Neetel Inside 文芸新都
表紙

不細工という病
なかった、青春。

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 家の鏡が映す自分は、きまって本当の自分より少し男前だった。髪型もモデルみたいにオシャレだし、この流し目に落ちない女なんていないと思う。それは一体、どんな因果が生んだ奇跡だったのだろうか。いや、奇跡なんて表現は持て囃しすぎだ。自分のことを男前だと錯覚して空回りするだなんてただの悲劇にすぎない。甘めに言って、喜劇。
 私が、鏡に映る自分の姿が偽物だと気が付いたのは中学二年の春。きっかけ? それは、サッカー部主将の下の名前が“春樹”だったから。
 春樹は男の私から見ても本当に格好良い男だった。月並みな表現ではあるが、誰にでも優しく分け隔てなく。周りの男子が整髪剤だのなんだのにうつつを抜かしている頃にほとんど丸刈りみたいなスポーツカットを貫いていた姿は中二男子の価値観からするとかなり衝撃的なものであって、それでいて常に皆の中心にあるものだから、そりゃあもう、敵いっこない。齢十四にして170cm台後半に届いていたその長身、すらりと伸びた四肢、こんがりと日焼けした満面の笑み。こんな男が世の中にはいるものなのだ。本当に。
 あ、そうそう、それで、鏡の話だったね。
 当時私は春樹と同じクラスだった。春樹は私のような人間に対しても当然のように優しく振る舞い、共に笑い、冗談を言い合った。今になってみれば、それは彼にとっては何ら特別なことではなかった。ただ単に、彼が誰に対しても平等だっただけだ。本当に、まるで病気みたいに。が、当時の私はそうは思っていなかった。春樹とこうして肩を並べ行動を共にするのは、自分が春樹と同じ種類の人間だから。人気者同士気が合うところがあるのだと。次第に妄想は極まって、私と春樹は校内でも名高い男前コンビなのだとさえ考えていた。
 やがて、学校の女子諸君が私のことを“キモイ方のハルキ”と呼んでいたのを耳にして、私は鏡が見せる夢から醒めた。


 一.


 加藤遥貴(かとう はるき)としてこの世に生を受けてから高校三年の夏を迎えるまで、良いことなど一つもなかった。
 冴えない外見、根っこの方から完全に腐り切った性根、何をしても、才能の欠片すら感じられない。せめて実家が裕福でさえあれば私もしっかりした人間に育つことができたろうに、最低限毎日のメシが出てくるだけの一般家庭。「世界にはご飯も食べることができない貧しい人々が――」とか、ありきたりで見当はずれな講釈は要らない。この豊かな国で生きている限り、誰が三食の白米ごときで満足できようか?
 それで、こんなどうしようもない私の唯一の楽しみというのが、他人の不幸。
 他人の不幸は蜜の味というが、蜜なんてもんじゃない。呑みこんだ瞬間、美味しさに身を震わせ涙が出る。私が生きる為の唯一のエネルギー、生き甲斐。よく自殺しないなと自分で自分を褒めたいが、自殺を踏み止まらせてきた物は何かと聞かれれば、これしかない。
 来る日も来る日も、人の不幸を探すためだけの日々。クラクションを鳴らされる横断歩道の老婆なんかを見かけては、本当に胸のすく思いだ。意味もなくふらふらと街を歩き回り、他人の不運を願うしかない毎日。将来への希望などなく、現在身を満たす充足感もない。楽しかったと浸る過去もない。この頃には既に、そのうち死のうと決めていた。

