Neetel Inside 文芸新都
表紙

みんなのヒーロー
第2章「孤独な英雄」

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 英雄は社会人五年目のシステムエンジニアである。一般企業から公共・行政機関に至る幅広い団体を対象としたシステム開発や保守運用を提供する、世間での認知度は低いものの業界では評価の高い中堅企業に正社員として勤めている。
 主要なサービスとしては一般会計や公営企業会計の会計システムの構築、企業の勤務形態や雇用形態などを管理し勤怠を一括管理する勤怠管理パッケージの開発だが、英雄はそのどちらでもなく、とあるクレジットカード会社のシステムを一括で請け負う部門に所属していた。
 一人当たりの保有枚数が二枚以上というクレジットカードの普及率はサービス戦線を過激化させ、それに比例するようにシステムの開発依頼が大量に訪れる。その反面、クレジットカードは国内だけではなく海外でも使用されているため、システムは常に稼働し管制センターによって監視する必要があり、通信障害などがあれば世界規模の問題になることから、その部門はサービスの中では特に重要視されていた。
 英雄は入社して一年ほどは、プログラマーとしてプログラミングやテストを行なっていた。もともと大学のころからプログラミングを学んでいた英雄は、苦労しながらも業務のプログラミングやテストには楽しさを見出していた。ところが二年目以降はシステムエンジニアとして顧客と折衝、見積書の作成、仕様の決定などを任せられるようになり、プログラミングとは一切縁がなくなってしまった(システムエンジニアとプログラマーの関係とは、しばしば比喩される表現は現場で指示を出す大工の棟梁と実際に建築を行う大工の関係であり、それが理想とされている。システムエンジニアが決定した仕様、作成した設計書を元に、プログラマーがプログラミングやテストを行う分担となっている。企業によってはその線引きが曖昧だったりするのだが、英雄のいる会社は理想的な分担が行われているようだ)。
(もうこんな時間か。今日も昼休みがなかった。忙しいといつもこうだ……)
 時刻は午後十時。英雄は顧客から提案されている要件を元に、見積書を作成しつつ仕様を考えていた。優に百人以上のデスクがあるフロアの中には、英雄を除くとわずか三人しか残っていない。そのうち正社員は英雄よりも遥かに年上で経理や事務手続きを取りまとめている、いわゆる『お局さん』の女性一人だけ。他の二人は出向してきている協力会社の人間で、どちらも英雄より年下の同性である。
 お局さんとは経費や書類に関する会話だけで親しくなく、協力会社の二人はずいぶん前に仕事の絡みで話したことがあるぐらいで、名前もうろ覚えだった。そのため英雄は誰とも話さず、黙々と仕事をしていた。フロアはたまに協力会社の二人が会話をするだけで、あとは空調とキーボードのタイプ音しか聞こえない。照明も四人の頭上以外は消灯していて、薄暗く不気味な雰囲気が醸し出されている。
(次の開発も厳しそうだな……どうしたものか)
 システムエンジニアになって四年、未だに慣れた気がしなかった。プログラミングやテストをしていたころはまだ楽しかったが、今はまったく楽しさを感じていない。管理の仕事なんて自分には向いていない、そんな英雄の自己評価に反して上席からは高い評価を得ていた。顧客からの信頼も厚く、担当した開発はすべて見積り以内で納め、適切な指示や状況判断から上席や部下から慕われている。半年に一度の人事考課では毎回良い評価を受けているものの、英雄はまったく信じていなかった。
 そもそも英雄はシステムエンジニア、もっと大きなカテゴリではIT業界に入りたかったわけではない。数学や物理が得意で自然と理系の大学に進学し、講義の一つでプログラミングを勉強していただけで好きも嫌いもない、言わば無関心だった。
 ところが就職活動をする時期になり、四年間もあった大学生活を自堕落に過ごし、将来のことを何も考えていなかった英雄は進路に悩んだ。危機感を覚えたときには時すでに遅し、自分の可能性を見出す時間はなく、わずかな選択肢しか残っていなかった。
 まず大学院への進学を考えたが、この選択肢はすぐに消えた。数学や物理は好きだが、さらに追求して研究や実験を重ね、ゆくゆくは教授として教鞭を振る、そんな意欲はなかったし、これ以上親に金銭面で負担をかけることはできなかった。
