからどこに行くのだろうと不思議に思う。あるいはマイコの想像を超えた世界があって、そこにはちゃんと行き先が存在するのかもしれない。たとえ真夜中であっても。
「ヒロは、研究室の先輩で」
「うん」
「在学中はそんなに話をした覚えがないの。ただ彼が卒業してから研究室の飲み会があって、そこにOBとして参加していて、そのときにたまたま話をして仲良くなって、メールのやりとりをして、告白されて」
 その過程でマイコはたくさん悩み、なぜ自分なのだろうと不安になっては相手と話し合い、少しずつ関係を確かなものにしたはずだ。それなのに口にしてしまうとそれはとても平凡で当たり前のものごとのようになってしまう。ひどく陳腐だ。
「私はあまり男の人が得意じゃないし、きれいでもないから、誰かと付き合うのは初めてで。だから他の人がどういう風にしてるのかはわからないけど、好きだと思う。話しやすいし、怖くないし、尊敬できるところもあるし……一緒にいると楽しかったから」
「でも、彼氏は今メグミと会ってる」
 痛い言葉だった。マイコは黙り込む。
「メグミは相手を選ぶんだ。うまく行っていないカップルの男に近づく。でも自分からは絶対に誘わない。ものごとは自然に運ぶ。異常なくらい勘がいい。意識してるわけじゃないけど、たぶん本能的なものだと思う。だから何か二人にもあるのかと思って。なにかしら不自然なものが」
「不自然なもの」
「うん。マイコは、ガードが固いしね」サナカミノルは表情を崩さないまま言う。
「ガードが固いのに、境界がゆるいんだ。アンバランスなんだよ。たぶん処女だ」
 マイコは目を見開いて息を呑んだ。恥ずかしさと咄嗟に沸いてきた怒りで呼吸が止まる。何かを言いたいのに言葉がうまく出てこない。顔が熱い。
「そうだとして、なにが悪いの」
「彼氏と付き合って何ヶ月?」
「七ヶ月だけど」
「もちろん何も悪くない。でも不自然な気もする。なにか事情がある?」
 マイコは黙り込んだままこぶしを握り締めてうつむいていた。
「不快だったらごめん。気にすることない、みんなどこかしら不自然だしおかしいんだ。俺もそうだし、メグミだって頭のおかしい人間なんだよ。それこそ人を傷つけることを喜ぶタイプの人間だ。異常なバランスを保つために、異常なものが必要になるんだ。マイコなんかすごくまともだよ」
「まとも?」マイコは訊き返す。
「悲惨な事件ひとつ知ったくらいで二ヶ月引きこもったり、それをきれいさっぱり忘れてしまうのが?」
「たぶん少し敏感なだけなんだろうし、ある意味では正常だよ」
「そのあと理由もわからない男性恐怖症になったり、なんとか克服したと思って彼氏とつきあってみればセックスできなくて、いざというときになったらその事件の被害者と自分が急にシンクロしたみたいになって怖くて、彼氏を罵倒して、わめき散らして、挙句胃の中のもの全部吐き戻した最悪な女がまともなの?」
 マイコの脳裏に記憶がよぎる。自分の吐瀉物にまみれたベッド、それを呆然とした顔で見下ろすヒロの表情、不快なにおい、それを嗅いでまた酸っぱいものがこみあげてくる衝動。マイコは知っている。ヒロがよそよそしくなったのはあれからだ。気にしなくていいと彼は言った。そしてそれは「なかったもの」として扱われた。けれど、ずっとずっと壁がある。なにかしら、とてつもなく不自然なものが。
 マイコは黙り、うつむいたままテーブルを見つめていた。奇妙な離人感があった。周囲から自分だけが浮かび上がっているような、音や光や全ての刺激が遠い感覚。取り巻く喧騒が壁を作り、光は薄い膜になって視界を曖昧にする。そういえば引きこもっていたとき、いつもこうだった。現実が遠く、自分の頭の中の恐怖やイメージだけが異様に鮮烈になっていくのだ。
「まともだよ」
 サナカミノルが答えた。
 ふと、現実に引き戻された気がした。
「警戒心が強いだけなんだ。それでもマイコは一人で頑張ろうとしているから、十分にまともだと思う。それに俺はマイコのそういうところは好きだよ。変な意味じゃなくて、人間として」
