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みなそこにいる
等間隔の失恋


 三年に一度。この時期になると、私はきまって失恋をする。
 生徒たちはもう行ってしまった。私は一人教室に残って、一つ一つの机を指先でなぞっていく。よく研磨された木製机はすべすべとしていて、けれどところどころに生徒たちのこっそり彫り込んだ跡が残っている。それを机はまるで勲章のように誇らしげに掲げている。
 横六列、縦五列の机たちはぴったりとそこに収まっている。ワックスのよくきいたなめらかな木目の入った正方形を組んだ床の、深い溝に合わせるようにして、等間隔に並んでいる。机と机の間は八十センチほどと狭いが、彼らにとっては些細なものだったに違いない。
「先生、もうみんな正門のほうに出てますよ」
 丁度一番後ろ、窓際の机を撫でていたところで、中性的な声が聞こえた。私は振り返り、その少年の姿を見つけると、口元に小さな笑みを一滴零し、アルミフレームの眼鏡をかけ直した。
 きっと式に合わせて切り揃えてきたのだろう。ほどよくヘアスタイリング剤のきいた短髪はぴんと髪の束を整えている。普段は大して気にしないくせに、と思いながら眺めていると、彼もそれに気がついたのか、少し恥ずかしそうに後頭部に手を当てる。一重の眠たそうな両目をさらに細め、薄い唇を尖らせながら、彼は頑張ってみたんです、と言い訳のように呟いた。
「私、何も言ってないわよ」
「なんとなく、そう思ってるんだろうなって……。そりゃ俺だって、こういう時くらいは、ちゃんとします」
 くすくすと笑いながら、私は触れていた机から手を離し、黒板の前まで歩いて行く。彼は私の姿をじっと、扉の傍で眺めていた。紺色のブレザーはぱりっとしていて、まるで新品のようだ。彼の左胸に付いた造花と淡い桃色のリボンを見て、私は目を細める。
「大学、東京のほうだっけ」
「はい」彼からの返答は真っ直ぐだった。そっか、と私は後ろ手に手を組んで笑う。
「ずっと夢だったもんね。入学したての頃から」
 職員室に来るたびに熱心に問題を解きに来る彼の姿を、私はこの先も忘れないと思った。まだブレザーに着られている、あどけなさの残る少年の頃から、彼は変わらず目標に熱心だった。
 黒板には私の名前と、ありがとう、という言葉が、沢山の絵や言葉と一緒に書き込まれていた。赤白、黄色、沢山のチョークを使って書き込まれたその黒板の奥に残る消し跡に触れていると、彼は不思議ですね、と言った。
「三年って、始めはすごく長いんだろうなって思ってたのに、あっという間だった」
「そうよ、若い子にとって、三年間なんて一呼吸の間に過ぎていくわ。どんなに充実した生活でも、紙風船みたいに膨らんだだけの生活でも、等しくね」
「先生が学生の頃は、どっちだったんですか?」
 そうね。私は教卓に寄りかかり、腕を組んで唇に触れる。いつも考え事をする時に思わずやってしまう癖だった。私の頃は、どうだっただろう。
「少なくとも、あなたに比べたら、紙風船みたいな学生生活だったわ」
「そんなことないです。現に先生は、今ここで望んだ通りに教鞭を取ってる」
「運が良かっただけ。実を言えば、もっと偏差値の高い高校で教えたかったもの」
「正直に言いますね」
「卒業していく人に、嘘は必要ないじゃない。だって、いつかあなたは私を忘れていくに違いないんだから」
「そんなことないです」
 そうかしら。私が小首を傾げると、彼は両拳を握って、目を伏せた。彼の学生らしい仕草を見て、ああ、やっぱり彼はまだ学生なんだな、としみじみ思う。どれだけ大人びていても、それは上澄みに過ぎない。小さな一石でも投じれば、彼の本質は見えてしまう。
「来年になったら、また新しい子達が入ってくる。あなたみたいに立派で、熱心な子が多いといいな。教師として教えがいのある子がね」
「先生、俺、ずっと言いたかったことがあるんです」
 私は彼を見た。彼の顔を、澄んだ両目を、私を映す瞳を、その先を。
 じっと見つめる私の視線に、彼はそれきり黙ってしまう。違う、黙らせているのは私だ。言わせようとしないのは私だ。
 彼の気持ちはずっと気がついていたし、そうだろうなと思っていた。けれど、私はあくまでいい教師に徹してきた。堕落に落とすことなんていくらでもできた。それをしなかったのは、私もまた彼に好意を持っていたからに他ならない。