 そうなると就職という選択しかなかったが、どの業界に進めば良いのか。残念なことに数学や物理を生かせる就職口は多くないので、講義でプログラミングを学んでいたのでIT業界、なんて消去法で決めてしまい、手当たり次第に履歴書を送り、内定を貰えた中で労働条件が最も良いところを選んだところ、今の会社に決まった。つまり第一志望でも何でもないところに就職したのだ。
 そんなわけで仕事に意欲が湧くはずもなく、惰性で続けているうちに気がつけば五年も経っていた。
(ずっと、こんなことをしていくのだろうか……)
 まだ二十代なので転職して再スタートができるかもしれないが、そんな度胸はない。きっと三十代、四十代になっても同じことをしているのだろう、そう考えると将来が不安だった。結婚資金を貯めるために頑張っていた時期もあったが、つい先日その必要がなくなり、そして今後も必要ない。朝起きて、通勤し、仕事をして、昼休みには週刊誌を立ち読み、仕事に戻り、ほぼ毎日残業をして、帰宅し、眠る。このサイクルの中で次の相手、未来の結婚相手なんて知り合えるはずがない。頼みの綱の友人、正義とはあれから疎遠になっていて、もはや可能性はゼロだ。
(子供のころの僕が今の僕を見たら、がっかりするんだろうなぁ)
 大学生のとき、悩み続けたがやりたい仕事は見つからなかった。今の仕事が天職とも思っていない。けれど『世界を守るヒーローになりたい』と幼いころに描いた将来の夢のことは覚えていた。ドラゴンボール、スーパー戦隊、仮面ライダー、ウルトラマン、それらに憧れていた。
 それをいつ諦めてしまったのか。いつ架空の物語と気づき、実現できない憧れだけのものと知ったのだろうか。
「何のために生まれて、何のために生きるのか」
 ぽつりと漏らした独り言。かつて憧れていたヒーローの一人、アンパンマンの主題歌のワンフレーズだ。静かなフロアだったので慌てて周囲を見渡したが、幸い誰にも気づかれず英雄は胸を撫で下ろした。

 午後十一時に差しかかろうとしたとき、フロア中にパトカーのサイレンのような音が乱暴に鳴り響いた。そのけたたましい音に英雄とお局さん、協力社員の二人は仕事の手を止め、部長席の隣に設置されている電話会議システムに目を向けた。
このフロアで働く人間でこのサイレンの音を知らない人間はいない。これは昼夜問わず稼働しているシステムを監視、運用している管制センターからの連絡で、システム上に不具合や障害が生じ、早急に調査、対応を求める非常警報なのだ。
 この連絡に応答する人間は限られている。部長、次長などの上席、あるいはシステムに精通している高度な技術者だが、今のフロアはそのどちらもおらず、この場合は任意の正社員が応答することになっている。英雄はこっそりとお局さんの様子を覗いたが、自分の仕事に没頭していて動く気配がなさそうだ。経歴は長くても事務職専門の人が応答できるはずがないので、英雄はゆっくりと腰を上げ、そういえば応答の方法がわからない、取扱説明書はどこにあるのだろうと、あれこれ悩みながら電話会議システムに向かった。
 非常警報とは言え緊急度には差がある。英雄が経験してきたものはいずれも軽微な障害で、調査から原因特定、解決まで一時間に満たないものばかりだった。過去にシステム全体が停止するという大規模な障害が発生し、すべての社員が三日間缶詰め状態になるという悲惨な出来事があったらしいが、英雄が入社するずっと昔の話で、後にも先にもその一度だけらしい。
(終電帰りは確定だ。システムに影響のない内容なら明日の朝一でもいいとは思うけど、上席の印象は悪いよなぁ……)
 すぐ近くで鳴り続けるサイレンの音に顔をしかめながら、見つかった取扱説明書をななめ読みするとスピーカーボタンを押せば通話ができることがわかった。
「もしもし、こちらは業務開発部門です。どうかしましたか?」
『――、――』
 管制センターからの応答を聞き取ることができなかった。管制センター側のサイレンや大人数の怒号が応答の声を遮っているようだ。
「もしもし、聞こえますでしょうか? こちらは業務開発部門です」
