Neetel Inside ニートノベル
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 その出会いは恐らく偶然で、両人ともそれを全く望んでいなかった。
 病院の玄関口。自動ドアを挟む形で池田と鳴海、雪彦はばったりと出くわした。互いに不思議そうな顔をしながら、しかし次の瞬間に、鳴海はぎこちない笑みを浮かべ、雪彦はバツの悪そうな顔を浮かべて目を逸らしたのだった。
「古都原君、知り合いかい?」
 池田さんはネクタイの調子を整えながら穏やかな口調で言う。まあちょっと、と鳴海が言うと、ふうん、と別段興味無さそうに彼を眺め、それから踵を返すと再び院内に戻っていく。
「池田さん?」
「その様子だと何かあるんだろう? 俺は暫く時間を潰してるから、終わったら連絡をくれ」
 彼はそう言って不器用にウインクをすると行ってしまった。
「あの人も、プレイヤーなんですか?」
 彼の問いに頷くと、ふうん、と雪彦は興味無さそうに目を細めた。
「砥上君はお見舞い?」
「……はい」やけにくすんだ返事だった。
「知り合いか誰かが病気でもしてるの?」
「友人です。ついこの間ちょっとあって、怪我で入院してるんです」
 会話が止まる。背後のロビーからざわめきが聞こえ、外からは車道を走る車の駆動音が右から左へ、左から右へと駆け抜けていくのが聞こえる。互いに押し黙ったままではいけないと思うのだが、次にどんな言葉を口にするべきか鳴海が悩んでいると、雪彦は顔を上げて鳴海を見た。
「良かったら、古都原さんも一緒に来ませんか?」
 そう告げた彼の目はひどく冷たく、瞳は水底に沈んでしまったみたいに暗く、淋しげに見えた。