 知ってるよ、あなたは私が好きなんでしょう。
 だって私が好きなんだもの。好きになるよう仕向けたんだもの。
「大学ってね、拓けてるの。高校みたいなところとは違う。ビュッフェみたいに、目の前に沢山の盛り付けられたご馳走があって、テーブルに座らされた生徒たちは限られたディッシュを手に、歩き回る。デザートを山盛りに食べる人もいれば、前菜から順よく食べる人もいるし、かといえばメインディッシュばかりに手を付けて、結局他を逃す人もいる。素敵なところよ」
「変な喩えで、はぐらかさないでください」
「変だった?」
「変です。先生の例えば、いつも回りくどくて、変です」
「でも、そこも含めて好きだったんでしょう?」
 私がにっこりと笑うと、彼は目を丸くして全身を強張らせた。教卓の上に座り、足を組んで、宙に浮いた片足をひらひらと揺らし、緊張し、顔を火照らせる彼に冷静で、挑発的な目を向ける。
「ごめんね、あなたの気持ちには、応えられない」
「でも、だって、卒業するんです。もう、なんの問題もなくなるんです」
「でもね、駄目なの。そういう風にできているの」
「そんな、なんですか、そういう風にって」
「私もね、好きだったのよ。あなたのこと」
 彼の表情を見て、私は微笑む。傾いた拍子に垂れた髪を耳に掛け直し、眼鏡を外す。
「恋に落ちる瞬間って一瞬だから。入学して間もなくに私もすとんと落ちたわ。不思議とね、あなたも落ちてると思った。一緒に落ちてるに違いないっていう確信があった」
 彼は俯いていた。泣いているんだと、すぐに分かった。
「寝たい、と思ったこともあるわ。でもね、それはしないの。好きだからこそ、私はあなたの幸せを願うから。その為に、この恋を利用したの。焦らせば焦らすほど、あなたは立派になっていったわ。素敵に成長していった。優秀で、真っ直ぐで、私を振り向かせようと、ね」
 身なりはいつもイマイチだったけど、と言うと、俺なりに頑張ってたんですと彼は涙混じりに答えた。それがおかしくて、私はあはは、と声を出して笑ってしまった。
 教卓から降りて、扉の前に立ったまま俯く彼に歩み寄り、そっと抱き寄せる。呼吸がきゅっと止まるのを感じながら、私は耳元に囁く。
「もし、本当にいつまでもその想いが続くなら、三年待って。あなたの将来を探し始める時期、曖昧模糊としていた色んなビジョンが薄っすらと現実味を帯びてくる年齢で、それでもあなたが私を求めるのなら正門前に立っていて。その時、私は喜んであなたを受け入れるから」
 私は涙で濡れた赤い彼の顔をハンカチで拭ってやると、強引に廊下に追いやり、行きなさい、と背中を叩いた。彼は何か言いたげにこちらを見ていたが、やがてゆっくりと歩き出すと、曲がり角に消えていった。
 彼の後ろ姿を見届けて、再び教室に戻ると、私は彼の座っていた席へ向かう。廊下側、前から三番目。彼の最後の場所。
 それから、私は向かいの窓際、前から四番目の席に目を向ける。
 九年前の彼は、とても立派な男になっていた。風の噂で聞いただけで、本人から連絡はない。
 六年前の彼は、廊下から三列目、一番後ろの席。彼も素敵な子だった。
 私は窓辺から正門を見下ろす。それぞれの思い出に浸る生徒たちの喜びと哀しみを眺めていると、その中に彼の姿が見えた。彼もまた青春の光景に塗り込められていく。私はその姿を見ながら、目元を拭った。
 正門に、彼は現れない。きっと、素敵な人生を歩んでいるに違いない。また風の噂で聞くのだろう。立派になった彼の話を。

 今年も私は失恋をした。
 恐らく、三年後も、私はまたこの教室から正門を眺めて泣くのだろう。三年という間隔で落ちてしまう私の苦しい恋は、絶対に叶わない。叶わないと分かりながら、紡がずにはいられないし、結局現れることのない彼らを想って泣いてしまう。
 でも、泣く度にほっとする。

 すごく、ほっとするのだ。

 三年に一度。
 この時期になると、私はきまって失恋をする。
 きまって、想い人は現れない。

 でも、それでいい。
 あなたたちが幸せであるのなら、私はそれでいい。

 了

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Neetsha