 二度目の呼びかけで英雄は違和感を覚えた。管制センターの様子が変だ。これまでに聞こえた管制センターとのやりとりはごく普通の電話のように会話ができていた。こんな騒然としている様子を少なくとも英雄は聞いたことがなかった。
(……嫌な予感がする)
 お局さんと協力会社の二人も只ならぬ気配を感じ取ったのだろう、英雄にじっと視線を集めていた。
「もしもし、こちらは業務開発部門です。どうされましたか?」
 電話会議システムの音量を最大にして、英雄は三度目の呼びかけをした。
『――さっきから、何度も言っているでしょう! 何をしているのですか!』
 ようやく注意すれば聞き取れるぐらいの声が返ってきた。しかしその声はとても苛立っていて、事情を飲み込めない英雄はカチンとしてしまうが、表に出さないようにぐっと感情を抑え込んだ。
「申し訳ございません、少々聞き取りづらい状態ですので、声をもう少し大きくしてもらってもよろしいでしょうか?」
『……はい、わかりました。取り乱してしまって申し訳ございません。こちらは管制センターのオペレーターです』
「現在、何か起きているのでしょうか? そうであれば、状況を教えていただけますでしょうか?」
『そうですね、まず結論を言いますと……』

『現在、障害が発生してシステムが停止しています』

「て、停止! そんな、どうして!」
『詳しいことはわかっていません。今のところ、障害発生時刻と障害の原因となった取引の絞り込みはできていますが、発生したエラーの件数は調査しているところです』
「それよりもまず、復旧をさせないと、他は、他のシステムは大丈夫ですか?」
『今は夜間ということもあり、ほとんどのシステムはスケジュール通り停止していて、それらについては問題ありません。問題は、本来は稼働し続けなければならないシステムが障害で停止していることです。現在は緊急用のダミーのシステムに切り替えて稼働させています』
「ダミーというのは、普段動いているシステムと比べてどのような差がありますか?」
『違いはありませんので、利用者には気づかれません。ですが、この状態でまた障害が発生すれば今度こそ完全に停止します』
「なるほど。ところで、現在停止している……正規のシステムは、すぐに復旧はできるのでしょうか?」
『復旧は可能です。今回の原因として、特定の取引が発生した場合に想定外の負荷がかかり、処理が遅延してサーバがダウンしたものだと考えています。ですので、一度再起動することで正常に稼働します』
「では、もしダミーのシステムが止まってしまったら、すぐに正規のシステムに切り替えましょう。面倒かもしれませんが、それを繰り返せば完全停止は避けることができます。こちらでも調査しますので、問題の取引とその他障害に関する情報を業務開発部門のメーリングリストに送ってください」
『はい、わかりました。すぐに送ります』
「あと、逐次情報を交換する必要があるかもしれませんので、このままスピーカーはオンにしておきます。一度、席を外します」
 自席へ戻り、英雄は腕を組んで現状の把握と今後の対応を考えた。まずシステムが止まるほどの障害となると、管制センターの運用に問題がある可能性も視野に入れなければならない。例えばサーバ、あるいはケーブルのような周辺機器が破損しているなどの原因が浮かんだが、それはすぐに候補から外した。
(ダミーのシステムは正常に動いている、特定の取引のみでアウト……物理的な問題じゃない。となると、こちらの問題だ)
 プログラムのバグ、つまり英雄が属する業務開発部門の責任となる。その場合、可及的速やかにプログラムを修正しなければならない。オペレーターが言っていた通り、次の瞬間にもダミーのシステムが停止してしまう可能性があるからだ。
(終電まで、あと一時間あるかないか)
 難しい問題が残っていた。それは自分以外の、お局さんと協力会社の二人の存在だ。障害の対応は人が多いに越したことはないが、それは一定のスキルを持った人間に限った話だ。お局さんはプログラミングの経験がないため論外、協力会社の二人のスキルは英雄よりもずっと格下で、バグの発見から修正までを行うにはやや荷が重いだろう。
(僕がバグの原因を突き止め、二人にプログラミングとテストを実施してもらう……いや違う、バグを見つけた僕がプログラミングをしたほうが早い、二人にはテストに専念してもらって……でも一時間やそこらでバグを見つけることができるか……?)
