Neetel Inside ニートノベル
表紙

週末のロストマン
第六話「バッドドリームス」

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 土埃に塗れながら、律花はキャップをかぶり直し、手元の赤いギターを見下ろす。チェリーレッドのギブソンSGは依然として艶やかで美しかった。
 今夜はとても月が綺麗だった。折角の月なのに今は何も見えないのが残念だな、と律花は微笑んでから、両手でギターのネックをしっかりと握り締めると目を閉じる。
 相手の起こした土埃で塗れて何も見えない。徹底して私の視界を奪いに来ている。恐らく律花が近接に特化していると知っているからの作戦だ。
 相手の五感を奪うのはいい戦法だ、と律花は自分の不器用さを比較対象にして相手を胸裏で褒めた。口には出さない。絶対に。
 モッシュピットは人の想いが生み出した空間であり、人の感情に強く左右される場所。気合、と言ったら聞こえは悪いが、やりかた次第でなんだって出来る。身体能力から感覚まで十二分な恩恵を受けているのならば、例えば徹底的に感覚を研ぎ澄ますことだって可能な筈だと、律花は思っていた。
 その日の体調、気分、思考、疲労度。今日はよく眠れたとか、とても良い天気だとか、何かいいことがあったとか。いい気分であればあるほど、ヘドロのように貯まったマイナスを吐き出して感情をプラスにしたいと思える。人間だれしも鬱屈とした気分でいたいとは思わないだろうから。
 今日は月が綺麗だ。沢山の人にも注目されている。相手は強く、気を抜けば決着がつく可能性だって少なくはない相手だ。そんな人物を打ち負かし、喝采を受け取ることが出来たなら、どんなに気分が良いことだろう。
――左、土煙の先から微かな砂利の音。
――ネックを握り直してる。衣擦れが聞こえる。
 研ぎ澄ませ、もっと研ぎ澄ませ。音と肌に感じる圧迫感。視界が封じられたからこそ、その他を研ぎ澄ませ。
 一つ、また一つと自分に必要の無い情報がシャットアウトされていく感覚。圧迫感や音の距離を元に今倒すべき相手の現在地を割り出し、脳内でマッピングしていく。
 滑り台、ベンチ、アスレチック、囲む群衆、その中を一人駆け回る存在。いつ、どこから来るかを彼はきっと伺っている。慎重な人だ。けれど、臆病だとは思わない。私はこれまで相手に自分の近接戦を見せすぎてしまっているから、仕方の無いことだ。
 仕方無いからこそ、私は次を目指す。ここで屈したら、きっと誰もが撹乱を以って私に向かってくるだろう。だから、そんな事を考える敵でもねじ伏せることが出来るとアピールしなくてはならない。
 その為に、私は鋭利になる必要がある。感覚を尖らせて、触れた全てを逆に傷つけるくらいに鋭利に。
 研ぎ澄ませ、研ぎ澄ませ。
 私の脳から全身へ、私の身体からモッシュピット全体へ。
 研ぎ澄ませ、研ぎ澄ませ……。

――土埃が揺らいだ。

 律花は目を見開いて、ギブソンを横薙ぎに振る。後方左斜め西南西の位置に向かって渾身の一振り。
 律花の動作から遅れて土埃の中からプレイヤーが現れ、そして眼前に迫るギブソンSGの凶暴な赤に思わず目を見開いた。傍から見れば見惚れいるようにも見えた。どこまで理解していたのか、いつ感付かれたのか、スローになる思考の中で膨大な問答が繰り返された末に、彼が辿り着いた言葉は、やられた、という一言だった。
 ドンピシャの一撃が彼の意識を吹き飛ばす。蓄積しきれないダメージが彼の手元のストラトキャスターを掻き消し、吹き飛んだ先のベンチに彼は激突し、くたり、と寄りかかるようにして倒れ込む。
 土埃が晴れていく。観衆達は姿を現すそのシルエットをじっと見つめている。
 掲げられた腕の先には、真っ赤なギブソンSG。キャップで顔を遮りながらも、ちらりと見える口許は確かな感触に歓びを隠しきれる満足気だった。
 誰もが思った。こんな月の綺麗な夜なのだから、仕方が無い、と。
 彼女は、ムーンマーガレット。
 夜にこそ輝く女性なのだから。