 面会謝絶のプレートの掛かった部屋の前で雪彦は立ち止まると、暫くその扉を見つめ、それから人差し指でつう、と一本線を引くように撫でると、やがて振り返って「お見舞いは終わりです」と言った。ついてきてくれてありがとうございます、と続けてお辞儀もされたが、別段何かしたわけでもない鳴海は慌てて首を振ると、すぐ傍の休憩所へ雪彦を連れて行って座らせた。
 自販機で買った飲み物を彼に渡して、鳴海も隣に座る。休憩所は見舞いに来た親戚と患者の憩いの場であるようだった。孫の見舞いに喜ぶ老人や、窓の外を眺めながら穏やかに肩を寄せ合う老夫婦、玩具をプレゼントされてはしゃぐ子供、紙パックのジュースを父親の膝の上に座ってちゅうちゅうと吸い続ける幼児と、随分と賑わっていた。
 そんな中で憂鬱そうな顔を見せる雪彦は少しこの場所では浮いているように見えたし、彼に付き添う鳴海もまたここでは自分が異物であるような気分を抱えていた。どうにかその居づらい空気を紛らわせたくてホットコーヒーを口にするが、苦味で紛れるほど簡単な違和感ではとても無かった。
「古都原さんは、あの場所、もう長いんですか?」
 唐突に口を開いたのは、雪彦の方だった。鳴海はコップから顔を上げて彼を見た。
「つい最近だよ。おまけにプレイヤー見習いだ」
「見習い?」彼は繰り返す。「そう、見習い」
「あの場所でも見習いなんてあるんですね」
「いや、俺が特殊らしい。才能が無いんだか、レアなケースなのか分からないけど、俺は他の奴らみたいにオーディエンスに対抗する為の武器が顕現出来ないんだ」
「あれって、誰でも出来るわけじゃないんですか?」鳴海は首を振る。「だからレアケースなんだ」
「ずっと望んでいた世界にやっと足を踏み入れられたのに、どうしてか受け入れてもらえないんだ」
「望んでいたって、どういうことですか?」
 コップ一杯のオレンジジュースを一口飲んでから雪彦は尋ねた。
「子供の頃からあんな世界に憧れていたんだ。相手を痛快にふっ飛ばして、人を救って、真っ青なリッケンバッカーを持った女の子に惚れて殴られて、立ち向かっていくっていう……今思い出しても最高の夢だったよ。今思うと恥ずかしいんだけどね」
「空想の世界に憧れる時代は、誰にでもあります」
「でも、俺の場合少しそれが長引いたんだ。酒や煙草が公的に出来るようになっても、そんな夢から覚められずにいた」
 空になったコップを少し離れた場所にあるゴミ箱に放る。紙コップはゆらゆらと不安定に揺れながら飛んで、結局ゴミ箱から随分と離れたところにからん、と音を立てて着陸した。鳴海は頭を掻きながら立ち上がるとコップを拾い上げ、ゴミ箱に放り込んだ。
「夢は叶わず、そこそこの学校に入って、そこそこの生活をして、飯食って寝てって変わらない日常が続くことが辛かった。主人公に……自分がヒーローになれない世の中が苦しくてたまらなかった」
 だから、目の前に突如として現れた光景は、鳴海にとって夢の切符のようなものだった。ヒーローになれる、主役になれるかもしれない最高の世界に見えた。
「まあ、結局折角手に入れた切符も、切られる様子も無いんだけどね」
 そう言って苦笑すると、雪彦は微かに微笑んでみせた。緊張が少しだけ解けたのを感じて、鳴海は彼に笑みを返すと、再び隣に腰を下ろす。
「いつかプレイヤーとして活躍したい。活躍して、出来ることなら隣に並びたい人がいるんだ。今は、それが俺の夢だ。知らない世界に行きたいって望みは叶った。だから、あと少し……」
「楽しそうで、良いですね」
 熱を込めて語る鳴海を、雪彦は冷ややかな視線で見るとそう言う。
「僕にはそういう夢とか、無いから」
「何か憧れとかそういうのも?」
「ありませんよ。俺は、普通の高校生でいることに満足しているし、それ以上を求めようとも思いません」
 きっぱりと言い切る雪彦に、鳴海はそれ以上何かを言おうとはしなかった。
 満足しているのなら、何故モッシュピットに落ちてしまったのか。どうしてあの時オーディエンスに対して諦めの表情を見せたのか。納得や妥協とは程遠いその姿勢に対して、鳴海は疑問を感じていた。
 だが、それを口にするべきでは無いとも思っていた。
 面会謝絶中の扉と、ノックもせず何をすることもなく立ち止まることを「見舞い」と言った彼の行動。
 恐らくそれが、彼の心に陰を落としていることは確かだと、鳴海は考えていた。
「モッシュピットは、金曜の夜に必ず現れるんですよね? 場所はランダムで、判断方法は人気が無くなる事」
「そうだよ」
「気をつけます」
 立ち上がる雪彦を見て、鳴海はその背に声をかける。振り向く彼に、鳴海は携帯電話を取り出してぎこちなく笑ってみせる。
「良かったら、この先も連絡を取り合わない?」
 雪彦は訝しげに眉を顰めてじろりと彼を眺めると、腰に手を当てて首を傾げる。
「干渉しすぎちゃいけないってあの飴の人が言ってませんでした?」
「めちゃくちゃ忠告された。人の問題に首突っ込むなって」
 でも、と鳴海は困ったような顔を浮かべて雪彦を見る。
「俺より年下の奴が、夢も希望も無いみたいな顔してるのは、嫌でさ」
 鳴海はそれ以上何も言わなかった。黙って携帯を差し出し、雪彦の対応を待っている。雪彦も、彼の携帯を見つめながら黙り込んでいた。黙りこくった二人の間を見舞いに来た子供が不思議そうに通り抜けていく。室内のざわめきや、館内放送の流れる中、彼らの間だけはひたすらに無音だった。
 余計なお世話だと言ってしまえば済む話だと、雪彦は理解していたし、恐らくそのたった一言を口にしてしまえば、目の前の青年がこれ以上自分に関与しないだろうということもちゃんと分かっていた。
 なのに、どうしてかその言葉が出ない。
 あの時、この手は逃げることを諦めた自分の手を確かに取ってモッシュピットから連れ出してみせた。飴の女と違って力も無く、自分と同じくオーディエンスという化け物に対応できない丸腰なのに、だ。
「……」
 憮然とした表情のまま雪彦はポケットに手を入れると、携帯を取り出す。途端に鳴海の顔がにこやかになるのを見て、なんだか少し恥ずかしくなって顔を逸らしてしまう。
「別に、話すくらいなら構いません」
「ありがとう」
 そう言って笑みを浮かべる鳴海に、雪彦は下唇を噛んだ。
 本来その言葉は、助けてもらった側の人間が口にすべき言葉であって、救った側が口にする必要の無いものだ。
 雪彦は口を開きかけて、それから閉じると、それ以降何も喋らなかった。