「ハルキ」

 黄色い声が私を呼ぶ。そもそも私に声をかける女というもの自体が珍しいが、なおかつ下の名前で呼ぶ者となれば声の主は一人しかいない。
「何やってるの? 珍しいね」
 振り返った私に薄荷菜月(はっかなつき)がにこりと微笑む。幼稚園からの同級生で、高校生になっても顔を合わせると必ず声をかけてくれた、――かけてきた。
「いや、別に。ふらふらっと」
 もごもごとした口調でしか答えられなかった。小学生の頃まではそれなりに仲良くしていたかもしれないが、中二の春からはもう駄目だ。私はこんな風体に産まれてきたクセに、運悪く他人の目というものを人一倍気にする性でもあったから、自分が不細工だと気が付いてしまってからというもの、他人とのコミュニケーションというものが絶望的にとれなくなっていた。こういう相手は特に苦手だ。誰がどう見ても整っている顔立ちに、こうして私などにも笑って声を掛けるその性格。人が寄らないわけがない。
 それにしても、顔が不細工で恋人ができないというのはまだ理解もできるが、高校生、大学生にもなると友人ができるかどうかも顔次第というのは絶対におかしいと思うのだ。入学するといつの間にやら勝手に格付けが済んでいて、冴えない連中は自然とそれなりの扱いになり、顔が整っている奴は多少性格が歪んでいたとしてもクラスの中心で人気者をやっている。これは絶対におかしいことだ。
 と、そんなことを考えている内に彼女の話はすっかり聞き流してしまっていた。上の空だった私に彼女は冗談ぽく怒ってみせて、それがまた、気が狂いそうになるほど愛らしい。
「それじゃあ、またね。学校で」
 そう言うと手を振って、どこか向こうの方へと走っていった。
 彼女は、すごく良い人だ。私に対して分け隔てなく接してくれる、それだけでもどれだけ貴重な存在か。彼女の笑顔はとても澄んでいて、正直、癒されてしまうこともあった。あの笑顔にだけは裏表は無いと素直にそう思う。そうして私は反対方向へ足を向けて、こうも思ったんだ。

 犯したい。

 高校三年生の私はとても冷静に、驚くほどの真実味を帯びつつそう考えた。
 どうせ、仲良く接してくれるといっても他にもっと仲の良い友達はたくさんいる。彼女になってくれるわけでもなし。それよりも彼女の異性としての魅力に惹かれてしまっていた。
 あんな顔に生まれてきて、そりゃあ人生楽しいだろう。そのことを私は不公平だと考えた。どうせこの先の人生にも楽しいことばかり待っているなら、私に犯されるぐらい、別に良いだろう。むしろなんで向こうからそういう話を持ちかけてこないのか遺憾に思うくらいだ。
「私ばっかり人生楽勝でごめんなさい。お詫びに一発ヤらせてあげようか?」、と。
 ずっと気になっていたことだが、ああいう人種は、私を見て可哀想だと思わないのだろうか? 皮肉でなしに。
 彼女をモノにしたいと密かに思っている男子連中は多いはず。彼女を抱けば、それだけ私は他の連中を上から見下す存在になるということに。どうせ、いつ死んだって良い人生だ。いざとなれば自殺してやればいい。彼女の辛い思い出の中で、私は永遠に生き続けるのだろう。自分に酔っているつもりも口先だけでそう言っているつもりもなく、心から本気でそう考えていた。
「ちょっと」
 しかし振り返って彼女を呼び止めようとしたが、もう彼女の姿はどこにもなかった。あんな駆け足で、彼氏とでも待ち合わせしていたのだろうか。
 ち。
 私は小さく舌打ちをして、楽しみが一日だけ延びてしまったことを悔しがった。

     

