Neetel Inside ニートノベル
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ここは天獄、罪人たちの住む世界
第一話 『断罪人と罪深き聖女』

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一人の男が走っていた。息を切らし、全身から冷や汗を吹き出しながら狭い路地裏をいくつも駆け抜ける。
 先程から何度も確認するように後ろを振り返るが、そこには何もない。にも関わらず、彼は背後から迫り来る恐怖に怯えていた。
 焦りから思考が鈍る。正常な判断が下せなくなる。もはや逃走開始時に思い描いていた逃走ルートは頭の中からさっぱりと消え、ただ背中に張り付いて離れようとしないプレッシャーから少しでも遠くへと逃げたいという思いだけが今の彼を支配していた。
 幾度かの角を曲がり、いつの間にか彼は大通りへと出ていた。多くの人で握わう通りは身を隠すのには最適で、この時彼は初めて僅かに安堵した。
 人混みに紛れ、己を追う敵の目を欺く。歩くたびにすれ違う人々に身体がぶつかる。そんな彼に文句を言う者もいたが、鬼気迫る表情を浮かべる彼を見て、それ以上何かをしようと考える者はいなかった。
 ここを凌げば、追っ手の目を欺けば……。
 避けようのない現実から目を逸らすために、叶うことない希望を男は夢想する。
「なあ、頼む。見逃してくれ……」
 人混みの中、男は呟く。そんな彼の懇願に応えるように人混みの中から一つの影が現れた。
 否、正確にはその影の姿を目にした人々が怯えた表情と共にその場から逃げたというべきか。
 気づけば男と影の間に人はいなくなり、彼らの成り行きを遠巻きに外野が見ていた。
「……鬼ごっこは御終いか?」
 男の眼前にて足を止めた影がこの時初めて口を開いた。黒衣のローブを身に纏い、素性を隠すために付けられた面をつけた影。それから発せられる声はまだ年若い男性のものだった。
「ああ、そうだ。クソッ! やっぱり『断罪人』から逃げるなんてできるわけなかったんだ!」
 目の前に現れた絶望の象徴に湧き上がる数々の感情を爆発させながら男はその場に項垂れた。絶望、後悔、悲憤。
 自らの力の無さを嘆き、同時に己がしてしまった行為に今更ながら悔いる。
「チクショウ! なんで、俺がこんな目に……。お前だって、〝生前〟は俺と同じように罪を犯してたんだろう!? 
 なのになんで俺はこんな目に合って、同じ罪人のお前が同類を裁く権利を持っているんだよ!」
「それはお前が罪を再び犯したからだ。厚生の余地があるものならまだしも、殺人など許されるはずがない。
 せっかく、罪を贖う機会を得たというのにそれを溝に捨てるような真似をするなど愚行もいいところ。恨むのなら、浅はかな行動を取った己を恨むんだな」
 男の叫びに無情な宣告を影が告げる。そこに慈悲など欠片もなかった。そして、それを聞いた男はとうとう観念し、全てを受け入れた。
 影もまた、そんな男の姿を見て腰に提げていた剣をゆっくりと鞘から抜き放つ。抜き身の刀身は陽の光に反応し、禍々しく煌めいていた。
「悪しき罪人よ、お前の罪を俺が裁く」
 男に向かって影はそう告げ、男は断罪の刃を振り下ろした。血飛沫が、周囲に飛び散り男の首がコンッと地を転がる。
 男の絶命を確認した影は死した肉体に手をかざす。すると、どこからともなく死体が発火し、青い炎と共に塵も残さず全てを消し去った。
 全ての肉が消失し、ただ一つ影の前に残されたのは宙に浮遊する掌ほどの大きさの一つの光球。
「魂よ。地獄に向かい、現世の糧となりたまえ」
 光球に向かって影がそう命令すると、光球は空へと飛び去り姿を消した。
 残された影は怯えた様子で己を見つめる市民たちを一瞥し、その場を去った。
 人々は畏怖しつつ、自分たちを守る守護者が去ったことにホッとし、騒動からしばし時間を置いてまたいつもの日常を過ごし始めた。
 この世界ではこんな出来事など日常茶飯事。
 ――ここは、天獄。生前に罪を犯した魂が再びの生を受け、死後再び転生するに相応しいか審判を待つモラトリアム世界。

       

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