   ・

「砥上雪彦、ねえ」
 池田はそう口にすると、携帯のディスプレイに表示された番号と名前を眺めながらグラスに波々と注がれた日本酒をちびちびと口にする。
 週明けの酒場は穏やかで居心地が良かった。セパレートされた個室に池田と鳴海は向い合って座り、各々のペースで酒を愉しんでいた。
 ジョニーと出会ってオーパーツに所属を決めたことや、レモンドロップスに関する話をある程度彼には伝えておきたいと思っていたのだ。
「オーパーツに所属ねえ、悪くない選択だと思うよ。他のレーベルに比べて落ち着いているし、縄張り争いにも無関心だから殺伐としてもいない。君が戦えない理由を探るには持って来いだ」
「俺もそう思います。でも、どうしてジョニーはオーパーツなんてレーベル名にしたんでしょう」
「場違いな物、ねえ……。多分あの人は、時代が変わったことを受け入れたんだろうね」
「時代が、変わることを?」
「ジョニー・ストロボは、大きな被害を出した抗争まではラスト・ホリデイを唯一下せるかもしれないと言われていた男だったんだ。結果は敗北に終わり、あの日を境にブッキングを引退してしまった」
「ジョニーがブッキングを?」
 道を踏み外した男、と始めて彼に会った時ジョニーは自分をそう称していた。
「レーベルという制度を敷いて抑制を敷いたラスト・ホリデイと、オーディエンスを倒すことでモッシュピットの消化を目指したジョニー・ストロボ。あの抗争の日、二人の間で何かあったのでは無いかと言われているくらい、彼らの道は真っ二つに別れている。結果としてラスト・ホリデイがこのモッシュピットを牛耳る結果になったわけだけどね。だからオーパーツ。時代から浮いてしまった存在」
「そんな意味が……」
「これはプレイヤー間での噂だよ。あくまで噂だ。抗争の時他人を見ている余裕なんて無かったらしいから二人がどんな状況だったのかあまりはっきりと知っている人が少ないんだ」
「ラスト・ホリデイとジョニー・ストロボのブッキング……」
「ブッキング史上最大の被害を出した抗争の中心だからね、壮絶だったんだろうさ」
「池田さんは参加していなかったんですか?」
 鳴海が尋ねると彼は首を横に振った。
「生憎ね。あと少し早く迷い込めていたら参加出来たかもしれないけど、右も左も分からないプレイヤーが突っ込むなんてそうそう出来ないさ。それこそムーンマーガレットみたいな無謀な子でもなければ」
 池田は目を細めるとグラスを一気に空にして、店員に次の酒とつまみを注文する。前回のムーンマーガレット、もとい律花との戦闘を思い出して少し機嫌を悪くしたのだろう。セオリーを打ち破った強引な勝ち方をされたのだから。もっと駆け引きのある戦い方が彼の得意とするやり方なのだろう。
「ムーンマーガレットと言えば、連勝記録を着実に伸ばしているよ。注目しているプレイヤーやレーベルもどんどん増えてるらしい」
 池田の不愉快そうな言葉を聞いて、鳴海は彼を立てるような励ましの言葉を口にしつつ、内心その情報に心を踊らせていた。彼女は真っ直ぐに進み続けている。簡単には追いつくことの出来ない速度で、まっすぐに……。
「あの『パイドパイパー』も目をつけてるって噂だよ。全くそうそう声のかからないところから話が来てるのに、どうやら彼女にレーベル入りする心づもりが無いらしいのがまた憎いな。あそこまで単独を好むプレイヤーも最近じゃ珍しい」
「パイドパイパー?」
「ラスト・ホリデイの作ったレーベルだよ。傘下含めて恐らくモッシュピット内で一番幅を効かせてる。流石に名のあるレーベルだけあってプレイヤーも相当な手練で、特に彼の下に付いている三人に関してはあの抗争で終盤まで残っていたプレイヤーだし」
「そんなすごいレーベルなんですか……?」
「パープル・アップル、メトロポリス、レディバードと言えば相当なやり手で有名だし、そうそう挑もうとも思わないよ。ラスト・ホリデイからの信頼も厚いらしい」
「そんなのを、彼女は……」
「この調子だと三人衆と一戦交えるのもそう遠くないだろうね」
 鳴海は目の前のグラスをじっと見つめる。すごい速さで駆け上っていく彼女に追い付くにはどうすればいいのだろう。一体何をすれば自分はプレイヤーとして武器を顕現出来るようになるのだろう。
「なんにせよ、焦って良い事は無いからね。急ぐつもりで選んだ道が、実は遠回りなんて事はよくあるものだ」
 顔を上げると池田は微笑んでいた。鳴海は自分の中の考えを見透かされたのが少し恥ずかしくて、何も言わずグラスの酒を一気に飲み干すことで誤魔化した。
「そういえば、池田さんはどこの所属なんです?」
「ガゼルシティって所だ。なかなか良い所だよ」
「有名なんですか?」
「それは聞かないでくれ」
 池田はそう言うとやってきた酒を一口飲んで、溜息にも似た吐息をテーブルに吐いたのだった。