 ――そうは言っても、すぐに行動を起こすことはできなかった。いざ本当に事を起こすとなればそれなりに準備が要ると思ったし、中でも肝要なのは心構え。結局、いよいよ彼女を犯すぞとなったのは、それから二週間経った暑い水曜日だった。
 その間私は本当に色々なことを考えた。彼女をこんな形で傷つけてしまって良いのか、後悔しないのか。良心と理性の狭間で揺れたが、私の不遇を思えばこれぐらいのことは当然だ、という考えが改まることはなかった。彼女は……そう、ただ可愛く生まれてきたというだけで、その人生の幸福を約束されている。これはあまりにも不公平だ。こんな理不尽が、許されていいわけがないんだ。手に入れた免罪符で最後の良心に蓋をして、私は瞼の裏に彼女の濡れ場を思い描いた。
 決行前夜はなかなか寝付けず、読書なんて似合わないこともした。毎日欠かさず行ってきた“朝の日課”を初めて我慢して、昂揚感を保ったまま登校する。
「おはよう」
 校門の前で、彼女に出遭った。
「おはよう」
 私は、自分でも不思議なくらい堂々としたあいさつを返すことができた。
 これから申し訳ないことをしてしまうという背徳感以上に、俺はお前を犯すんだぞという謎の自信の方が上回っていたのかもしれない。自分でも、一体どういう思考回路をしているんだと少し驚く。
「じゃあ、またあとで」
 今すぐここで言ってしまいたい欲望を含ませて、私はそう言った。また、あとで。
 彼女はただの常套句だと受け取ったのだろう。「うん」と笑顔で頷くと、友達と二人で校内へと入っていった。なびくスカートの裾から見える太ももが、いつもより魅力的に思われた。
 そんな精神状態であったものだから、その後の授業は完全に上の空だった。ノートに訳の分からない文字列を書き殴ったり、ひたすら妄想を繰り返したり。その時が刻一刻と近づくにつれ、股間が膨らむのを右手に感じながらも、同時にどくんどくんとひたすら心臓が締め付けられるのを感じていた。
 七時間目終了のチャイムが鳴る頃には、すでにまともではなかった。さすがに緊張が性欲を遥かに上回っていて、やっぱりやめてしまおうかとも考えた。しかし何度も何度も心の中で己を奮い立たせ、震える腕を引き締めた。
 中央の列の、一番後ろ。自分の席に腰を下ろし、委員会に行っている彼女が帰ってくるのを待った。
 賑やかな高校の放課後。入れ替わり立ち替わり、人の行き来の激しい教室の中で、しかし私に話しかける者はいなかった。バスでも待っているのかと思われているのだろうか。せっかくの放課後の空気を損ねる気持ち悪い奴と思われているのだろうか。そんな居心地の悪い空間も、不思議とこの時だけは苦じゃなかった。
 もうすぐ。もうすぐだ。
 そう思うと、他にはもう何も考えられなかった。高ぶる気持ちを抑えられずに、机に顔を突っ伏した。

 それから二十分ぐらいは経ったのだろうか。教室が私一人になったのを間違いなく確認してから、私は顔を起こした。
 一番後ろの席から見渡す無人の教室はやけに孤独を際立てて、開いた窓から聞こえてくる野球の打球音がやけに情緒的だった。
 きょろきょろと、教室を見回してみた。よく考えたら、こんな風にじっくりと教室を観察する機会などなかった。二年時の修学旅行で撮った集合写真、球技大会二位の賞状。遠足や学校祭のスナップ写真に色紙の寄せ書き。これでもかと言わんばかりに、クラスの思い出が所狭しと飾られていた。
 絶えず聞こえてくる、青春を謳歌しているのであろう運動部員達の声。男女の談笑。それらが風に乗って運ばれてきて、私しかいないはずの教室に染み込んでゆく。
 がたがた、と椅子が揺れた。

 どうしてもたまらなくなって、私は金切り声を吠えた。

 力の限りで机を殴る。
 なんなんだ!? 私の人生は!?
 何も無い。本当に何も無い。他人の不幸を見ることだけが楽しみで、今は幼馴染を犯すことだけを必死に考えている。
 驚くくらい、涙が溢れて止まらなかった。声にならない唸り声を上げながら、私は何度も何度も机を殴り続けた。
 そうして――、そのまま数十分が過ぎた頃だろうか。彼女が教室に入ってきたんだ。

     

「――どうしたの?」
 机に突っ伏したままの、眠っているはずの私に向かって彼女はそう問い掛けた。後になって思えば、私が授業の中休みや昼休みには寝たふりをしてその場をやり過ごす人間だということを、彼女は理解していたということなのかもしれない。
 人が来る気配を感じてから慌てて伏せたままの顔を、私は決して上げなかった。
「ああ……、寝てた」
 “スラムダンク”の流川楓さながら、気だるくクールに応えてみた。顔は決して上げぬまま、起こした右手でヒラヒラと空気を扇ぐ。
 そっか。
 そう言うと、なるべく物音を立てないようにしながらそっと自分の鞄を持ち上げるのがわかった。
「それじゃあ邪魔しちゃ悪いから、帰るね」
 がたがたと五月蠅く喚く教室の引き戸を精一杯静かに閉めて、彼女は歩いていった。再び誰もいなくなった教室で私はむくりと体を起こし、制服の裾で涙を拭う。すかすかの鞄をひょいと持ち上げて、すぐに彼女の後を追った。
「あれ、ごめん。目、覚めちゃった?」
 後ろから来る私の気配に気が付いて、彼女は振り返るとそう言った。
「いや……。う、うたた寝しちゃってただけだから。そ、それより、一緒に帰っても、いい?」
 自分でも嫌になるぐらいどもりながら、たしかにそう言った。人生最高に緊張したこの台詞を、一字一句そのままに覚えている。
「珍しい。二人で帰るなんていつぶり?」
 いいよ、と返事をすることもなく。彼女はまるで当然のように私の歩幅に合わせると、こちらを見てにやりと笑った。思わずどきっと心が弾んだのと同時に芽生えた罪悪感を、私はすぐに本能の陰へと追いやった。
「うん。たまには……と思って」
 ごめん。
 膨らむ股間を左手で覆うように隠しながら、心の中で先に謝っておいた。


