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週末のロストマン
第七話「プリーズ、ミスターロストマン」

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 金曜日。週末を前日に控えた夜の駅前は、仕事帰りの人々が酒気混じりの吐息を吐きながら闊歩し栄えている。改札口前で待ち合わせた男女が仲睦まじく薄暗い暮れの道を歩いて行くのも見える。休日前の、最も華やぐ時間帯だ。
 時刻は丁度午後十八時を回ったところで、腕時計が指し示す時間を見ながら、砥上雪彦は改札前の様子に居心地の悪さを覚えながら、呼び出し主を待っていた。時間を示しておきながら当人が時間通りに来ないなんて。と手にした大きめの紙袋を軽く足蹴にしながら思う。
 学生服でこんな場所に突っ立っていたらすぐに声が掛かるに違いないから、と彼は念の為に私服を用意するようにと言っていた。ロッカー代は出してくれるらしいから雪彦は承諾し、トイレで着替えたのだ。
 憂鬱さと気怠さを感じながら足元を見つめていると、よう、と声がかかった。顔を上げると、呼び出し主、古都原鳴海の姿がそこにあった。
「悪いな、待たせてさ」
「……楽器」
「ん?」首を傾げる鳴海に、雪彦は彼の背負った物を指し示す。「なんで楽器なんて持ってるんです?」
 ああ、と鳴海は自分の背を見てから肩を竦めてみせる。答えになっていない。
「演奏でもするつもりですか?」
 てっきりモッシュピットに連れて行かれるのだと思っていた。雪彦がそう漏らすと、彼はその通りだと頷いた。雪彦は、いっそう彼の考えていることが分からなくなった。
「これから俺は、ブッキングする事になると思う」
「じゃあ、その楽器は……」
 そこまで言って雪彦は思い出す。彼はまだ、モッシュピットで戦う術を身に付けていないということを。
「ま、まだ武器も無いのにどうやって戦うつもりなんですか?」
「まあ、叩き折られない限りはどうにか誤魔化しもつくだろうさ」
「そんな、だってあの場所は、楽器を模した武器でしか対抗できないはずじゃ」
「俺もそれはよく知ってる。なんたって一度俺の愛機を叩き壊されてるからな」
「じゃあーー」
 勝てる筈の無い勝負をする必要なんて無い。そう言おうとした彼の口を、鳴海の手が遮った。遮りながらも、恐らく雪彦の言いたいことは察したのだろう。勝てる見込みは無いと、何よりも彼はちゃんと理解していた。
「でも、戦わなくちゃいけないんだよ」
 鳴海はそう言って、虚空を見つめる。遠い目だった。彼は、ずっと遠くを見つめている。
「多分、これを逃したら、俺は彼女に追い付けない気がする」
 鳴海は胸元に手を充てながら言う。その声は、雪彦が聞いた彼のどんな声よりも力強いもので、彼の眼差しは爛爛と輝いていたし、何より、悲壮感や諦観といった感情は何処にも無かった。
 圧倒的不利であることがわかりきった状況なのに、彼は、高揚していた。
「最前線で、見ていて欲しいんだ。俺は、勝利を、絶対に諦めない」
 無謀だ、と雪彦は思った。真っ直ぐ向けられた彼の眼差しに射止められながら、馬鹿なんじゃないかと思った。確実性の無い戦いなんて無駄死にするようなものなのに、彼は今死にに行こうとしているこの状況を愉しんでいる。
「馬鹿だろ、あんた……」
 雪彦は呆れ果てながら、そう言った。
 そう言いながらも、どうしてか、彼の眼差しから目を逸らすことは、出来なかった。

