Neetel Inside 文芸新都
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Wild Wise Words
木枯らし

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 咳をすると涙が出る。悲しくも無いのに、嬉しくも無いのに。肺で受け取った空気を口から吐いて、何故か涙腺が反応してしまうのだ。感情の伴わない涙は誰にも見せたくなく、ひっそりと袖で拭って、なるべく咳をしないように注意する。
 この風を「木枯らし」と、最初に呼んだ人を尊敬している。だって余りにもぴったりじゃないか。木を枯らす風、コガラシ、冬の情景と、死への連想。昔には酷く言語感覚に優れた人がいたものだ、などと思っているとまた咳が一つ出た。涙も出る。再び拭う。
 墓場を抜け出しての夜の散歩は、夏場は腐臭からの逃避として最適だったが、冬場は流石に寒さに堪えた。私の左半身はほとんど骨しかないので、感覚なぞとうの昔に失ったはずなのに、今でもくだらない幻肢痛が襲ってくる時がある。
 こんな時は、医者の所に行くに限る。
 良い医者を見つける事は、安らかなる死を手に入れる為に最も良い手段と言える。
「今日はどうしました?」
 ワニのお医者様が、耳まで広がった大きな口で、静かに静かにそう尋ねる。私は正直に、その爬虫類独特の真横に開く大きな瞳を見つめる。
「むき出しの腕骨が寒くて痛むのです。ひびが入っているかもしれません」
「それはかわいそうですね。どれ、見てみましょう」
 ワニ医者様は私の着ているニットの袖をめくり、鱗のびっしりと生えた手で骨をぺたぺたと触っていた。「ふむ、ふむ」と頷きながら、鼻息は荒く瞳を細める。
「どうやら異常はないようですな。厚着をしてみてはいかがでしょう」
 もっともな提案だったけれど、私は同意しかねる。
「沢山服を着ると、棺桶に戻った時に窮屈で仕方がありませんの。一日のほとんどは地面の下で過ごしているので。それに……」
 次に言おうとした台詞が、なんだかあまりにも悲しすぎて、声を出すのをやめる。するとワニ医者様は察し、わざと言葉尻を続けた。ように私には見えた。
「ああ、死者が死後に物を所有するのは禁止されていましたな」
 意地悪なお医者様。いや、悪気は無いのかもしれない。いやいや、悪気どころか、ワニ医者様は立派な方だ。私のように既に生に見離された者まで親切に診てくれている。お金も取らずに、こんな深夜まで。まるで仏のような方を謗る事など、心の中ですらおこがましい。
「ありがとうございました。お医者様に診てもらえたら、なんだか少し楽になりました」
 再び私は咳をして、涙を袖で拭う。何故私は死んだ時に、ハンカチの1つでも持っていなかったのだろうか。
「いえいえ、これくらい何の事ありません。またお気軽にお越しください」
 ワニ医者はにこりと笑っていたが、裂けた口が不気味すぎてあまり気分の良い物ではなかった。
 夜の明ける少し前に、私は墓場へと戻った。開けっ放しの棺桶に入り、しばらく満天の星を眺め、明るすぎる月を少しだけ恨んでから蓋を閉じる。そのままずぶずぶと棺桶は地面の下へと沈んで行き、再び私はしばらくの眠りにつく。
 はずだった。
「おっと、ぎりぎり」 
 棺桶の蓋が開く。嫌だ、墓荒らしかしら? 私の不安を他所に、彼はにこりと微笑む。この場合は心地よく。
「君、この辺りで死んだ人?」
「ええ、まあ……」
 私は少し気だるそうに身体を起こす。彼の手が伸びてきたので、まだ肉の残る右手を差し出し、棺桶から這いずり出る。ふふ、我ながらオゾい表現。
「男の方にエスコートされて、こんな風に起こされるのは始めてです」
「本当? そんなにお美しいのに?」
 少しも表情を変えずに言ってくれるのが嬉しい。でもそれを悟られるのは少し悔しい。
「お世辞がお上手ですね」
「いえ、お世辞ではありませんよ」
「ほとんど肉の残っていない身体ですわ。残りも少し、腐っていますし」
「だけどその顔、モルガンサファリで主演女優をこなせる程に整っている。綺麗だ」
「ありがとう。それで、何のご用事?」
 彼の言葉が、何か裏の目的あっての事だというくらいは私も分かっていた。死は沈黙だが盲目ではない。私は沈黙ですらない。
「ワニを探しています」
「ワニ?」
「ええ、タチの悪い奴です。人を喰う」
 もちろん、私がワニ医者様を思い浮かべないはずがなかった。しかしあの立派な方が、人など喰らうはずがない。だから言ってしまっても構わないけれど、でも、けれど、でも、私ごときが余計な事をするのはどうなのかしら。
「さて、知りませんわ」
「そうですか、ありがとう。ちなみに僕は説法屋。説く事を生業としているので何か御用があればお呼びください。それでは」
 説法屋、聞いた事がある。何でも説くと噂の人。確か妹がファンだったと思う。
 私はなんとなく、その後ろ姿を呼び止めて、あのワニ医者様について話したい衝動に駆られたが、どうにか耐えた。死者が恋をしていいはずがない。死んでから得られる物など何も無いのだ。
「あ、そうだ。最後に1つだけ」
 説法屋さんが振り返る。
「君の死因は?」
「私の死因は……」
 思い出せなくなっている事に気づく。左半身の肉をほとんど失うくらいの何か大きな事があったはずなのに、何も思い出せない。咳が出る。涙も出る。袖で拭う。すると私の目の前から、説法屋さんは消えていた。
 次の日、私は再びワニ医者様の所を訪ねた。どうしても痛かった。木枯らしが辛くて、死んでしまった事よりも遥かに悲しくて、どうしても誰かに診てもらいたかった。
 いつもの診察室に、いつものワニ医者様はいなかった。代わりにいたのは昨日の説法屋と、白衣を血で真っ赤に染めたワニ医者様の死骸だった。
「また会いましたね」
 説法屋さんは私に向かって微笑んだ。どこまでも紳士な方だ。殺害すら非常にデリケートな行為に思える。
「このワニは醜い奴でね。自分の喰った相手を半分だけ残して、しばらくの間死んだまま生かすのですよ。そして自分は医者のフリをして、死人の相手をするという訳です。死人が痛がったり困ったり悲しんだりしている姿を眺めて楽しむ。何が楽しいのかは分かりません。まあ、分かりたくもありませんが」
 ワニ医者様の瞳は光を失い、それでも琥珀のように綺麗だった。眺めていると、私を喰った事さえ許せてしまいそうな気がした。だって何も覚えていないし、美味しかったのなら尚更良い。
「寂しかったのでしょう。私もそうだから、分かります」
 無いはずの左手が痛む。咳はまだ出ていないのに、涙が零れ落ちる。袖で拭う。
 その様子に同情してくれたのか、それともこれも仕事の一つなのか、説法屋さんは私に尋ねる。
「何か欲しい物はありますか?」
「でも、死者は何も得てはいけないルールが……」
「そんな物はありませんよ。それはこのワニの作った決まりです。あなたがきちんと死ねば、何かを得る事が出来るはずだ」
「まあ、それは嬉しい」
 私は少し考えてから、説法屋さんにこうお願いした。
「それでは、ハンカチを1枚くださいませんか?」
「僕のでも良ければ」
「ありがとう」
 誰かの為に泣けるなら、死後のハンカチにだって意味はある。

       

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