「ああ。今日は風がつおーいっ」
 逆風におでこを晒しながら、彼女は不格好に自転車を漕ぐ。そんな不細工な動きも、彼女がするとどうしてだか愛おしくてたまらない。
「でも、本当ハルキって中学あたりから大人しくなったもんねえ。もっとハルキからも声かけて欲しいのに」
 彼女にとっては特に大した意味はないんだろう。それでも私は顔を赤く染めながら、やっぱりどもりながら答えた。
「ん……わかった。こ、これからは……うん」
「よし。約束ね」
 純真無垢なその笑顔。彼女の動きの一つ一つが、私の悪意を削いでいく。胸に秘めた灯を消してしまわぬように、私は必死に良心と戦った。
 ただ、まるで恋人のようなひと時が、いつまでも続けばいいとも思った。私が彼女を犯せば、それは確実に終わる。二度とこうして肩を並べることなどできないだろう。身勝手な葛藤に悩みながら、気がつけば彼女の家の前まで来た。
「それじゃあ、また明日」
 彼女が手を振る。
 もし、今日この機会を逃せば、一生彼女に手は出せない。ふとそんな気がして、私の体はついにシミュレーション通りの行動を選択してしまった。
「ちょ……ごめん。腹痛い」
 私は唐突に自転車を止めると、ペダルから降りその場にうずくまった。
 やるとなれば簡単な話なのだ。腹痛を装い公園の公衆トイレを使いたいと言い、その間鞄を持っておいてくれと公衆トイレの前で待っていてもらう。驚くほどあっさりと計画通りに進んでゆくことに手応えを感じると、私の中では罪悪感や不安以上に、やれるという自信が大きく育っているようであった。
 私は大きく深呼吸を繰り返すと、向こう側を向いている彼女の首に腕を回した。
「え? あれ……ハルキ!? なんで?」
「いいから」
 私は無理矢理彼女を中に引き込んだ。
 三つ並んだ個室の一番奥。汚れた空間には不似合いな彼女を放り込む。
「ハルキ……!?」
 右手で彼女の口を塞ぐ。私はすぐスカートの中へと手を伸ばした。
 ところが、思ったより……いや、想像よりも遥かに、女性とはいえその本気の抵抗は凄まじかった。元々非力の私にはそれを無理矢理抑え込むだけの力はなかったらしい。
 あれっ。
 あれっ、おかしいな。漫画やビデオじゃ、もっと簡単そうにやってたのにな。なんだこれ、胸もまともに触れない。制服って意外と硬いんだな。妙な“現実”に戸惑いながらも、私はすぐに“いざ”の手段をとることにした。自分の鞄をこちらへ引き寄せ、中の物を取り出す。
 それを見た途端、彼女の表情が一層強張るのがわかった。充分すぎるだけの殺傷力は湛えているであろう、大きな出刃包丁である。
「頼むから、大人しくしてくれ」
 その言葉の後には“殺しまではしたくない”と続いているのを、みなまで言わずとも彼女は理解してくれた。
 これは……こんなことで罪が軽くなるつもりもないが、彼女を傷つける為に用意したものでは決してなかった。本来、脅すためですらない。事が済んだ後、速やかに己の命を絶つ。その為だけに買ったものだ。……ただ、行為が難航した際には脅しとして充分な威力を発揮するであろうことも分かっていた。予想通り、彼女はすぐに大人しくなった。

