可能性は、限りなくゼロに近かった。
 それでも、万が一にも、億が一にも……彼等がマルカを手放した事を本心から悔いていたとしたら。
 その上で、マルカが家に帰って両親と暮らしたいと言ったら。
 自分に、それを止めるなんて事はできない。彼女とはお別れだ。
 娘を娼館に売り飛ばすような人間の屑に引き渡すなど許せるわけがない……と言うのは、半分本音で半分建前だった。人間の屑などと言ったら、自分だって似たようなものだ。
 彼女を下卑た欲望の種に使おうと考えているのは、両者に共通している。
 正直に言って、相手が誰だろうと彼女を手放したくない。
 大金をはたいて買い取ったのに、まだ性交もしていないのだ。まだマルカの幼い身体は全然味わい足りない。
 尻穴だってまだ開発していない。指を入れた瞬間、あの懐いている少女がどんな顔をするか。楽しみで仕方ないのだ。
 他にもある。頭のてっぺんから足の爪先まで、時間をかけてたっぷり愛でないと気がすまない。
 そして何より、ハルはまだ……

 (……遊園地に連れて行ってやるって、約束したんだ)
 マルカの兄で、居たかったのだ。


 「生憎今は俺一人しかいない。茶が飲みたきゃ勝手に淹れてきてくれ。台所はそこを出て左だ」
 ささくれ立つ感情を押し込んだ静かな口調。そう言っても、動く者はいなかった。
 ガラス製のテーブルを挟んで、ソファに座って向き合う三者。
 ハルはマルカの両親をあらためて眺める。
 父親はスラブ系で、やや薄い金髪に鼻が赤く丸眼鏡をかけた、どこにでもいそうな男性だった。
 母親はアジア人……もしかしたら日本人なのかもしれない。
 彼女よりやや目が細く、長い首に真珠のネックレスをかけた細身の女性。見たところマルカは、母親似のようだ。
 「あの子……マルカは、確かにここで働いているのですね?」
 父親の声に、あまり悪びれた態度は無かった。
 「ああ、いるよ。今は外出中だけどな」
 両親の目線はチラチラと部屋の中を眺めている。元々あった調度品は、売ればそれなりの値段にはなる。
 こんな金持ちに拾われるとは思わなかった、と言った様子だった。
 「マルカは何か、ご迷惑をかけてはいないでしょうか?」
 言い終わると共に顎を傾ける母親。
 「いや、よくやってくれてる」
 ハルはそっけなく答える。
 (尋ねるのは、そんな事か……?)
 本当は、追い返したくて仕方が無かった。
 マルカの両親と名乗る二人組が訪ねてきて、ハルは一瞬戸惑い、家に入れる事を躊躇った。
 が、追い返す事はしなかった。
 ハルは1%にも満たないその確率を怖がり、そして同時に信じたくなったのだ。
 (マルカの本当の幸せ。それは……悪趣味な金持ちのペットとして愛でられる事じゃない。
 愛情を注いでくれる本当の家族と共に過ごすことだ。
 例え何一つ不自由しない生活から、今日の食い物に苦労する貧困に落ちたとしても……)
 
 「単刀直入に言う」
 ハルの声は震えていなかった。
 心は、震えていた。
 「要件はなんだ?」
 威圧はしていない。
 無感情を装い、ぶっきらぼうに尋ねる。
 「……貴方がマルカを金で買った、と言う事は知っています」
 マルカの父は、どこで、とは言わなかった。
 言う必要も無い。
 「ああ。それで?」
 無表情の仮面を被り、何でもないように答える。
 「実の所、困ってしまうのです。あの子を引き取られてしまうと……」
 
 
 (――ああ)
 ふ、と笑いが込み上げる。
 「私共はあそこからマルカの働き分を頂戴していましてね……」
 (そりゃ、ま、そうだよな)
 「お金が入らないとなると、借金も返せませんので……ははは……」
 「もう、あなたがギャンブルばかりしてるからでしょ……」
 「何を、お前の浪費だって凄いもんじゃあないか……」
 ハルは嫌悪した。
 目の前で笑いながら何か言っている二人に。
 それよりも、彼等の目的に安堵してしまった自分に。
 深く、嫌気が差した。
 (あいつには教えられないな……自分がいなくなって仲が良くなった両親、なんてよ)
 「そう言うわけで、あれの給金を私共に回して頂きたいのですが……」
 鏡を見れば、こいつらより醜いものが映るだろう。
 その現実が、ハルには耐えられなかった。
 
 (――殺すか)
 あまりにも自然に、そう思った。
 マルカの両親は、ここには来なかった。
 そして、未来永劫来ることはない。
 町中で顔を合わせる事もない。
 死んだことすら知るよしもない。
 それでいい。
 満月にメールの一本を打てば、30分で痕跡は消える。
 その間、自分はマルカと散歩にでも行けばいい。
 死体はどこにも見つからないし、警察が嗅ぎつける可能性もない。
 例えこの館に入ったのを見たと言う目撃情報があったとしても、それは変わらない。
 この世から、消す事ができる。
 

 『……ピストルか?』
 『はい。万が一にも私がいない時に危機に陥ったらお使い下さい。処理は私が行いますので』
 『っつっても俺引き篭もりだしな。使う機会ねーと思うぞ』
 『私を死姦しようと思った時にでも』
 『……(スチャ)』
 『申し訳ございませんご主人様! 冗談でございます、どうかお許しくださいませ!!』
 『……その台詞は普通、自分に向けられた時に言う言葉だろ』


