Neetel Inside ニートノベル
表紙

週末のロストマン
第一話「ライドオンシューティングスター」

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 イタリアンイエローのヴェスパに跨った彼女は、アクセルを捻り込み、道の先に立つまだ年端もいかない少年の後頭部に、片手に握り締めたリッケンバッカーで渾身の一撃を叩きこんだ。

 随分昔に見たアニメのワンシーンを、古都原鳴海―ことはら なるみ―は時折思い出す。
 もう何年も昔の出来事だ。ただ、当時鳴海はそのアニメを見て、いつか自分にもあんな破天荒な女の子が目の前に現れてくれることを信じた。テーマソングは親に没収されるくらい聴き込んだし、コツコツと溜めた金でメーカー名は違うが形の似たブルーの偽リッケンバッカーも買った。

 だが、鳴海の前にそんな女の子が現れることは一度も無かった。

 当たり前だ。あれはアニメーションの世界であり、ここは現実なのだ。額からロボットが出てくることも、ヴェスパ乗りの女性も、ダブルネック・ギターとリッケンバッカーで空中戦を繰り広げる事も現実ではありえない。
 いつしか鳴海は、アニメを見るのを辞めた。
 当時あれほどのめり込んでいたバンドの曲も時々しか聴かなくなった。まるで幼少期を思い出に返すための準備をしているようだった。ブルーの偽リッケンバッカーも、新たな質の良いベースを買うとギグバッグに収められ、屋根裏の肥やしになった。
――ただ、それでもあのワンシーンを忘れることだけはどうしても出来ないでいた。
 ヴェスパをふかし、何処からともなく現れてリッケンバッカーで一撃を加えていくあの破天荒なシーンだけは、今も……。

   ・

「ナルミ、いるか」
 ノートやペンケースもそのまま、右手にペンを握り締めたまま、鳴海は一人講堂の隅で頬杖をついて窓の外を眺めていた。
 彼を呼んだ青年は反応が無い事に呆れ、小さく嘆息してもう一度声をかける。彼は小さく肩で反応を示すと、ペンを机の上に落とした。
「何を呆けてる」
「あぁ……いや、なんでもない」
 講堂の扉を閉めると沙原壮平―さはら そうへい―はあちらこちらに飛び跳ねたパーマの髪を指でくるりと弄る。背中にはギグバッグ、そして右手には小さなエフェクターケースが提げられている。
「練習は?」
「あー……今日スタジオだったっけ」
 鳴海の前の机に腰掛けると沙原は目を細める。もたもたと片付けを始める鳴海を眺めながら、彼はまた髪を弄り始めた。
「やる気ないなら、辞めたって別に構わないんだが」
「別にそういうわけじゃないよ。少し考え事してただけだ」
「随分と最近は思慮深い男になったんだな」
 棘のある言葉に、鳴海はちらりと沙原を見た。髪を弄っているが、視線は確かに自分を見つめている。先程の言葉が冗談では無いと彼は察した。
 鳴海はペンケースをしまい終えて鞄を肩に掛けると、後ろに立て掛けられたギグバッグを見る。沙原のものより少しサイズの大きいその中には、長い時間を共にしてきたエレキベースが眠っている。
「中途半端は嫌なんだ。いつも俺は気だるそうに見えるかもしれないけど、手を抜いたことは無い。でも最近のお前は新曲を持ってきても単調なルートしか弾かない。ライブだって全然動かなくなったし、指板ばっか見つめてる。知り合った時は死ぬほど楽しそうに笑う奴だったのに、今じゃすっかり腑抜けてる」
「堅実なルートがカッコイイと思うようになっただけさ」
 沙原の目は更に細くなる。
 鳴海は首元に手をやりながら小さく息を吐いた。いかにも面倒くさそうな様子のその仕草を見て、沙原はとうとう髪を弄るのをやめた。
「今日は来んな」
「……分かったよ」
 小さく舌打ちをしてから、沙原は踵を返すと講堂を出て行った。
 彼が出て行くまで鳴海はその背中を見つめていたが、彼が振り返ることはとうとう無かった。ショルダーを限界にまで緩められた黒いギグバッグが右、左と揺れる光景を見送ってから、鳴海はどっかりと椅子にもたれた。
 いつからこうなってしまったのか。増えない集客数か、持ってきた曲が受け入れられないからか、どれだけ練習を熟してもライブの出来に納得いかないからか。理由は幾つも浮かび上がったが、そのどれも決定打とはとても思えなかった。
 不意にまた、青いリッケンバッカーが頭に浮かんで、それからヴェスパがエンジンを蒸す音が脳裏で聞こえた。
――ぺけらん、ぺけらん。
「光速ヴェスパ、ねえ……」
 コツさえ掴めば宇宙にだって行けるんだってさ。鳴海は小さな声で呟く。ガキの頃思い描いたヴィジョンなんて一つも叶わず、それでも捨てきれなかった想いで続けていた楽器もこのザマだ。
 ポケットから煙草を取り出す。ぺしゃんこになった箱の中から一本、特に形のひねくれた物を取り出すと口に咥え、ターボライターで火を付けて、大きく吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
 白濁とした煙が舞い上がって、溶けるように消えた。

