Neetel Inside ニートノベル
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週末のロストマン
第五話「ブラック・シープ」

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 砥上雪彦―とがみ ゆきひこ―は群れに囲まれていた。マネキンのようで、黒い肌をした人形は彼にとって非現実的であり、同時に、もう自分は日常に戻れないのだと理解するのには十分な状況であった。
 じりじりとにじり寄って来る塊達に怯えながら、ふと、胸裏に何か別の、もっと冷たい感情が生まれて、広がっていくのを彼は感じていた。そう、これは、時々抱いたことのある感情だ。確か、ええと。
――そうだ、諦めってやつだ。
 後ろは自分の身長を超えるほどのフェンスで、すっかり囲まれてしまっている。黒い塊達の奥には母校。だけど、随分と様子が違う。誰もいない。明かりも無い。まるでそこに生を感じることが出来ない。
 触れようかどうかという距離まで迫られて、雪彦は彼女の事を脳裏に浮かべた。ずっと、ずっと何年も一緒に過ごしてきた幼なじみの姿を、いつだって隣で見ることの出来たあの笑顔を……。

 突然、黄色い線が彼の頭上から落ちてきた。
 あまりにも突然の出来事に雪彦は初め雷でも落ちたのかと思ったが、違った。頭上から落ちてきたのは一人の女性で、黄色く見えたのはその手に握り締められたクリーム色のテレキャスターだった。逆さに握り締められたギターのボディはコンクリートの地面を抉るようにめり込み、飛び散った破片が散漫として横たわっている。
 華奢に見えるその身体からはとても考えられないほどの事を、彼女は目の前でやってのけたのだ。
「君、大丈夫?」
「え、あ、はい」
「危機一髪ってとこだったね。私が来たからにはもう何の心配も無いから安心して」
 そう言って女性―レモンドロップスーはギターを構えると、ポケットからキャンディバーを取り出して口に咥える。飴の色もまた黄色だ。
 彼女はそれを一舐めしてから嬉そうに目を細めて、周囲を取り囲む有象無象を見つめ、言った。
「……満足したい子から、おいで」
 その言葉を合図にオーディエンスが一斉に動き出す。彼らはレモンドロップスに向けて跳躍、二人を囲むように飛びかかる。
 彼女はその様子を眺めながらにやりと不敵な笑みを浮かべてみせると、ギターを本来正しい持ち方に直してピックを右手首に付けていたリストバンドに指を突っ込んで取り出し、弦に叩き付けるようにして振り切る。
 左の指先は二本の弦を抑えて、片方をこれでもかと引き千切らんばかりに手前に持ち上げる。
――ユニゾン・チョーキング。
 テレキャスターの乾いたサウンドと共に黄色い閃光が彼女を中心に走り、それらは次々にオーディエンスを飲み込むと、炸裂音と共に黒い塊を周囲に弾き飛ばす。最前にいたのは粉々に砕け散って消えていく。燃えカスのように散り散りになって消えていく姿を見て、レモンドロップスは構えを解くとキャンディバーを摘んで口から出し、ぺろりと舐めた。
「鳴海クン、君の出番よ」
 彼女の言葉を聞いて、周囲に飛散させて作った道を辿って鳴海が駆け寄ってくる。武器を持っていない、顕現出来ない彼にとってオーディエンスはただの毒でしか無い。なるべく周辺の化け物に気を付けながら彼女の元まで辿り着くと、壁に寄り掛かって呆けている雪彦の腕を掴んた。
「立てるか?」
「……あ、はい」