 後は――。
 そこから後は、私の自由となった。憧れの女性の体を存分に愉しみ、体験したこともない快感を得てゆく。夢にまで見た彼女の濡れ場、それは想像を絶するもので、私は本能に身を委ね続けた。
 彼女は泣き顔も美しかった。というより、ますます性欲をそそるものがあるとでも言うのだろうか。どこまでも昇ってゆく性欲を繰り、彼女を堪能した。
 そして、ついに私が彼女と一つになった時、彼女は涙でぐちゃぐちゃの顔で吐き捨てた。
「ハルキ……。最低すぎるよ」

 ――冒頭で述べた通り、私は加藤遥貴としてこの世に生を受けてから高校三年の夏を迎えるまで、良いことなど一つもなかった。
 迎えるまでは。
 高校三年の夏に、あったんだ。
 身を包む幸福を一杯に感じながら、繋がりを阻む合成ゴムを使用することもなく、私は彼女の中で果てた。

     

 ふーっ、ふーっ、と冷たい吐息を荒げながら、私は彼女の体を強く抱きしめた。
 射精したばかりの男根がゆっくりと静まってゆくのを感じながら、心地よい余韻に身を落とす。

 ずるいっ。

 ずるすぎる。
 クラスのイケメン連中は――たとえば何か努力をしたわけでもないのに、いつもこんなに気持ち良いことをしているのか。幼馴染を無理矢理に犯さずとも、懐に出刃包丁を忍ばせずとも。
 生まれたその瞬間に、いや母親の胎内にいる頃から、どういう“顔”で産まれてくるかは決まっているのだろうか? そうだとしたら、こんなにも馬鹿馬鹿しいことは他に無いだろう。

 私の人生の失敗が、生まれる前から決まっていたとしたら。

 どっと涙が溢れ出た。なんなんだよ、これ。
 すぐに我に返り、彼女の胸に顔をうずめた。涙を拭うように顔をこすりつける。犯した女の胸元で泣くという、奇妙な状況。彼女の豊満な乳房の感触が心地よい。
 そして――この時、私の微かな嗚咽だけが響く公衆トイレで、低くドスの利いた声が上から覆いかぶさった。
「……ころす……」
 私じゃない。
 彼女が吐き捨てるように呟いた。ぐしゃぐしゃの泣き顔で、しゃがれた声で。たしかに「殺す」と、そう言った。
「……ぶっころしてやる」