   ・

 横薙ぎの一撃を深くしゃがみ込んで回避し、そのまま彼の懐にまで飛び込んでいく。奏汰は足元から飛び出してきた鳴海を見て一瞬怯むが、その動作が「プレイヤーにしてはあまりにも遅い」事に気付いて構わず一歩足を踏み込むと、鳴海の横っ面に右足をねじ込む。
 ノーガードの側頭部に容赦無い蹴りを食らった鳴海は公園の端の柵まで吹っ飛び、うつ伏せのまま倒れこむ。幸いベースは未だ握りしめられたままで、観衆は彼にまだ戦意があることを理解する。
 いや、そう鳴海が思わせている。
 モッシュピットで顕現した武器とは一種のライフポイントのようなものだ。消滅すれば疲労が限界値に達したという証拠になる。消えるということは圧倒的ダメージを処理できる範囲を超えたことを意味している。だからこそ顕現が不可能となった者は戦闘不能と見なされ、同時に現実に戻った時上限を超えた疲労度に苛まれる。
 ならば、顕現の出来ていないプレイヤーがブッキングを行ったとして、一体どうなるのだろうか。古都原鳴海の現在の状態は、身体能力こそ向上しているが、オーディエンスに触れられれば汚染の可能性があり、「上限値以降を処理することの出来ない」状態にある。
 彼は実在の楽器を持込み、顕現しているように見せかけることでまるで不屈の闘志を持ったプレイヤーのように思わせているが、その実ただのモッシュピットに迷い込んだ人間となんら変わりが無い。
 そして、それを知っているのは、この場で律花、雪彦、レモンドロップス、そして……
「この状況を仕組んだのは、君だね、レモンドロップス」
 彼の事情を知る最後の一人、ジョニー・ストロボはレモンドロップスの隣に並ぶと、静かにそう囁いた。落ち着いているが、返答を違えればそれ相応の怒りを買う。そんな感情が薄っすらと浮かぶ声だった。
「ええ、間違いないです。私がやりました」
「それは、彼の為かい?」
 いや、違うな、とジョニーは自問自答する。
「……仲裁にでも入るつもりですか?」
「いいや、僕達オーパーツはオーディエンス専門であり、中立を貫く者だ。どちらかに加担する気も無ければ、ブッキングに介入するつもりも無い。何より、恐らく鳴海クンがそれを許さないだろうからね」
 分かってるじゃないですか、とレモンドロップスはキャンディを咥えたまま言った。
「君は、鳴海クンに賭けているのかい?」
 ジョニーが尋ねると、レモンドロップス肩を竦める。
「私は勝算のある賭けしかやりません。今回だって、無謀だとは全く思っていません」
 彼は背負うと言った。何より並ぶべき目標があると言った。鬱屈とした全てをぶち壊して先へ進む。破天荒で、茨だらけの道を突き進むだけの覚悟が彼にあると思った。だからレモンドロップスは、彼が何よりも全力を出すことの出来るステージをマネージメントした。
「ジョニー、私は、別に鳴海クンが勝とうがどうでもいいんです。個人的にロストマンとムーンマーガレットの動向は今後も見たいと思うし、応援もしてるんですけど、私が賭けたのは、その先です」
「……プライベートキングダム、か」
 ジョニーの言葉に、彼女は口の端を歪めて笑った。
「彼に目標があるように、彼女に目標があるように、私にだって目標はあるんですよ」
――あの日の後ろ姿に、今度こそ手を伸ばして。
――そして、今度こそ連れ戻すことが出来るように。
「私は、鳴海クンにあの場所に辿り着く可能性を賭けているんです。未だ切符の手に仕方の分からないあの地獄に……」
 ジョニーは暫く黙り込んでいたが、やがて、呻くようにしてレモンドロップスに言う。
「このブッキングが終わったら、君にはオーパーツから出て行ってもらう」
 その言葉に、レモンドロップスはただ肩を竦めるだけで、訴えも、肯定も、否定も何一つしなかった。恐らくそれは、彼女が予想していた一つの結果だったのだろう。来るべき時が来た。ただそれだけ。
 二人の会話が途切れたところで、再び観衆が湧いた。レモンドロップスは鳴海の方へと目を向ける。
 鳴海は再び起き上がっていた。重たい「本物の」ベースを支えにして、震える足を堪え、土まみれの頬をシャツの肩口の辺りで拭い取ると、顔を上げ、じっと目の前の敵を見据えた。
 満身創痍。最早どれだけのダメージをその身に蓄積させているのか。だがしかし、どれだけ攻撃を受けても立ち上がる。顕現は解けないその鳴海の姿に、観衆たちは次第に胸を打たれ始めていた。

