Neetel Inside 文芸新都
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爪。
失くした欠片、夕方色の隙間で散策中。

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 右手の薬指の爪を失くした。

 おかしいな、今朝出かけるときには確かにあったんだ。そう零すと妻が慰めてくれた。爪なんてまた生えてくるわよ。そう言って僕の右手を取ってしげしげと眺めた。カーテンの隙間から差し込む夕日に、僕は目を細める。
 「探しておくわ」妻はにこりと笑った。
「爪が無いのは不便でしょう。ちょうど掃除しようと思っていたし」
「家にあるとは思えないんだけどね」
僕はソファから立ちあがってテレビを消した。一昔前の若手タレントの歌がぶつりと途中で途切れ、妙に耳に残る。
「夕飯はサンマよ」
妻の声を背中で受け止めながら、リビングを出た。

 土曜日の散歩のコースは決まっている。郵便局に立ち寄ってから、なじみの喫茶店でまったり過ごす。夏の盛り、ちょうど今日みたいな日は一番暑い時間帯をやり過ごしてから、同じ道を歩いて帰る。たまに本屋に立ち寄る。これがそろそろ四十路に差し掛かろうとしている僕の、新しく小さな文房具会社に勤めだしてから約5年間欠かすことなく続けてきた休日のセオリーだ。

 だいぶ路上の熱も冷め、ひぐらしが鳴いていた。かなかなかなかな。かなかなかなかな。僕は玄関先で大きく伸びをして、夕方色のアスファルトをたどり始めた。
 俯き加減に暖色系のタイルを一枚一枚覗き込みながら、背を丸めてゆっくりと歩く。たまにきらりと光るものを見つけては、ビール瓶の欠片だったり、窓ガラスだったりして、僕はがっかりする。
 まあ、落し物なんてそうそう簡単には見つからない。

 ゆっくり歩いても、それでも15分くらいで郵便局についた。近場なのだ。受付の女性に尋ねてみる。
「爪、落ちてませんでした?僕のなんですけど」
「爪ですか……どの指でしょう」
「右手の薬指です」
「少々お待ちください、探してみますわ」
「お願いします」
 軽いやり取りの後、女性が奥へ引っ込んでしまったので僕は行き場をなくして、すぐ後ろの椅子に腰かけた。椅子は柔らかくも固くもなかった。
 「お兄さん、爪失くしはったんやってな」
同じく隣に座るおじいさんが話しかけてきた。少し古びた苔色のジャンパーを羽織っている。この年になってお兄さんなんて呼ばれたのは久し振りだ。今でもそう呼ぶのは幼いころそう呼べと無理やり躾けた姪くらいのものである。
「はい、多分散歩中に」
「そら大変やなァ」
おじいさんはいたく同情してくれた。
「爪が無いとシールが剥がせへんしな」
「僕の場合薬指だからそこまで大変でもないです」
「せやけど、ちょっと痛むやろ」
「まあ、相応には」
おじいさんは大げさに溜息をついて、まるで自分の爪も無いかのように手を彼自身の目の前に翳した。
「俺も昔親指を戦争で亡くしてな」
「失くした、ですか」
我ながら間抜けな返答だ。
「そう。亡くしてしもたんや。ほれ」
よく見ると、おじいさんの左手の第一関節から先は指サックだった。
「中に綿をつめておくとわりと便利なんやで。軽く曲がるしな。触ってみるか、ほれほれ」
「……いえ、結構です」
僕は丁重にお断りした。おじいさんはそれもそうやな、と笑った。
「爪ならまた生えてくるやろ。せやけど、もっと大事なものをゆびさきから落とすんやないで」
「大事なもの……」
「そうや。おっ、呼ばれとるでお兄さん。またな」
言われてアナウンスに耳を傾けると、確かに僕を探しているようだった。
「ありがとうございました」
僕はおじいさんに礼を言って、椅子から立ち上がった。
「ほな、さいなら」
おじいさんも立ちあがって、そのまま郵便局を出ていった。何のために来ていたのだろう。自動ドアの押しボタンを、サックのはまった親指で不器用に押しているのが印象に残った。

 「爪、見つかりませんでした。申し訳ありません」
「いえ、ここで落としたのかわかりませんし。ありがとうございました」
「見つかるといいですね」
「はい」

 簡素なやりとりの後郵便局を出た。むわっとした熱気に包まれて、少し頭がクラクラする。
次のあては喫茶店だ。もっともそれまでの道のりに爪があればいいのだが。
「おーい、爪君」
小さく呼んでみたが、返事はなかった。
それもそうだ。爪が喋るわけがない。

 見つからないままに、早くも喫茶店へ着いてしまった。
「いらっしゃいませ……ってまたいらしたんですか。どうなさいました」
ぶっきらぼうな店主が出迎えてくれた。少し禿げあがっている店主とはかれこれ20年の付き合いだ。飲みつかれたときに寄ったのが出会いだったはずだ。それ以来、徐々に禿が増えている。
「実は、爪をなくしてしまって」
「ああ、あれはあなたのでしたか」
店主はカウンターをしばしごそごそしたかと思うと、小さな指輪入れを僕のほうへ押しやった。
「それですか」
僕は金具をはずす。ぱかっ、という軽快な音がして、指輪なんかを入れる紫色の箱が開く。
「これです」
「良かった。箱はあげますよ」
「ありがとう。探していたんだ」
僕は丁重に礼を言って店を出た。爪が帰ってきた。

 夕方色の道を、悠々と歩いた。
 途中で爪の箱を開ける。

「よう、爪」
「久しぶりだな。このまま忘れ去られっちまうかと思ったよ」
「悪い悪い。これからは落とさないように気をつけるよ」
「そうしてほしいものだな」

 そうして僕らと爪は再会を喜び合った。
 抱き合いたかったが、何分相手は爪なものでそうできなかったのは残念だ。

「ただいま。爪、見つかったよ」
妻にそう告げると彼女は我がことのように喜んでくれた。
僕はソファに深く腰掛け、サンマのにおいを嗅ぎながら爪を取り出した。
はめようとして、気がつく、
生えかけの爪。

「どうやら決別の時が来たな」
爪は苦々しく言った。
「せっかく見つけたのに」
僕もがっかりして溜息をついた。
「こうなってしまえばしょうがないさ。あばよ」
爪が強がったので、僕はひょいと爪をつまみあげてゴミ箱へほうりこんだ。
少し生えてしまえば、もう古い爪は役立たずになる。
新しい爪は澄ました顔で僕の薬指に鎮座していた。
こんな日があってもいいかな、と思った。

右手の薬指の爪が生えてきた。

       

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