 マイコは呆然と相手を見ていた。どうしてこの人はこんなに素直に、言いたいことを平気で言ってしまうんだろう。
「少しくらい欠落がある方がいいんだ。これからの行き先が全部わかってる体のやつらが一番得体が知れない。なんの話も出来ない。興味ないよ。そんなのただの嘘つきだ」
 サナカミノルは立ち上がった。
「おいで、マイコ。行こう」


 その夜、サナカミノルはマイコをホテルに連れて行った。マイコはそういう場所に入るのは初めてで強い嫌悪感があったけれど、サナカミノルは平気な顔で建物に入り、黙ったまま部屋までマイコを連れて行った。手を繋いだり肩を抱いたりせず、親しい人を道案内するようにごく自然な様子で。
 エレベーターを降りて部屋に入ると、中は思った以上にごく普通の内装だった。アイボリーのベッドカバー、落ち着いた過不足のない調度品、控えめな照明。「ビジネスホテルみたい」とマイコが言うと、サナカミノルは「何を想像してたの」とくすりと笑った。
 マイコはしばらくドアの傍に立ちつくしていた。自分がなぜ彼についてきてしまったのかわからなかった。ヒロに対する復讐心なのだろうか。浮気なんかしたいわけじゃない、もちろん。でもサナカミノルはマイコが嫌がることは何もしないと言った。だから大丈夫だ。なんの確信もなく自分に言い聞かせる。そもそもその約束が遵守されるかどうかだってわからないのに。
 サナカミノルは小さなソファに座りテレビをつけバラエティ番組を見始めた。マイコはしばらくそれを見ていたが、直に手持ち無沙汰になって、テレビの近くにある鏡台の椅子に座った。
「マイコ、来なよ」
 テレビから目線を反らさないままサナカミノルが言う。マイコの身体が緊張で跳ねるように震えた。
 でも結局マイコはサナカミノルの隣に座る。小さなソファに、少し距離を開けて。
「どうしてこんなことしてるんだろう」とマイコが言う。
「さあ。でもこれが自然なことのような気がしたんだ」とサナカミノルが言う。
「人から見れば、不自然なことだと思うけど」
「そうかもしれない。でも必然性がある。俺の中では」
「根拠は?」
「単なる感覚だよ。直感」
「アテにならない」
「でもマイコは一緒に来た」
「そうだけど」
「たまに思うんだ」
 サナカミノルはテレビのノイズの前で小さく呟く。
「この世のなりたちの全部は、助け合いなんじゃないかって」
「助け合い」
「うん。存在するだけで、誰かが誰かをそっと助けているんだって。人との関わりを善悪で判断するのは人間の意識であって、全てのものごとは本来は中立なんだ。たとえばメグミはマイコの彼氏を助けているのかもしれない。本人同士にそんなつもりがなくても」
「よくわからない」
「わからなくていいよ。単なる世迷いごとだから」
「あなたは私を助けようとしている?」
「もしかしたら。信じてくれなくてもいいけど。別に俺は、彼氏に浮気されて傷ついてる未経験の女の子をうまく言いくるめてセックスしようとしてるわけじゃないんだ」
「そう思う人が世の中のほとんどだと思う」
「まぁね。君を助けたいんだ、なんて言ったら平手打ちくらいそうだ」
「参考にする」
「好きなようにすればいい。マイコは自由なんだ。ここで何を感じようが、何をしようが、正しさとは全然関係がない」
「自由?」
 そう、とサナカミノルが言う前に、マイコはその首筋に身を寄せて腕を回す。しっとりとあたたかな体温に含まれる、やわらかい人間のにおいがした。
 その行為に背徳感はなく、むしろ不思議に落ち着いた。マイコは力をこめて彼に抱きついていた。そうしたくなったからだ。サナカミノルは何も言わずにそれをじっと受け止めていた。
「ヒロとはほとんどこういう風にしたことがなかった」
「恋人同士なのに?」さすがにサナカミノルが驚いた声を出す。
「特に、私が拒んで吐いてからは一度も。もちろんキスくらいはしたことがあったけど、自分に必死に言い聞かせてた。この人は大丈夫なんだ、怖がらなくていいんだ、って。もちろん嫌いじゃなかった。好きだった。でも我慢してた」
「うん」