 英雄は徹夜の覚悟ができていた。しかし他の三人は、徹夜に見合う成果が得られるかどうか。
数分、英雄は考えて結論を出した。
「皆さん、前に集まってください」
 フロアに隅には仕切りで分けられた簡易の打ち合わせコーナーがあり、英雄はそこに残った三人に集合をかけた。お局さんは真剣な面持ちで、協力会社の二人は不安そうに、英雄の前に座った。
「えー、なんとなく気づいているかと思いますが、現在障害が発生しています。それもシステムがダウンするほどの規模です」
 三人からの返事はない。英雄は淡々と話を続ける。
「まだ上席には連絡していませんが、迅速に対応が必要かと思っています。ですので、僕が作業指示を出そうと思います。まずは管制センターから問題の取引を連携してもらい、そこから原因を調べます。で、バグが把握できればプログラミングの修正に取りかかります。ここまでの作業は僕がします」
 英雄はまず、お局さんに顔を向けた。
「申し訳ありませんが、管制センターからエラー件数や障害発生からのタイムフローがメールで連携されますので、それを元にして報告書のたたき台を作成してください。メールの内容でわからないことがあれば、そこの電話会議システムでセンターの人に直接訊いてください。スピーカーはオンなのですぐに話すことができます」
 お局さんは「わかりました」と小さく返事をした。その表情に戸惑いや不安はなかったので、もしかしたらこれまでにも報告書を作ったことがあるのかもしれない。
 次は協力会社の二人に、英雄はちらり、ちらりと交互に目を合わせた。
「二人にはテストの準備をしてほしい。メールの内容を見て、そこからシチュエーションを想像してテスト環境を構築して、投入データをとにかくたくさん作成してもらっていいかな。で、プログラムの修正ができたらそのままテストに入ってもらいたい」
 黙ったままこくりと頷く二人。おそらく障害の対応は未経験のはずだ。加えて、帰宅できるかどうかも心配なのだ。
 そんな心配ぐらい、英雄は把握できている。
「でも、皆さんには遅くても終電に間に合うように作業を調整してください。僕の口からは、残ることを強要することはできません」
 その英雄の言葉に協力会社の二人はほっとした表情を、お局さんは何か言いたげだがじっと我慢している、そんな表情を浮かべていた。
 ここで打ち合わせを解散し、英雄は自席の電話で上席の携帯電話に電話をかけたが、留守番電話サービスへ転送された。
「夜分遅くに申し訳ございません、皆野です、お疲れ様です。まず単刀直入に現在の状況を報告しますと、障害発生によりシステムがダウンしました。今のところはダミーのシステムで難を逃れています。原因等はこれから調査しますが、今夜中にシステムを修正し本番環境へのリリースを行おうと思います。取り急ぎ、連絡させていただきました、失礼します」
 電話を切り、深呼吸。今日一番の緊張した瞬間だった。状況を把握できていない状態であれこれと訊かれたくなかったので、留守番電話に繋がったのは運が良かった。
 管制センターからのメールの受信に気づき、すぐに問題の取引と障害の状況などを確認した。そして読み進めるうちに、体温が下がったことが自覚できた。
(これはひどいな……)
 目を覆いたくなるような壮絶な障害。発生した時間が夜間だったことがせめてもの救いだった。これが日中に発生していたら、数日間はニュースや新聞でこの話題が持ち切りになっていただろう。
(取引とシチュエーションから考えるに、あの辺りのプログラムか……結構深いところまで見る必要があるな……)
 幸い五年間のうちに何度か見たことのあるプログラムだったので、ある程度は処理の内容を把握できていた。左から右へプログラムを目で追い、メモ用紙に気づいたことを書き出していく。
