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みなそこにいる
午前七時二十四分の彼



 午前七時二十四分発の電車がプラットホームに滑り込んできた。
 スマートフォンのロック画面は午前七時二十二分を示している。いつもよりほんの少しだけ早くて、大丈夫かな、と私は右から左へ流れてゆく車両の、その更に奥を目を凝らす。
 徐々に速度を落とし、やがて停止した車両の窓越しに、向かいのプラットフォームを覗き込む。良かった。向かいにも電車が停まっている。
 八両編成の前から数えて三つ目の車両の両開きの扉が開いて、人が降りていく。会社勤めの人が沢山吐き出されていくのを眺めながら、私は随分と良いところに住んでいるんだな、と思う。
 これまで、通学の時に一度も満員電車というものに出会ったことが無い。高校の立地がわりと地方だというのもあるのだけれど、同時に、私の住んでいる町が他に比べて活気づいていて、且つビルが多いというのもあった。ただ、駅まで二十分弱バスに揺られる必要があるから、とても良い場所に住んでいるという感覚は無かった。
 人を吐き出し終えた電車は、餌を待つペットみたいに口を開けたままその場に待機している。いや、ペットならもっと嬉しそうにしているし、感情豊かにしっぽを振ったりしてくれるだろうから、この例えは良くないかもしれない。
 電車に乗り込んで、私は迷わず側扉脇に身体を押し込む。身体がわりと小さいお陰で側扉脇の手すりの辺りに身を預けると、驚くほどスッポリと身体が収まるから、とても安心する。
 まあ、それだけが理由ではないのだけれども……。
 ちらり、と私は側扉の窓越しに隣の車両を覗き込む。
 いた。
 同じように側扉脇に寄りかかっている彼がいた。髪、切ったんだ。先週見た時はもう少し長かったし、耳も隠れていた気がするから、大分バッサリといったのね。でもその髪型の方が、私は好きかもしれない。
 彼は相変わらず文庫本に目を落としたままだ。何を読んでいるんだろう。小説、なのかな。私でも分かるかな、それとも昔の、難しい古典文学とかなのかな。授業で読んでいてもすぐに眠くなってしまうから、少し苦手だな。
 不意に、彼が顔を上げた。私は慌てて窓から顔を隠すと、更にぎゅうと身を側扉脇に落し込む。もうこれ以上ないってくらい窮屈なのに、私はとにかく自分の存在を悟られないように息を殺す。
 もうかれこれ一月くらいこんなストーカー紛いのことをしている。本当に、自分でも呆れるくらいだ。いっそのこと見つかってしまって、嫌悪されてしまえばいいのにと思いながら、けれど見つかりたくない気持ちもあって、気づいてくれたらいいのにって思ったりもして、踏ん切りのつかない曖昧な自分にとても腹が立つ。
 見つからないように、なんて思いながら、少し可愛いマフラーを巻いてみたり、髪にちょっとパーマをあててみたりして、これまで適当だったお化粧にも気を使ってみたり。
 名前も知らない、午前七時二十四分発の後ろから三両目の側扉脇に寄り掛かる彼との数秒間が恋しくて堪らない。
 扉が閉まって、私と彼の距離が離れていく。行き先の全く違う電車は午前七時二十四分に、ぴったり予定通りに発射する。
 一瞬、互いに目が合った気がした。でもそれを確認する術は無い。だって彼の乗る電車は、もう彼方へと行ってしまったのだから。
 彼は、気になんてしていないんだろうな。
 昨日、少しだけ奮発したマフラーに顔を埋めながら、臆病な自分の想い方が嫌になる。
 がたん、ごとん。
 線路を滑るように走っていく電車の中で、私はもう見えなくなった窓の外をぼんやりと眺め続けている。
 ほんの少し、私に勇気があったら。
 ちょっとでも自分に正直になれる勇気があったら。
 向かいの後ろから三両目に乗り込むことが、出来るのかな。
 交わらない、すれ違う車線の向こう側に、飛び出せたのかな、なんて。
「ほんと、馬鹿みたいだな」
 ぽつりと出た言葉に苦笑して、やがて窓を眺めるのをやめると、目を閉じた。
 奇跡とか偶然とか、彼が気づいてくれたら、なんて……。
 そう思いながら、きっと私は明日もこの車両に乗るのだろう。
 午前七時二十四分発八両編成の、前から三両目のこの場所に。

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Neetsha