   ・

 畜生、練習が無くなるならベースなんて持ってくるんじゃなかった。エフェクターケースだって地味に重たいし、冬なんか取手が死ぬほど冷たくて手が千切れそうになるんだ。そう吐き捨てたい気持ちになりながら、鳴海は夜道を歩く。
 大学から駅。
 駅から電車。
 駅から徒歩で家。
 それが鳴海の毎日であり、日常だった。入学してから丸二年程経つがこの日常が途切れたことは一度も無い。サークルやバイト先の飲み会でやらかした時は勿論除く。不可抗力を加算するのは揚げ足取りでしかない。
 咥えた煙草はフィルターに届いて、灰は歩いているうちにどっかに散って消えた。それでも火は煌煌と灯り、白濁色の煙は夜の町に水彩絵の具のようにふわりと広がっている。
 等間隔に並べられた街灯を潜るようにして鳴海は歩く。腕時計は既に九時を回っている。
 今日は金曜日で、土曜も日曜もバイトのシフトは入っていない。休日に講義を取るような勤勉な学生でもないし、バンドの練習も全てキャンセルになった。沙原のあの態度からするに暫くは許してもらえないだろう。いや、むしろ現状の自分の態度が改められるまでは、と言ったほうが正しいのかもしれない。
 これは脱退かもしれないな、と鳴海は思った。
 沙原と出会った時はめちゃくちゃ趣味の合う奴に出会えたと喜んだし、講義が終わったら飛び出して馬鹿みたいに酒を飲み交わし、どちらかの家に転がりこんでそのまま楽器を片手に朝まで話し込んだものだ。あのバンドの新譜は日和ってるだとか、人生で一番感動した曲がどうだとか、最高に格好いいリフはどれだとか。
 今でも思い出せる。何度も酒を飲んで、何度も同じ話をして盛り上がった。飽きることなんて無かったし、自分と沙原の二人でいれば、怖いものなんて無いとずっと思っていた。
 けれど、気がつけばこうなっている。
 吐くほど飲んで盛り上がった友人は、バンドの先を見つめている。表立って言いはしないが、できることなら音楽シーンに転がり込んでやりたいという気持ちだって抱えているに違いない。
――そんなこと思える実力か。
 社会人になって仕事して、ちまちまと休日にライブができたら関の山だ。お前の実力じゃ、俺達のバンドじゃそんなレベルに届くわけがない。
 俺達の作った曲にそんな観衆を沸かせるパワーなんてあるわけがない。
 そう言い切れていたら、きっと今よりもっとスッキリした生活をしていただろう。だがそれを否定しようとすると、決まってあの音が聞こえる。沙原が抱いている夢を貶そうとすると、否定しようとすると必ずあの音がするのだ。

――エレキベース四弦の開放音。

 鳴海はフィルターに届いた煙草を足元のマンホールに捨てると足で踏みにじり、それからふと顔を上げて、自分が普段とは違う道にやってきてしまっていた事に気づいた。
 一軒家から聞こえる暖かい声と部屋灯り。玄関口で眠っていた犬が通る度に尻尾を振って大きく吠える。チャルメラの音と共に通り過ぎる自転車。
 そんな日常が消え去ったここは、果たして何処だろう。
 物静かで、街灯の灯りに照らされた夜道。
 左右には暖かみの感じられない灯りの無い建物が続いている。
「どこだよ、ここ」
 そんな鳴海の声すらこの不可解な夜道は吸い取っていく。うわんうわんと静寂がそこら中でのたうちまわり、暗闇がそんな静寂を押さえつけるように横たわっている。
――見たこと無い風景。
――感じたことのない重たい空気。
 まるで町に拒絶されているような気がした。
 さっさとここから立ち去るべきだ。考え事をしていて道を間違えただけなのだから、少し戻れば元のあの日常が待っている筈だ。
 鳴海はギグバッグを背負い直すと踵を返した。

