Neetel Inside 文芸新都
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みなそこにいる
子音の告白

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 口は、見た人が形だけで言葉を認識できるくらい大げさに広げるように。
 吸い込んだ空気はお腹の下の下を満たす意識を持って、横隔膜を手足と同じ動くものであると認識するんだ。全身の、足のつま先から頭のてっぺんまでを楽器に見立て、発した音の広がりを身体全体で作るように。それだけでも声は変わっていくからね。
 先生は、そう言って私のお腹と背中に手をあてる。
 彼の、堅く輪郭のくっきりした手のひらは大きく、私の柔らかな腹部がその熱を感じる度に、力が入る。先生曰く私のお腹の使い方は上手いらしく。発声練習の度に皆に囲まれながら、何度も先生に触れられながら歌った。
 初めは恥ずかしさで一杯だった私の心も、次第に「これは自分の仕事」だと心が認識し始め、気恥ずかしさは無くなった。私と先生の、毎日の触れ合いを茶化す人はいない。だって皆、歌に夢中だからだ。歌うことに、全力だからだ。
 私がこの毎日の、先生との触れ合いを、誰よりも楽しみにしていることを、皆知らない。私に触れている先生でさえも、だ。
 元々歌は好きだった。声楽部に入ったことも、学校で何の気兼ねもなく歌っていられる、その気楽さを感じてだった。あとは、合唱部に比べて団体行動が少ないことも、理由の一つだった。実際のところ、そう自由さはなかったのだけれども。
 声楽部の顧問をしている彼は、昔、歌で生計を立てようとしていたらしい。まあ、ここにいるってことは上手くいかなかったってことなんだけれども。
 念の為取っておいた教員免許が役にたったよ、なんて明るく言って見せているけれど、その声の、子音の隅っこにまだ未練の音色が潜んでいるのを、私は知っている。
 皆は、先生が先生になってくれたお陰で、歌がどんどん上手くなっているから、いてくれてありがとう、なんて励ますように言っているけれど、そんなの励ましになっているわけがない。だって、先生は歌い続けたかったのだから。
 課題曲にも興味が無かったけれど、出された歌はなんでも歌った。歌っていてつまらないことなんて無かったから。平坦な曲なら、その曲が平坦である意味を探して歌えば、自ずと歌の楽しさを見つけられたし、ジェットコースターみたいな譜面の曲は、ただそのまま歌っているだけでも楽しかった。
 要するに、歌さえあれば良かったのだ。
 先生は、そんな私の歌を評価していたらしい。コンクールに出てみないか、と尋ねられたこともあったけれど、首を縦には振らなかった。
 それでも部活動には必ず出た。先生のレッスンは楽しかったし、歌の好きな子達と一緒にいるのが心地よかったから。先生は何かにつけて私にコンクールを勧めたけれど、その度にやっぱり断った。
 私は、先生のように歌で生計を立てるつもりも、誰かの為に歌う気もなかったから。
「先生、乙葉さんはどうしてあんなに、歌が上手いんですか?」
 部員の誰かの何気ない一言だった。
 先生は暫く腕組みをして、口許に、握った手を充てたまま私の身体をじっと見つめていた。私はその真っ直ぐな視線を見て、ほんの少し、胸がざわついた。足先から頭頂部まで、全てを見透かそうとするような、彼の眼鏡の奥の眼差しは鋭く、細く、冷たかった。
「乙葉、少し、モデルになってもらっていいか」
 先生の低い言葉に、私は頷いた。どうしてだろう、頷くしかなかった。
 先生の声は、こんなにも安定したものだっただろうか。棘のない滑らかでクリアな声が、お腹の底に響くのを感じて、少し、身体が震えた。
 それからだ、部活の度に私を使って、発声のレクチャーを生徒にするようになったのは。どこを使って音を出すのか、力を入れるべきはどこか。先生は私の身体を使って部員達に説明する。皆真剣な顔で、私のことを見ていた。
 私は、彼らの聴こうとする姿勢が少し怖かった。ただ歌っていれば良かった私が、初めて聴かれることを意識したのはこの時だった。
「リラックスして、いつもの気持ちで歌えばいいんだ」
 先生はそう言って、緊張する私の声を溶かしていった。彼の身体が、耳元の声が、触れられた指先が、体温が、私の身体を緊張から解いていく。
 きっと、私はあの時点で惹かれていたのだ。先生に。
 でも、先生は違った。
 先生は私の身体に触れる度、ひどく傷ついていた。心の奥底に隠した現実を掘り起こされてしまったに違いない。私は知っている。彼の優しげで、柔和な取り繕った笑顔の奥を、誰にでも穏やかな彼の声が、私の時にだけ憎悪が混じることを。私にだけ分かる、子音に隠されたその憎悪を聴く度、ああ、私は先生のことを愛しているんだなと感じるのだ。
 先生のレクチャーを受けながら、この先、先生が私に惹かれることは一生ないんだろうな、と思う。
 もしも何かの間違いで、念願叶って、私の隣を先生が歩くことになったとしても、先生は傷つき、憎悪し、子音の片隅でしか解消できない気持ちを抱えて生きることになるだろう。そんなの辛いし、愛する人が苦しむ姿を私は見たくない。
 だから私は、歌える私は彼に告白することも、彼の隣を望むつもりもない。
 この想いを伝えたとして、彼はひどく傷つくだけに違いないから。
 だから、せめて、この時間だけは許して欲しい。
 先生を愛する私が、私を憎む先生に触れてもらえるこの唯一の時間だけは。


「先生、私、コンクールに出てみようと思います」
 部活の終わりに私がそう言うと、彼はそうか、出てくれるか、とにっこり笑った。眼鏡の奥の瞳はとても優しかった。先生は本心から喜んでいた。あの子音の隅を除いて、だけれども。
「でも、どうして突然出る気になったんだ?」
 これまで頑なだった私の心変わりに、先生は不思議そうに首を傾げていた。
「そういうのも悪くないかもしれないって、思っただけです」
 私がそう言って笑うと、先生は穏やかな表情で私の頭を撫でる。その手のひらの感触は、とても心地が良かった。

 先生、私は誰かの為に歌いたいと、初めて思えたんです。

 だから、そういう歌を歌ってもいいかもしれないと感じたから、コンクールに出るんです。先生はそんな私の姿を見て、喜んで、また憎むのでしょう。

 私はそんな貴方の子音の端の憎しみを見たいがために、歌うことにしました。

 先生は、気がついてくれるでしょうか。

 私の子音の端に隠された、貴方への愛の告白を。

 きっともう気がついているに違いない、私の想いを。

 憎んでください。

 羨んでください。

 私はそんな貴方の声に、惹かれてしまったのです。

 ごめんなさい、先生。

 私は先生を、愛しています。

 私を憎む貴方を、愛しています。

       

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