 (俺の部屋に、あったな)
 ハルはゆっくりと立ち上がって、とても人間のものとは思えない顔をした二人に微笑む。
 「待ってな、今持ってきてやる」
 喜ぶ二人をよそに扉に向かおうとする。
 その扉が開いた。
 (――――――)
 そこから入ってきた少女の目は、今までに見たことがないくらい輝いていた。
 そこから出ようとしたハルの目は、深淵に吸い込まれている最中のそれだった。


 「…………お父さん? お母……さん?」

 横をすり抜けていくマルカ。
 二人に抱きつくような、ぽふんと可愛らしい音が後ろで聞こえた。
 「会いたかった! 会いたかったよ! 私、いい子にしてたんだから!!」
 「あら、マルカ久しぶりね」
 「元気そうで何よりだ、ははは」
 ハルには、振り向いてそれを見る事はできなかった。
 これから起こる出来事に、耐えられる勇気が無かった。
 「ただいま…………戻りました」
 ゆっくりと部屋に踏み入ってきた満月の顔もまた、ハルが見たこともないような絶望の顔をしていた。
 いつだって機械のように振舞っていた澄まし顔が、一気に二十年老けこんだような気さえする。
 「ああ……ご苦労だった」
 二人の間に言葉は不要だった。
 どうしてこうなったのか、これからどうなるのか、全てがわかる。
 これから一番辛い思いをするのは自分たちではない。
 世界が輝いたように見えている、あの幼い少女なのだ。
 「迎えに来てくれたんだね! また一緒に暮らせるんだ!」
 これ以上の幸せはないとばかりに、弾んだ声。
 を。
 「マルカ」
 「なにっ?」
 「これからも、頑張って働くんだぞ」
 



 「………………………え?」
 男が、凍りつかせた。
 「お母さんたちはね、これからあなたのご主人様と大人の話があるの。向こうに行ってましょうね」
 女が、打ち砕いた。
 何を言われたのか、マルカにはよくわからなかった。
 「私……またお父さんお母さんと一緒に……暮らせる……」
 心の奥底では理解しつつも、希望を捨てられない少女に。
 彼等は追い打ちをかけた。
 「聞き分けなさい、マルカ。お前はここで、精一杯奉公するんだ」
 「いい子だから、部屋に戻ってなさいねマルカ。大丈夫、あなたならちゃんと働いていけるわ」
 「あ……」
 存在そのものが消え行くような細い声が耳に入ると同時に、ハルは酷い嘔吐感を覚えた。
 
 何故だ。
 何故マルカが、こんな目にあわなければならない。
 俺がいけなかったのか?
 俺があの場で追い返してさえいれば、こんな事にはならなかった。
 こんな――

 「わたし……いい子にするから……!
 わがままも言わないし、何も欲しがらないし、泣いたりしないから……!
 捨てないで……下さい……!
 お願いします……」

 「マルカ……



 ……わがままを、言うんじゃない」





 その先も男は何か言おうとしていたが、それは叶わなかった。
 首から上が絵画に突き刺さっては、言葉を発する事はできない。


 「貴様らぁ……部外者の分際で……!!」
  
 
 満月の左拳が、マルカの父親だったものを部屋の奥まで殴り飛ばした。
 いや、今の彼女は冷静沈着のメイドである満月ではなかった。
 ハルの幼馴染である、おっちょこちょいな新月でもなかった。
 そこにいたのは、拳に血を滲ませて、鬼神をも震え上がらせる烈火の如き激憤の貌で敵を睨む……
 


 「よくも私の妹を……泣かせてくれたなッ…………!!!!」

 
 マルカの、姉だった。
 それがこちらを向いた瞬間、マルカの母親だったものは腰を抜かして醜く失禁した。
 「あ、あ……」
 「楽に死ねると、思うな……!!」
 一歩歩を進める毎に、びりびりとした威圧感が部屋全体を揺らすような感覚。
 尋常ではなかった。 

 「……やめろ、満月。マルカの前だ」
 その一言で、彼女は煮えたぎるような殺気を押し込めて、満月へと戻った。
 ハルはそちらを見ていなかった。へたり込んで泣きじゃくるマルカの傍らで、彼女の頭を優しく撫でていた。
 「……申し訳ございません、ご主人様」
 満月はこんな趣味の悪いオブジェはいらないとばかりに男の首根っこを片手で引っ掴み、女の前に放り投げた。
 鞄から分厚い札束を取り出し、それも投げ捨てる。
 「それを持って出て行け。二度とマルカの前に現れるな。理解できたら、今すぐ消えろ」
 まるで人間に向けて喋ってるようには聞こえないトーンで喋り、自らもマルカの元に向かう。
 顔を伏せて嗚咽する少女を、壊れかけの彫刻を扱うように優しく抱きしめて、耳元で囁いた。
 「ごめんなさいねマルカ。怖いものを見せてしまいました。大丈夫ですよ」
 膝の裏に自らの腕を運び、ゆっくりと抱きかかえて部屋を出ようとする。
 その背中に、ハルが一言投げかけた。
 「……悪いな満月。汚れ役を押し付けた」
 「いえ……私こそ止めて下さりありがとうございました」
 二人は顔を合わせることなく別れる。
 ハルは未だ立てないでいる女を一瞥し、興味なさげに自分の部屋へと戻った。