   ・

 その日、珍しく律花は授業中居眠りをした。普段素行から何まで完璧な彼女が睡眠不足に追われる事なんて無かっただけに、クラスメイトや教師から心配され、挙句には保健室のベッドに送り込まれてしまった。
 保健室の匂いは嫌いではないけれど、ベッドは嫌いだった。こんなところで休んでいていいわけがない。こうしている間にも自分がやるべきことは溜まっていくのだと思わされると、怖くて仕方が無かった。白部律花は完璧でなくてはいけない。その為にこなすべき事が幾つもあって、休めば休むほど綻びが生まれてしまう。
 そう思いながらも、睡魔は確実に自分の身体を蝕んでいく。この間のブッキングのダメージが残っているのかもしれない。相手に食らった攻撃、ではない。意識を研ぎ澄ませるという行為の反動に違いない。
 でも、勝てた。名のある相手だったし、観衆の数も相当数だった。レーベルにも入らなかったのは注目度を上げる点で大きかったし、その前の一対集団のブッキングも、勝ちは逃したが良い宣伝になった。
「私は、確実に強くなってる」
 額に載せた腕の影から蛍光灯の光を眺め、律花は呟く。あの世界の自分が活躍があるお陰で、私はこちらの世界でもうまくやれている。破綻寸前の張り詰めた糸も、あの世界があるお陰でどうにか渡り続けられている。
 からり、とドアがレールを滑る音がした。誰か来たらしい。ベッドを取り囲むような白いカーテンのせいで来訪者の姿は見られない。いや、誰にも見られていない分気が楽だからこのままが良かった。
「白部さん」
 弦子の声がカーテン越しに聞こえた。カーテンを手で避けて、その間をくぐるようにして入ってきた彼女に、律花は笑みを浮かべた。
「何かありました?」
「心配になって見に来ただけ」弦子はそう言ってはにかむと、ベッドの下にしまわれていた丸椅子を引っ張りだして座った。
「大分疲れてるみたいね」
「そんなこと無いわ、少し休んだらすぐに動けるから、気にしないで」
 そう言って起き上がろうとする律花の両肩を、弦子は抑える。
「目元の隈、隠せてる気になってるんだろうけど、近くで見たらすぐ分かる。それに声も覇気がない」
「でも」
「今少し休むのと、後で倒れて長く休む羽目になるのと、どっちがいい?」
 問われた選択肢に、律花は何も言えず、俯いてしまう。弦子はそんな彼女を再び寝かせると、起き上がって乱れたタオルケットをかけ直した。
「どんなに完璧でも、人はロボットじゃないし、ロボットだって疲労や摩耗はするんだから、人はそれ以上に早くガタが来る。完璧を求めるのもいいけと、その分しっかり身体を休めないといけないよ。無理をするのと、頑張るのは、全くの別物だから」
 律花はタオルケットを鼻先まで上げると、顔を背けてしまった。横で彼女のことを見ながら、弦子は困ったような表情を浮かべた後、小さく吐息を一つ、吐き出してから、ポケットに手を突っ込んでキャンディを一つ袋を取り去って口に含んだ。
 柑橘の甘い匂いが仄かに臭う室内のエタノールの匂いを遮った。檸檬の匂い。律花はその匂いを嗅ぎながら、再び睡魔がやってくるのを感じた。
 素直に寝ておけと言われて、身体は安堵しているみたいだ。でも心の方は、眠ることを酷く怖がっている。まるで足の付かない海の中漂っているような気分で、足掻くのをやめたら負けな気がしてしまう。
「なんで、弦子さんはその飴をいつも舐めているの?」
 背中越しの質問に弦子は暫くきょとんとして、それからキャンディを咥えたまま腕組みをすると、うむう、と唸った。
「昔から口が寂しくなると唇を舐めちゃう癖があってね。気が付くとガッサガサになっちゃってたの。それでお母さんが見かねていつもキャンディを持たせるようになってね。それからかな」
「小さな頃からある癖なんだ」
「白部さんはそういうの無い?」
