「お前さ、親とかいる?」
 後についてくる少女にハルは尋ねた。
 あまり聞かれたくないであろうことだが、聞いておかないわけにもいかない。
 もっとも、親が存在したとしてまともな人間ではないであろうが。
(……どっちが幸せなんだろうな、ゴミクズ以下の親でもいるのと、いないのとじゃ)
 マルカの件を思い返して、ハルはそんなことを考えた。
「……いないよ。いない。あたしは、一人っきりだ」
 振り向かなくても、俯いているであろうことくらいはわかる。
「そうか」
 それにしても、引っかかる言い方だった。
 だが、ソフィアがいないと言った以上、彼女の中で両親はもう存在しないのだろう。
 ハルは携帯電話を手に取り、満月にかけた。1コールで繋がる。
「おう、俺だ。ガキ一人拾って帰るから、豪華な飯用意しといてくれ。頼んだ」
「? なんて言ってたの今?」
 日本語でしゃべったので、ソフィアには聞き取れなかった。
「ん、飯作っておいてって」
「一人暮らしじゃないの?」
「ああ、ロリコンがもう一人いてな」
 ソフィアはふーん、と大して興味もなさそうに言った。
「二人の相手するのはいいけど、料金は倍ちょうだいね」
 ハルは適当に頷きながら、二人相手をさほど恐れないソフィアの態度に、口をへの字に曲げた。
(こいつも相当、色々されてるんだろうな。俺みたいな大人に)
 マルカより幼い、まだ十にもなるかならないかの少女だと言うのに、体を売ることなど苦にも思っていない様子だ。
 恐らく、マルカ以上に虐待を受けて来たのだろう。恐怖や苦痛の域を通り越して、体が慣れてしまうほどに。
 ハルの良心が、下心と混じり合う。
 この少女を手籠めしあわせにしたいと、下半身に熱が集中するのを感じていた。

「なー、どこまで行くのー?」
「もうすぐ着くぞ」
 三十分ほど歩き続け、住宅街から離れていく二人。
 この先には自分の人生で関わることはないであろう大金持ちが住んでいると言う広い土地と、それを過ぎれば山へと続く道だと言うことくらいはソフィアも知っている。
 こんなでかい柵を乗り越えて空き巣に入るのは一苦労だなぁ、きっと忍び込んでも番犬とかいっぱいいてすぐ捕まって警察に連れて行かれるんだろうなぁ、警察は……怖い。絶対に、嫌だ。
 そんな事を考えていると、ハルが急停止したのでソフィアがぶつかった。
「んむぅ、どうしたのにーさん? やっぱり道を間違えて……」
「ここだ」
「は?」
 今しがた眺めていた柵の切れ間の、これまた大きな門の前でハルは止まっていた。
 それが意味することは一つ。
「……金なら沢山あるってまさか……盗みに入る気かよ!? あたしはやんないよ! 警察に捕まるわけには……!」
「何言ってんだお前は。入るぞ」
「へ?」
 ハルは鍵のかかっていない門を当然のように開き、ソフィアの手を引く。
 番犬もいない。警備員も出てこない。その状況にソフィアはついていけず、ただハルに引っ張られるだけだった。
 歩く先には、個人の家と言うよりはもはや何かの施設に近い、巨大な館が聳えている。
 ソフィアの手をしっかり握ったままずんずんと進むハルは、なんと正面から堂々と扉に向かい、ノブに手をかけた。
「え、何、なんで!?」
 開く。入る。
 玄関は外とは違い、一瞬むわっと熱気を感じるほどに暖房が効いており、他人の家の妙な匂いと相まってソフィアの感覚をおかしくさせる。
 上を見れば自分の稼ぎじゃ一生かかっても買えなさそうなシャンデリアがこちらを見下しており、左手には見た目からは値段が全くわからないが、恐らく自分の命より重いであろう壺がこちらを見ている。
 そして右の扉から出てきたのは、存在だけは知っている、仕える身でありながら自分よりはよほど良い暮らしをしているに違いないような職業の制服を纏った美女だった。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
 その後ろからは美女と同じ格好をした、自分より少し年上で自分とは比べものにならないような良い物を食べているに違いない健康的な顔色をした可愛らしい少女がとてとてと続いた。
「ご主人様、お帰りなさい! ご飯出来てますよ! ……あれ、その子は?」
「ん? んー、説明は後だ。腹減ってるだろソフィア。飯食え飯」
「え? 何? え?」
 思考が全くついていけないまま晩餐室へと連れて行かれるソフィア。
 本能をくすぐるような良い匂いの先にあったもの。
 満月が腕によりをかけて作った、夕飯であった。
 テレビでも見たことがないような、とても四人で食べきれるとは思えないほどの量の料理の数々。
 名前も知らないそれらは、視覚と嗅覚からソフィアの感情と思考をさらに揺さぶる。
 立ち尽くすソフィアに近付いて、マルカは笑いかけた。
「えっと……初めまして。私、マルカって言うの。このお料理、私も作るの手伝ったんだよ。お名前は後ででいいから、いっぱい食べてね!」







