Neetel Inside 文芸新都
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【 とある絵描きと夏の少女 】



「...失礼します」

俺はそう言ってノックをしてから病室に入った。


心電図の単調な音が部屋に響き渡る。

病室のベッドで千夏はただ静かに眠っていた。

頭に包帯を巻かれ、酸素マスクを着けた状態で。

加藤はその千夏の手をぎゅっと握りしめながらただ、隣で俯いていた。





加藤は千夏が事故にあったという情報を聞きつけると、すぐさま病院へ戻ってきた。

そして息絶え絶えに病室に駆け込み、千夏の姿を見るや否や子供の様に泣き出し、

ただ千夏にごめん、ごめんねと頭を撫でながら謝るのであった。


当日の朝、加藤は別の仕事があるから屋上には送って行って上げられないと
千夏に対しても告げたそうだ。

そして、ひまわりの花も今日は届けてあげられないとも。


千夏はそれを聞いても文句一つ言わず

「大丈夫ですよ。お仕事がんばってきて下さいね」

そう加藤に笑いかけたのだという。




そう。千夏はひまわりの花を摘みに、ひとりで丘に向かったのだ。


誰の手も借りずに、自分自身の力で外へ出た。


もうほとんど目が見えていない状態に近かったのに。


自分で車椅子を押して、丘へ向かった。


それが自分のためだったのか、それとも俺へのお礼の為だったのかはわからなかった。





なぜなら、事故が起きてから数日たっても、千夏の意識は戻らなかったからだ。





崖といってもあまり高さは無かったのと幸いにも砂浜近くだったので溺れることはなく

外傷もそこまでひどいものではなかった。

しかし、千夏の意識は一向に戻ることはなかった。

院長はその様子を見て、千夏の血液検査、CT、髄液検査を行った。



それらが導き出したものは最悪の結果だった。



" ウィルス性急性脳症 "



事故の当日、海に落ちてから数時間放置された事により、千夏は風邪を引いてしまっていた。

その風邪の菌が血管をとして脳に入り、酷い脳炎を起こしてしまったのだ。

それはベーチェット病により弱っていた千夏の体にとって、絶望的状況だった。


千夏にはもう、治療を行うための体力は残されていなかった。







心電図の単調な音が部屋に響き渡る。

その音は俺にとって、まだ千夏が生きている証しであると同時に

今の千夏が植物状態である事実を突き付けるものでもあった。

病室の窓辺に目をやると、水が入った花瓶が置かれていたが、

そこには何の花も挿されてはいなかった。


「加藤、変わるよ。お前、寝てないだろう。少し休んだ方がいいんじゃないのか?」

加藤は何も答えなかった。ただ、千夏の手をさらに強く握りしめただけであった。

俺は入り口に重ねられていた椅子を加藤の隣に持ってきてそこに腰かけた。

やがて加藤は重い口を静かに開き始めた。

「まただ...まただよ。あの子が辛い思いをしている時に限って、
 あたしはあの子の傍にいないんだ...
 あたしが千夏ちゃんを幸せにしてあげる?はは...笑っちゃうよね...」

「加藤...」

「こんなことになるなら引き取らずに、施設にいた方が幸せだったのかもしれないね...」

それは俺に話しかけていると言うより、自分自身に言い聞かせているように感じた。





そうだ。



そうだよ。



こんなことになるなら



こんなことになるのなら。



俺もあの時、ずっと寝たふりをしていればよかった。



屋上なんかに行かなければよかった。



千夏と逢わなければよかった。



そうすれば千夏も、加藤だってこんな悲惨な目にあわずに済んだはずなのに。



辛い想いをしないで済んだのに。



幸せでいられたはずなのに。







" 凄い!凄いです!こんなに美しい絵、私今まで見たことがありません! "


" あなたはとても美しい絵を描くのですね "


" 昨日の絵のお礼です。よかったらどうぞ "


" そんな、無理しなくていいんですよ!?私ずっとこの時間一人でしたし!!
な、なな慣れてるんで! "


" ただ...藤崎さんに私がどういう風に見えているのか...それが知りたいんです "


" 藤崎さんには私はどう映っていますか? "


" 早く藤崎さんの絵、見てみたいです! "


楽しそうに話す千夏の声が俺の頭の中でこだまする。




そんな時、昨日の加藤の言葉がふと思い出された。




「千夏ちゃんが今まで以上に
 ひまわりを取ってきてくれって言うようになったしそれに」




『よく笑うようになった』




「...確かに施設に居ればこんなことにはならなかった。
 俺があの日、屋上に行かなければ、千夏と話さなければ、絵を描くなんて言わなければ、
 こんなことにはならなかったのかもしれない。

 でもさ、施設から千夏を引き取ってからいろんなとこ一緒に歩いて回ったって
 あんた、昨日言ってたよな。公園や植物園に行ったりしたってさ。
 その時の千夏はどうだったんだ」