   ・

 面会謝絶のプレートを見る度に雪彦は思い出す。自分自身の無力さと臆病さを。
 夜闇に包まれた校舎は昼間の活気を吸い尽くし、静謐さに身を包んでそこに立ち臨んでいた。照明の落ちた廊下に薄らと点灯する赤いランプの光が、校舎の陰鬱さと気味の悪さをより一層引き立てているのは間違い無い。
 雪彦は閉ざされた校門に足を掛けて乗り越えると正面玄関を横切り校舎裏へと向かう。駐車場と正面玄関の間の普段あまり誰も立ち入らない通りで、むき出しに設置された非常階段と、車道と校舎の敷地を区切るように設置されたフェンスの前には今はもうほとんど使われることのない焼却炉とビニール袋の転がるゴミ置き場がある。
 ここで、彼の幼馴染の氷芽野唯―ひめのゆい―は発見された。
 非常階段の一番上から飛び降りたらしいが、誰もその姿は見ていない。いや、誰も彼女の動向に興味が無かったと言う方が正しいのかもしれない。クラスからも、仲の良かった雪彦からも避けられた彼女は、ここで一人寂しく死を選ぼうとしたのだ。
 ただ、幸か不幸か(雪彦にとってすれば幸いだった)ゴミ置き場に積み重ねられたゴミがクッションの役割を果たしたお陰で彼女は一命を取り留めた。もしも他の場所で飛び降りていたら、もしもゴミ置き場のゴミが回収済みであったなら、今彼女はもう帰らぬ人になっていただろう。
 雪彦は非常階段に厳重に張られたテープをくぐり抜け、柵をよじ登ると一段一段数えながら登っていく。

――ひとつ。

――ふたつ。

――ななじゅうに。

 登り終えて、雪彦は手すり越しに真下に目をやる。先程まで足元にあった地面がとても遠い。ゴミ置き場も随分遠くに見えた。
 この場所から、唯は飛び降りたのだ。
 雪彦はごくりと喉を鳴らして、それから手すりに足をかけて跨ぐと、細くて不安定な手すりに腰掛けた。両足は外に投げ出され、体勢を保つために使われているのは非力な二本の両腕だけ。そんな中で雪彦は更に身を乗り出して真下を見つめた。
「ここから、本当に飛んだのか? 唯……」