「私にはよくわからないの。どうやって自分を受け止めたらいいのか。自分の中には、人に受け入れられるべきではない性質のものが多すぎるから。ヒロが好きだって言ってくれて嬉しかった。でも私は彼と居るために、もっと自分を隠さなくちゃいけなくなった」
「そうした方がいいと思い込んでいたから」
「うん。引きこもっている間、私は本当に強くなにかを憎んでいたの。誰とも共有できないくらい激しく。それを誰にも言えなかった」
「あるいは、ヒロも何かを隠しているのかもしれない」サナカミノルが言う。「君たちの間には秘密があるのかもしれない。でもお互いに目をそらし続けているんだ。自分の中の暗がりを見つめるのが怖いから」
「そうかもしれない」マイコは答える。そして顔を上げて、言った。
「助けてくれるの?」
 サナカミノルの顔がすぐ近くにあった。あまりに現実離れしたきれいな顔立ちの、不思議にやさしい瞳をまっすぐに見た。それはとても中立的に光っていた。いつも心にのしかかる容姿の差はなぜか今あまり気にならなかった。助け合いなのだ。違いは格差じゃない、私たちは補い合っている。
「もちろん」

 サナカミノルはマイコをベッドに寝かせた。さすがにマイコは緊張して身を硬くする。
 汗をかいている。シャワーを浴びたい、と言った。サナカミノルは首を振る。大丈夫だよ、別にいいよ。嫌だ、見られたくない。大丈夫、じゃあ見ないよ。押し問答しながら、彼は優しくマイコの肩をなで、耳元に頬ずりする。やわらかい感覚にマイコは深いため息をついた。身体が温まり、ほぐれていく。たくさんの量の細い糸をしっかりつむいであるものが、ほんの少しずつ、一本ずつほどかれてやわらかくなっていく。間接の力が抜ける。うまく姿勢を維持できない。目を開けているのが辛くなる。
 その間隙を突いて、意識の端からあの暗がりがやってくる。地下水路に満たされた暗い水が流れ込むように。身体が強張りそうになる。だめ、また気持ち悪くなってしまう。
 そのとき、彼の唇がマイコの唇をふさぐ。マイコは目を閉じる。心地いい。体温が伝わる。なんだろう、これ、嬉しい。深くつながれることが。そのやわらかさにマイコはしがみつく。必死に吸う。自分から離れていかないように。
 サナカミノルが唇を離して訊く。「大丈夫?」うん、大丈夫。だからやめなくていいよ。やめないで。
 やわらかな口内の心地よさを味わいながら、彼の手が少しずつ肩から動き、鎖骨を丹念に撫で、ほんの少し脇をくすぐり、それから胸元へ降りる。服の上から優しく慈しむようにやさしく、それから手が動き服の中で下着のホックを外してマイコの胸を解放する。それでマイコはひとつ自由になる。相手の首を抱き、すがりつく。サナカミノルの手がマイコの胸に直接触れる。反射的な吐息と、小さな声。それは自然なものごとだ。湿った吐息が部屋を満たす。それは温まり膨らみ、ほどかれて少ししぼむ。まるで二人で呼吸を共有しているみたいだ。
 手があらゆるところを這い、唇がやさしく動き、マイコは何も出来ないままただ身をゆだねていた。次に彼がどこを触れるのか、どんな風に手を動かすのか、マイコはなんとなくわかっていた。だってこれは共同作業なのだ。
 下着の中にサナカミノルの手が入ってくるとき、もう一度訊かれた。「大丈夫? 怖くない?」
 マイコは吐息に喘ぎながら頷いた。
「ごめんね、俺、性欲がないんだ。だからこのまましてあげることしかできないけど」
「うん」
「大丈夫だよ」
 だってこれは、思いやりだから。助け合いだから。暴力ではなくて。
「どんな風になってもいいよ。大丈夫だよ」
 サナカミノルは小さな声で囁き続けていた。マイコはそれに従った。声を上げ、指を噛み、相手の指先から受ける刺激にあわせて腰を振り、その感覚の波を捉えようと没頭した。自分という意識のくびきはもうなかった。知らない、新しい場所だ。大きな波が脳に到達するその直前、マイコは思い切りしがみついた。すぐそこにあるなにかに。


       

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