 私は、どうだろう。律花は自分のこれまでを辿りながら考えてみる。仲の良かった頃の兄、あまり表に出てこない母、厳しい父。普段から家庭の空気はあまり良くなかったし、自分の事は自分で出来るようにならないといけなかったから、そういった癖みたいなものも良くない気がして全て矯正してしまっていた気がする。
 いつも何か心配な事があると、兄に相談していた。これはやっていいことかな、これは大丈夫かな、という具合に。そうやって聞くと、兄はにっこり笑って答えてくれて、心配事を解決してくれた。だから、そういう癖みたいなものが何もないのは、多分兄のお陰だと律花は思う。
 今ではもう、そんな兄の姿は見る影も無いのだが。
 気になる癖は全部直したと、家庭の状況を省く形で伝えると、弦子はそうか、と答え、でもなんだかそれはそれで寂しい気もすると言った。
 どうして、と律花は言った。少し強めの語調になってしまって、どうして自分がそんなにも強く言ってしまったのか戸惑った。一体何に怯えているのだろう。
「何一つ問題のない人間なんていないし、誰もがどうにかしてそれを克服したいって気持ちは持っているし、私だってたまにこの口を弄りたくなる癖が恥ずかしくてどうしようもないと思う時があるけどね、同時にこの癖があると、ああ、私だなって安心もするのよ」
「そんなこと、思ったことない。だって癖なんてあっても良い事ないじゃない」
「そうだろうね、でもむしろ私は、そういうものがあったほうが、ああこの人はこんな事が癖なんだ、こういうことが苦手なんだなって安心する。その方が温かみがある気がするの」
「……私には、無いってこと?」
 きっと、これは眠気のせいだ。まどろんでいるせいで、普段なら大したことない風に対処できる事にいちいち突っかかってしまうに違いない。だって、完璧であることを目指している私にそういうことを言うってことは、つまり、喧嘩を売っているようなものなのだから。
 きっと今私がモッシュピットにいたのなら、彼女を問答無用で殴っていると思う。一発一発、渾身の力を込めて、来週丸々七日間ぶっ倒れて動けなくなるくらい叩き伏せてやりたい。
 シーツをぎゅっと握り締めながらそんなことを考えていると、そんな律花の拳にそっと弦子の手が添えられる。暖かで、優しく包み込むような感触に、律花は自分がとぷん、ととうとう頭まで浸かってしまったように感じた。
「誰よりも温かいと思うよ。私とか、他の人以上に、貴方は、きっと温かい」
「どうして?」
「誰かの事ばかりで、自分のことを考えない子だからだよ。私は他人の為にそこまで出来ないもの。貴方はきっと完璧よ。でも、その中身はきっと、もっと純粋なものを求めているに違いないって、そう思うの」
 やめて、と言いたかった。なのに、瞼がゆっくりと閉じられて、身体が全くいうことを聞かなくなっていく。これ以上関わらないで、と言いたいのに、言いたいはずなのに、どうして私は今、泣きそうになっているのだろう、安堵しているのだろう。
 頭を撫でられている。多分私より少し体温の高い彼女の手に触れられる度に、体中の凝り固まった得体の知れない何かが解れていく気がした。眠くて眠くてたまらない。起きなくちゃいけないのに、なんで私はこんなにも眠いのだろう。
「少し眠るといいよ。時間になっても起きなかったら、私が起こしてあげるから」
 余計なお世話なのに、私は……。
 重たい身体を捻って律花は寝返りを打つと、おぼろげな視界の中に弦子の姿を入れて、手を伸ばす。彼女は伸ばされた手を受け取ると、優しく握り返してくれた。
「ゆっくりお休み、律花」
 その一言は聞こえていたのだろうか。目を閉じて静かな寝息を立てる律花の寝姿を眺めながら、弦子は穏やかな視線を彼女に向けた。いや、届いていなくても、届いていても、結局辿り着くところは同じだ。
 彼女の事を、支えてやりたいと思うのは、多分、一度自分が守りきれなかった事があるからだ。
 受け取った手をそっとタオルケットの中に戻してやると、弦子は携帯を取り出す。ディスプレイに映った名前をじっと見つめたまま、通話ボタンに親指をやって、弦子は暫く黙考する。