――突然に強い風が吹いて、とん、と背中を押されるように雪彦の身体が前方に傾いた。

 両手が手すりから離れる。
 ふわりと内蔵が浮き上がり、血の気が引いていく。身体中の毛が逆立ち足は安定を求めてばたつく。
 ああ、落ちるんだと思った瞬間、脳裏を沢山の記憶が駆け巡った。

――氷芽野の奴。まるで私達が悪いみたいな事言ってあの子庇ってさあムカツク。

――そうなる原因を作ったのは向こうなのにな。俺達を責めるとかお門違いだろ。

――少し顔とか頭が良いから調子乗ってるんでしょ。良い子気取っちゃってさ。

――最初はスゲー反抗してきたけど今じゃもう何も言わなくなったよな。偽善者ぶってるからこうなるんだよ。

――図書室で一人で本読んでた。もしかして今本しか友達いないんじゃないの。

――さっさと消えてくんねーかな。

――雪彦、確かお前幼馴染だったよな。



『お前、ちょっとアイツの事避けてみろよ』



 後頭部を強く打った。
 咄嗟に重心を後ろにしたお陰で体勢を整えられたが、勢い余ってそのまま手すりから落ちてしまった。後頭部に走る鈍い痛みに悶えながら、雪彦は滲む涙を袖で拭って、目を開けた。
 満点の星空だった。
 雲一つ無い濃紺の夜空に、幾千もの小さな星達が散っていて、それぞれが個々に光を放っている。自己を主張するように、それは一つ一つ特徴があるように思えた。
 燦然ときらめく星空を眺めながら、雪彦はオーディエンスに襲われた日のことを想う。
 助けないで欲しかった。
 だってほら、俺はこんなにも臆病なんだから、誰かの手でも借りないと自分に罰すら与えられない。
 咄嗟に逃げて、あの時もこの後頭部の痛みくらいで済む道を選んだ。避けた時の彼女の表情をちょっと伝えるだけで、奴らは喜び、自分は標的にされなくて済んだ。
 穏やかで、少し目を細めて笑う彼女の目が、とても大きく見開かれていた光景を、伝えるだけで……。
 彼女は、飛んだ。
 雪彦が咄嗟に後ろに逃げたこの手摺から、確かに飛び降りたのだ。
 誰も見ていない中で。
 誰にも引き止めてもらうこともなく……。

「……なさい」
 溢れる涙は、痛みのせいか。いや、決してそうでは無い事を雪彦は知っていた。
「ごめん、なさい……ごめんなさい……ごめんなさ……い……」
 涙と一緒に溢れてくる言葉は冷たく湿っていた。嗚咽も、こめかみを伝う涙も、誰かに拭われていいものでは無くて、幾重にも溢れて流れる涙の轍は、雪彦の心に同じ道を彫り込んでいく。 

 二度と消せないように。

 決して許されないように。

 涙を流しながら、雪彦は病院で出会った青年の姿がちらりと脳裏に浮かんでしまう。
――古都原鳴海。
 年下の奴が夢も希望もない顔してるのが嫌だと彼は言った。
 自分の価値観で勝手に人を決めつけないで欲しかった。
 誰もがお前みたいに真っ直ぐ突き進んでいるわけじゃない事を理解しろよ。何の問題も無く歩んできたみたいな顔しやがって。あのお気楽そうな顔を一発ぶん殴ってやるべきだった。二度とその面見せるなとあの時構わず言ってやるべきだった。
 なのに、どうして自分は彼の提案を受け入れてしまったのだろう。
 ポケットから携帯を取り出して、電話帳を起動する。
『古都原鳴海』
 どうして自分は、彼の連絡先を受け入れてしまったのだろう。
「……最低だ、どこまでも最低だ俺は」
 あの時握られた手の温もりが忘れられない。
――保身の次は、救済か……。
 雪原はひどく腹が立った。
 都合良く差し伸べられた手を取って、救われたいと思っている自分に対して。

       

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