 障害発生から三十分、英雄は額に浮かぶ嫌な汗をハンカチで拭った。
(原因はわかったけど、これはかなり厄介だな……)
 少し前の開発で仕様が追加されたシステムと、古くから存在するシステムが競合したことで障害が発生したようだ。どちらも複雑なプログラムのため、開発の際に調査漏れや考慮不足があったのだろう。
(どっちに手をつけるか……最近追加したほうだな、古いシステムは変に触らないほうがいい。それにしても難しいな、変に直すと二の舞どころか悪化するぞ。でも、これはレアケースな取引だけしか引っかからない、夜間は取引量が少ないから発生する可能性はかなり低い。首の皮一枚繋がった、今夜中に修正できればいい)
 英雄はプログラムを印刷し、赤ペンで修正案を書き込んだ。様々な修正案を書き連ねて紙が真っ赤になるころには障害発生から一時間、日付が変わろうとしていた。
 英雄は付近の交通機関の最終電車の時刻をある程度把握していたので、ここがタイムリミットということはわかっていた。
「皆さん、ありがとうございました。あとは僕が引き継ぎます。明日も普通に仕事がありますので、今日はもう帰って下さい」
 三人に聞こえるように、静かなフロアで英雄は声を上げた。三人は帰り支度を始め、お局さんは英雄を責めるようにじろりと睨みつけ、協力会社の二人は申し訳なさそうに「お疲れ様でした」と言ってフロアから出て行った。
 英雄は自分の席だけが明るくなるように、最低限の照明だけを残して消灯した。まるでスポットライトが当たっているような気分だったが、ここは舞台の上ではなく職場、演劇の主役ではない、単なるサラリーマンだ。
「……最悪だ」
 英雄は頭を抱え込んだ。
「これを今夜中とか、だいぶ厳しいぞ……しかも一人でなんて、どうするんだよ……」
『他の人を気づかい、たった一人で障害対応をする僕かっこいい』なんて悦に浸っていたことは否定できない。大見得を切ってしまった。無理を言って協力会社の二人を残しておけば良かった、そんな弱音が頭の中を駆け巡る。おそらくお局さんの睨みつけは「本当に大丈夫?」という意味が込められていたのだろう。だがすべて遅すぎた。もう先に進むしかなかった。
 既存のシステムへの影響を考慮した修正案がまとまったが、想像以上に難解な修正を必要としていた。
「だめだ、誰か……」
 助けてくれ。そう言いかけて、飲み込んだ。口に出してしまうと本当に心が折れてしまう、今の英雄を助けてくれる者は誰もいないのだ。こんなとき、漫画やアニメならヒーローが駆けつけてくれる。例えばアンパンマンは泣き声を頼りにパン工場から飛んで来てくれる。しかし、バグが発覚してシステムがダウンしタイムリミットが翌朝、こんなシチュエーションで駆けつけるヒーローを英雄は知らない。
 日付が変わり、付近の交通機関はすべて終了したころ、英雄はプログラムの修正を始めた。実に四年ぶりのプログラミングだったが楽しさは思い出せず、あまりに難解な内容にストレスが溜まりこめかみが痛んだ。
(……そうだ)
 終わりが見えない作業に心が折れそうになったとき、頭の中に音楽が流れ始めた。
(嬉しいんだ、生きる喜び。たとえ胸の傷が痛んでも)
 それはアンパンマンの主題歌。歌詞だけではなく間奏も再生された。これが精神を保つための現実逃避ということはわかっていた、だからこそ音楽は音量を増していく。
(何のために生まれて、何をして生きるのか)
「ああ、本当に、俺は何をどうしたいんだろうな。答えがない、そんなのは嫌だ」
 かたかたとキーボードを叩き、時には手を止めて頭を悩ませる。
プログラムの修正が終わるころには午前二時を回っていた。
(何が君の幸せ? 何をして喜ぶ?)