 その言葉が引き金だった。








 ソフィアはポケットに入れていた護身用のバタフライナイフを素早く取り出し、彼女の背後に瞬時に回り込んでむきだしの刃をマルカの首に突きつけた。
「えっ……」
「!」
「は、ソフィア……!?」
「動くなッ!!!」

 荒く息を吐く音が、三者の耳に届いた。
 ソフィアは興奮し、混乱し、ぐちゃぐちゃになった思考の中に一つの答えらしきものを掴んで、それに従った。
 
「あたしを……あたしをどうするつもりだっ……! こんな、餌で釣って、何を、何をっ……!!」

『疑念』。
 ナイフを当てられて動けず、恐怖に縛り付けられているマルカ。
 それよりも尚、ナイフを当てているソフィアの恐怖が上回っていた。
 涙をぽろぽろと流しながら、空腹をこらえながら、ハル達を睨む。
「おい、待て、お前は勘違いして……」
「一度だけ言います」
 必死に弁解を試みるハルを押しのけるかのように、満月が一歩を踏み出した。
「来るなっ!!」
 歩みは、一歩で止められる。
 しかし彼女を黙らせるには至らなかった。
 満月はゆっくりと、一語一句丁寧に区切って言葉を紡ぐ。

「手の力を緩めて、ナイフを捨てなさい。私達は貴女に危害を加える気はありません。大丈夫です」

 ソフィアが正常な判断力を失っているのは一目瞭然だ。だから満月は言わなかった。
『マルカを刺したら、例え間違いであっても殺す』
 などとは。

「ふーっ、ふーっ……」
 ソフィアの手が、小刻みに揺れる。
「ひっ……!」
 ナイフの先端が首に触れ、マルカが短い悲鳴をもらした。
「マルカッ!」
 ハルの叫びにソフィアが震え、ナイフを取り落とす。
「!!」
 それが地面に落ちるよりも早く、ソフィアは扉を蹴破るように開けて逃れた。
 解放されてへたり込むマルカに、ハルと満月が駆け寄る。
「マルカ、大丈夫ですか!?」
「怪我はないか!?」
「だい、じょうぶ、です……」
 首筋からは、ほんの小さい切り傷から僅かに血玉が出来ていた。
 満月がすぐさま救急箱を持ってきて治療を始めると、マルカは泣き始めてしまった。
「う、うう……」
「大丈夫です、大丈夫ですよマルカ。もう怖くありませんからね」
 頭を撫でてあやそうとする満月に、マルカはゆっくりと首を横に振った。
「違います……違うんです……」
 震えは止まっていたが、それでも尚寒そうに自分の体を抱く。
 ハルにはすぐわかった。満月も表情を見てピンとくるものがあった。
 その様子は、拾ってきた頃のマルカを彷彿とさせるような寂しげなものだったからだ。
「あの、女の子は……きっと、お腹も空いていて……暖かい所、落ち着ける場所で、寝たいはず、なのに……。
 目の前にある、しあわせを……信じられなかったんです……! こんな都合良く、自分にここまでしてくれる人がいるってことを……受け止められる余裕が、残ってなかったん、です……」
 まるで自分の事のように、マルカは嘆く。
「私には、わかります……きっと、ずっと、生きていて、嫌な事しかなかった……泣いても、叫んでも、誰も助けてくれなかった……お金持ちの人に、引き取られたとしても、人間の扱いなんて受けないだろうって……よく考えれば、罠なんて、あるはず、ないってわかる、のに……! でも…………!」


「自分が……誰からも、必要と、されてないって、思い込んでて……!!」


 満月は、そこで自分とマルカの思考が僅かに食い違っていたことにようやく気がついた。
 マルカにとって、辛い目に遭っている……それも自分に近しい境遇にいるものは、『他人』ではなかったのだ。

「マルカ」
 満月はマルカに、優しく囁いた。
「わがままを言っても、いいのですよ」
「わが、まま……」
 少し考えて、意味を理解する。
「本当に……いいんですか……?」
 マルカは目を赤くしながら、ハルの方を見て尋ねる。
「はい。私からも、ご主人様にお願いします。望みを言いなさい」
「……わがまま、か。ああ、何でも言え。お兄ちゃんは、お前の力だ」
「じゃあ……」
 マルカは泣きじゃくりながらも、はっきりとハルに願いを伝えた。

「あの子に、生きていて、幸せなことだってあるって、教えて、あげて、下さい……!」
「任せろ」

 ハルにとって、ソフィアの意思など知ったことではない。
 おせっかいか、善意の押しつけか。そんな事など、財産と同じくらいにどうでもいい。

『妹』を笑顔にする。
 それだけが、兄の役目だ。