Neetel Inside 文芸新都
表紙

Wild Wise Words

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 夢から溢れたグレーが私の周りを侵食している。
 灰色のリンゴを掴むと、少しの握力で崩れ落ちた。机さえも手を置けば崩れた。それらはつまり、燃え尽きた後の灰その物で構成されていた。
 夢の内容はいまいち覚えていない。酷く怖ろしい物だったような気もするが、汗はかいていない。いや、違う。汗も灰になってすっかり落ちきってしまったらしい。髪の毛を1本抜いてそれに気がついた。私を含まぬ私の周囲が、徐々にだが確実に灰化しつつある。
 助けを求めようにも、誰かをこの部屋に呼んだ途端に灰と化してしまうかもしれない。かといって放っておく訳にもいかない。灰化の範囲は広がっていて、今では壁にかけていた時計も崩れてしまい、正確な時間が分からない。窓の外を見るに夜のようだが、朝までどれくらいなのかは見当もつかない。
 どうやらこの問題は、私が1人で解決するしかないようだ。
 原因は、やはり私の見た夢にあるらしい。元々椅子だった灰を手でかき集めて、私はとりあえずそこに腰を下ろした。そしてじっくりと思い起こす。眠りに入り、まず何が起きたか。夢の導入。剥離する現実の切っ先。
 夢の中で私は誰かと話していた。黒い服の痩せた男だったと思う。顔は覚えていない。
「何かお探しですか? お嬢さん」
 口調は気持ち悪いほどに優しく、丁寧だった。猫撫で声と表現しても良いかもしれない。だが事実、私は何かを探していた。
「ええ……この辺でちょっと、落とし物を」
 答えてから周りを見ると、どこか寂れた街の、暗い路地裏だった。
「もしかして、これですか?」
 と、男が差し出したのはランタンだった。真鍮製で、煤にまみれ、取っ手のメッキが剥げていて、中の火は消えている。かなり古い品のようだが全く見覚えがない。
「いえ……違うと思います」
「本当に? これだと思うけれど。ほら、よく見て」
 男は少し口調を強めて、私に近づいてきた。拒否を明らかにする私だったが、伝わってはいなかったらしく、男は私の手を握ると、そのランタンを無理やり持たせた。
「やはり夜道を歩くにはこれがないと。でしょう?」
「それもそうですが……でもこれは、私の物では……」
「そんな事はどうでもいいじゃないですか。ほら、早く火をつけて」
 火をつけて、と言われても、マッチも無ければ燧石も持っていない。どうすれば? という目線で男を見ると、男は笑顔で私の行動を待っていた。
「あの、出来ません」
「何故? 火をつけるだけでしょう? あなたなら簡単なはずだ」
「私なら? それはどういう……」
「ほら、早く……」
 どんよりと景色は暗くなる。
 音が間延びして、意味を保てなくなる。
 私は頭を押さえていた手を思わず離す。
 痛みに耐えられなくなった。夢を思い出す事は、この灰だらけの状況を解決するのに必要不可欠な物であるはずだが、非常に難しい作業だと身を持って感じる。
 だが少なくとも、これだけは分かった。夢の中の男は私の持っている力を知っていて、私から火を引き出そうと画策してきた。私があのランタンに火を灯し、それをランタンごと奪おうとしたのだろう。果たしてその企みが成功したのか失敗したのかは分からないが、灰だらけのこの状況は、あまり良くない事が起きている事を意味している。
 私の父は、私にこの火を継がせる事を選んだ。5つ上の兄がいるにも関わらず、結局最後に選んだのは私だった。私のどこを買っての判断だったのかは、父が死んだ今となっては分からないが、兄は納得出来ない様子で私からも家からも離れていった。寂しさは残ったが、代わりに私にはこの火を継ぐという使命が残った。一族が代々守ってきた重要な使命であり、この火は世界にバランスをもたらす為に重要な物だという事は理解している。
 夢の中で火を奪おうとした者の狙いは私には分からない。だが、確かめる必要はある。