「彼女には振られて、こんな時間まで仕事をしている。幸せを見失っているんだ……今の僕にはわからない、嫌だ……」
 協力会社の二人に準備をしてもらったテスト環境を確認すると、案の定不備があったので修正し、テストを開始した。これも数年ぶりだったので操作方法を思い出し感覚が戻るまでに時間がかかってしまった。
「愛と、勇気だけが友達さ」
(寂しいことを言うなよ。食パンマンやカレーパンマンとか、仲間は他にいるだろ。本当に一人なのは僕みたいな人間を言うんだ。勇気……別れてもう一ヶ月か、でも僕は未練たらたらだよ……せめて友達でいてくれたなら……)
 キーボードのタイピングに力が入り、ガシャガシャと静かなフロアに音が響く。
「時は早く過ぎる。光る星は――くそ! バグっているじゃないか!」
 振り上げた握りこぶしがデスクを殴りつけた。考えた修正案が間違っていたのだ。
 時刻は午前四時に差しかかろうとしていた。
(タイムリミットは……六時ぐらいに動く処理があるから、あと二時間。今の方針を大きく変えずに考えれば間に合うはず。いや、間に合わせる)
「たとえ、どんなバグが相手でも」
 すでに眠気は吹き飛んで、真夜中特有の不気味なテンションになっていた。
「あ、あっ」
 午前六時を過ぎたころ、英雄はキーボードから手を離した。
「アンパンマン、優しい君は、行け、皆の夢、守るため」
 再度プログラミングを始めて二時間、障害の原因となっていたバグの修正が終わり、テストで問題ないことを確認できた。両腕を思い切り伸ばし首をゴキゴキと鳴らすと、気が抜けたのか疲労と眠気が押し寄せていた。
「終わった……ああ、報告書、作らないと……」
 お局さんが作った報告書のたたき台を見て、まったく業務知識のない状態で、よくもここまでのものができたものだと、その出来に感心していた。
「……ん?」
 しかし、英雄はあることを思い出して血の気が引いた。
 電話会議システムのスピーカーを入れっぱなしにしている。数々の独り言とアンパンマンマーチの熱唱を思い出し、恥ずかしさのあまり体温がぐんぐんと上昇していく。
「も、もしもし……?」
『お疲れ様です。そろそろいいですか? たった今、ダミーから正規のシステムに変更しました。正常に稼働しています、あとは問題の取引の発生待ちです』
「そ、そうですか……」
 すぐに応答があった。やはりそこにいた、間違いなくすべて聞かれていた。『そろそろいいですか?』という言葉が確固たる証拠だ。しかも障害発生時にやり取りをしていた相手とは違う。おそらく交代制なのだろう、いったいどれだけの人に聞かれたのか、想像もしたくなかった。
『一旦落ち着きましたので、電話を切らせていただきます。また何かありましたら連絡させていただきます。お疲れ様でした』
「ああ、すみません。障害の状況で不明な点がありまして、いくつか確認したいことがあるのですが、よろしいでしょうか……」
 本当ならすぐに切りたかったが、報告書を作るにはまだまだ情報が足りていない。このあと英雄は折れそうな心をかろうじて保ちながら、確認のためにしばらく通話を続けるのであった。

「――以上が、昨夜に発生した障害の報告です。なお、すでに本番環境に反映させています。通常なら承認を頂いてからの反映となりますが、可及的速やかにバグを修正する必要があると判断し、このような処置を取りました。ご容赦ください」
 始業してすぐ、英雄は上席に作成した報告書を元に説明をした。説明の途中でいくつか質問を受けたものの、おおむね状況は把握してもらえたが、独断で本番環境に反映したことに難色を示されていた。
「留守番電話も聴いたけど、想像以上に大きな障害だったみたいだね。ところで、問題の取引は発生した?」
「いえ、まだ発生していません。発生次第、メーリングリスト宛に連絡するように管制センターにはお願いしています」
「そうですか……まあ、テストもしているようだし、完全に安心とは思えないけど、ひとまずはわかりました。徹夜での対応、お疲れ様でした。今日はもう帰宅してください、皆野くん」
「承知しました。お疲れ様です」
 よろよろと帰宅準備をしているとき、お局さんと協力会社の二人を横目で確認した。昨日の疲れもなく、普段通りに仕事を開始している。簡単に結果を報告しようかとも考えたが、すでに眠気と疲労が限界だった英雄はすぐにフロアを後にした。
(昨日の昼から何も食べていないな……)
 いつも立ち読みをしている近くのコンビニに入って、缶コーヒーとアンパンを手に取った。
(……バグの修正は良かった。でもその先は微妙だったな)
 サイフから小銭を出し、それらを購入した。
(ベストとは言わない、でもベターな判断だったはずだ。でも、経過も結果もすべて認められないとダメなんだなぁ……)
 フロアで一人きりになったとき『この障害を対処してくれるヒーロー』を望んだことを思い出した。結局、それは自分自身だった。たった一人でバグを修正したのだ、まさに自分が望んだヒーローではないか。
ただ一点違うところは、その功績を認められなかったという点だ。

 コンビニを出てアンパンを齧った。元気百倍には到底及ばない――と思ったが、それは頭を交換したあとのセリフだったことを思い出し、英雄は少し笑ってしまった。

       

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Neetsha