 踵を返して、振り返るべきでは無かったと強く思った。

 ギターのフィードバックが静寂に押し入るようにして聞こえてくる。まるで何かの曲が始まるみたいな、興奮を掻き立てるような音が……。

――真っ黒い人型の影だった。

 人の輪郭を模した黒い塊が、一、ニ、三――とにかく幾つも地面から沸き上がる。
 それはまるでからくり人形でも弄るかのように肩を上げ下げし、首を前後左右に倒したりしながら、大股と小股を交互に挟みながら鳴海へとゆっくりと向かってくる。
――不快だった。とにかくその黒い人型の動きが、その現実味の無い姿が、暗闇の中で蠢くそれらが、そして何より人型と共に強まるフィードバックが、不快で仕方がなかった。
「な、なんだよ……」
 戸惑い、後ずさりながらそう呼びかけてみるが、人型はまるで反応を示さない。フィードバックが次第に歪みを帯びていく。人型は変わらず鳴海目掛けて歩みを進める。
 鳴海は踵を返すと一目散に駈け出した。
 何処へ行くとも知れず、ただひたすらに真っ直ぐ、暗く重たい死んだような住宅街を走り抜けていく。ギグバッグが重たくて上手く走れない。こんな状況でボードを持っている必要があるだろうか。だが背後に目をやってそんな思考は一瞬で吹っ飛んだ。最早黒い塊だ。塊が町ごと鳴海を呑み込もうと追ってきている。

 どれだけ走ってもこの奇怪な景色から逃げ出すことは出来なかった。ボードはどこかでもう落としてしまった。重たいギグバッグは何時からか脇に担ぐことにした。肺が締め付けられるように痛い。足の筋肉が悲鳴を上げている。乱れた呼吸のせいで酸素供給はうまくいっていない。そのせいか少し目も霞む。
 背後の黒い塊は依然増長を続ける。まるで死や恐怖を具現化したような、奇妙なそれは、息を乱すことなくただ鳴海を追い続けた。

 呼吸を入れた瞬間だった。
 するり、と鳴海の手からギグバッグが落ちた。
 鳴海は立ち止まると振り返って背後に目を遣る。地面と衝突したバッグの中で、ベースが重たく響いた。

 黒い塊はギグバッグの前でぴたりと止まる。

 人型は暫くじっとバッグを見ていると、やがて一人がバッグのファスナーに手を伸ばし、開封していく。じいい、と小気味良い音と共に人型はその中をそっと覗き込む。
 フェンダーのジャズベース。ラッカー塗装のサンバーストは既にところどころ剥げているし、ビンテージのようでそう見えないみすぼらしい鳴海の相棒だ。
 昼飯を抜いて貯めた金で買ったそのベースを初めてアンプで鳴らした時、まるで自分が一端のミュージシャンにでもなったような気分を覚えた。舞い上がり、知っているフレーズをただただなぞるように弾いては、その感覚に酔いしれた。
 そうやってもう五年近くになる。どんなセッティングをすれば機嫌が良くなるのかだって理解しているし、どのエフェクターと相性が良いのか何度も検証もした。
 鳴海の脳内でベースの音が鳴り響く。もう何度も聴いて染み付いた低音だ。その音を聞いた瞬間、鳴海の脳内で「楽器を置いて逃げる」という選択肢は消えて無くなった。
 地面を強く蹴るとギグバッグの前に転がり込み、人型から楽器をもぎ取り抱き留める。最早四方を囲まれ、逃げ場は無かった。だがそれよりもこんな得体の知れない奴等に愛器が奪われるのを防げた安堵のほうが大きかったし、もう後はどうにでもなれと思考をシャットアウトしたのもあった。
 座り込む鳴海に、人型達は手を伸ばす。
 まるで求めるような、焦がれるような手だな、と鳴海は思い、ジャズベースを握りしめる手に更に力を込め、目を堅く閉じた。

       

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