「……んばれ」

 それは、誰の一言だったか。堰を切るにしては小さなその声援は、しかし、観衆の感情の堰を確かに切り落とした。

「いけよロストマン! 大口叩いたんなら勝てよ!」

「まだ諦めてないんだろ!」

「このままやられっぱなしじゃいられねえだろロストマン!」

 周囲を囲む声援を聞きながら、鳴海はベースに寄りかかったまま俯く。誰にも見られたくなかった。口許が思わず笑ってしまう事を、悟られたくなかった。
 最悪の疲労感だ、全身がだるくて、眠くて、今にもぶっ倒れそうな程辛い。きっと顕現していたら、この疲労感もある程度軽減してもらえたに違いない。だがそれはもう今考えることじゃない。目の前の敵をどう叩きのめすか。この使えないベースを誤魔化しながら、相手の戦意を削ぐには何があるだろうか。
 結論として、鳴海の脳裏に浮かんだ案は一つも採用に至らなかった。端から勝ち目の無い戦いに挑んでいて、鳴海が今こうして立っているのは本当に奇跡のようなものなのだ。
 だが、やるしかない。今ここで崩れればムーンマーガレットはいなくなる。拠り所を失った彼女はどうなるだろう。
――拠り所を見失いかけた自分は、どうなっていただろう。
「……やっぱりさ、求めた物が手にはいらないって、滅茶苦茶辛いんだよな」
 突然の鳴海の言葉に、奏汰は仮面の下で顔を顰める。満身創痍の男が一体何を語るのか。
「俺はさ、小さい頃空想の世界に憧れたし、いつかそんな世界が自分の目の前に現れるって思っていたんだよ。でも、年を取る毎にそんな妄想は吹っ飛んでいって、気がついたら誰も話の通じる相手がいなくなってさ、あれは本当、マジで辛かった」
 鳴海は顔を上げる。目の前には髑髏の面を付けた、ブラックのフライングVギターを持ったプレイヤーが立っている。律花と密接に関わるそいつを潰さなければ、彼女はいなくなる。
「こんな楽しい空間に連れてきてもらって、諦めないで良かったって、本気で思ったんだ。誰にも言えないで、胸の内に秘めていた夢が、実現したことが、すげー嬉しかった」
 鳴海は、ベースのネックを両手に持つと、全身に力を込めて持ち上げた。
「そんな世界に来れたんなら、やるしかないだろ。あんたのその頭ぶっ叩いて脳みそ空っぽにしてみせて、俺が欲しいもの全部ぶっ叩いて手に入れてやる」
 鳴海はベースで再び、彼を指し示す。
「あんたが何抱えてるのか知らないけど、俺はムーンマーガレット追いかけてここに来たんだ。彼女を消させるなんて事、絶対にさせない」
「知るか、一撃も加える事の出来ないお前に何が出来る? そのベースをうまく扱えている様子もまるで無い。俺からしたら、玩具抱えて死にに来たようにしか思えないな」
「ブッキングって、最後まで戦意を失わなかった方が負けなんだろ? だったら、俺にだって勝機はあるさ。あんたの戦意を削いでやればいい。さっき彼女にしたように」
 ざわつく周囲に、奏汰はチィ、と舌打ちをする。ムーンマーガレットのあの怯えようは確かに異様だった。その後のブッキングも彼女にしては随分と臆病で、見ていられるものでは無かったし、確かにその可能性はあった。
「勝手に……」
 ざわつく観衆と、真っ直ぐこちらを見据える鳴海。その背後に、心砕かれ放心する律花の姿がある。
「語ってんじゃねえ!」
 踏み込みと同時に宙を舞う土埃が、彼がどれだけの力を込めて地面を蹴ったのかを物語っていた。線となって鳴海の目の前まで距離を詰めた奏汰はギターで彼の腹部を撃ち抜くと、のけぞる彼へと飛び込み、ドロップキックを容赦なく見舞う。その蹴りを後方に飛ぶことで辛うじて免れた鳴海だが、彼は既にギターを構えている。逆手に持ったギターを順手に戻すと、彼は引きちぎるように思い切り六本の弦を掻き鳴らした。ファズのような歪んだ音が矢のように鳴海に突き刺さり、そのまま地面に鳴海を叩き付ける。
 受け身を取る間も与えず鳴海の真上に現れた奏汰が、ギターを思い切り掲げている。そのギターが真っ直ぐ自分に向かって降ってくるのを見て、鳴海は咄嗟に転がり、頭部のあった箇所に突き刺さるギターを横目に鳴海は跳ねるようにして身を起こすと相手との距離を置こうと駈け出した。
 が、突き刺さったギターの弦を、彼は更に鳴らした。引き千切るように、ギターがまるで敵のように、感情をそのままにぶつけるように、その鳴らし方は、凶悪な扱い方だった。
 閃光と共に音撃が奏汰を中心に周囲に炸裂する。地面を砕き、抉り取り、触れた物を完膚なきまでに破壊しようとするその凶悪な歪んだ音に、鳴海は巻き込まれながら顔を歪めた。
 そんな音で良いのか、と鳴海は言いたかった。楽器は人の感情をそのままに出してくれる存在だ。悲しければ濡れた音を、怖いもの知らずならストレートな音を、感じたことを感じたままに、そういうものだ。エモーショナルなんて言葉で音楽を表す人もいるくらい、音と人は表裏一体だ。
 だからこそ、鳴海は音撃に巻き込まれる中で思うのだ。
 どうして、そんなにも苦しい音を出すのかと。
 同時にそれは、恐らく律花のギターの音が出ない事にも起因するのだろう。
 この二人の音は、あまりにも辛くて、苦しくて、でもそれをひた隠すような影がある。
「あんたも、辛いんだな……」
 音撃の中で、そっと呟いた言葉は果たして、奏汰には届いただろうか。まばゆい閃光の中で互いに目を合わせた二人以外に、それを確認出来たものは、一人もいない。