 手のひらを上にした両手を、私は目の前で重ねる。あたかも川の水を掬うように、小さな椀を作るように。そして祈る。世界の平和などという大逸れた物である必要はない。ただ正しい均衡と、少しでも完璧な調和を目指して念じる。
 火が点かない。
 ただただ汗が灰となって零れ、手のひらは渇くばかりだ。
 奪われてしまったのだろうか。夢の中で私は、ランタンに火をつけてしまったのだろうか。溢れ出したグレー。思い出そうとすると、痛みはますます重くなる。しかし現実は、更に重く私にのしかかる。父から継いだ調和の火を失ったとなると、私は一族の恥だ。笑われ者だ。この灰化現象は、失態の代償という事だろうか。
 その時、部屋の扉を崩して男が入ってきた。今度は確実に見覚えがある。説法屋だ。兄の使いとしてたまに私の下を訪れ、火を譲ってくれないかと交渉を持ちかけてくるしつこい男だ。
「おっと、それ以上近づかないでもらえますか?」
 説法屋は私にそう告げる。私の置かれている状況は理解しているらしい。
「説法屋、何の用だ? 私は今、忙しいんだ」
 つっけんどんに返すと、説法屋はくすくすと笑った。
「火が奪われてしまったらしいですね。同業者が得意げに自慢していました。あの一族から、調和の火を盗んできた、と」
「何だと?」
 私は更に汗をかく。足元に灰が溜まる。
「どうするおつもりですか? あの火は唯一無二の代物。代用品などあるはずがありません」
「……取り返す。必ず」
 言ったものの、何の案も無い事くらい、説法屋は当然見抜いてくる。
「今のあなたの状態で? 満足に身動きも取れないではないですか。街を灰だらけにしながら犯人を探すとでも? それこそ、調和とは最も遠い行為のように思えますが」
 説法屋の言葉の1つ1つが、深く私の脳に突き刺さる。先ほどまでの痛みとは違い、それは鋭く、私を昂ぶらせる。
「最初からあなたのお兄さんに火を譲っておけば良かったのです。そうすれば、こんな事にはならなかった。違いますか?」
「違うね」
 私は説法屋に飛びかかる。だがそこに敵意や悪意はない。なぜなら、私は説法屋が灰にならない確信があった。
 逃げようとする説法屋の腕を掴む。そして顔を近づけて睨む。
「おや? 何故お前は灰にならない?」
 どうやら私が気づいた事に気づいたらしく、説法屋は諦めたように溜息をつく。
「いつ気づきました?」
「強いて言うなら、最初から疑ってはいた。お前が登場して確信したよ」
「ほう?」
「もしもあの火を失った代償がこの程度の物であるならば、兄はわざわざお前なんぞに依頼しないよ」
 説法屋はくすくすと無邪気に笑って、感心したように言った。
「あなたの父の目は間違っていなかった、という事でしょうかね」
「分かったのなら、さっさと私を現実の世界に戻せ」
「かしこまりました」
 夢だったのは、むしろこちらの世界だ。見覚えのない部屋。時間の喪失した空間。灰化現象。点かない火。全ては説法屋が用意した舞台装置だった。
 路地裏に戻った私の手には、あのランタンが握られていた。
「居心地の悪いランタンだった」
「なにぶん年代物な物で」
 目の前にいる、黒い服を着た説法屋が答える。今度は顔がはっきりと見えた。
 もしも私が兄への敗北を認めていたら、このランタンには火が灯っていたはずだ。そして説法屋は仕事を完遂していた。そんな胸糞の悪い結末にはあいにくとならなかったが。
「説法屋。兄に会ったら伝えておけ。その浅はかさを、父は見抜いていたと」
「とっくにご存知でしょう」
「それもそうだな」
 これ以上、この男と喋っていても意味がない。私は踵を返し、路地裏を後にしようとした。そんな私に、説法屋が声をかける。
「おっと、何かをお探しだったんじゃないですか?」
「ああ……いや……何だったか」
「これですよ」
 説法屋が差し出したのは1枚の写真だった。幼い頃の私と、兄と、父が映っているたった1枚だけ残された写真だった。残りは全て燃え、灰になった。私と兄のどちらが燃やしたのかは、覚えていない。

       

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