 ――きっとこれが、私の癇に障ったのだ。

 なんでた? なんでお前が私を殺すんだ? そう思った。
 非力とはいえ、男と女。包丁を持ち、上から覆いかぶさっている。どう考えても、殺されるならお前だろ。
 犯されようがどうされようが、とにかくここから生きて帰れればそれで良いやー、って。帰りに病院寄って事後ピルもらわないとなー、って、そんなことだけ考えていれば良いんだ、お前は。
 それなのに、この状況で「殺す」という言葉が出るのは、普段から私のことを見下しているからなんじゃあないのか? 私はそう考えた。
 普段どれだけ親身に接してくれていたとしても、腹の内では私のことを見下し笑っていた。「あんなキモい奴にも話しかけてあげる私、優しい」とか、そういうのがやりたかっただけなんだ。こいつも他の奴と同じなんだ。誰も私のことを好きになんてならない。仲良くしようとも思っていない。誰も。誰も。誰も。――こいつも。
 このままだと、私は警察に連れて行かれる。もちろん、それを覚悟して彼女を犯した。警察に捕まる寸でのところで自ら命を絶つと決意していた。その意志に揺らぎはないはずだった。
 でも……彼女は、ただ私に犯されたというだけで、この先の人生にはまた楽しいことが待っている。そりゃあ、少しは引きずるだろうし嫌な思い出としては残ろうが、その何倍も何十倍もの歓びと希望が彼女の人生には溢れている。私の人生はここで終わり。あっけなく終わり。良い思い出といえば幼馴染をレイプしただけ。彼女はこの先楽しく暮らす。私は終わり。
 薄く差す夕陽の灯が、白刃に反射して彼女の右目を照らした。
 この日の為に買ったばかりの切れ味鋭かろう包丁を、真っ白な彼女の頬にそっと当てる。
「おい」
 びくっ、と彼女が体を震わせた。たったそれだけの動きで乳房が柔らかそうに揺れるのは、それが充分なボリュームを備えていることを物語っている。私は左手でそれを鷲掴みにして、その感触を愉しみながら言葉を続けた。
「どうしてこんなことをしたか分かるか?」
 首を横に振った。
「分かるだろ!!」
 怒号が公衆便所内に響き渡る。彼女は反射的に、顔を覆うように両手を上げた。
「いつもいつも見下しやがって。そりゃ、俺が不細工なのはわかってんだよ! お前みたいに可愛くねえよ!!」
 口調が強まるのに同調して、乳房を握る左手に力が入る。伸ばしっぱなしの爪が食いこむと、彼女は痛そうに顔を歪めた。
「俺に生きる価値なんかねえんだよ。お前だって、いつも見下してたんだろ? 俺のこと」
「違……、そんなことない」
 間髪入れずに彼女は否定した。その目はまるで、私に誤解されていることを本気で憂いているようにも見える。本当に、私のことを見下してなどいないのかもしれないと思わせる。一気に罪悪感と後悔が湧きあがった。
 ――そんなはずない。こいつも他の奴と同じなんだ。私のことを見下しているに違いない。……そう思い込まないと、自分がおかしくなってしまうようだった。
「適当なこと言ってんじゃねえ」
 包丁を握る手に力がこもる。
「いいよな、お前みたいに可愛く生まれた奴は、人生楽勝でよ。いつもいつも俺らみたいな連中を見下しやがって、陰で笑いやがって。そのことで、俺がどれだけ傷ついてたかわかるか? どれだけ辛かったかお前にわかるのかよ」
 違う、違う、違う。
 彼女はひたすらそう呟いていた。涙にまみれた顔を両手で覆いながら、首を左右に振り続けている。
「俺がこんな風になったのは、全部お前らが悪いんだ。このことは誰に話しても構わねえが、バレたら俺は自殺する。それでも良ければ、教師にでも警察にでもチクりやがれ」
 そう言ったところで震える右手に力が入りすぎ、頬に当てた包丁が思わず彼女の頬を裂いた。傷は深いものではなく本当に薄皮一枚といったところだったが、流れるように血が溢れた。怖くなった私は慌ててパンツとズボンを上げ、ワイシャツを整えた。
「良いか、誰かに話したら俺は自殺するからな」
 何度もそのことを念押しした。一体、何を期待していたのだろうか? 彼女にとっては交換条件にすらなりはしない。むしろ、私が捕まる上に自殺するなんて、願ったり叶ったりではないか。それでも……小学校からの友人(一応の)である私が、知らない顔ではない私が死の引き金を引くことを、彼女は躊躇うのではないか。私が死ぬことを、彼女は悲しんでくれるのではないか。死なせまいとしてくれるのではないか? 私のことを、慮ってくれるのではないだろうか。そんな風に、どこかで期待していたのかもしれない。
 つくづく、どういう思考回路をしているのだろう。
「それと……誰かに話すなら、戸締りには気をつけろ。お前も道連れにしてやる。ブッ殺してやるよ」
 そんな身勝手な期待に、全てを委ねる訳にはいかない。最後に脅しを加え、個室の取っ手に手をかけた。
「蒲田もだ。絶対ブッ殺してやるからな」
 その名が出た瞬間、彼女の表情が強張り、そして沈んでゆくのが薄暗い個室の中でも見てとれた。その表情の変化に私は身の安全の手応えを感じ、そのまま個室を後にした。
「覚えとけ。俺を見下したお前が悪いんだからな」
 和式便所の上に半裸のまま投げ捨ててきた彼女の、つくづくこんな場所には不似合いである彼女の、絶望や苦悩。全てを孕んだ嗚咽が、いつまでも響いているような気がした。
 しかし、ここまでやってもまだまだ俺の方が不幸だっつーの。そんな風に考えると、帰り道ペダルを漕ぐ脚はやけにスムーズに回った。



 二章へ続く。


       

表紙

青谷ハスカ 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha