Neetel Inside 文芸新都
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みなそこにいる
仰げば尊し

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 卒業生たちの胸に花を付けながら思う。そういえば、彼は今、どうしているだろうかと。ひたむきに自分の夢に向かっていった彼のことだ。
 もう三十年だ。気がつけば息子と娘たちも大きくなって、自分の行く末に悩みながらも、手探りで進む歳になった。
 私はといえば、未だに教師として高校生たちの前に立って、教鞭を取っている。三十余名の視線に怯えていた頃の私はもういない。かつてあった感動もない。今の私に残っているのはただ、目の前の子たちをいかに丁寧に送り出すかで、それは愛情や正義感ではなく、ほとんど義務的なものになっていた。
 だから、思うのだ。
 ルーチンワークの中で生き続ける私に比べて、あなたはどうなのだろう、と。
【国際宇宙ステーションでは……】
 テレビでその報道が出る度に、子供たちはきまって私のことを見る。数少ない日本人宇宙飛行士として旅立っていった彼と同級生であった私を。
「母さんの隣に座ってたんでしょ。この人」
「そうよ。とても優しい人だったわね」
「なんか、信じられないなあ。ずっと遠くの人みたいなのに」
 遠くの人なのよ、と私は笑ってお茶を飲む。湯呑みの中で小さな茶柱が立っているんだか立っていないんだか曖昧に浮かんでいる。
 俺はいつかこの空の先へ行くんだと、彼は言っていた。胸に付けられた白い花のブローチは夕日で優しい朱に染まり、掲げられた賞状筒の先で星が燦然と煌めいている。彼の屈託のない笑顔と竹を割ったような声に、私は心躍った。
 いつか叶うと良いね、難しいだろうけどと私が言うと、キミはリアリストだなと彼は呆れたように笑っていた。
「母さんと仲良かったんでしょ」
 冷蔵庫から麦茶の容器を取り出しながら息子は言う。私は頷く。
「あの頃からずっと地球を出たいって言ってたわね」
「ほんとに出ちゃったなんてすごいな」
「俺にはこの星は小さすぎるってよく言ってた。冗談半分に聞いてたのにね、あまりにも彼が目をキラキラさせてそういう話するから、そのうち私もやりかねないなって思ったわ」
「それだけ情熱的だったんだね。この人と付き合ったりとかはなかったの?」
 私は困ったように笑って、首を振る。
「ないわよ。なんていうのかしらね、あまり恋愛対象として見れなかったのよね」
「えー、付き合ってたら今頃宇宙飛行士の娘だったかもしれないのに」
 スマホ片手に娘は適当なことを言う。私と息子は互いに目を合わせて笑い、それから洗い場に溜まった食器を片付け始める。蛇口を捻って、滝のような音でシンクを叩く水柱にスポンジをよく馴染ませ、洗剤を二滴垂らす。
「パパと結婚したからアンタが産まれたんでしょうに」
「そうだけどお」
「そんなこと言ったらパパ泣いちゃうわよ」
「それはめんどいなあ」
 無感動な返答にため息をつく。我ながら変な娘に育ててしまったものだ。いや、私のそういうところを受け継いでしまったのか。
「あ、この人?」
 娘の指差す先を見ると、彼の姿があった。左右上下の定まらない空間をくるりと回りながら、カメラに向かって手を振っている。意外とラフなカッコしていていいんだ、と彼らの姿を見て思う。もっとこう、ぴっちりとした体の輪郭が出るみたいなもので過ごさなくてはいけないと、勝手に想像していた。
「いいなー」
「宇宙が?」
「そのうち気軽に行けるようになってくれないかな」
「どうかしらね、少なくとも、私が生きてるうちは無理じゃないかな」
「そんなにかかるかな」
「そんなにかかるもだと思うけどな」
 私は繰り返すように言った。
 トレーニングとか、球体の水をぱくりと食べたり、食事を説明したり。テレビニュースの特集にしては随分と詳しく宇宙について説明がされている。洗い物がすっかり終わった私はエプロンを外して後ろの棚に取り付けたフックに掛けた。
「パパはどれくらいで帰ってくるの?」
「どうかな、まだ少しかかるんじゃないかな」
「今回の出張、長いね」
 本当は今朝方帰ってくる連絡が入っていたが、秘密にしておいて欲しいと言われたので、私は子供たちに対しては知らんぷりを決め込むことにしていた。夫はそういうサプライズが大好きだ。果たしてそれが子供たちや私に受けているかといえば、そうでもないわけだが。
「まあ、宇宙に比べたらね」
「果てしないな、宇宙。お母さん、連絡先知らないの?」
「知ってるけど、どうして?」
 息子はテレビの前に胡座をかいたまま顔だけを捻って私を見る。
「宇宙飛行士になったよーみたな連絡来なかったのかなって」
 彼の言葉に私は声を出して笑ってしまう。
「あるわけないでしょ、そんな子供みたいなメール」
「そうかな、なんか宇宙飛行士って、子供の夢だし、その延長線みたいな感じするから、なんとなく子供っぽい気がする」
「子供からするとそうなのかもね」
「俺はもう子供じゃないよ」
「あら、そうなの」
 からかうように言うと、息子は頬を膨らませていた。私はそれを微笑みながら見てから、リビングを出て寝室に向かった。
 ポケットから携帯を取り出すと、私は保護をかけたメールを開く。
 全く、うちの息子が考えつくようなこと送ってくるんだから。
 ため息と一緒に、あの頃の彼の屈託のない笑顔が脳裏に浮かぶ。

【あの日見た空の向こうへ、行ってきます】

 寝室からバルコニーに出て、私は空を見上げる。雲ひとつないコバルトブルーの晴天の中に、飛行機雲が一筋登っていた。蝉の音が聞こえる。涼風で囁くように森が歌う。
 あの頃の夢とか願いとか、あとは初恋か。そういう青春時代に頭に思い描いたものって、そうそう叶うものじゃない。
 でも、そうか、彼は叶えたのか。
「ねえ知ってるかな」
 私は空を見上げて笑った。
「私ね、キミが空を見上げる顔を、ずっと見ていたんだよ」
 彼は今も、青春の中にいる。

 

       

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