 その時、窓も扉も閉まっている筈なのに微かな風がカーテンを揺らした。
 カーテンの衣擦れがほんの少し起きて、弦子が目を向けた時にはもう風は止んでしまった。弦子はそれから再び眠る律花の横顔に目を向けた。
 穏やかで、年頃の少女みたいにあどけない顔をしている。きっと、普通なら他愛のない話をして、単純な恋をして、未来の自分に不安を抱きながらも、進む先を模索しているのだろう。誰かに支えてもらいながら、誰かを支えながら。
「きっとこれは相当なお節介なんだろうっていうのは分かってるんだ。でも、私はもう二度と、自分が好きになった子と会えなくなるのは嫌でね、その為には、私自身が嫌われてでも、こうするしか無いと思うの」
 これから自分のすることは、調沢弦子の行動は独り善がりで、自己満足であり、自分の贖罪の為の行為だ。きっと多くの人に迷惑をかけるに違いない。でも、こうして目の前で疲弊しきっている彼女を楽にするには、誰かが汚泥を被らなくてはいけないと思うのだ。
「きっと貴方なら乗り越えられると思うの……。だって貴方は、ムーンマーガレットだもの」
 囁いた言葉に彼女が苦しそうに小さく呻き、少し寝相を変えたが、変わらず熟睡しているようだった。しかめっ面のまま眠る律花を目の前にしながら、弦子は通話ボタンを押した。
 着信音を待つ間、でも、彼女が一人で乗り越えることが出来なかったらどうなるのだろう、と考える。いや、もしもの時は、きっとどうにかしてくれる人間が一人だけいる。私は起点を作るだけ、その後に行動を起こすのは、彼女と、きっと彼に違いない。
 だって彼は、律花の背中を追って突き進んでいるのだから。
「……もし心が折れても心配しないでね、律花」
 不意に、嘗ての記憶が蘇る。とても仲が良くて、でも彼女の内面に気付いてあげられず、姿を消してしまった友人の姿だ。
 ブルーのリッケンバッカーのベースを手にした彼女は、とても強かった。でもそれは、どこか哀しげで、そうなるしか道が無かった故の強さだった。
 強さを求め、名声を求め続けた結果、彼女は姿を消した。
 現実からも、弦子の元からも。
 スリーコールの後で、電話が繋がった。
『誰だ』
「……ねえ、ムーンマーガレットの正体、知りたくない?」
 通話相手は暫く無言になってから、やがて何が目的かと弦子に問いかけた。
 情報はナマモノであり、重要であればあるほど売る時高値で売れる。特にこの情報は何よりも高値で売れるものだ。弦子がこの秘密に気付いたのも、本当に偶然だったのだから。
 見返りをはじめに聞く辺り、それなりに期待が持てる相手だと思った。弦子は一呼吸入れてから、通話先の相手に、条件を口にした。
「二度とムーンマーガレットが立ち直れないようにすること。貴方なら簡単でしょう?」
 これは、最低で、最悪で、でも彼女が本来の姿を手にするには必要な事だと弦子は信じて疑わない。いつか悩んで失敗したあの後悔に比べたら、恨まれることも、敵意を向けられるかもしれないという恐怖も些細な事だ。
『詳細を聞こう』
 通話先の相手はそう答えると、場所と時間を告げる。弦子は直接顔を合わせることを了承すると、通話を切った。目の前の彼女は今も無防備に眠っている。弦子は彼女の頬にそっと手を添えると、つう、と人差し指で輪郭をなぞった。柔らかくて、陶器みたいに綺麗な白い肌だった。
「ごめんね、でも、きっと大丈夫だから。例え貴方が一人で折れてしまっても、二人でならきっと立ち直れる。それに、ピンチのヒロインを放っておくようなヒーローは絶対にいないわ。きっとすぐに駆け付けて、貴方の力になってくれるはずだから」

――ねえ、そうでしょう、鳴海クン。

 風がもう一度吹いた気がした。今度はさっきよりも少し強い風で、カーテンがばさり、ばさりと大きな音を立てて揺れた。


       

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