 眩い音撃の先にあった結果は、あまりにも呆気ないものだった。
 蓋を開けてみれば、無傷のままの奏汰と、ボロ屑のように転がる鳴海の姿。
 その手がブッキング中に握りしめ続けていたベースは、ネックから下が消し飛び、跡形もなく消え去っていた。辛うじて残ったネックからヘッドに掛けてを未だ鳴海は握りしめ続けているが、彼の目は閉ざされたまま、大の字になって意識を失っているようだった。
 砕けた楽器は、ロストマンの受けたイメージであり、それだけの威力を誇っていたということだ。観衆は戦慄した。嘗て一部分だけを残して楽器が消滅、または折れたという話は聞いたことが無かったからだ。大抵全て跡形もなく消え去って終わる。それがブッキング内での、一つの勝敗を決めるルールだ。
「これは……どうなるんだ?」
 観衆のざわめきの中で、奏汰は何も言わず鳴海の下に歩み寄る。彼は未だ、意識を失ったままでいるらしく、反応は無い。
「無様だな、何が夢が叶っただ。何が追いつくだ。結局お前は何も出来ず、そこに転がっているじゃないか。守った相手を助け出すことも出来ない。あまりにもみっともない結末だな」
 奏汰は踵を返すと、唾を吐き捨て、言った。
「一生そこで這い蹲ってろ。迷子ヤロー」
 倒れた鳴海の姿を力無い目で律花は眺めていた。分かっていた結果だった。どう足掻いたって彼に太刀打ち出来る状況では無かった。ただ、それは本人が何よりも分かっていたはずなのだ。
 それでも、彼は戦う事を選択した。敗北しか見えない中で、ただ自分と並びたい。その為だけに、彼は窮地のムーンマーガレットに加勢することを選んだのだ。
 それに比べて、自分は何なのだろう。
 結局、ありのままの自分すら出せず、ここで全てを曝け出すことに怯え、敗北し、座り込んでしまっている自分は、律花なのだろうか、ムーンマーガレットなのだろうか。いや、最早そのどちらでも無いのかもしれない。
――私は結局、無力な律花のままなんだ。
 家庭を変えたくて、壊れそうな自分と解き放ちたくて、そうやって無理している自分を偽った挙句が、兄の介入による崩壊。恐らく自分がモッシュピットに足を踏み入れることを辞めれば、兄は律花の本性を曝け出すことだけはしないでくれるだろう。だが、それはつまり本当の自分を捨てて、完璧な律花を取れということになる。
 この世界を知った今、自分はそんな完璧な律花に耐えることが出来るだろうか。
「ほんと、アタシ……どこまでも無力だ……」
 転がる鳴海、俯く律花。
 最悪の光景に、ジョニーは目を背け、レモンドロップスは腕組みをしたまま目を閉じ、舐め終わった飴の棒を強く噛んだ。