目を赤く腫らせた加藤が千夏の手を離し、俺の方へ初めて顔を向けた。

「その時の千夏はどう見えたんだ?
 その姿を思い出しても、施設にいた方が幸せだったって。本当に、そう思うのか?」

加藤は決して俺から目を反らさなかった。

問いかけに対して何も答えなかったが、目からこぼれた一筋の涙が加藤の想いを語っていた。


俺は千夏の方へと顔を向けた。もちろん瞳が開くことはなかった。

それでも俺は千夏へと語りかけた。どうしても、本人の口から聞きたかった。

「なぁ、千夏。お前は加藤と出会って、一緒に暮らすことになって。
 施設の中とは違う、外の景色をたくさん見て。
 いろんな草木や花を見てさ。幸せだったか?」

千夏の手をゆっくりと握る。

「病気が見つかって、病院に入院することになって。
 足も思うように動かなくなって。車椅子に乗って生活しなきゃいけなくなって。
 目が以前より見えなくなって。より景色も鮮やかに見えなくなっちまってさ。
 それでも、幸せだったか?
 俺と出会って、最初から凄い怒鳴り散らした俺だったけど、
 そんな俺とここで、出会ってさ。
 加藤と一緒に三人で話したり。あと、二人で他愛もない話とかしたなー」

景色がゆがみ、喉の奥に痛みが走ったが、懸命にこらえた。

「そしたらお前、いきなり俺に私の絵を描いてくれーなんて言ってきて。
 本気でびっくりしたよ。正直一瞬、こいつナルシストなのかなんて本気で思っちまったよ
 でもそんなお前の一言のおかげで、また絵を描こうって気になれたんだ」

千夏の手を力いっぱい握る。そこにもう温かさはあまり感じられない。

「なのに出来上がるまでその絵を見せないなんて約束無理取り取りつけてさ。
 それまで千夏の目が見えてるかなんて、わからないのに。
 結局、出来上がった絵も見れないまま、こんなことになっちまって。
 それでも...それでもさ...」


もう全てが、堪え切れなかった。


「それでも...幸せだったか?」



そう言って俺はベッドに顔を埋めた。手は硬く、握り締めたまま。







その手を






握り返す感覚を感じた。





「――― 幸せ、でしたよ ―」





俺はその聞き覚えのある

今までずっと傍にいた、聞き覚えのあるその声の方へ顔を向けた。



「―― 加藤さんと出会えて。いろんな花を見て。私の好きなひまわりに出会って」


その声はゆっくりと、そしてとても微かだった。


「―― いろんな鮮やかな景色を見ることができて。毎日散歩に連れてってくれて」


だが確かにその口元は動いていた。


「―― そんなやさしい、お母さんに出会えて...とても幸せでした――」


隣にいる加藤が、その言葉を聞いた途端、声もなく泣き始めた。


「―― 確かに足もおなかも目も、以前と変わってしまって。鮮やかに見えなくなって」


うっすらとその目が開き始める。


「―― それはちょっぴり悲しかったけど。でもそのおかげで」


ゆっくりとこちらの方へ顔をむける。



「―― 藤崎さんに、出会うことができました――」



千夏はゆっくりと腕を動かし、懐から一枚の紙を取り出した。

それは俺が初めて描いた時の乱雑なあの海の絵だった。


「―― もうほとんど見えないはずなのに。この絵だけはとても鮮やかに見えたんです。
 本当に...本当にきれいでした ――」


あの乱雑な絵を、裏紙に描いたあの絵を

千夏は未だに捨てずに肌身離さず持っていたのだ。


「―― 私は藤崎さんの描く絵がとても好きでした。とても色鮮やかなこの絵が ――」

「何言ってんだ!そんな裏紙に描いた絵なんかより、
 今描いている絵の方がずっとずっときれいだ!ま、待ってろ!今持ってくる!」


そういって俺はあの絵を取りに病室から駈け出して、屋上へ走った。



「―― 私は...藤崎さんと...出会えて ――」








「 千夏!! 」

そう言って俺は絵を抱えたまま部屋に駆け込んだ。



そこには院長と看護師が数名いた。


加藤は千夏の体に顔を埋めたまま動かなかった。


さっきまで単調なリズムを刻んでいたその機械からは――





甲高い長音が発せられていた。





「ち、千夏...うそ...だろ」

「藤崎さん。お気持ちはわかりますが、一先ず落ち着いて下さい。」

俺は看護師を振り払うと千夏の傍まで駆け寄り、持っていた絵を千夏の目の前へと出した。

「も、持ってきたぞ、これだ。

 ほら、海も、草も、花も。全部鮮やかな色をしてるだろ?

 そんな絵よりこっちの方が全然きれいだろ? な?

 あそこからはこんなにきれいな景色が広がってるんだよ。
 
 この真ん中にいる女の子。誰かわかるか?お前だよ、千夏。

 お前の笑顔は周りに負けないくらいこんなに輝いてるんだ。

 なぁ...なんとか言ってくれよ...千夏...」


「藤崎さん、千夏さんはもう...」


「千夏!!目開けろって言ってんだろっ!!聞こえねぇのか!!

 以前みたいに嫌々描かされた絵なんかじゃねぇ!!

 これは俺がこの年にもなって初めて、本心から描きたいと思って描いた絵なんだよ!!

 これ見ないで俺の絵が好きだとか、勝手なこと貫かすんじゃねぇよ!!」


「藤崎さん落ち着いて下さい!藤崎さん!」


キャンバスを振り回しながら叫ぶ俺は数名の看護師によって押さえつけられた。


加藤はただ、千夏の近くで千夏の名を何度も何度も呟いていた。









千夏は静かに息を引き取った。





結局千夏は最期まで





俺の絵を見ることはなかった。





...続く

       

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