 反応はしているが、矢張りこの状況を理解出来ていないだ。目がすっかり泳ぎ、身体は震えている。当たり前の反応だ。鳴海は彼を強引に立たせ、レモンドロップスを見た。彼女はその視線に気づいて微笑むと、こくりと頷いた。
「とにかく、まずはこの場所から離れよう。説明は後でするから」
 未だ混乱の中にいる雪彦にそう言うと、鳴海は彼の手を引いて、やって来た道を駆けて行く。その後姿をレモンドロップスは愉快そうに眺めていた。
「守りながら戦う必要が無いっていうのは、随分と楽ね」
 今まで出来る限り人も守ってオーディエンスとも戦っていただけに、鳴海という存在はこのレーベルの中で大きく無いが小さくも無かった。楽器を顕現する理由を自分の中から探そうとしている青年。何よりその理由をレモンドロップスは好意的に受け取ることができた。
「助けてくれた子に憧れた、ねえ」
 青春してるじゃないかと、恐らく自分よりも幾つかは年上の彼を捕まえて彼女はそう思うのだった。それがどんな子かは知らないが、一途な男は見ていて嫌いじゃない。
「鳴海クンは、どんなプレイヤーになるんだろうなあ……。ねえ、楽しみだと思わない?」
 手元でくるくるとキャンディバーを回転させながら彼女はオーディエンスに問い掛ける。返答は無い。彼らは、自分達の内側に蓄積されてきた鬱憤や絶望や、怒りや悲しみといった所謂マイナスのエネルギーの捌け口を求めているだけであり、コミュニケーションを必要としない。
 もっと話せるのなら、こうする以外の方法もあるかもしれないのに、とレモンドロップスは寂しそうに彼らを眺め、再びテレキャスターのネックを握り締め、肩に担ぐとオーディエンスに向けて手招きする。
「……おいで。欲しい子から、満足させてあげる」
 にっこりと微笑むと、オーディエンスは再び彼女目掛けて一斉に飛び出していく。
 レモンドロップスはオーディエンスの群れの中で深くしゃがみ込むと地面と平行にギターを突き出し、駒のように一回転する。足払いの要領でギターはオーディエンス達の足元に次々食らいついて、そのまま宙に払っていく。まるでドームのようにオーディエンスは宙を飛び、その中心部で彼女は再びギターを持ち帰ると再びユニゾンチョーキングを奏で、黄色い閃光を周囲に衝撃として放っていく。黒い塊が一斉に爆散し、周囲に飛び散っていく中で彼女はそのオーディエンス達を踏み台に、一人、二人、三人、四人と次々と勢いをつけて空に飛び上がっていった。
 一番高くに飛ばされていたオーディエンスの頭部を思い切り踏んづけると跳躍――。彼女は他の誰よりも天高く舞い上がり、上空から真下の黒い塊を見下ろしていた。
「じゃあ、皆ばいばい」
 レモンドロップスは笑みを浮かべて彼らに向けて手を振ると、次の瞬間には弦を引き千切らんばかりにピックで六本の弦をかき鳴らし、左手で幾つものフレーズを抑えて、下から上までフレットを余すところ無く利用してギターを奏でていく。テレキャスターのギラついたサウンドが黄色い閃光となって彼女の周囲に蓄積されていく。
 落下しながら蓄積された彼女の『音』を見て、レモンドロップスはそっと微笑むと、その光と共に降下、ギターを思い切り振りかぶって、地面に着地すると同時に、それを振り下ろした。
 目の眩むような光が線となって落下し、次の瞬間には放射状に光が拡散していく。オーディエンス達は一人残らず砕け散り、光に呑み込まれるようにして、消えていってしまった。
――レモンドロップス。
――黄色い閃光が落ちてくる。
 彼女もまた、対オーディエンス戦を得意とする、オーパーツの中でも優秀な人材として重宝されている一人だ。
「ジョニー、来てくれてたら良かったんだけど」
 そして、鳴海と同じく「憧れ」を抱いている女性でもある。