「……ふざけるなよ」
 誰もがその宴の終わりを感じる中で、たった一人だけ、その結末を許せずにいる者がいた。拳を強く握りしめ、一歩一歩足を前に踏み出し、肩を怒らせながら、その少年は無様に転がる鳴海の下へと歩み寄っていく。
 律花は顔を上げて、彼の顔を見た。だが、それが誰であるのか皆目検討もつかない。彼は、鳴海は、一体少年に何をしたのだろう。少なくとも、彼が怒りだすほどの何かをしたのには違いない。
「レモンドロップス、彼は?」
 ジョニーは尋ねる。レモンドロップスは口の端を少しだけ上げてにやり、と笑みを浮かべると、もう一本飴を取り出して、包み紙を取ると口に咥えた。
「砥上雪彦。鳴海クンが世話を焼いてるオトコノコ」
 戦いは、多分まだ終わっていませんよ、とレモンドロップスは囁くように言った。ジョニーは彼女の横顔を見てから、君の様子を見ると、そのようだね、と肩を竦めた。
「まだ物足りない観客がいれば、アンコールが起こるのは当然だ」

   ・

 目を開けると、鳴海の足元を一人の少年が駆けて行くのが見えた。少年は鳴海の前を横切って、そのまま霧の奥の奥の方へと駆けて行く。手には玩具の剣を持ち、側頭部にお面を被り、戦隊モノの靴を履いたその背中は、とても楽しげに見えた。
 周囲は霧に包まれていて何も見えない。鳴海は首を傾げる。
 さっきまで自分はプレイヤーと対峙していた筈だ。町外れの公園で、周囲を観衆に囲まれ、顕現出来ていないことを偽るために実際の楽器を持ち込んで、そして、真正面から相手の攻撃を食らった。そこから先が思い出せない。
「死んだ……とかじゃないよな?」
 苦笑混じりに鳴海は呟くが、返事は無い。ここにいるのは自分と、先程駆けて行った少年だけなのかもしれない。
「やっぱ顕現出来ていない中でやりあうのは無茶が過ぎたか」
 この状況もイレギュラーだが、何よりプレイヤーに目覚めたのに顕現が出来ないという事もこの世界では例外だった。恐らく誰もどうなるか予想はつかなかっただろう。鳴海はとにかくこの場所からどうにか抜け出さないと、と少年の駆けて行った方を見た。
 濃霧に囲まれた中で無闇に動くのはあまり褒められたことでは無いが、ここで立ち止まっていても何か展開がありそうにもない。鳴海は大きく伸びて、深呼吸を一度するとよし、と自分に気合を込めて歩き出す。
 どうしてか、あの少年の後ろ姿を見て、鳴海はとても懐かしい気分になっていた。幼い頃、自分もあんな風に駆け回っては正義の味方じみたことをしていた憶えがある。
「大きくなったら皆を助ける人になるんだ、なんて言ってたっけな」
 昔を懐かしみながら鳴海は歩き続ける。一向に少年の後ろ姿は現れない。濃霧は更に濃くなっていく。出口も見えないこの中で一体どれだけ歩き続ければいいのだろうか。
 不安はあった。だが、不思議と恐怖は無かった。歩みを止めなければきっと大丈夫だろうという漠然とした気持ちが鳴海の中にあって、恐らく歩き続けた先に何かが待っているような気がした。
――兄ちゃん!
 幼い声がした。振り返ると、一台のテレビとレコーダーと、六枚のディスクパッケージが乱雑に重ねて置かれてあり、その横に正座をして座っている少年がいた。さっき見たよりも少し成長した少年は、テレビの映像を食い入るようにじっと見つめている。
 テレビの中の少年の言葉を切っ掛けに紅に染まっていくロボット、緊迫感、そして疾走感のある音楽をバックに向かってくる手だけのロボットと対峙する。
 何もない日常を過ごす少年の、非日常。
 頭部から溢れだした機械達。
 そんな少年にベースを叩き付けるヴェスパ乗りの女性。
 煙草を吸う女子高生。
 もう何度も見た映像だった。初めて見た時から心奪われ、なけなしの貯金を叩いてソフトを買い揃え、毎日のように見た。時々父や母に没収されることもあったくらい見た全六話の夢物語。
 そういえば、煙草を吸い始めるようになったのも、このアニメが切っ掛けだったっけな。
 鳴海は少年の傍に胡座をかいて座ると、食い入るように見る少年の横顔をちらりと見てから、自分も映像に目を向けた。
「最高だよな、このアニメ」
 少年は頷く。頷いても尚、視線は映像から離れない。
 ベースを弾こうと思った。バイクに乗ろうと思った。煙草も吸って、カメラもやってもいいかもしれない。野球もいいな、シンカーに思いっきりバットを差し込んでやるんだ。
 一体幾つ自分は叶えることが出来ただろうか。数えてみると、意外と少ないものだ。常に金欠でバイクは買えないし、ベースもリッケンバッカーでは無くフェンダーのジャズベース、色はサンバースト。カメラはいつも携帯のアプリで撮っているし、パン屋でも記者でもない。
 心の中でなれないという言葉がいつだって渦巻いていたし、それは年を取る毎に顕著になっていった。そんな世界は無い。自分の人生にイベントを起こしてくれる監督も脚本家もいなければ、鮮烈なアクションシーンを描いてくれるアニメーターも、自分に声を充ててくれる声優だっていなかった。
 気付いてはいたんだ。でも、そんな事実を並べられただけで納得も出来なくて、現実を語り始める周囲に合わせながら、次第にこの気持は自分の心の中だけで生きるようになってしまった。
 少年はテレビの電源を消した。見ると、少年は制服を来ていた。死んだ目をして、積み重ねられていたパッケージを全て部屋の隅に押し込んで、頼み込んで買ったベースもうまく弾けず持て余し、くすねた煙草を眺めながら、けれども一歩踏み込んで吸う気持ちにはなれなくて引き出しの奥にしまい込む。
 普段から絡むようになったクラスメイトと共に帰宅しながら、あの子が可愛いだとか、試験の結果がどうだとか、進路も近づいてきたとか、高校に行ったらなんの部活に入ろうかと断章に耽る。周りに合わせて笑いながら、それでも自分の腹の底にある夢だけは語れずにいることが苦しくて堪らない。
 少年達の間を小学生が駆け抜けていく。ランドセルを揺らして、傘を剣に見立てて振り回しながら、チャンバラに興じる彼らを見て、クラスメイトの一人がいった。
――正義のヒーローを目指してられた頃が良かったよな。
 その言葉に、クラスメイトが同意する。
――魔法があれば、とか邪悪な敵を倒すとか、言ってた頃が懐かしいよ。今となっちゃ恥ずかしい思い出なんだけどさ。な、鳴海?
 少年は、クラスメイト達の顔をそれぞれ見て回ってから俯き、次に顔を上げると笑みを作って肩を竦め、言った。
「だよな、今更そんな空想ごっこに浸っても何にもならないし」
 ヴェスパに乗った女性が突如としてやってきて、リッケンバッカーで問答無用に少年を殴りつけて、色んなロボットが出てきて、世界を救って、彼女に告白して、それで……。
 起きないことなんて知っていた。
 あり得ないことなんて知っていた。
 でも、それを夢見続けることは、罪なのだろうか。いけないことなのだろうか。
 幾つもあった葛藤の末に、少年は一度妥協した。挫折した。