   ・

「大体の説明は済んだんだけど、ここまで理解は出来た?」
 モッシュピットとオーディエンスについて粗方説明を終えたレモンドロップスは、やっと一息つけるとばかりにベンチの空いたスペースにどっかりと座り込んで陣取った。座って話を聞いていた雪彦は怯えたように身体を縮こまらせると、少し距離を空けるようにして隅で丸くなってしまう。
「信じられないけど、目の前で全部見せられてしまった以上は……信じたいと思います」
「まあそう簡単に信じる必要も無いけどね」
 雪彦の返事に対してレモンドロップスはそう答え、キャンディバーを煙草を吸うみたいに二本指で挟んで口から取り出すと、ぷはあと息を吐き出す。
「帰ってこれは夢だったって思えば良いだけよ。金曜の夜は怖いことが一杯あるから出歩かないようにしようって、そう思えば済むだけの話」
「そんな簡単にいくとは思えないんだけど」
「また襲われたり迷い込んだ時、確実に助けてもらえるわけでは、無いんですよね?」
 不安そうに尋ねる雪彦に、レモンドロップスは暫く目を細めていた。なんとも言えない空気の中で鳴海は何か言葉を見つけようと腕組みをしてみるが、何も浮かびそうにない。
「ハッキリ言えば、全ての人を救えるほど私達は大きくないわ」
「そう、ですか……」雪彦はそう口にして俯いてしまう。
 だがどうしてだろう、鳴海は彼が俯く前に一瞬だけ、笑みを浮かべたように感じたのだ。ただ口元が歪んだだけかもしれない。いや、でもあの口の端の上がり方は、恐らく……。
「なあ、砥上君。モッシュピットに迷い込んだ理由に、思い当たる節があるんじゃないかな」
「鳴海クン」雪彦が答える前にレモンドロップスの鋭い視線が鳴海に飛んだ。
「もし何かあったらオー・パーツに連絡を頂戴ね。迷い込んだ時でもいいわ。モッシュピットは大抵その空間をそっくりそのまま形にするから、目安になるものさえあれば向かうことはできるから」
 彼女はそう言って胸元から名刺を取り出すと、雪彦に手渡す。文字の大きさを変えただけのイラストも何も無い簡素な名刺だった。雪彦は不思議そうに暫く名刺を見つめ、それから携帯を取り出すと自分の連絡先を差し出す。
「ああ、貴方は別に出さなくていいわ」
「どうしてです?」
 舐め終えたキャンディバーの棒をぺろりと一舐めして、レモンドロップスは首を傾ぐ。
「干渉し過ぎるとろくなことが無いからよ」
 彼女の言葉と、視線を受けて、雪彦は下唇を噛むと、さっと目を逸らした。続けて鳴海が口を開いたが、同じように静止されるだけだと思うと、それ以上声は出なかった。
 彼は名刺をポケットに入れるとお辞儀をして、この場を去って行ってしまった。鳴海とレモンドロップスは一言も口にしないままその背を見送った。
 彼が建物の陰に消えてしまうのを見てからレモンドロップスは大きく溜息をつくと再びベンチにどっかりを腰を落ち着けた。本日何本目かわからないキャンディバーの包装を毟って咥えると、満足そうに目を細めた。
「鳴海クン、モッシュピットに迷い込む理由は、ちゃんと理解しているよね?」
 それまで一言も喋らなかった彼女の言葉に鳴海は緊張した。こくり、と固い頷きを返すと、レモンドロップスはよろしい、と頷いてみせる。
「精神的に不安定であったり、鬱屈とした気持ちを持っているとその『匂い』に惹かれてモッシュピットは彼らを招く。オーディエンスもまた波長の似た存在に惹かれ近づいてくる。あの子達が抱いているのは敵意じゃなくて、共感なのよ。悪く言えば、傷の舐め合いみたいなもの。慰めようと近づいてくるんだけど、生憎オーディエンスは毒を持っている」
 鳴海は隣に座る。もしオーディエンスに毒が無かったら、この世界は少しだけ明るくなっていたのかもしれない。
「自分達の発散しきれない感情の捌け口として勝手に生み出しておいて、恐怖し、逃げ、そして挙句にはプレイヤーによって消滅を促される……。これだけ見ると一体人とオーディエンス、どちらが化け物なのか分からなくなってくるわね」
 レモンドロップスの言葉に鳴海はひたすらに押し黙っていた。背もたれに左手を掛けると、隣に座る僕にキャンディバーを差し出す。「食べる?」と言われたが、鳴海は首を振った。だが彼女は微笑むと「いいから」と言って、無理矢理に彼の手にキャンディバーを握らせた。
「モッシュピットを、体の良いストレス発散場所だと考えているプレイヤーが私は嫌い。最近は特にそう。武器が消えれば負けの、リプレイの出来るゲームだと考えている奴が増えつつある。だから、出来ればプレイヤーを増やさない方向に持って行きたいと思っているの」
「でも、きっとこの場所を知った人は少なからずプレイヤーを選んでしまいますよ」
 顕現の出来ない自分のような存在がいれば、また話は別になるが、先程の砥上雪彦も来週になればプレイヤーとしての覚醒を果たしている可能性だってあるかもしれない。
「……前にオーディエンス専門って言ったよね、私」
「確かに」
「でも、時々ブッキングもしてるのよ。主に初心者をメインになんだけど」
 この意味が分かるか、と彼女は髪を掻き上げると鳴海を見た。
 初心者をメインにするという理由。
「……恐怖、ですか?」
「当たり」レモンドロップスはキャンディバーを口から取り出すとそれで宙に丸を描く。
「モッシュピットが怖いところだと刻み込めば、そうそう来れなくなる。だから私は、出来る限り初心者とやる時は徹底的に打ちのめすことにしてる。顕現出来ない状態になってからとか、太刀打ち出来ない状態でオーディエンスの中に落とそうとしてみたり……。この場所をトラウマにさせられるなら徹底的に……ね」
 その声はあまりにも単調で、冷たいものだった。鳴海やジョニーに、先程の雪彦にかけた声とは余りにもかけ離れていて、鳴海は思わず生唾を飲み込んでしまう。
「だから、もしさっきの砥上クンがモッシュピットを選択したとしたら、私は喜んで彼を叩きのめすつもりなの。こんなところ、望んで来るべき場所じゃないもの」
「……そんな回避のさせ方しか、無いんですか?」
 鳴海の目の前をキャンディバーが横切った。彼女はにこりともせずに彼を見ていた。
「鳴海クン、さっきモッシュピットに来てしまった理由、聞こうとしてたよね」
 頷くと、レモンドロップスの目は更に細くなった。
「人が抱える問題に他者が干渉しちゃいけない。ここに来るってことはそれなりのマイナスを抱えた人であることは確かで、誰かに話しても意味が無いから貯めこんでしまう。鬱憤になってしまう。そういうものよ」
「でも、もしそれで解決に導けたら」
「分かってる? 自分の心の問題すら満足に解決出来てない人の末路が、プレイヤーだって事を」
 鳴海の言葉は、そこで止まった。それ以上何を言えば良いのか、上手く出てこなかったのだ。
「干渉は責任を生む。責任は重圧に、重圧は苦しみに変わっていく。誰も彼も救おうとした結果、ふと気付いてしまうの。自分が誰よりも深いところに潜って、戻って来れなくなってしまっていることに」
 だから、駄目。レモンドロップスはそう言うと立ち上がった。
「ジョニーは解決しろとは言っていない。ただ見ろとだけ言った。君が本当に今後もモッシュピットにいたいのなら、観察に留めておきなさい。そこから先は、憧れだけで行ってはいけない場所だから」
 約束よ、と言ってレモンドロップスは手をひらひらと振りながら行ってしまう。暫くしてエンジンの音が聴こえ、一定のリズムで小さな炸裂音が生まれ、やがてそれは連続したものとなって遠くへ消えていった。
 誰もいなくなった街中のベンチで、鳴海は二人の消えていった道をぼんやりと眺めていた。


 砥上雪彦は死に場所をやっと見つけることが出来たと思っていた。誰にも迷惑がかからず、誰の心配もされず一息に雪彦という存在から抜け出せる場所が。
 あのオーディエンスとかいう群衆に触れられると人ではいられなくなるらしい。自分が何者かも分からず、人が変わったように精神が解れて最後には砕けて、自分が何を求めていたのかも、何に苦しんでいたのかも、何を喜びとしていたのかも忘れて、ただ虚空を彷徨うだけの廃人となれるらしい。
 オーパーツとかいう集団から貰った名刺はすぐに捨てた。連絡をする必要も感じられなかったし、助けてもらおうと思ってすらいないからだ。
 砥上雪彦は、早く死にたくてたまらなかった。

       

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