――この世界はそういうものなんだ、と。

 擦り切れるほど見たあのアニメを、少年はそれから暫く見なくなってしまった。
 鳴海はクラスメイト達の談笑に、寂しげに笑いながら交じる少年を見ながら、唇を噛み、そして大股に一歩一歩づつ近づいていくと、その輪の中に入り込んだ。怪訝な顔をするクラスメイト達を無視して鳴海は少年の肩に手を回す。
「絶対に、諦めんな」
 それだけ言うと鳴海は彼らから離れていく。未だに彼らは訳が分からないといった様子だったが、それも暫くすると霧に包まれて消えていく。
 鳴海は振り向かずに歩き続ける。少しづつ、自分がこの場所にいる理由が分かってきた気がした。ここは迷路だ。俺は今迷い込んでいるんだ。
 なら、彷徨い続けた先に何があるのか、見なくてはいけない。確かに苦しいけれど、自分には一つ確かな事実がある。
――諦めきれず迷い続けた先には、見たい景色があった。
 それだけで、鳴海は歩くことが出来た。
 ブレザーを来た少年はベースを持ってひたすらに練習を続けていた。極限までボリュームを絞ったアンプから吐き出される低音に物足りなさを感じながら、スタジオに行って聴ける大音量のベースを待ち焦がれながら。
 アニメを見る頻度は減ったけれど、音楽は不思議とまだ続けられた。あの時流れていた楽曲をコピーすることで、少なくとも自分の恋い焦がれた世界との繋がりはまだ途切れていないと思えた。自分で曲を作りながら、オリジナルのバンドを組みながら、それでもあのバンドの楽曲のコピーだけは続けていた。
 気持ちの代替も限界に来た時、少年は不思議な空間に迷い込んだ。黒い生物に追われ、何も分からないまま混乱していた中で、真っ赤な閃光が落ちてきて、月を背に不敵に笑うと、問答無用で少年の頭部めがけてギブソンSGを振り下ろす。
 叶わないと思ったんだ。
 だから、リッケンバッカーは買わなかったんだ。
 例え自分が持っていても、彼女はやってこない。ベスパも、ロボットも、何も出てくることは無い。もしリッケンバッカーを買ってしまったら、自分はこの先も有りもしない夢を抱き続ける事になるかもしれない。
 だから、買ったのは全く別のベースだった。
 そのベースはあの時、あの場所で叩き折られ、代わりに、夢見た世界に、彼女は自分を引き込んだ。
 だから、ムーンマーガレットは、白部律花は恩人であり、追いつきたい人物になった。
 青いベースでは無く、赤いギターだったけれど。
 鳴海にとっては、あのアニメのヴェスパ女が少年の頭をぶっ叩いたシーンと同じくらい衝撃的で、最高のワンシーンになったのだ。
 彼女を見上げる少年を眺めながら、鳴海ははは、と小さく笑った。
「そりゃ、一目惚れもするわけだ」
 霧の中に消えていく少年と少女、一人取り残される鳴海。暫くすると、横薙ぎの風が鳴海の頬をそっと撫でた。風の吹いた方に目を向けると、再び柔らかな風が吹いて、次第に周囲の霧が晴れていく。
 現れたのは、屋上だった。フェンスに囲まれた学校の屋上。ただ、さっきの光景までと違うのは、ここだけ鳴海の記憶に無い景色だという事だった。嘗て自分の通っていた校舎でもないし、周りに広がる景色も見たことが無い。
 フェンス越しに下を見下ろすと、グラウンドで学生達がサッカーを愉しんでいるのが見えた。中庭で談笑と共に食事を取る少女達も見える。窓越しに廊下を横切る生徒や教師、どこかから吹奏楽部の調子外れの練習音も聞こえてくる。
 懐かしさのある景色だけれど、鳴海のものではなく、誰かにとっての懐かしい風景。
 つまり、今この場所に、鳴海以外の誰かがいて、その世界に自分が迷い込んでしまったのかもしれない、と鳴海は思った。
「……ブッブー、不正解」
 聞こえた声に驚いて振り返ると、一人の少女が屋上に走るパイプ管の上に腰掛け、気だるげにこちらを見ていた。懐かしさの乗る風に吹かれて、肩程の長さの黒髪が横に揺れる。
「迷い込んだのは、君のほうだよ」
 そう言って彼女は鳴海を指差した。
「俺?」
「そう、何故ならば、ここはボクの場所だからさ」
 そう言って彼女は鳴海に向けて指した指でくるくると円を書いてから自身を指差し、パイプ管から腰を上げる。真っ白い襟付きワンピースの上に黒いジレを身につけ、下にはぴっちりとラインの出たジーパンと赤色のスニーカーを履いた少女。
 鳴海の視線に彼女はにっこりと笑うと、ポーズを取ってみせる。
「ボクのセンス、悪くないでしょ?」
「いや、別にそういうつもりで見ていたわけじゃ……」
 一瞬目を逸らして再び視線を戻すと、彼女はすぐ目の前に立っていた。身体を曲げて、覗き込むように鳴海を見て、不機嫌そうに眉をハの字に曲げていた。
「そういう時は、嘘でも褒めるの。君あんまりモテないでしょ?」
「ほっといてくれ!」
「アハハ、かーわいーいのー」
 照れる鳴海を見て愉快そうに彼女は笑い、両手を大きく広げると独特のステップを踏みながら屋上を踊るように歩いて回る。陽気で変化球みたいな彼女は、なんだか律花とは逆に思えた。ストレートな彼女に比べると、開放的で自由だ。
「そもそもここはどこなんだ?」
「ここ? だからボクの場所だって言ったじゃない」
「いや、そういうことじゃなくて……」
「プライベート・キングダム」
 説明の言葉を考えていた鳴海に向かって、彼女はそう言った。プライベート・キングダム。その言葉を聞いて、鳴海は顔を上げる。
 顔を上げた先で、彼女は穏やかな、しかしどこか不気味で、蠱惑的な笑みを浮かべていた。
「ここでボクは、王様をやってるんだ」


       

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